University of Virginia Library

    四一

  階子段 ( はしごだん ) の上がり口には愛子が姉を呼びに行こうか行くまいかと思案するらしく立っていた。そこを通り抜けて自分の 部屋 ( へや ) に来て見ると、 胸毛 ( むなげ ) をあらわ[#「あらわ」に傍点]に ( えり ) をひろげて、セルの両 ( そで ) を高々とまくり上げた倉地が、あぐらをかいたまま、電灯の ( ) の下に 熟柿 ( じゅくし ) のように赤くなってこっち[#「こっち」に傍点]を向いて 威丈高 ( いたけだか ) になっていた。 古藤 ( ことう ) は軍服の ( ひざ ) をきちん[#「きちん」に傍点]と折ってまっすぐに固くすわって、葉子には後ろを向けていた。それを見るともう葉子の神経はびり[#「びり」に傍点]びりと 逆立 ( さかだ ) って自分ながらどうしようもないほど荒れすさんで来ていた。「何もかもいやだ、どうでも勝手になるがいい。」するとすぐ頭が重くかぶさって来て、腹部の鈍痛が鉛の大きな ( たま ) のように腰をしいたげた。それは二重に葉子をいらいらさせた。

 「あなた ( がた ) はいったい何をそんなにいい合っていらっしゃるの」

 もうそこには葉子はタクトを用いる余裕さえ持っていなかった。始終腹の底に冷静さを失わないで、あらん限りの表情を勝手に操縦してどんな難関でも、葉子に特有なしかたで切り開いて行くそんな余裕はその場にはとても出て来なかった。

 「何をといってこの古藤という青年はあまり礼儀をわきまえんからよ。木村さんの親友親友と 二言 ( ふたこと ) 目には鼻にかけたような事をいわるるが、わしもわしで木村さんから頼まれとるんだから、 一人 ( ひとり ) よがりの事はいうてもらわんでもがいいのだ。それをつべこべ[#「つべこべ」に傍点]ろくろくあなたの世話も見ずにおきながら、いい立てなさるので、筋が違っていようといって聞かせて上げたところだ。古藤さん、あなた失礼だがいったいいくつです」

 葉子にいって聞かせるでもなくそういって、倉地はまた古藤のほうに向き直った。古藤はこの侮辱に対して口答えの言葉も出ないように 激昂 ( げきこう ) して黙っていた。

 「答えるが恥ずかしければしいても聞くまい。が、いずれ 二十 ( はたち ) は過ぎていられるのだろう。二十過ぎた男があなたのように礼儀をわきまえずに 他人 ( ひと ) の生活の内輪にまで立ち入って物をいうはばかの証拠ですよ。男が物をいうなら考えてからいうがいい」

 そういって倉地は言葉の 激昂 ( げきこう ) している割合に、また見かけのいかにも 威丈高 ( いたけだか ) な割合に、充分の余裕を見せて、空うそぶくように打ち水をした庭のほうを見ながら 団扇 ( うちわ ) をつかった。

 古藤はしばらく黙っていてから後ろを振り仰いで葉子を見やりつつ、

 「葉子さん……まあ、す、すわってください」

 と少しどもるようにしいて穏やかにいった。葉子はその時始めて、われにもなくそれまでそこに突っ立ったままぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]していたのを知って、自分にかつてないようなとんきょ[#「とんきょ」に傍点]な事をしていたのに気が付いた。そして自分ながらこのごろはほんとうに変だと思いながら 二人 ( ふたり ) の間に、できるだけ気を落ち着けて座についた。古藤の顔を見るとやや青ざめて、こめかみの所に太い筋を立てていた。葉子はその時分になって始めて少しずつ自分を回復していた。

 「古藤さん、倉地さんは少しお酒を召し上がった所だからこんな時むずかしいお話をなさるのはよくありませんでしたわ。なんですか知りませんけれども今夜はもうそのお話はきれいにやめましょう。いかが?……またゆっくりね……あ、愛さん、あなたお二階に行って縫いかけを大急ぎで仕上げて置いてちょうだい、ねえさんがあらかた[#「あらかた」に傍点]してしまってあるけれども……」

