University of Virginia Library

    四

 列車が川崎駅を発すると、葉子はまた 手欄 ( てすり ) によりかかりながら木部の事をいろいろと思いめぐらした。やや色づいた 田圃 ( たんぼ ) の先に松並み木が見えて、その ( あいだ ) から低く海の光る、平凡な五十三 次風 ( つぎふう ) な景色が、電柱で 句読 ( くとう ) を打ちながら、 空洞 ( うつろ ) のような葉子の目の前で閉じたり開いたりした。赤とんぼも飛びかわす時節で、その群れが、 燧石 ( ひうちいし ) から打ち出される火花のように、赤い印象を目の底に残して乱れあった。いつ見ても新開地じみて見える 神奈川 ( かながわ ) を過ぎて、汽車が横浜の停車場に近づいたころには、八時を過ぎた太陽の光が、 紅葉坂 ( もみじざか ) の桜並み木を黄色く見せるほどに暑く照らしていた。

  煤煙 ( ばいえん ) でまっ黒にすすけた 煉瓦 ( れんが ) 壁の陰に汽車が ( ) まると、中からいちばん先に出て来たのは、右手にかのオリーヴ色の包み物を持った古藤だった。葉子はパラソルを ( つえ ) に弱々しくデッキを降りて、古藤に助けられながら改札口を出たが、ゆるゆる歩いている間に乗客は ( さき ) を越してしまって、 二人 ( ふたり ) はいちばんあとになっていた。客を取りおくれた十四五人の停車場づきの車夫が、 待合部屋 ( まちあいべや ) の前にかたまりながら、やつれて見える葉子に目をつけて何かとうわさし合うのが二人の耳にもはいった。「むすめ」「らしゃめん」というような言葉さえそのはしたない言葉の中には交じっていた。開港場のがさつ[#「がさつ」に傍点]な卑しい調子は、すぐ葉子の神経にびり[#「びり」に傍点]びりと感じて来た。

 何しろ葉子は早く落ち付く所を見つけ出したかった。古藤は停車場の前方の川添いにある休憩所まで走って[#底本では「走つて」、22-18]行って見たが、帰って来るとぶり[#「ぶり」に傍点]ぶりして、駅夫あがりらしい茶店の主人は古藤の書生っぽ姿をいかにもばかにしたような断わりかたをしたといった。二人はしかたなくうるさく付きまつわる車夫を追い払いながら、潮の香の漂った濁った小さな運河を渡って、ある狭いきたない町の中ほどにある一軒の小さな旅人宿にはいって行った。横浜という所には似もつかぬような古風な 外構 ( そとがま ) えで、 美濃紙 ( みのがみ ) のくすぶり返った置き 行燈 ( あんどん ) には太い筆つきで 相模屋 ( さがみや ) と書いてあった。葉子はなんとなくその行燈に興味をひかれてしまっていた。いたずら好きなその心は、 嘉永 ( かえい ) ごろの 浦賀 ( うらが ) にでもあればありそうなこの 旅籠屋 ( はたごや ) に足を休めるのを恐ろしくおもしろく思った。店にしゃがんで、番頭と何か話しているあばずれ[#「あばずれ」に傍点]たような女中までが目にとまった。そして葉子が ( てい ) よく物を言おうとしていると、古藤がいきなり取りかまわない調子で、

 「どこか静かな 部屋 ( へや ) に案内してください」

 と 無愛想 ( ぶあいそ ) ( さき ) を越してしまった。

 「へいへい、どうぞこちらへ」

 女中は二人をまじまじと見やりながら、客の前もかまわず、番頭と目を見合わせて、さげすんだらしい笑いをもらして案内に立った。

 ぎし[#「ぎし」に傍点]ぎしと板ぎしみのするまっ黒な狭い 階子段 ( はしごだん ) を上がって、西に突き当たった六畳ほどの狭い 部屋 ( へや ) に案内して、突っ立ったままで荒っぽく二人を不思議そうに女中は見比べるのだった。油じみた 襟元 ( えりもと ) を思い出させるような、西に出窓のある薄ぎたない部屋の中を女中をひっくるめてにらみ回しながら古藤は、

 「 外部 ( そと ) よりひどい……どこか 他所 ( よそ ) にしましょうか」

 と葉子を見返った。葉子はそれには耳もかさずに、思慮深い 貴女 ( きじょ ) のような物腰で女中のほうに向いていった。

 「 隣室 ( となり ) も明いていますか……そう。夜まではどこも明いている……そう。お前さんがここの世話をしておいで?……なら ( ほか ) 部屋 ( へや ) もついでに見せておもらいしましょうかしらん」

 女中はもう葉子には 軽蔑 ( けいべつ ) の色は見せなかった。そして 心得顔 ( こころえがお ) に次の部屋との ( あい ) ( ふすま ) をあける ( あいだ ) に、葉子は手早く大きな銀貨を紙に包んで、

