University of Virginia Library

    四五

 この事があった日から五日たったけれども倉地はぱったり[#「ぱったり」に傍点]来なくなった。たよりもよこさなかった。金も送っては来なかった。あまりに変なので岡に頼んで下宿のほうを調べてもらうと三日前に荷物の大部分を持って旅行に出るといって姿を隠してしまったのだそうだ。倉地がいなくなると刑事だという男が二度か三度いろいろな事を尋ねに来たともいっているそうだ。岡は倉地からの一通の手紙を持って帰って来た。葉子はすぐに封を開いて見た。

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 「 ( こと ) 重大となり姿を隠す。郵便では ( るい ) を及ぼさん事を恐れ、これを主人に託しおく。金も当分は送れぬ。困ったら家財道具を売れ。そのうちにはなんとかする。読後火中」

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 とだけしたためて葉子へのあて名も自分の名も書いてはなかった。倉地の手跡には間違いない。しかしあの 発作 ( ほっさ ) 以後ますますヒステリックに 根性 ( こんじょう ) のひねくれてしまった葉子は、手紙を読んだ瞬間にこれは造り事だと思い込まないではいられなかった。とうとう倉地も自分の手からのがれてしまった。やる瀬ない恨みと憤りが目もくらむほどに頭の中を ( ) き乱した。

 岡と愛子とがすっかり[#「すっかり」に傍点]打ち解けたようになって、岡がほとんど入りびたりに病院に来て貞世の介抱をするのが葉子には見ていられなくなって来た。

 「岡さん、もうあなたこれからここにはいらっしゃらないでくださいまし。こんな事になると御迷惑があなたにかからないとも限りませんから。わたしたちの事はわたしたちがしますから。わたしはもう他人にたよりたくはなくなりました」

 「そうおっしゃらずにどうかわたしをあなたのおそばに置かしてください。わたし、決して伝染なぞを恐れはしません」

 岡は倉地の手紙を読んではいないのに葉子は気がついた。迷惑といったのを病気の伝染と思い込んでいるらしい。そうじゃない。岡が倉地の犬でないとどうしていえよう。倉地が岡を通して愛子と 慇懃 ( いんぎん ) ( かよ ) わし合っていないとだれが断言できる。愛子は岡をたらし込むぐらいは平気でする娘だ。葉子は自分の愛子ぐらいの年ごろの時の自分の経験の一々が生き返ってその 猜疑心 ( さいぎしん ) をあおり立てるのに自分から苦しまねばならなかった。あの年ごろの時、思いさえすれば自分にはそれほどの事は手もなくしてのける事ができた。そして自分は愛子よりももっと[#「もっと」に傍点]無邪気な、おまけに快活な少女であり得た。寄ってたかって自分をだましにかかるのなら、自分にだってして見せる事がある。

 「そんなにお考えならおいでくださるのはお勝手ですが、愛子をあなたにさし上げる事はできないんですからそれは御承知くださいましよ。ちゃん[#「ちゃん」に傍点]と申し上げておかないとあとになっていさくさ[#「いさくさ」に傍点]が起こるのはいやですから……愛さんお前も聞いているだろうね」

 そういって葉子は畳の上で貞世の胸にあてる 湿布 ( しっぷ ) を縫っている愛子のほうにも振り向いた。うなだれた愛子は顔も上げず返事もしなかったから、どんな様子を顔に見せたかを知る由はなかったが、岡は 羞恥 ( しゅうち ) のために葉子を見かえる事もできないくらいになっていた。それはしかし岡が葉子のあまりといえば 露骨 ( ろこつ ) な言葉を恥じたのか、自分の心持ちをあばかれたのを恥じたのか葉子の迷いやすくなった心にはしっかり[#「しっかり」に傍点]と見窮められなかった。

 これにつけかれにつけもどかしい事ばかりだった。葉子は自分の目で 二人 ( ふたり ) を看視して同時に倉地を間接に看視するよりほかはないと思った。こんな事を思うすぐそばから葉子は倉地の 細君 ( さいくん ) の事も思った。今ごろは彼らはのう[#「のう」に傍点]のうとして邪魔者がいなくなったのを喜びながら一つ家に住んでいないとも限らないのだ。それとも倉地の事だ、第二第三の葉子が葉子の不幸をいい事にして倉地のそばに現われているのかもしれない。……しかし今の場合倉地の行くえを尋ねあてる事はちょっとむずかしい。

 それからというもの葉子の心は一秒の間も休まらなかった。もちろん今まででも葉子は人一倍心の働く女だったけれども、そのころのような激しさはかつてなかった。しかもそれがいつも表から裏を行く働きかただった。それは自分ながら全く 地獄 ( じごく ) 苛責 ( かしゃく ) だった。

