University of Virginia Library

    一七

 事務長のさしがね[#「さしがね」に傍点]はうまい ( つぼ ) にはまった。検疫官は絵島丸の検疫事務をすっかり[#「すっかり」に傍点]年とった次位の医官に任せてしまって、自分は船長室で船長、事務長、葉子を相手に、話に花を咲かせながらトランプをいじり通した。あたりまえならば、なんとかかとか必ず苦情の持ち上がるべき英国風の小やかましい検疫もあっさり[#「あっさり」に傍点]済んで 放蕩者 ( ほうとうもの ) らしい血気盛りな検疫官は、船に来てから二時間そこそこできげんよく帰って行く事になった。

  ( ) まるともなく進行を止めていた絵島丸は風のまにまに少しずつ方向を変えながら、 二人 ( ふたり ) の医官を乗せて行くモーター・ボートが 舷側 ( げんそく ) を離れるのを待っていた。折り目正しい長めな紺の背広を着た検疫官はボートの 舵座 ( かじざ ) に立ち上がって、 手欄 ( てすり ) から葉子と一緒に胸から上を乗り出した船長となお 戯談 ( じょうだん ) を取りかわした。 船梯子 ( ふなばしご ) の下まで医官を見送った事務長は、物慣れた様子でポッケットからいくらかを水夫の手につかませておいて、上を向いて相図をすると、 船梯子 ( ふなばしご ) はきり[#「きり」に傍点]きりと水平に巻き上げられて行く、それを事もなげに身軽く駆け上って来た。検疫官の目は事務長への 挨拶 ( あいさつ ) もそこそこに、思いきり 派手 ( はで ) な装いを凝らした葉子のほうに吸い付けられるらしかった。葉子はその目を迎えて情をこめた 流眄 ( ながしめ ) を送り返した。検疫官がその忙しい間にも何かしきりに物をいおうとした時、けたたましい汽笛が 一抹 ( いちまつ ) の白煙を青空に揚げて鳴りはためき、船尾からはすさまじい推進機の震動が起こり始めた。このあわただしい船の別れを惜しむように、検疫官は帽子を取って振り動かしながら、 噪音 ( そうおん ) にもみ消される言葉を続けていたが、もとより葉子にはそれは聞こえなかった。葉子はただにこにことほほえみながらうなずいて見せた。そしてただ一時のいたずらごころから髪にさしていた小さな造花を投げてやると、それがあわよく検疫官の肩にあたって足もとにすべり落ちた。検疫官が片手に 舵綱 ( かじづな ) をあやつりながら、 有頂点 ( うちょうてん ) になってそれを拾おうとするのを見ると、 船舷 ( ふなばた ) に立ちならんで物珍しげに陸地を見物していたステヤレージの男女の客は 一斉 ( いっせい ) に手をたたいてどよめいた。葉子はあたりを見回した。西洋の婦人たちは等しく葉子を見やって、その花々しい服装から 軽率 ( かるはずみ ) らしい挙動を苦々しく思うらしい顔つきをしていた。それらの外国人の中には田川夫人もまじっていた。

 検疫官は絵島丸が残して行った 白沫 ( はくまつ ) の中で、腰をふらつかせながら、笑い興ずる群集にまで幾度も頭を下げた。群集はまた思い出したように 漫罵 ( まんば ) を放って笑いどよめいた。それを聞くと日本語のよくわかる白髪の船長は、いつものように顔を赤くして、気の毒そうに恥ずかしげな目を葉子に送ったが、葉子がはした[#「はした」に傍点]ない群集の言葉にも、 苦々 ( にがにが ) しげな船客の顔色にも、少しも 頓着 ( とんじゃく ) しないふうで、ほほえみ続けながらモーター・ボートのほうを見守っているのを見ると、 未通女 ( おぼこ ) らしくさらにまっ ( ) になってその場をはずしてしまった。

