University of Virginia Library

    七

 葉子はその朝横浜の郵船会社の永田から手紙を受け取った。漢学者らしい風格の、 上手 ( じょうず ) な字で 唐紙牋 ( とうしせん ) に書かれた文句には、自分は故早月氏には格別の 交誼 ( こうぎ ) を受けていたが、あなたに対しても同様の交際を続ける必要のないのを遺憾に思う。明晩(すなわちその夜)のお招きにも出席しかねる、と ( けん ) もほろろに書き連ねて、 追伸 ( ついしん ) に、先日あなたから一 ( ごん ) の紹介もなく訪問してきた 素性 ( すじょう ) の知れぬ青年の持参した金はいらないからお返しする。 良人 ( おっと ) の定まった女の行動は、申すまでもないが慎むが上にもことに慎むべきものだと私どもは聞き及んでいる。ときっぱり書いて、その金額だけの 為替 ( かわせ ) が同封してあった。葉子が古藤を連れて横浜に行ったのも、 仮病 ( けびょう ) をつかって宿屋に引きこもったのも、実をいうと船商売をする人には珍しい厳格なこの永田に会うめんどうを避けるためだった。葉子は小さく舌打ちして、為替ごと手紙を引き裂こうとしたが、ふと思い返して、 丹念 ( たんねん ) に墨をすりおろして一字一字考えて書いたような手紙だけずた[#「ずた」に傍点]ずたに破いて ( くず ) かごに突っ込んだ。

 葉子は 地味 ( じみ ) 他行衣 ( よそいき ) 寝衣 ( ねまき ) を着かえて二階を降りた。朝食は食べる気がなかった。妹たちの顔を見るのも気づまりだった。

 姉妹三人のいる二階の、すみからすみまできちん[#「きちん」に傍点]と小ぎれいに片付いているのに引きかえて、 叔母 ( おば ) 一家の住まう下座敷は変に油ぎってよごれていた。白痴の子が赤ん坊同様なので、東の縁に干してある 襁褓 ( むつき ) から立つ塩臭いにおいや、畳の上に踏みにじられたままこびりついている飯粒などが、すぐ葉子の神経をいらいらさせた。玄関に出て見ると、そこには 叔父 ( おじ ) が、 ( えり ) のまっ黒に汗じんだ白い 飛白 ( かすり ) を薄寒そうに着て、白痴の子を ( ひざ ) の上に乗せながら、朝っぱらから ( かき ) をむいてあてがっていた。その柿の皮があかあかと紙くずとごったになって敷き石の上に散っていた。葉子は叔父にちょっと 挨拶 ( あいさつ ) をして 草履 ( ぞうり ) をさがしながら、

 「愛さんちょっとここにおいで。玄関が御覧、あんなによごれているからね、きれいに 掃除 ( そうじ ) しておいてちょうだいよ。――今夜はお客様もあるんだのに……」