 「少しかげんが悪いし、またいろいろお世話になるだろうから」

 といいながら、それを女中に渡した。そしてずっ[#「ずっ」に傍点]と並んだ五つの部屋を一つ一つ見て回って、掛け軸、花びん、 団扇 ( うちわ ) さし、 小屏風 ( こびょうぶ ) 、机というようなものを、自分の好みに任せてあてがわれた部屋のとすっかり[#「すっかり」に傍点]取りかえて、すみからすみまできれいに 掃除 ( そうじ ) をさせた。そして古藤を正座に ( ) えて小ざっぱり[#「小ざっぱり」に傍点]した座ぶとんにすわると、にっこりほほえみながら、

 「これなら半日ぐらい我慢ができましょう」

 といった。

 「僕はどんな所でも平気なんですがね」

 古藤はこう答えて、葉子の微笑を追いながら安心したらしく、

 「気分はもうなおりましたね」

 と付け加えた。

 「えゝ」

 と葉子は何げなく微笑を続けようとしたが、その瞬間につと思い返して ( まゆ ) をひそめた。葉子には 仮病 ( けびょう ) を続ける必要があったのをつい忘れようとしたのだった。それで、

 「ですけれどもまだこんななんですの。こら 動悸 ( どうき ) が」

 といいながら、 地味 ( じみ ) 風通 ( ふうつう ) 単衣物 ( ひとえもの ) の中にかくれたはなやかな 襦袢 ( じゅばん ) ( そで ) をひらめかして、右手を力なげに前に出した。そしてそれと同時に呼吸をぐっ[#「ぐっ」に傍点]とつめて、心臓と ( おぼ ) しいあたりにはげしく力をこめた。古藤はすき通るように白い手くびをしばらくなで回していたが、 脈所 ( みゃくどころ ) に探りあてると急に驚いて目を見張った。

 「どうしたんです、え、ひどく不規則じゃありませんか……痛むのは頭ばかりですか」

 「いゝえ、お ( なか ) も痛みはじめたんですの」

 「どんなふうに」

 「ぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と ( きり ) ででももむように……よくこれがあるんで困ってしまうんですのよ」

 古藤は静かに葉子の手を離して、大きな目で 深々 ( ふかぶか ) と葉子をみつめた。

 「医者を呼ばなくっても我慢ができますか」

 葉子は苦しげにほほえんで見せた。

 「あなただったらきっとできないでしょうよ。……慣れっこですからこらえて見ますわ。その代わりあなた 永田 ( ながた ) さん……永田さん、ね、郵船会社の支店長の……あすこに行って船の切符の事を相談して来ていただけないでしょうか。御迷惑ですわね。それでもそんな事までお願いしちゃあ……ようござんす、わたし、車でそろそろ行きますから」

 古藤は、女というものはこれほどの健康の変調をよくもこうまで我慢をするものだというような顔をして、もちろん自分が行ってみるといい張った。

 実はその日、葉子は身のまわりの小道具や化粧品を 調 ( ととの ) えかたがた、米国行きの船の切符を買うために古藤を連れてここに来たのだった。葉子はそのころすでに米国にいるある若い学士と 許嫁 ( いいなずけ ) の間柄になっていた。新橋で車夫が若奥様と呼んだのも、この事が出入りのものの間に公然と知れわたっていたからの事だった。

 それは葉子が私生子を設けてからしばらく後の事だった。ある冬の夜、葉子の母の 親佐 ( おやさ ) が何かの用でその 良人 ( おっと ) の書斎に行こうと 階子段 ( はしごだん ) をのぼりかけると、上から小間使いがまっしぐら[#「まっしぐら」に傍点]に駆けおりて来て、危うく親佐にぶっ突かろうとしてそのそばをすりぬけながら、何か意味のわからない事を早口にいって[#底本では「いつて」、26-10]走り去った。その 島田髷 ( しまだまげ ) や帯の乱れた後ろ姿が、 嘲弄 ( ちょうろう ) の言葉のように目を打つと、親佐は口びるをかみしめたが、足音だけはしとやか[#「しとやか」に傍点]に 階子段 ( はしごだん ) を上がって、いつもに似ず書斎の戸の前に立ち止まって、しわぶきを一つして、それから規則正しく ( ) をおいて三度戸をノックした。