 葉子は何事も屈託なくただおもしろかった。からだじゅうをくすぐるような生の ( よろこ ) びから、ややもするとなんでもなく微笑が自然に浮かび出ようとした。「けさから私はこんなに生まれ代わりました御覧なさい」といってだれにでも自分の喜びを 披露 ( ひろう ) したいような気分になっていた。検疫官の官舎の白い壁も、そのほうに向かって走って行くモーター・ボートも見る見る遠ざかって小さな箱庭のようになった時、葉子は船長室でのきょうの思い出し笑いをしながら、 手欄 ( てすり ) を離れて心あてに事務長を目で尋ねた。と、事務長は、はるか離れた 船艙 ( せんそう ) の出口に田川夫妻と ( かなえ ) になって、何かむずかしい顔をしながら立ち話をしていた。いつもの葉子ならば三人の様子で何事が語られているかぐらいはすぐ見て取るのだが、その日はただ浮き浮きした無邪気な心ばかりが先に立って、だれにでも好意のある言葉をかけて、同じ言葉で ( むく ) いられたい衝動に駆られながら、なんの気なしにそっちに足を向けようとして、ふと気がつくと、事務長が「来てはいけない」と激しく目に物を言わせているのが ( さと ) れた。気が付いてよく見ると田川夫人の顔にはまごうかたなき悪意がひらめいていた。

 「またおせっかいだな」

 一秒の 躊躇 ( ちゅうちょ ) もなく男のような口調で葉子はこう小さくつぶやいた。「構うものか」そう思いながら葉子は事務長の目使いにも 無頓着 ( むとんじゃく ) に、快活な足どりでいそいそと田川夫妻のほうに近づいて行った。それを事務長もどうすることもできなかった。葉子は三人の前に来ると軽く腰をまげて ( おく ) ( ) をかき上げながら顔じゅうを 蠱惑的 ( こわくてき ) なほほえみにして 挨拶 ( あいさつ ) した。田川博士の ( ほお ) にはいち早くそれに応ずる物やさしい表情が浮かぼうとしていた。

 「あなたはずいぶんな乱暴をなさる ( かた ) ですのね」

 いきなり震えを帯びた冷ややかな言葉が田川夫人から葉子に容赦もなく投げつけられた。それは底意地の悪い 挑戦的 ( ちょうせんてき ) な調子で震えていた。田川 博士 ( はかせ ) はこのとっさの気まずい場面を繕うため何か言葉を入れてその不愉快な緊張をゆるめようとするらしかったが、夫人の悪意はせき立って募るばかりだった。しかし夫人は口に出してはもうなんにもいわなかった。

 女の間に起こる不思議な心と心との交渉から、葉子はなんという事なく、事務長と自分との間にけさ起こったばかりの出来事を、輪郭だけではあるとしても田川夫人が感づいているなと直覚した。ただ 一言 ( ひとこと ) ではあったけれども、それは検疫官とトランプをいじった事を責めるだけにしては、激し過ぎ、悪意がこめられ過ぎていることを直覚した。今の激しい言葉は、その事を深く根に持ちながら、検疫医に対する不謹慎な態度をたしなめる言葉のようにして使われているのを直覚した。葉子の心のすみからすみまでを、 溜飲 ( りゅういん ) の下がるような小気味よさが小おどりしつつ ( ) せめぐった。葉子は何をそんなに事々しくたしなめられる事があるのだろうというような少ししゃあ[#「しゃあ」に傍点]しゃあした無邪気な顔つきで、首をかしげながら夫人を見守った。

 「航海中はとにかくわたし葉子さんのお世話をお頼まれ申しているんですからね」

 初めはしとやかに落ち付いていうつもりらしかったが、それがだんだん激して途切れがちな言葉になって、夫人はしまいには激動から 息気 ( いき ) をさえはずましていた。その瞬間に火のような夫人のひとみと、皮肉に落ち付き払った葉子のひとみとが、ぱったり出っくわして小ぜり合いをしたが、また同時に 蹴返 ( けかえ ) すように離れて事務長のほうに振り向けられた。

 「ごもっともです」

 事務長は ( あぶ ) に当惑した ( くま ) のような顔つきで、 ( がら ) にもない謹慎を装いながらこう受け答えた。それから突然本気な表情に返って、

 「わたしも事務長であって見れば、どのお客様に対しても責任があるのだで、御迷惑になるような事はせんつもりですが」

 ここで彼は急に仮面を取り去ったようににこにこし出した。

 「そうむきになるほどの事でもないじゃありませんか。たかが 早月 ( さつき ) さんに一度か二度 愛嬌 ( あいきょう ) をいうていただいて、それで検疫の時間が二時間から違うのですもの。いつでもここで四時間の以上もむだにせにゃならんのですて」