 と駆けて来た愛子にわざとつんけん[#「つんけん」に傍点]いうと、叔父は神経の遠くのほうであてこすられたのを感じたふうで、

 「おヽ、それはわしがしたんじゃで、わしが掃除しとく。 ( かも ) うてくださるな、おいお ( しゅん ) ――お俊というに、何しとるぞい」

 とのろま[#「のろま」に傍点]らしく呼び立てた。 ( おび ) しろ ( はだか ) の叔母がそこにやって来て、またくだらぬ 口論 ( くちいさかい ) をするのだと思うと、 ( どろ ) の中でいがみ合う豚かなんぞを思い出して、葉子は ( かかと ) ( ちり ) を払わんばかりにそこそこ家を出た。細い 釘店 ( くぎだな ) の往来は場所 ( がら ) だけに 門並 ( かどな ) みきれいに掃除されて、打ち水をした上を、気のきいた 風体 ( ふうてい ) の男女が忙しそうに ( ) ( ) していた。葉子は抜け毛の丸めたのや、 巻煙草 ( まきたばこ ) の袋のちぎれたのが散らばって ( ほうき ) の目一つない自分の家の前を目をつぶって駆けぬけたいほどの思いをして、ついそばの日本銀行にはいってありったけの預金を引き出した。そしてその前の車屋で始終乗りつけのいちばん立派な人力車を仕立てさして、その足で買い物に出かけた。妹たちに買い残しておくべき衣服地や、外国人向きの 土産品 ( みやげひん ) や、新しいどっしり[#「どっしり」に傍点]したトランクなどを買い入れると、引き出した金はいくらも残ってはいなかった。そして午後の日がやや傾きかかったころ、 大塚窪町 ( おおつかくぼまち ) に住む 内田 ( うちだ ) という母の友人を訪れた。内田は熱心なキリスト教の伝道者として、憎む人からは 蛇蝎 ( だかつ ) のように憎まれるし、好きな人からは予言者のように崇拝されている天才 ( はだ ) の人だった。葉子は五つ六つのころ、母に連れられて、よくその家に出入りしたが、人を恐れずにぐん[#「ぐん」に傍点]ぐん思った事をかわいらしい口もとからいい出す葉子の様子が、始終人から ( へだ ) てをおかれつけた内田を喜ばしたので、葉子が来ると内田は、何か心のこだわった時でもきげんを直して、 ( せま ) った 眉根 ( まゆね ) を少しは開きながら、「また 子猿 ( こざる ) が来たな」といって、そのつやつやしたおかっぱ[#「おかっぱ」に傍点]をなで回したりなぞした。そのうち母がキリスト教婦人同盟の事業に関係して、たちまちのうちにその 牛耳 ( ぎゅうじ ) を握り、外国宣教師だとか、貴婦人だとかを引き入れて、政略がましく事業の拡張に奔走するようになると、内田はすぐきげんを損じて、 早月親佐 ( さつきおやさ ) を責めて、キリストの精神を無視した俗悪な態度だといきまいたが、親佐がいっこうに取り合う様子がないので、両家の間は見る見る 疎々 ( うとうと ) しいものになってしまった。それでも内田は葉子だけには不思議に愛着を持っていたと見えて、よく葉子のうわさをして、「子猿」だけは引き取って子供同様に育ててやってもいいなぞといったりした。内田は離縁した最初の妻が連れて行ってしまったたった[#「たった」に傍点] 一人 ( ひとり ) の娘にいつまでも未練を持っているらしかった。どこでもいいその娘に似たらしい所のある少女を見ると、内田は日ごろの自分を忘れたように 甘々 ( あまあま ) しい顔つきをした。人が怖れる割合に、葉子には内田が恐ろしく思えなかったばかりか、その 峻烈 ( しゅんれつ ) な性格の奥にとじこめられて小さくよどんだ愛情に触れると、ありきたりの人間からは得られないようななつかしみを感ずる事があった。葉子は母に黙って時々内田を訪れた。内田は葉子が来ると、どんな忙しい時でも自分の 部屋 ( へや ) に通して笑い話などをした。時には二人だけで郊外の静かな並み木道などを散歩したりした。ある時内田はもう娘らしく生長した葉子の手を堅く握って、「お前は神様以外の私のただ一人の 道伴 ( みちづ ) れだ」などといった。葉子は不思議な甘い心持ちでその言葉を聞いた。その記憶は長く忘れ得なかった。

 それがあの木部との結婚問題が持ち上がると、内田は 否応 ( いやおう ) なしにある日葉子を自分の家に呼びつけた。そして恋人の変心を ( なじ ) り責める 嫉妬 ( しっと ) 深い男のように、火と涙とを目からほとばしらせて、打ちもすえかねぬまでに狂い怒った。その時ばかりは葉子も心から 激昂 ( げきこう ) させられた。「だれがもうこんなわがままな人の所に来てやるものか」そう思いながら、 生垣 ( いけがき ) の多い、 家並 ( やな ) みのまばらな、 ( わだち ) の跡のめいりこんだ 小石川 ( こいしかわ ) の往来を歩き歩き、憤怒の歯ぎしりを止めかねた。それは 夕闇 ( ゆうやみ ) の催した晩秋だった。しかしそれと同時になんだか大切なものを取り落としたような、自分をこの世につり上げてる糸の一つがぷつん[#「ぷつん」に傍点]と切れたような不思議なさびしさの胸に ( せま ) るのをどうする事もできなかった。

 「キリストに水をやったサマリヤの女の事も思うから、この上お前には何もいうまい―― 他人 ( ひと ) の失望も神の失望もちっと[#「ちっと」に傍点]は考えてみるがいい、……罪だぞ、恐ろしい罪だぞ」