 そのころから葉子はしばしば自殺という事を深く考えるようになった。それは自分でも恐ろしいほどだった。肉体の生命を ( ) つ事のできるような物さえ目に触れれば、葉子の心はおびえながらもはっ[#「はっ」に傍点]と高鳴った。薬局の前を通るとずらっ[#「ずらっ」に傍点]とならんだ薬びんが誘惑のように目を射た。看護婦が帽子を髪にとめるための長い帽子ピン、天井の張ってない 湯殿 ( ゆどの ) ( はり ) 、看護婦室に薄赤い色をして ( かな ) だらいにたたえられた 昇汞水 ( しょうこうすい ) 、腐敗した牛乳、 剃刀 ( かみそり ) ( はさみ ) 、夜ふけなどに 上野 ( うえの ) のほうから聞こえて来る汽車の音、病室からながめられる生理学教室の三階の窓、密閉された 部屋 ( へや ) 、しごき帯、……なんでもかでもが自分の肉を ( ) 毒蛇 ( どくじゃ ) のごとく 鎌首 ( かまくび ) を立てて自分を待ち伏せしているように思えた。ある時はそれらをこの上なく恐ろしく、ある時はまたこの上なく親しみ深くながめやった。一匹の蚊にさされた時さえそれがマラリヤを伝える種類であるかないかを疑ったりした。

 「もう自分はこの世の中に何の用があろう。死にさえすればそれで事は済むのだ。この上自身も苦しみたくない。他人も苦しめたくない。いやだいやだと思いながら自分と他人とを苦しめているのが ( ) えられない。眠りだ。長い眠りだ。それだけのものだ」

 と貞世の寝息をうかがいながらしっかり[#「しっかり」に傍点]思い込むような時もあったが、同時に倉地がどこかで生きているのを考えると、たちまち 燕返 ( つばめがえ ) しに死から生のほうへ、苦しい 煩悩 ( ぼんのう ) の生のほうへ激しく執着して行った。倉地の生きてる間に死んでなるものか……それは死よりも強い誘惑だった。 意地 ( いじ ) にかけても、肉体のすべての機関がめちゃめちゃになっても、それでも生きていて見せる。……葉子はそしてそのどちらにもほんとうの決心のつかない自分にまた苦しまねばならなかった。

 すべてのものを愛しているのか憎んでいるのかわからなかった。貞世に対してですらそうだった。葉子はどうかすると、熱に浮かされて見さかいのなくなっている貞世を、 継母 ( ままはは ) がまま子をいびり抜くように 没義道 ( もぎどう ) に取り扱った。そして次の瞬間には後悔しきって、愛子の前でも看護婦の前でも構わずにおいおいと泣きくずおれた。

 貞世の病状は悪くなるばかりだった。

 ある時伝染病室の医長が来て、葉子が今のままでいてはとても健康が続かないから、思いきって手術をしたらどうだと勧告した。黙って聞いていた葉子は、すぐ岡の差し入れ口だと邪推して取った。その後ろには愛子がいるに違いない。葉子が付いていたのでは貞世の病気はなおるどころか悪くなるばかりだ(それは葉子もそう思っていた。葉子は貞世を全快させてやりたいのだ。けれどもどうしてもいびらなければいられないのだ。それはよく葉子自身が知っていると思っていた)。それには葉子をなんとかして貞世から離しておくのが第一だ。そんな相談を医長としたものがいないはずがない。ふむ、……うまい事を考えたものだ。その 復讐 ( ふくしゅう ) はきっとしてやる。根本的に病気をなおしてからしてやるから見ているがいい。葉子は医長との対話の中に早くもこう決心した。そうして思いのほか手っ取り早く手術を受けようと進んで返答した。

 婦人科の ( へや ) は伝染病室とはずっと離れた所に近ごろ新築された建て物の中にあった。七月のなかばに葉子はそこに入院する事になったが、その前に岡と古藤とに依頼して、自分の身ぢかにある貴重品から、倉地の下宿に運んである衣類までを処分してもらわなければならなかった。金の出所は全くとだえてしまっていたから。岡がしきりと 融通 ( ゆうずう ) しようと申し出たのもすげなく断わった。弟同様の少年から金まで融通してもらうのはどうしても葉子のプライドが承知しなかった。

 葉子は特等を選んで日当たりのいい広々とした 部屋 ( へや ) にはいった。そこは伝染病室とは比べものにもならないくらい新式の設備の整った 居心地 ( いごこち ) のいい所だった。窓の前の庭はまだ掘りくり返したままで赤土の上に草も ( ) えていなかったけれども、広い廊下の冷ややかな空気は涼しく病室に通りぬけた。葉子は六月の末以来始めて寝床の上に安々とからだを横たえた。疲労が回復するまでしばらくの ( あいだ ) 手術は見合わせるというので葉子は毎日一度ずつ内診をしてもらうだけでする事もなく日を過ごした。