 田川夫人がますますせき込んで、 矢継 ( やつ ) ( ばや ) にまくしかけようとするのを、事務長は事もなげに軽々とおっかぶせて、

 「それにしてからがお話はいかがです、 部屋 ( へや ) で伺いましょうか。ほかのお客様の手前もいかがです。 博士 ( はかせ ) 、例のとおり狭っこい所ですが、 甲板 ( かんぱん ) ではゆっくりもできませんで、あそこでお茶でも入れましょう。早月さんあなたもいかがです」

 と笑い笑い言ってからくるりッ[#「くるりッ」に傍点]と葉子のほうに向き直って、田川夫妻には気が付かないように 頓狂 ( とんきょう ) な顔をちょっとして見せた。

 横浜で倉地のあとに続いて船室への 階子段 ( はしごだん ) を下る時始めて ( ) ぎ覚えたウイスキーと葉巻とのまじり合ったような甘たるい一種の ( にお ) いが、この時かすかに葉子の鼻をかすめたと思った。それをかぐと葉子の情熱のほむらが一時にあおり立てられて、人前では考えられもせぬような思いが、 旋風 ( つむじかぜ ) のごとく頭の中をこそいで通るのを覚えた。男にはそれがどんな印象を与えたかを顧みる暇もなく、田川夫妻の前ということもはばからずに、自分では醜いに違いないと思うような微笑が、覚えず葉子の ( まゆ ) の間に浮かび上がった。事務長は小むずかしい顔になって振り返りながら、

 「いかがです」ともう一度田川夫妻を促した。しかし田川博士は自分の妻のおとなげないのをあわれむ物わかりのいい紳士という態度を見せて、 ( てい ) よく事務長にことわりをいって、夫人と一緒にそこを立ち去った。

 「ちょっといらっしゃい」

 田川夫妻の姿が見えなくなると、事務長はろくろく葉子を見むきもしないでこういいながら先に立った。葉子は小娘のようにいそいそとそのあとについて、薄暗い 階子段 ( はしごだん ) にかかると男におぶいかかるようにしてこぜわしく降りて行った。そして機関室と船員室との間にある例の暗い廊下を通って、事務長が自分の部屋の戸をあけた時、ぱっ[#「ぱっ」に傍点]と明るくなった白い光の中に、nonchalant な diabolic な男の姿を今さらのように一種の ( おそ ) れとなつかしさとをこめて打ちながめた。

 部屋にはいると事務長は、田川夫人の言葉でも思い出したらしくめんどうくさそうに 吐息 ( といき ) 一つして、帳簿を事務テーブルの上にほうりなげておいて、また戸から頭だけつき出して、「ボーイ」と大きな声で呼び立てた。そして戸をしめきると、始めてまとも[#「まとも」に傍点]に葉子に向きなおった。そして腹をゆすり上げて続けさまに思い存分笑ってから、

 「え」と大きな声で、半分は物でも尋ねるように、半分は「どうだい」といったような調子でいって、足を開いて akimbo をして突っ立ちながら、ちょいと無邪気に首をかしげて見せた。