 そんな事があってから五年を過ぎたきょう、郵便局に行って、永田から来た 為替 ( かわせ ) を引き出して、定子を預かってくれている 乳母 ( うば ) の家に持って行こうと思った時、葉子は紙幣の束を ( かぞ ) えながら、ふと内田の最後の言葉を思い出したのだった。物のない所に物を探るような心持ちで葉子は人力車を大塚のほうに走らした。

 五年たっても昔のままの構えで、まばらにさし代えた屋根板と、めっきり[#「めっきり」に傍点]延びた 垣添 ( かきぞ ) いの ( きり ) の木とが目立つばかりだった。砂きしみのする 格子戸 ( こうしど ) をあけて、帯前を整えながら出て来た柔和な 細君 ( さいくん ) と顔を合わせた時は、さすがに懐旧の情が二人の胸を騒がせた。細君は思わず知らず「まあどうぞ」といったが、その瞬間にはっ[#「はっ」に傍点]とためらったような様子になって、急いで内田の書斎にはいって行った。しばらくすると嘆息しながら物をいうような内田の声が途切れ途切れに聞こえた。「上げるのは勝手だがおれが会う事はないじゃないか」といったかと思うと、はげしい音を立てて読みさしの書物をぱたん[#「ぱたん」に傍点]と閉じる音がした。葉子は自分の 爪先 ( つまさき ) を見つめながら下くちびるをかんでいた。

 やがて細君がおどおどしながら立ち現われて、まずと葉子を茶の ( ) に招じ入れた。それと入れ代わりに、書斎では内田が 椅子 ( いす ) を離れた音がして、やがて内田はずかずかと格子戸をあけて出て行ってしまった。

 葉子は思わずふらふらッと立ち上がろうとするのを、何気ない顔でじっ[#「じっ」に傍点]とこらえた。せめては雷のような激しいその怒りの声に打たれたかった。あわよくば自分も思いきりいいたい事をいってのけたかった。どこに行っても取りあいもせず、鼻であしらい、鼻であしらわれ慣れた葉子には、何か真味な力で打ちくだかれるなり、打ちくだくなりして見たかった。それだったのに思い入って内田の所に来て見れば、内田は世の常の人々よりもいっそう冷ややかに ( むご ) く思われた。

 「こんな事をいっては失礼ですけれどもね葉子さん、あなたの事をいろいろにいって来る人があるもんですからね、あのとおりの性質でしょう。どうもわたしにはなんともいいなだめようがないのですよ。内田があなたをお上げ申したのが不思議なほどだとわたし思いますの。このごろはことさらだれにもいわれないようなごた[#「ごた」に傍点]ごたが家の内にあるもんですから、よけいむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]していて、ほんとうにわたしどうしたらいいかと思う事がありますの」

 意地も 生地 ( きじ ) も内田の強烈な性格のために存分に打ち砕かれた細君は、上品な顔立てに中世紀の尼にでも見るような思いあきらめた表情を浮かべて、捨て身の生活のどん底にひそむさびしい不足をほのめかした。自分より年下で、しかも 良人 ( おっと ) からさんざん悪評を投げられているはずの葉子に対してまで、すぐ心が砕けてしまって、張りのない言葉で同情を求めるかと思うと、葉子は自分の事のように歯がゆかった。 ( まゆ ) と口とのあたりにむごたらしい 軽蔑 ( けいべつ ) の影が、まざまざと浮かび上がるのを感じながら、それをどうする事もできなかった。葉子は急に青味を増した顔で細君を見やったが、その顔は 世故 ( せこ ) に慣れきった三十女のようだった。(葉子は思うままに自分の年を五つも上にしたり下にしたりする不思議な力を持っていた。感情次第でその表情は役者の技巧のように変わった)