 そういって先刻から逐一 二人 ( ふたり ) の争論をきいていたらしい愛子を階上に追い上げた。しばらくして古藤はようやく落ち着いて自分の言葉を見いだしたように、

 「倉地さんに物をいったのは ( ぼく ) が間違っていたかもしれません。じゃ倉地さんを前に置いてあなたにいわしてください。お世辞でもなんでもなく、僕は始めからあなたには倉地さんなんかにはない誠実な所が、どこかに隠れているように思っていたんです。僕のいう事をその誠実な所で判断してください」

 「まあきょうはもういいじゃありませんか、ね。わたし、あなたのおっしゃろうとする事はよっくわかっていますわ。わたし決して ( あだ ) やおろそかには思っていませんほんとうに。わたしだって考えてはいますわ。そのうちとっくり[#「とっくり」に傍点]わたしのほうから伺っていただきたいと思っていたくらいですからそれまで……」

 「きょう聞いてください。軍隊生活をしていると三人でこうしてお話しする機会はそうありそうにはありません。もう帰営の時間が ( せま ) っていますから、長くお話はできないけれども……それだから我慢して聞いてください」

 それならなんでも勝手にいってみるがいい、仕儀によっては黙ってはいないからという腹を、かすかに皮肉に開いた口びるに見せて葉子は古藤に耳をかす態度を見せた。倉地は知らんふりをして庭のほうを見続けていた。古藤は倉地を全く度外視したように葉子のほうに向き直って、葉子の目に自分の目を定めた。卒直な明らさまなその目にはその場合にすら子供じみた 羞恥 ( しゅうち ) の色をたたえていた。例のごとく古藤は胸の ( きん ) ぼたんをはめたりはずしたりしながら、

 「僕は今まで自分の因循からあなたに対しても木村に対してもほんとうに友情らしい友情を現わさなかったのを恥ずかしく思います。僕はとうにもっとどうかしなければいけなかったんですけれども……木村、木村って木村の事ばかりいうようですけれども、木村の事をいうのはあなたの事をいうのも同じだと僕は思うんですが、あなたは今でも木村と結婚する気が確かにあるんですかないんですか、倉地さんの前でそれをはっきり[#「はっきり」に傍点]僕に聞かせてください。何事もそこから出発して行かなければこの話は 畢寛 ( ひっきょう ) まわりばかり回る事になりますから。僕はあなたが木村と結婚する気はないといわれても決してそれをどうというんじゃありません。木村は気の毒です。あの男は表面はあんなに楽天的に見えていて、意志が ( つよ ) そうだけれども、ずいぶん涙っぽいほうだから、その失望は思いやられます。けれどもそれだってしかたがない。第一始めから無理だったから……あなたのお話のようなら……。しかし事情が事情だったとはいえ、あなたはなぜいやならいやと……そんな過去をいったところが始まらないからやめましょう。……葉子さん、あなたはほんとうに自分を考えてみて、どこか間違っていると思った事はありませんか。誤解しては困りますよ、僕はあなたが間違っているというつもりじゃないんですから。他人の事を他人が判断する事なんかはできない事だけれども、僕はあなたがどこか不自然に見えていけないんです。よく世の中では人生の事はそう単純に行くもんじゃないといいますが、そうしてあなたの生活なんぞを見ていると、それはごく外面的に見ているからそう見えるのかもしれないけれども、実際ずいぶん複雑らしく思われますが、そうあるべき事なんでしょうか。もっともっと clear に sun-clear に自分の力だけの事、徳だけの事をして暮らせそうなものだと ( ぼく ) 自身は思うんですがね……僕にもそうでなくなる時代が来るかもしらないけれども、今の僕としてはそうより考えられないんです。一時は混雑も ( ) 、不和も来、けんかも ( ) るかは知れないが、結局はそうするよりしかたがないと思いますよ。あなたの事についても僕は前からそういうふうにはっきり[#「はっきり」に傍点]片づけてしまいたいと思っていたんですけれど、 姑息 ( こそく ) な心からそれまでに行かずともいい結果が生まれて来はしないかと思ったりしてきょうまでどっち[#「どっち」に傍点]つかずで過ごして来たんです。しかしもうこの以上僕には我慢ができなくなりました。