 そこにボーイが戸の後ろから顔だけ出した。

 「シャンペンだ。船長の所にバーから持って ( ) さしたのが、二三本残ってるよ。十の字三つぞ(大至急という軍隊用語)。……何がおかしいかい」

 事務長は葉子のほうを向いたままこういったのであるが、実際その時ボーイは意味ありげににやにや[#「にやにや」に傍点]薄笑いをしていた。

 あまりに事もなげな倉地の様子を見ていると葉子は自分の心の ( せつ ) なさに比べて、男の心を恨めしいものに思わずにいられなくなった。けさの記憶のまだ 生々 ( なまなま ) しい 部屋 ( へや ) の中を見るにつけても、激しく ( たか ) ぶって来る情熱が妙にこじれて、いても立ってもいられないもどかしさが苦しく胸に ( せま ) るのだった。今まではまるきり眼中になかった田川夫人も、三等の女客の中で、処女とも妻ともつかぬ 二人 ( ふたり ) の二十女も、果ては事務長にまつわりつくあの小娘のような岡までが、写真で見た事務長の細君と一緒になって、苦しい敵意を葉子の心にあおり立てた。ボーイにまで笑いものにされて、男の皮を着たこの好色の野獣のなぶりものにされているのではないか。自分の身も心もただ一息にひしぎつぶすかと見えるあの恐ろしい力は、自分を征服すると共にすべての女に対しても同じ力で働くのではないか。そのたくさんの女の中の影の薄い 一人 ( ひとり ) の女として彼は自分を扱っているのではないか。自分には何物にも代え ( がた ) く思われるけさの出来事があったあとでも、ああ平気でいられるそののんきさはどうしたものだろう。葉子は物心がついてから始終自分でも言い現わす事のできない何物かを ( ) い求めていた。その何物かは葉子のすぐ手近にありながら、しっかり[#「しっかり」に傍点]とつかむ事はどうしてもできず、そのくせいつでもその力の下に 傀儡 ( かいらい ) のようにあてもなく動かされていた。葉子はけさの出来事以来なんとなく思いあがっていたのだ。それはその何物かがおぼろげながら形を取って手に触れたように思ったからだ。しかしそれも今から思えば幻影に過ぎないらしくもある。自分に特別な注意も払っていなかったこの男の出来心に対して、こっちから進んで情をそそるような事をした自分はなんという事をしたのだろう。どうしたらこの取り返しのつかない自分の破滅を救う事ができるのだろうと思って来ると、一秒でもこのいまわしい記憶のさまよう部屋の中にはいたたまれないように思え出した。しかし同時に事務長は断ちがたい執着となって葉子の胸の底にこびりついていた。この部屋をこのままで出て行くのは死ぬよりもつらい事だった。どうしてもはっきり[#「はっきり」に傍点]と事務長の心を握るまでは……葉子は自分の心の矛盾に ( ごう ) を煮やしながら、自分をさげすみ果てたような絶望的な怒りの色を口びるのあたりに宿して、黙ったまま 陰鬱 ( いんうつ ) に立っていた。今までそわそわと 小魔 ( しょうま ) のように葉子の心をめぐりおどっていたはなやかな喜び――それはどこに行ってしまったのだろう。

 事務長はそれに気づいたのか気がつかないのか、やがてよりかかりのないまるい事務いすに ( しり ) をすえて、子供のような罪のない顔をしながら、葉子を見て軽く笑っていた。葉子はその顔を見て、恐ろしい大胆な悪事を 赤児 ( あかご ) 同様の無邪気さで犯しうる ( たち ) の男だと思った。葉子はこんな無自覚な状態にはとてもなっていられなかった。一足ずつ ( さき ) を越されているのかしらんという不安までが心の平衡をさらに狂わした。

 「田川博士は 馬鹿 ( ばか ) ばかで、田川の奥さんは利口ばかというんだ。はゝゝゝゝ」

 そういって笑って、事務長は ( ひざ ) がしらをはっし[#「はっし」に傍点]と打った手をかえして、机の上にある葉巻をつまんだ。

 葉子は笑うよりも腹だたしく、腹だたしいよりも泣きたいくらいになっていた。口びるをぶるぶると震わしながら涙でもたまったように輝く目は ( けん ) を持って、恨みをこめて事務長を見入ったが、事務長は 無頓着 ( むとんじゃく ) に下を向いたまま、一心に葉巻に火をつけている。葉子は胸に ( おさ ) えあまる恨みつらみをいい出すには、心があまりに震えて ( のど ) がかわききっているので、下くちびるをかみしめたまま黙っていた。

 倉地はそれを感づいているのだのにと葉子は置きざりにされたようなやり所のないさびしさを感じていた。

 ボーイがシャンペンとコップとを持ってはいって来た。そして丁寧にそれを事務テーブルの上に置いて、さっきのように意味ありげな微笑をもらしながら、そっ[#「そっ」に傍点]と葉子をぬすみ見た。待ち構えていた葉子の目はしかしボーイを笑わしてはおかなかった。ボーイはぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として飛んでもない事をしたというふうに、すぐ慎み深い 給仕 ( きゅうじ ) らしく、そこそこに 部屋 ( へや ) を出て行った。