 「歯がゆくはいらっしゃらなくって」

 と切り返すように内田の細君の言葉をひったくって、

 「わたしだったらどうでしょう。すぐおじさんとけんかして出てしまいますわ。それはわたし、おじさんを偉い ( かた ) だとは思っていますが、わたしこんなに生まれついたんですからどうしようもありませんわ。一から十までおっしゃる事をはい[#「はい」に傍点]はいと聞いていられませんわ。おじさんもあんまりでいらっしゃいますのね。あなたみたいな方に、そう ( かさ ) にかからずとも、わたしでもお相手になさればいいのに……でもあなたがいらっしゃればこそおじさんもああやってお仕事がおできになるんですのね。わたしだけは ( ) け物ですけれども、世の中はなかなかよくいっていますわ。……あ、それでもわたしはもう見放されてしまったんですものね、いう事はありゃしません。ほんとうにあなたがいらっしゃるのでおじさんはお仕合わせですわ。あなたは辛抱なさる ( かた ) 。おじさんはわがままでお通しになる ( かた ) 。もっともおじさんにはそれが神様の ( おぼ ) ( ) しなんでしょうけれどもね。……わたしも神様の ( おぼ ) ( ) しかなんかでわがままで通す女なんですからおじさんとはどうしても 茶碗 ( ちゃわん ) と茶碗ですわ。それでも男はようござんすのね、わがままが通るんですもの。女のわがままは通すよりしかたがないんですからほんとうに情けなくなりますのね。何も前世の約束なんでしょうよ……」

 内田の細君は自分よりはるか年下の葉子の言葉をしみじみと聞いているらしかった。葉子は葉子でしみじみと細君の身なりを見ないではいられなかった。 一昨日 ( おととい ) あたり結ったままの 束髪 ( そくはつ ) だった。癖のない濃い髪には ( たきぎ ) の灰らしい灰がたかっていた。 糊気 ( のりけ ) のぬけきった 単衣 ( ひとえ ) も物さびしかった。その ( がら ) の細かい所には里の母の着古しというような ( にお ) いがした。 由緒 ( ゆいしょ ) ある京都の士族に生まれたその人の皮膚は美しかった。それがなおさらその人をあわれにして見せた。

 「 他人 ( ひと ) の事なぞ考えていられやしない」しばらくすると葉子は捨てばちにこんな事を思った。そして急にはずんだ調子になって、

 「わたしあすアメリカに ( ) ちますの、ひとりで」

 と 突拍子 ( とっぴょうし ) もなくいった。あまりの不意に細君は目を見張って顔をあげた。

 「まあほんとうに」

 「はあほんとうに……しかも木村の所に行くようになりましたの。木村、御存じでしょう」

 細君がうなずいてなお 仔細 ( しさい ) を聞こうとすると、葉子は事もなげにさえぎって、

 「だからきょうはお 暇乞 ( いとまご ) いのつもりでしたの。それでもそんな事はどうでもようございますわ。おじさんがお帰りになったらよろしくおっしゃってくださいまし、葉子はどんな人間になり下がるかもしれませんって……あなたどうぞおからだをお大事に。 太郎 ( たろう ) さんはまだ学校でございますか。大きくおなりでしょうね。なんぞ持って上がればよかったのに、用がこんなものですから」

 といいながら両手で大きな輪を作って見せて、若々しくほほえみながら立ち上がった。

 玄関に送って出た細君の目には涙がたまっていた。それを見ると、人はよく無意味な涙を流すものだと葉子は思った。けれどもあの涙も内田が無理無体にしぼり出させるようなものだと思い直すと、心臓の鼓動が止まるほど葉子の心はかっ[#「かっ」に傍点]となった。そして口びるを震わしながら、

 「もう 一言 ( ひとこと ) おじさんにおっしゃってくださいまし、七度を七十倍はなさらずとも、せめて三度ぐらいは人の ( とが ) も許して上げてくださいましって。……もっともこれは、あなたのおために申しますの。わたしはだれにあやまっていただくのもいやですし、だれにあやまるのもいやな 性分 ( しょうぶん ) なんですから、おじさんに許していただこうとは ( てん ) から思ってなどいはしませんの。それもついでにおっしゃってくださいまし」