 倉地さんとあなたと結婚なさるならなさるで木村もあきらめるよりほかに道はありません。木村に取っては苦しい事だろうが、僕から考えるとどっち[#「どっち」に傍点]つかずで 煩悶 ( はんもん ) しているのよりどれだけいいかわかりません。だから倉地さんに意向を伺おうとすれば、倉地さんは頭から僕をばかにして話を 真身 ( しんみ ) に受けてはくださらないんです」

 「ばかにされるほうが悪いのよ」

 倉地は庭のほうから顔を返して、「どこまでばかに出来上がった男だろう」というように 苦笑 ( にがわら ) いをしながら古藤を見やって、また知らぬ顔に庭のほうを向いてしまった。

 「そりゃそうだ。ばかにされる僕はばかだろう。しかしあなたには……あなたには僕らが持ってる良心というものがないんだ。それだけはばかでも僕にはわかる。あなたがばかといわれるのと、僕が自分をばかと思っているそれとは、意味が違いますよ」

 「そのとおり、あなたはばかだと思いながら、どこか心のすみで『何ばかなものか』と思いよるし、わたしはあなたを 嘘本 ( うそほん ) なしにばかというだけの相違があるよ」

 「あなたは気の毒な人です」

 古藤の目には怒りというよりも、ある激しい感情の涙が薄く宿っていた。古藤の心の中のいちばん奥深い所が ( けが ) されないままで、ふと目からのぞき出したかと思われるほど、その涙をためた目は一種の力と清さとを持っていた。さすがの倉地もその 一言 ( ひとこと ) には言葉を返す事なく、不思議そうに古藤の顔を見た。葉子も思わず一種改まった気分になった。そこにはこれまで見慣れていた古藤はいなくなって、その代わりにごまかしのきかない強い力を持った 一人 ( ひとり ) の純潔な青年がひょっこり[#「ひょっこり」に傍点]現われ出たように見えた。何をいうか、またいつものようなありきたりの道徳論を振り回すと思いながら、一種の軽侮をもって黙って聞いていた葉子は、この一言で、いわば古藤を壁ぎわに思い存分押し付けていた倉地が手もなくはじき返されたのを見た。言葉の上や仕打ちの上やでいかに高圧的に出てみても、どうする事もできないような真実さが古藤からあふれ出ていた。それに歯向かうには真実で歯向かうほかはない。倉地はそれを持ち合わしているかどうか葉子には想像がつかなかった。その場合倉地はしばらく古藤の顔を不思議そうに見やった後、平気な顔をして ( ぜん ) から杯を取り上げて、飲み残して冷えた酒をてれかくし[#「てれかくし」に傍点]のようにあおりつけた。葉子はこの時古藤とこんな調子で向かい合っているのが恐ろしくってならなくなった。古藤の目の前でひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると今まで築いて来た生活がくずれてしまいそうな 危惧 ( きぐ ) をさえ感じた。で、そのまま黙って倉地のまねをするようだが、平気を装いつつ 煙管 ( きせる ) を取り上げた。その場の仕打ちとしては ( つたな ) いやりかたであるのを歯がゆくは思いながら。