 事務長は葉巻の煙に顔をしかめながら、シャンペンをついで盆を葉子のほうにさし出した。葉子は黙って立ったまま手を延ばした。何をするにも心にもない作り事をしているようだった。この短い瞬間に、今までの出来事でいいかげん乱れていた心は、身の破滅がとうとう来てしまったのだというおそろしい予想に押しひしがれて、頭は氷で巻かれたように冷たく ( ) うとくなった。胸から ( のど ) もとにつきあげて来る冷たいそして熱い ( たま ) のようなものを 雄々 ( おお ) しく飲み込んでも飲み込んでも涙がややともすると目がしらを熱くうるおして来た。 薄手 ( うすで ) のコップに ( あわ ) を立てて盛られた 黄金色 ( こがねいろ ) の酒は葉子の手の中で細かいさざ波を立てた。葉子はそれを 気取 ( けど ) られまいと、しいて左の手を軽くあげて ( びん ) の毛をかき上げながら、コップを事務長のと打ち合わせたが、それをきっかけ[#「きっかけ」に傍点]に ( がん ) でもほどけたように今までからく持ちこたえていた自制は根こそぎくずされてしまった。

 事務長がコップを器用に口びるにあてて、仰向きかげんに飲みほす間、葉子は杯を手にもったまま、ぐびりぐびりと動く男の ( のど ) を見つめていたが、いきなり自分の杯を飲まないまま盆の上にかえして、

 「よくもあなたはそんなに平気でいらっしゃるのね」

 と力をこめるつもりでいったその声はいくじなくも泣かんばかりに震えていた。そして ( せき ) を切ったように涙が流れ出ようとするのを糸切り歯でかみきるばかりにしいてくいとめた。

 事務長は驚いたらしかった。目を大きくして何かいおうとするうちに、葉子の舌は自分でも思い設けなかった情熱を帯びて震えながら動いていた。

 「知っています。知っていますとも……。あなたはほんとに……ひどい ( かた ) ですのね。わたしなんにも知らないと思ってらっしゃるのね。えゝ、わたしは存じません、存じません、ほんとに……」

 何をいうつもりなのか自分でもわからなかった。ただ激しい 嫉妬 ( しっと ) が頭をぐらぐらさせるばかりに ( こう ) じて来るのを知っていた。男がある機会には手傷も負わないで自分から離れて行く……そういういまいましい予想で取り乱されていた。葉子は生来こんなみじめなまっ暗な思いに捕えられた事がなかった。それは生命が見す見す自分から離れて行くのを見守るほどみじめでまっ暗だった。この人を自分から離れさすくらいなら殺してみせる、そう葉子はとっさに思いつめてみたりした。

 葉子はもう我慢にもそこに立っていられなくなった。事務長に倒れかかりたい衝動をしいてじっとこらえながら、きれいに整えられた寝台にようやく腰をおろした。美妙な曲線を長く描いてのどかに開いた 眉根 ( まゆね ) は痛ましく 眉間 ( みけん ) に集まって、急にやせたかと思うほど細った鼻筋は恐ろしく感傷的な痛々しさをその顔に与えた。いつになく若々しく装った服装までが、皮肉な反語のように 小股 ( こまた ) の切れあがったやせ ( がた ) なその肉を痛ましく ( しいた ) げた。長い ( そで ) の下で両手の指を折れよとばかり組み合わせて、何もかも裂いて捨てたいヒステリックな衝動を懸命に ( おさ ) えながら、葉子は ( つば ) も飲みこめないほど狂おしくなってしまっていた。

 事務長は偶然に不思議を見つけた子供のような好奇なあきれた顔つきをして、葉子の姿を見やっていたが、片方のスリッパを脱ぎ落としたその 白足袋 ( しろたび ) の足もとから、やや乱れた 束髪 ( そくはつ ) までをしげしげと見上げながら、

 「どうしたんです」

 といぶかるごとく聞いた。葉子はひったくるようにさそく[#「さそく」に傍点]に返事をしようとしたけれども、どうしてもそれができなかった。倉地はその様子を見ると今度はまじめになった。そして口の ( はた ) まで持って行った葉巻をそのままトレイの上に置いて立ち上がりながら、