 口のはたに 戯談 ( じょうだん ) らしく微笑を見せながら、そういっているうちに、 大濤 ( おおなみ ) がどすん[#「どすん」に傍点]どすんと横隔膜につきあたるような 心地 ( ここち ) がして、鼻血でも出そうに鼻の ( あな ) がふさがった。門を出る時も口びるはなおくやしそうに震えていた。日は植物園の森の上に ( うすず ) いて、暮れがた近い空気の中に、けさから吹き出していた風はなぎた。葉子は今の心と、けさ早く風の吹き始めたころに、土蔵わきの 小部屋 ( こべや ) で荷造りをした時の心とをくらべて見て、自分ながら同じ心とは思い得なかった。そして門を出て左に曲がろうとしてふと道ばたの捨て石にけつまずいて、はっ[#「はっ」に傍点]と目がさめたようにあたりを見回した。やはり二十五の葉子である。いヽえ昔たしかに一度けつまずいた事があった。そう思って葉子は迷信家のようにもう一度振り返って捨て石を見た。その時に日は……やはり植物園の森のあのへんにあった。そして道の暗さもこのくらいだった。自分はその時、内田の奥さんに内田の悪口をいって、ペテロとキリストとの間に取りかわされた 寛恕 ( かんじょ ) に対する問答を例に引いた。いヽえ、それはきょうした事だった。きょう意味のない涙を奥さんがこぼしたように、その時も奥さんは意味のない涙をこぼした。その時にも自分は二十五……そんな事はない。そんな事のあろうはずがない……変な……。それにしてもあの捨て石には覚えがある。あれは昔からあすこにちゃん[#「ちゃん」に傍点]とあった。こう思い続けて来ると、葉子は、いつか母と遊びに来た時、何か ( おこ ) ってその捨て石にかじり付いて動かなかった事をまざまざと心に浮かべた。その時は大きな石だと思っていたのにこれんぼっちの石なのか。母が当惑して立った姿がはっきり目先に現われた。と思うとやがてその輪郭が輝き出して、目も向けられないほど 耀 ( かがや ) いたが、すっ[#「すっ」に傍点]と惜しげもなく消えてしまって、葉子は自分のからだが 中有 ( ちゅうう ) からどっしり[#「どっしり」に傍点]大地におり立ったような感じを受けた。同時に鼻血がどくどく口から ( あご ) を伝って胸の合わせ目をよごした。驚いてハンケチを ( たもと ) から探り出そうとした時、

 「どうかなさいましたか」

 という声に驚かされて、葉子は始めて自分のあとに人力車がついて来ていたのに気が付いた。見ると捨て石のある所はもう八九町後ろになっていた。

 「鼻血なの」

 と ( こた ) えながら葉子は初めてのようにあたりを見た。そこには 紺暖簾 ( こんのれん ) を所せまくかけ渡した紙屋の小店があった。葉子は取りあえずそこにはいって、人目を避けながら顔を洗わしてもらおうとした。

 四十格好の 克明 ( こくめい ) らしい 内儀 ( かみ ) さんがわが事のように 金盥 ( かなだらい ) に水を移して持って来てくれた。葉子はそれで 白粉気 ( おしろいけ ) のない顔を思う存分に冷やした。そして少し 人心地 ( ひとごこち ) がついたので、帯の間から懐中鏡を取り出して顔を直そうとすると、鏡がいつのまにかま二つに ( ) れていた。先刻けつまずいた拍子に破れたのかしらんと思ってみたが、それくらいで破れるはずはない。怒りに任せて胸がかっ[#「かっ」に傍点]となった時、破れたのだろうか。なんだかそうらしくも思えた。それともあすの船出の不吉を告げる何かの ( わざ ) かもしれない。木村との行く末の破滅を知らせる悪い 辻占 ( つじうら ) かもしれない。またそう思うと葉子は 襟元 ( えりもと ) に凍った針でも刺されるように、ぞくぞくとわけのわからない身ぶるいをした。いったい自分はどうなって行くのだろう。葉子はこれまでの見窮められない不思議な自分の運命を思うにつけ、これから先の運命が空恐ろしく心に描かれた。葉子は不安な 悒鬱 ( ゆううつ ) な目つきをして店を見回した。帳場にすわり込んだ 内儀 ( かみ ) さんの ( ひざ ) にもたれて、七つほどの少女が、じっ[#「じっ」に傍点]と葉子の目を迎えて葉子を見つめていた。やせぎすで、痛々しいほど目の大きな、そのくせ黒目の小さな、青白い顔が、薄暗い店の奥から、香料や 石鹸 ( せっけん ) の香につつまれて、ぼんやり浮き出たように見えるのが、何か鏡の ( ) れたのと縁でもあるらしくながめられた。葉子の心は全くふだんの落ち付きを失ってしまったようにわく[#「わく」に傍点]わくして、立ってもすわってもいられないようになった。ばかなと思いながらこわいものにでも追いすがられるようだった。