 しかし葉子の精神は興奮するばかりだった。 一人 ( ひとり ) になって暇になってみると、自分の心身がどれほど破壊されているかが自分ながら恐ろしいくらい感ぜられた。よくこんなありさまで今まで通して来たと驚くばかりだった。寝台の上に ( ) てみると二度と起きて歩く勇気もなく、また実際できもしなかった。ただ鈍痛とのみ思っていた痛みは、どっち[#「どっち」に傍点]に ( ) 返ってみても我慢のできないほどな激痛になっていて、気が狂うように頭は重くうずいた。我慢にも貞世を見舞うなどという事はできなかった。

 こうして ( ) ながらにも葉子は断片的にいろいろな事を考えた。自分の手もとにある金の事をまず思案してみた。倉地から受け取った金の残りと、調度類を売り払ってもらってできたまとまった金とが何もかにもこれから姉妹三人を養って行くただ一つの資本だった。その金が使い尽くされた後には今のところ、何をどうするという 目途 ( あて ) は露ほどもなかった。葉子はふだんの葉子に似合わずそれが気になり出してしかたがなかった。特等室なぞにはいり込んだ事が後悔されるばかりだった。といって今になって等級の下がった病室に移してもらうなどとは葉子としては思いもよらなかった。

 葉子はぜいたくな寝台の上に横になって、羽根 ( まくら ) 深々 ( ふかぶか ) と頭を沈めて、 氷嚢 ( ひょうのう ) を額にあてがいながら、かんかんと赤土にさしている真夏の日の光を、広々と取った窓を通してながめやった。そうして物心ついてからの自分の過去を針で ( ) み込むような頭の中でずっと見渡すように考えたどってみた。そんな過去が自分のものなのか、そう疑って見ねばならぬほどにそれははるかにもかけ隔たった事だった。父母――ことに父のなめるような 寵愛 ( ちょうあい ) ( もと ) に何一つ苦労を知らずに清い美しい童女としてすらすらと育ったあの時分がやはり自分の過去なのだろうか。木部との恋に酔いふけって、 国分寺 ( こくぶんじ ) ( くぬぎ ) の林の中で、その胸に自分の頭を託して、木部のいう一語一語を美酒のように飲みほしたあの少女はやはり自分なのだろうか。女の誇りという誇りを一身に集めたような 美貌 ( びぼう ) と才能の持ち主として、女たちからは 羨望 ( せんぼう ) ( まと ) となり、男たちからは嘆美の祭壇とされたあの青春の女性はやはりこの自分なのだろうか。誤解の中にも攻撃の中にも 昂然 ( こうぜん ) と首をもたげて、自分は今の日本に生まれて ( ) べき女ではなかったのだ。不幸にも時と所とを間違えて天上から送られた王女であるとまで自分に対する 矜誇 ( ほこり ) に満ちていた、あの 妖婉 ( ようえん ) な女性はまごうかたなく自分なのだろうか。絵島丸の中で味わい尽くしなめ尽くした歓楽と陶酔との限りは、始めて世に生まれ出た生きがいをしみじみと感じた誇りがなしばらくは今の自分と結びつけていい過去の一つなのだろうか……日はかんかんと赤土の上に照りつけていた。 油蝉 ( あぶらぜみ ) の声は御殿の池をめぐる 鬱蒼 ( うっそう ) たる木立ちのほうからしみ入るように聞こえていた。近い病室では軽病の患者が集まって、何かみだららしい雑談に笑い興じている声が聞こえて来た。それは実際なのか夢なのか。それらのすべては腹立たしい事なのか、 ( かな ) しい事なのか、笑い捨つべき事なのか、嘆き恨まねばならぬ事なのか。……喜怒哀楽のどれか一つだけでは表わし得ない、不思議に交錯した感情が、葉子の目からとめどなく涙を誘い出した。あんな世界がこんな世界に変わってしまった。そうだ貞世が生死の境にさまよっているのはまちがいようのない事実だ。自分の健康が衰え果てたのも間違いのない出来事だ。もし毎日貞世を見舞う事ができるのならばこのままここにいるのもいい。しかし自分のからだの自由さえ今はきかなくなった。手術を受ければどうせ[#「どうせ」に傍点]当分は身動きもできないのだ。岡や愛子……そこまで来ると葉子は夢の中にいる女ではなかった。まざまざとした 煩悩 ( ぼんのう ) 勃然 ( ぼつぜん ) としてその歯がみした物すごい 鎌首 ( かまくび ) をきっ[#「きっ」に傍点]ともたげるのだった。それもよし。近くいても看視のきかないのを利用したくば思うさま利用するがいい。倉地と三人で勝手な陰謀を企てるがいい。どうせ看視のきかないものなら、自分は貞世のためにどこか第二流か第三流の病院に移ろう。そしていくらでも貞世のほうを安楽にしてやろう。葉子は貞世から離れるといちずにそのあわれさが身にしみてこう思った。

 葉子はふと[#「ふと」に傍点]つやの事を思い出した。つやは看護婦になって京橋あたりの病院にいると 双鶴館 ( そうかくかん ) からいって来たのを思い出した。愛子を呼び寄せて電話でさがさせようと決心した。