 古藤はしばらく言葉を途切らしていたが、また改まって葉子のほうに話しかけた。

 「そう改まらないでください。その代わり思っただけの事をいいかげんにしておかずに話し合わせてみてください。いいですか。あなたと倉地さんとのこれまでの生活は、 ( ぼく ) みたいな無経験なものにも、疑問として片づけておく事のできないような事実を感じさせるんです。それに対するあなたの弁解は 詭弁 ( きべん ) とより僕には響かなくなりました。僕の鈍い直覚ですらがそう考えるのです。だからこの際あなたと倉地さんとの関係を明らかにして、あなたから木村に偽りのない告白をしていただきたいんです。木村が 一人 ( ひとり ) で生活に苦しみながらたとえようのない疑惑の中にもがいているのを少しでも想像してみたら……今のあなたにはそれを要求するのは無理かもしれないけれども……。第一こんな不安定な状態からあなたは愛子さんや貞世さんを救う義務があると思いますよ僕は。あなただけに限られずに、四方八方の人の心に響くというのは恐ろしい事だとはほんとうにあなたには思えませんかねえ。僕にはそばで見ているだけでも恐ろしいがなあ。人にはいつか総勘定をしなければならない時が来るんだ。いくら借りになっていてもびく[#「びく」に傍点]ともしないという自信もなくって、ずるずるべったりに無反省に借りばかり作っているのは考えてみると不安じゃないでしょうか。葉子さん、あなたには美しい誠実があるんだ。僕はそれを知っています。木村にだけはどうしたわけか別だけれども、あなたはびた[#「びた」に傍点]一 ( もん ) でも借りをしていると思うと 寝心地 ( ねごこち ) が悪いというような気象を持っているじゃありませんか。それに心の借金ならいくら借金をしていても平気でいられるわけはないと思いますよ。なぜあなたは好んでそれを踏みにじろうとばかりしているんです。そんな情けない事ばかりしていてはだめじゃありませんか。……僕ははっきり[#「はっきり」に傍点]思うとおりをいい現わし得ないけれども……いおうとしている事はわかってくださるでしょう」

 古藤は思い入ったふうで、油でよごれた手を幾度もまっ黒に日に焼けた目がしらの所に持って行った。蚊がぶんぶんと攻めかけて来るのも忘れたようだった。葉子は古藤の言葉をもうそれ以上は聞いていられなかった。せっかくそっ[#「そっ」に傍点]として置いた心のよどみがかきまわされて、見まいとしていたきたないものがぬら[#「ぬら」に傍点]ぬらと目の前に浮き出て来るようでもあった。塗りつぶし塗りつぶししていた心の壁にひびが入って、そこから ( おもて ) も向けられない白い光がちら[#「ちら」に傍点]とさすようにも思った。もうしかしそれはすべてあまりおそい。葉子はそんな物を無視してかかるほかに道がないと思った。ごまかしてはいけないと古藤のいった言葉はその瞬間にもすぐ葉子にきびしく答えたけれども、葉子は押し切ってそんな言葉をかなぐり捨てないではいられないと自分からあきらめた。

 「よくわかりました。あなたのおっしゃる事はいつでもわたしにはよくわかりますわ。そのうちわたしきっと木村のほうに手紙を出すから安心してくださいまし。このごろはあなたのほうが木村以上に神経質になっていらっしゃるようだけれども、御親切はよくわたしにもわかりますわ。倉地さんだってあなたのお心持ちは通じているに違いないんですけれども、あなたが……なんといったらいいでしょうねえ……あなたがあんまり[#「あんまり」に傍点]真正面からおっしゃるもんだから、つい ( むか ) ( ぱら ) をお立てなすったんでしょう。そうでしょう、ね、倉地さん。……こんないやなお話はこれだけにして妹たちでも呼んでおもしろいお話でもしましょう」

 「僕がもっと ( えら ) いと、いう事がもっと深く皆さんの心にはいるんですが、僕のいう事はほんとうの事だと思うんだけれどもしかたがありません。それじゃきっと木村に書いてやってください。 ( ぼく ) 自身は何も 物数寄 ( ものずき ) らしくその内容を知りたいとは思ってるわけじゃないんですから……」