 しばらくの ( あいだ ) 葉子はこの奇怪な心の動揺のために店を立ち去る事もしないでたたずんでいたが、ふとどうにでもなれという捨てばちな気になって元気を取り直しながら、いくらかの礼をしてそこを出た。出るには出たが、もう車に乗る気にもなれなかった。これから定子に会いに行ってよそながら別れを惜しもうと思っていたその心組みさえ 物憂 ( ものう ) かった。定子に会ったところがどうなるものか。自分の事すら次の瞬間には取りとめもないものを、他人の事――それはよし自分の血を分けた大切な 独子 ( ひとりご ) であろうとも――などを考えるだけがばかな事だと思った。そしてもう一度そこの店から 巻紙 ( まきがみ ) を買って、 硯箱 ( すずりばこ ) を借りて、男恥ずかしい筆跡で、出発前にもう一度乳母を訪れるつもりだったが、それができなくなったから、この後とも定子をよろしく頼む。当座の費用として金を少し送っておくという意味を簡単にしたためて、永田から送ってよこした 為替 ( かわせ ) の金を封入して、その店を出た。そしていきなり[#「いきなり」に傍点]そこに待ち合わしていた人力車の上の 膝掛 ( ひざか ) けをはぐって、 蹴込 ( けこ ) みに打ち付けてある鑑札にしっかり[#「しっかり」に傍点]目を通しておいて、

 「わたしはこれから歩いて行くから、この手紙をここへ届けておくれ、返事はいらないのだから……お金ですよ、少しどっさり[#「どっさり」に傍点]あるから大事にしてね」

 と車夫にいいつけた。車夫はろくに見知りもないものに大金を渡して平気でいる女の顔を今さらのようにきょと[#「きょと」に傍点]きょとと見やりながら 空俥 ( からぐるま ) を引いて立ち去った。 大八車 ( だいはちぐるま ) が続けさまに 田舎 ( いなか ) に向いて帰って行く小石川の夕暮れの中を、葉子は ( かさ ) ( つえ ) にしながら思いにふけって歩いて行った。

 こもった哀愁が、発しない酒のように、葉子のこめかみをちかちかと痛めた。葉子は人力車の行くえを見失っていた。そして自分ではまっすぐに 釘店 ( くぎだな ) のほうに急ぐつもりでいた。ところが実際は目に見えぬ力で人力車に結び付けられでもしたように、知らず知らず人力車の通ったとおりの道を歩いて、はっ[#「はっ」に傍点]と気がついた時にはいつのまにか、乳母が住む 下谷 ( したや ) ( いけ ) ( はた ) ( ) る曲がり ( かど ) に来て立っていた。

 そこで葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として立ちどまってしまった。短くなりまさった日は 本郷 ( ほんごう ) の高台に隠れて、往来には ( くりや ) の煙とも 夕靄 ( ゆうもや ) ともつかぬ薄い霧がただよって、街頭のランプの ( ) がことに赤くちらほらちらほらとともっていた。通り慣れたこの 界隈 ( かいわい ) の空気は特別な親しみをもって葉子の皮膚をなでた。心よりも肉体のほうがよけいに定子のいる所にひき付けられるようにさえ思えた。葉子の口びるは暖かい桃の皮のような定子の ( ほお ) の膚ざわりにあこがれた。葉子の手はもうめれんす[#「めれんす」に傍点]の弾力のある ( やわ ) らかい触感を感じていた。葉子の ( ひざ ) はふうわり[#「ふうわり」に傍点]とした軽い重みを覚えていた。耳には子供のアクセントが焼き付いた。目には、曲がり ( かど ) の朽ちかかった 黒板塀 ( くろいたべい ) ( とお ) して、木部から ( ) けた 笑窪 ( えくぼ ) のできる 笑顔 ( えがお ) が否応なしに吸い付いて来た。……乳房はくすむったかった。葉子は思わず片頬に微笑を浮かべてあたりをぬすむように見回した。とちょうどそこを通りかかった 内儀 ( かみ ) さんが、何かを前掛けの下に隠しながらじっ[#「じっ」に傍点]と葉子の立ち姿を振り返ってまで見て通るのに気がついた。

 葉子は悪事でも働いていた人のように、急に笑顔を引っ込めてしまった。そしてこそ[#「こそ」に傍点]こそとそこを立ちのいて 不忍 ( しのばず ) ( いけ ) に出た。そして過去も未来も持たない人のように、池の端につくねん[#「つくねん」に傍点]と突っ立ったまま、池の中の ( はす ) の実の一つに目を定めて、身動きもせずに 小半時 ( こはんとき ) 立ち尽くしていた。