 「どうしたんです」

 ともう一度聞きなおした。それと同時に、葉子も思いきり冷酷に、

 「どうもしやしません」

 という事ができた。 二人 ( ふたり ) の言葉がもつれ返ったように、二人の不思議な感情ももつれ合った。もうこんな所にはいない、葉子はこの上の圧迫には ( ) えられなくなって、はなやかな ( すそ ) 蹴乱 ( けみだ ) しながらまっしぐらに戸口のほうに走り出ようとした。事務長はその瞬間に葉子のなよやかな肩をさえぎりとめた。葉子はさえぎられて是非なく事務テーブルのそばに立ちすくんだが、誇りも恥も弱さも忘れてしまっていた。どうにでもなれ、殺すか死ぬかするのだ、そんな事を思うばかりだった。こらえにこらえていた涙を流れるに任せながら、事務長の大きな手を肩に感じたままで、しゃくり上げて恨めしそうに立っていたが、手近に飾ってある事務長の家族の写真を見ると、かっと気がのぼせて前後のわきまえもなく、それを引ったくるとともに両手にあらん限りの力をこめて、人殺しでもするような気負いでずた[#「ずた」に傍点]ずたに引き裂いた。そしてもみくたになった写真の ( くず ) を男の胸も ( とお ) れと投げつけると、写真のあたったその所にかみつきもしかねまじき狂乱の姿となって、捨て身に武者ぶりついた。事務長は思わず身を 退 ( ) いて両手を伸ばして走りよる葉子をせき止めようとしたが、葉子はわれにもなく 我武者 ( がむしゃ ) にすり入って、男の胸に顔を伏せた。そして両手で肩の服地を ( つめ ) も立てよとつかみながら、しばらく歯をくいしばって震えているうちに、それがだんだんすすり泣きに変わって行って、しまいににはさめざめと声を立てて泣きはじめた。そしてしばらくは葉子の絶望的な泣き声ばかりが 部屋 ( へや ) の中の静かさをかき乱して響いていた。

 突然葉子は倉地の手を自分の背中に感じて、電気にでも触れたように驚いて飛びのいた。倉地に泣きながらすがりついた葉子が倉地からどんなものを受け取らねばならぬかは知れきっていたのに、優しい言葉でもかけてもらえるかのごとく振る舞った自分の矛盾にあきれて、恐ろしさに両手で顔をおおいながら部屋のすみに 退 ( さが ) って行った。倉地はすぐ近寄って来た。葉子は ( ねこ ) に見込まれたカナリヤのように身もだえしながら部屋の中を逃げにかかったが、事務長は手もなく追いすがって、葉子の二の腕を捕えて力まかせに引き寄せた。葉子も本気にあらん限りの力を出してさからった。しかしその時の倉地はもうふだんの倉地ではなくなっていた。けさ写真を見ていた時、後ろから葉子を抱きしめたその倉地が目ざめていた。 ( おこ ) った野獣に見る狂暴な、防ぎようのない力があらしのように男の五体をさいなむらしく、倉地はその力の下にうめきもがきながら、葉子にまっしぐらにつかみかかった。

 「またおれをばかにしやがるな」

 という言葉がくいしばった歯の間から雷のように葉子の耳を打った。

 あゝこの言葉――このむき出しな 有頂点 ( うちょうてん ) な興奮した言葉こそ葉子が男の口から確かに聞こうと待ち設けた言葉だったのだ。葉子は乱暴な抱擁の中にそれを聞くとともに、心のすみに軽い余裕のできたのを感じて自分というものがどこかのすみに頭をもたげかけたのを覚えた。倉地の取った態度に対して作為のある応対ができそうにさえなった。葉子は前どおりすすり泣きを続けてはいたが、その涙の中にはもう偽りのしずくすらまじっていた。

 「いやです放して」

 こういった言葉も葉子にはどこか戯曲的な不自然な言葉だった。しかし倉地は反対に葉子の一語一語に酔いしれて見えた。

 「だれが離すか」

 事務長の言葉はみじめにもかすれおののいていた。葉子はどんどん失った所を取り返して行くように思った。そのくせその態度は反対にますますたよりなげなやる瀬ないものになっていた。倉地の広い胸と太い腕との間に ( ) がいに抱きしめられながら、小鳥のようにぶるぶると震えて、