 古藤がまだ何かいおうとしている時に愛子が 整頓風呂敷 ( せいとんぶろしき ) の出来上がったのを持って、二階から降りて来た。古藤は愛子からそれを受け取ると思い出したようにあわてて時計を見た。葉子はそれには 頓着 ( とんじゃく ) しないように、

 「愛さんあれを古藤さんにお目にかけよう。古藤さんちょっと待っていらしってね。今おもしろいものをお目にかけるから。 ( さあ ) ちゃんは二階? いないの? どこに行ったんだろう……貞ちゃん!」

 こういって葉子が呼ぶと台所のほうから貞世が打ち沈んだ顔をして泣いたあとのように ( ほお ) を赤くしてはいって来た。やはり自分のいった言葉に従って 一人 ( ひとり ) ぽっちで台所に行ってすすぎ物をしていたのかと思うと、葉子はもう胸が ( せま ) って目の中が熱くなるのだった。

 「さあ 二人 ( ふたり ) でこの間学校で習って来たダンスをして古藤さんと倉地さんとにお目におかけ。ちょっとコティロンのようでまた変わっていますの。さ」

 二人は十畳の座敷のほうに立って行った。倉地はこれをきっかけ[#「きっかけ」に傍点]にからっ[#「からっ」に傍点]と快活になって、今までの事は忘れたように、古藤にも微笑を与えながら「それはおもしろかろう」といいつつあとに続いた。愛子の姿を見ると古藤も ( ) り込まれるふうに見えた。葉子は決してそれを見のがさなかった。

  可憐 ( かれん ) な姿をした姉と妹とは十畳の電燈の下に向かい合って立った。愛子はいつでもそうなようにこんな場合でもいかにも冷静だった。普通ならばその年ごろの少女としては、やり所もない 羞恥 ( しゅうち ) を感ずるはずであるのに、愛子は少し目を伏せているほかにはしらじらとしていた。きゃっ[#「きゃっ」に傍点]きゃっとうれしがったり恥ずかしがったりする貞世はその夜はどうしたものかただ 物憂 ( ものう ) げにそこにしょんぼり[#「しょんぼり」に傍点]と立った。その夜の二人は妙に無感情な 一対 ( いっつい ) の美しい踊り手だった。葉子が「一二三」と相図をすると、二人は両手を腰骨の所に置き添えて静かに回旋しながら舞い始めた。兵営の中ばかりにいて美しいものを全く見なかったらしい古藤は、しばらくは何事も忘れたように 恍惚 ( こうこつ ) として二人の描く曲線のさまざまに見とれていた。

 と突然貞世が両 ( そで ) を顔にあてたと思うと、急に舞いの輸からそれて、一散に玄関わきの六畳に駆け込んだ。六畳に達しないうちに痛ましくすすり泣く声が聞こえ出した。古藤ははっ[#「はっ」に傍点]とあわててそっちに行こうとしたが、愛子が一人になっても、顔色も動かさずに踊り続けているのを見るとそのまままた立ち止まった。愛子は自分のし ( おお ) すべき務めをし ( おお ) せる事に心を集める様子で舞いつづけた。

 「愛さんちょっとお待ち」

 といった葉子の声は低いながら ( きぬ ) を裂くように 疳癖 ( かんぺき ) らしい調子になっていた。別室に妹の駆け込んだのを見向きもしない愛子の不人情さを憤る怒りと、命ぜられた事を中途 半端 ( はんぱ ) でやめてしまった貞世を憤る怒りとで葉子は自制ができないほどふるえていた。愛子は静かにそこに両手を腰からおろして立ち止まった。

 「 ( さあ ) ちゃんなんですその失礼は。出ておいでなさい」

 葉子は激しく隣室に向かってこう叫んだ。隣室から貞世のすすり泣く声が哀れにもまざまざと聞こえて来るだけだった。抱きしめても抱きしめても飽き足らないほどの愛着をそのまま裏返したような憎しみが、葉子の心を火のようにした。葉子は愛子にきびしくいいつけて貞世を六畳から呼び返さした。