 「ほんとうに離してくださいまし」

 「いやだよ」

 葉子は倉地の 接吻 ( せっぷん ) を右に左によけながら、さらに激しくすすり泣いた。倉地は致命傷を受けた ( けもの ) のようにうめいた。その腕には悪魔のような血の流れるのが葉子にも感ぜられた。葉子は ( ほど ) を見計らっていた。そして男の張りつめた情欲の糸が絶ち切れんばかりに緊張した時、葉子はふと泣きやんできっ[#「きっ」に傍点]と倉地の顔を振り仰いだ。その目からは倉地が思いもかけなかった鋭い強い光が放たれていた。

 「ほんとうに放していただきます」

 ときっぱり[#「きっぱり」に傍点]いって、葉子は機敏にちょっとゆるんだ倉地の手をすりぬけた。そしていち早く 部屋 ( へや ) を横筋かいに戸口まで逃げのびて、ハンドルに手をかけながら、

 「あなたはけさこの戸に ( かぎ ) をおかけになって、……それは 手籠 ( てご ) めです……わたし……」

 といって少し情に激してうつむいてまた何かいい続けようとするらしかったが、突然戸をあけて出て行ってしまった。

 取り残された倉地はあきれてしばらく立っているようだったが、やがて英語で乱暴な 呪詛 ( じゅそ ) を口走りながら、いきなり部屋を出て葉子のあとを追って来た。そしてまもなく葉子の部屋の所に来てノックした。葉子は鍵をかけたまま黙って答えないでいた。事務長はなお二三度ノックを続けていたが、いきなり何か大声で物をいいながら船医の興録の部屋にはいるのが聞こえた。

 葉子は興録が事務長のさしがね[#「さしがね」に傍点]でなんとかいいに来るだろうとひそかに心待ちにしていた。ところがなんともいって来ないばかりか、船医室からは時々あたりをはばからない高笑いさえ聞こえて、事務長は容易にその 部屋 ( へや ) を出て行きそうな 気配 ( けはい ) もなかった。葉子は興奮に燃え立ついらいらした心でそこにいる事務長の姿をいろいろ想像していた。ほかの事は一つも頭の中にははいって来なかった。そしてつくづく自分の心の変わりかたの激しさに驚かずにはいられなかった。「定子! 定子!」葉子は隣にいる人を呼び出すような気で小さな声を出してみた。その最愛の名を声にまで出してみても、その響きの中には忘れていた夢を思い出したほどの 反応 ( こたえ ) もなかった。どうすれば人の心というものはこんなにまで変わり果てるものだろう。葉子は定子をあわれむよりも、自分の心をあわれむために涙ぐんでしまった。そしてなんの気なしに小卓の前に腰をかけて、大切なものの中にしまっておいた、そのころ日本では珍しいファウンテン・ペンを取り出して、筆の動くままにそこにあった紙きれに字を書いてみた。

[#ここより引用文、本文より一字下げ]

 「女の弱き心につけ入りたもうはあまりに ( むご ) きお心とただ恨めしく存じ参らせ ( そろ ) ( わらわ ) の運命はこの船に結ばれたる ( ) しきえにしや ( そうら ) いけん心がらとは申せ今は過去のすべて未来のすべてを打ち捨ててただ目の前の恥ずかしき思いに漂うばかりなる根なし草の身となり果て参らせ候を事もなげに見やりたもうが恨めしく恨めしく死」

[#引用文ここまで]

 となんのくふうもなく、よく意味もわからないで 一瀉千里 ( いっしゃせんり ) に書き流して来たが、「死」という字に来ると、葉子はペンも折れよといらいらしくその上を塗り消した。思いのままを事務長にいってやるのは、思い存分自分をもてあそべといってやるのと同じ事だった。葉子は怒りに任せて余白を乱暴にいたずら書きでよごしていた。

 と、突然船医の部屋から高々と倉地の笑い声が聞こえて来た。葉子はわれにもなく ( つむり ) を上げて、しばらく聞き耳を立ててから、そっ[#「そっ」に傍点]と戸口に歩み寄ったが、あとはそれなりまた静かになった。

 葉子は恥ずかしげに座に ( もど ) った。そして紙の上に思い出すままに勝手な字を書いたり、形の知れない形を書いてみたりしながら、ずきん[#「ずきん」に傍点]ずきんと痛む頭をぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と ( ひじ ) をついた片手で押えてなんという事もなく考えつづけた。

 念が届けば木村にも定子にもなんの用があろう。倉地の心さえつかめばあとは自分の 意地 ( いじ ) 一つだ。そうだ。念が届かなければ……念が届かなければ……届かなければあらゆるものに用がなくなるのだ。そうしたら美しく死のうねえ。……どうして……私はどうして……けれども……葉子はいつのまにか純粋に感傷的になっていた。自分にもこんなおぼこ[#「おぼこ」に傍点]な思いが潜んでいたかと思うと、抱いてなでさすってやりたいほど自分がかわゆくもあった。そして木部と別れて以来絶えて味わわなかったこの甘い情緒に自分からほだされおぼれて、 心中 ( しんじゅう ) でもする人のような、恋に身をまかせる心安さにひたりながら小机に突っ伏してしまった。

 やがて酔いつぶれた人のように ( つむり ) をもたげた時は、とうに日がかげって部屋の中にははなやかに電燈がともっていた。

 いきなり船医の部屋の戸が乱暴に開かれる音がした。葉子ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。その時葉子の部屋の戸にどたり[#「どたり」に傍点]と突きあたった人の気配がして、「 早月 ( さつき ) さん」と濁って塩がれた事務長の声がした。葉子は身のすくむような衝動を受けて、思わず立ち上がってたじろぎながら部屋のすみに逃げかくれた。そしてからだじゅうを耳のようにしていた。

 「 早月 ( さつき ) さんお願いだ。ちょっとあけてください」

 葉子は手早く小机の上の紙を ( くず ) かごになげすてて、ファウンテン・ペンを物陰にほうりこんだ。そしてせかせかとあたりを見回したが、あわてながら 眼窓 ( めまど ) のカーテンをしめきった。そしてまた立ちすくんだ、自分の心の恐ろしさにまどいながら。

 外部では ( にぎ ) ( こぶし ) で続けさまに戸をたたいている。葉子はそわそわと 裾前 ( すそまえ ) をかき合わせて、肩越しに鏡を見やりながら涙をふいて ( まゆ ) をなでつけた。

 「早月さん!![#「!!」は横一列]」

 葉子はややしばしとつおいつ[#「とつおいつ」に傍点] 躊躇 ( ちゅうちょ ) していたが、とうとう決心して、何かあわてくさって、 ( かぎ ) をがちがち[#「がちがち」に傍点]やりながら戸をあけた。

 事務長はひどく酔ってはいって来た。どんなに飲んでも顔色もかえないほどの 強酒 ( ごうしゅ ) な倉地が、こんなに酔うのは珍しい事だった。締めきった戸に 仁王立 ( におうだ ) ちによりかかって、冷然とした様子で離れて立つ葉子をまじまじと見すえながら、

 「葉子さん、葉子さんが悪ければ早月さんだ。早月さん……僕のする事はするだけの覚悟があってするんですよ。僕はね、横浜以来あなたに ( ) れていたんだ。それがわからないあなたじゃないでしょう。暴力? 暴力がなんだ。暴力は愚かなこった。殺したくなれば殺しても進んぜるよ」

 葉子はその最後の言葉を聞くと 瞑眩 ( めまい ) を感ずるほど有頂天になった。

 「あなたに木村さんというのが付いてるくらいは、横浜の支店長から聞かされとるんだが、どんな人だか僕はもちろん知りませんさ。知らんが僕のほうがあなたに 深惚 ( ふかぼ ) れしとる事だけは、この胸三寸でちゃん[#「ちゃん」に傍点]と知っとるんだ。それ、それがわからん? 僕は恥も何もさらけ出していっとるんですよ。これでもわからんですか」

 葉子は目をかがやかしながら、その言葉をむさぼった。かみしめた。そしてのみ込んだ。

 こうして葉子に取って運命的な一日は過ぎた。