 やがてその六畳から出て来た愛子は、さすがに不安な 面持 ( おもも ) ちをしていた。苦しくってたまらないというから ( ひたい ) に手をあてて見たら火のように熱いというのだ。

 葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。生まれ落ちるとから病気一つせずに育って来た貞世は前から発熱していたのを自分で知らずにいたに違いない。気むずかしくなってから一週間ぐらいになるから、何かの熱病にかかったとすれば病気はかなり進んでいたはずだ。ひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると貞世はもう死ぬ……それを葉子は直覚したように思った。目の前で世界が急に暗くなった。電灯の光も見えないほどに頭の中が暗い 渦巻 ( うずま ) きでいっぱいになった。えゝ、いっその事死んでくれ。この血祭りで倉地が自分にはっきり[#「はっきり」に傍点]つながれてしまわないとだれがいえよう。 人身御供 ( ひとみごくう ) にしてしまおう。そう葉子は恐怖の絶頂にありながら妙にしん[#「しん」に傍点]とした心持ちで思いめぐらした。そしてそこにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]したまま突っ立っていた。

 いつのまに行ったのか、倉地と古藤とが六畳の ( ) から首を出した。

 「お葉さん……ありゃ泣いたためばかりの熱じゃない。早く来てごらん」

 倉地のあわてるような声が聞こえた。

 それを聞くと葉子は始めて事の真相がわかったように、夢から目ざめたように、急に頭がはっきり[#「はっきり」に傍点]して六畳の ( ) に走り込んだ。貞世はひときわ背たけが縮まったように小さく丸まって、座ぶとんに顔を ( うず ) めていた。 ( ひざ ) をついてそばによって 後頸 ( うなじ ) の所にさわってみると、気味の悪いほどの熱が葉子の手に伝わって来た。

 その瞬間に葉子の心はでんぐり[#「でんぐり」に傍点]返しを打った。いとしい貞世につらく当たったら、そしてもし貞世がそのために命を落とすような事でもあったら、倉地を大丈夫つかむ事ができると何がなしに思い込んで、しかもそれを実行した迷信とも 妄想 ( もうそう ) ともたとえようのない、狂気じみた 結願 ( けちがん ) がなんの苦もなくばら[#「ばら」に傍点]ばらにくずれてしまって、その跡にはどうかして貞世を ( ) かしたいという 素直 ( すなお ) な涙ぐましい願いばかりがしみじみと働いていた。自分の愛するものが死ぬか ( ) きるかの 境目 ( さかいめ ) に来たと思うと、生への執着と死への恐怖とが、今まで想像も及ばなかった強さでひし[#「ひし」に傍点]ひしと感ぜられた。自分を八つ ( ) きにしても貞世の命は取りとめなくてはならぬ。もし貞世が死ねばそれは自分が殺したんだ。何も知らない、神のような少女を……葉子はあらぬことまで勝手に想像して勝手に苦しむ自分をたしなめるつもりでいても、それ以上に種々な予想が激しく頭の中で働いた。

 葉子は貞世の背をさすりながら、嘆願するように 哀恕 ( あいじょ ) ( ) うように古藤や倉地や愛子までを見まわした。それらの人々はいずれも 心痛 ( こころいた ) げな顔色を見せていないではなかった。しかし葉子から見るとそれはみんな 贋物 ( にせもの ) だった。

 やがて古藤は兵営への帰途医者を頼むといって帰って行った。葉子は、 一人 ( ひとり ) でも、どんな人でも貞世の身ぢかから離れて行くのをつらく思った。そんな人たちは多少でも貞世の生命を一緒に持って行ってしまうように思われてならなかった。

 日はとっぷり[#「とっぷり」に傍点]暮れてしまったけれどもどこの戸締まりもしないこの家に、古藤がいってよこした医者がやって来た。そして貞世は明らかに腸チブスにかかっていると診断されてしまった。