 こういう事があってから 五日 ( いつか ) とたたぬうちに、葉子の家庭すなわち 早月家 ( さつきけ ) は砂の上の塔のようにもろくもくずれてしまった。親佐はことに冷静な底気味わるい態度で夫婦の別居を主張した。そして日ごろの柔和に似ず、傷ついた[#底本では「傷ついに」と誤り] 牡牛 ( おうし ) のように元どおりの生活を回復しようとひしめく 良人 ( おっと ) や、中にはいっていろいろ言いなそうとした親類たちの言葉を、きっぱり[#「きっぱり」に傍点]としりぞけてしまって、良人を 釘店 ( くぎだな ) のだだっ広い住宅にたった 一人 ( ひとり ) 残したまま、葉子ともに三人の娘を連れて、親佐は 仙台 ( せんだい ) に立ちのいてしまった。木部の友人たちが葉子の不人情を怒って、木部のとめるのもきかずに、社会から葬ってしまえとひしめいているのを葉子は聞き知っていたから、ふだんならば一も二もなく父をかばって母に ( たて ) をつくべきところを、 素直 ( すなお ) に母のするとおりになって、葉子は母と共に仙台に ( うず ) もれに行った。母は母で、自分の家庭から葉子のような娘の出た事を、できるだけ 世間 ( せけん ) に知られまいとした。女子教育とか、家庭の薫陶とかいう事をおりあるごとに口にしていた親佐は、その言葉に対して虚偽という利子を払わねばならなかった。一方をもみ消すためには一方にどん[#「どん」に傍点]と火の手をあげる必要がある。 早月母子 ( さつきおやこ ) が東京を去るとまもなく、ある新聞は 早月 ( さつき ) ドクトルの女性に関するふしだら[#「ふしだら」に傍点]を書き立てて、それにつけての親佐の苦心と貞操とを 吹聴 ( ふいちょう ) したついでに、親佐が東京を去るようになったのは、熱烈な信仰から来る義憤と、愛児を父の悪感化から救おうとする母らしい努力に基づくものだ。そのために彼女はキリスト教婦人同盟の副会長という顕要な位置さえ投げすてたのだと書き添えた。

 仙台における早月親佐はしばらくの ( あいだ ) は深く沈黙を守っていたが、見る見る周囲に人を集めて 華々 ( はなばな ) しく活動をし始めた。その客間は若い信者や、慈善家や、芸術家たちのサロンとなって、そこからリバイバルや、慈善 ( いち ) や、音楽会というようなものが形を取って生まれ出た。ことに親佐が仙台支部長として働き出したキリスト教婦人同盟の運動は、その当時 野火 ( のび ) のような勢いで全国に広がり始めた赤十字社の勢力にもおさおさ劣らない程の盛況を呈した。知事令夫人も、名だたる 素封家 ( そほうか ) の奥さんたちもその集会には列席した。そして三か年の月日は早月親佐を仙台には無くてはならぬ名物の一つにしてしまった。性質が母親とどこか似すぎているためか、似たように見えて一調子違っているためか、それとも自分を慎むためであったか、はたの人にはわからなかったが、とにかく葉子はそんなはなやかな 雰囲気 ( ふんいき ) に包まれながら、不思議なほど沈黙を守って、ろくろく晴れの座などには姿を現わさないでいた。それにもかかわらず親佐の客間に吸い寄せられる若い人々の多数は葉子に吸い寄せられているのだった。葉子の控え目なしおらしい様子がいやが上にも人のうわさを引く ( たね ) となって、葉子という名は、多才で、情緒の ( こま ) やかな、美しい薄命児をだれにでも思い起こさせた。彼女の立ちすぐれた 眉目形 ( みめかたち ) 花柳 ( かりゅう ) の人たちさえうらやましがらせた。そしていろいろな風聞が、清教徒風に質素な早月の 佗住居 ( わびずまい ) の周囲を ( かすみ ) のように取り巻き始めた。

 突然小さな仙台市は雷にでも打たれたようにある朝の新聞記事に注意を向けた。それはその新聞の商売がたきである ( ) る新聞の社主であり主筆である某が、親佐と葉子との 二人 ( ふたり ) に同時に 慇懃 ( いんぎん ) を通じているという、全紙にわたった不倫きわまる記事だった。だれも意外なような顔をしながら心の中ではそれを信じようとした。

 この日髪の毛の濃い、口の大きい、色白な 一人 ( ひとり ) の青年を乗せた 人力車 ( じんりきしゃ ) が、仙台の町中を ( せわ ) しく駆け回ったのを注意した人はおそらくなかったろうが、その青年は名を 木村 ( きむら ) といって、日ごろから快活な活動好きな人として知られた男で、その熱心な奔走の結果、翌日の新聞紙の広告欄には、二段抜きで、知事令夫人以下十四五名の貴婦人の連名で 早月親佐 ( さつきおやさ ) 冤罪 ( えんざい ) ( すす ) がれる事になった。この 稀有 ( けう ) ( おお ) げさな広告がまた小さな仙台の市中をどよめき渡らした。しかし木村の熱心も口弁も葉子の名を広告の中に入れる事はできなかった。

 こんな騒ぎが持ち上がってから早月親佐の仙台における今までの声望は急に無くなってしまった。そのころちょうど東京に居残っていた早月が病気にかかって薬に親しむ身となったので、それをしお[#「しお」に傍点]に親佐は子供を連れて仙台を切り上げる事になった。

 木村はその後すぐ早月 母子 ( おやこ ) を追って東京に出て来た。そして毎日入りびたるように早月家に出入りして、ことに親佐の気に入るようになった。親佐が病気になって危篤に陥った時、木村は一生の願いとして葉子との結婚を申し出た。親佐はやはり母だった。死期を前に控えて、いちばん気にせずにいられないものは、葉子の将来だった。木村ならばあのわがままな、男を男とも思わぬ葉子に仕えるようにして行く事ができると思った。そしてキリスト教婦人同盟の会長をしている 五十川 ( いそがわ ) 女史に後事を託して死んだ。この五十川女史のまあまあというような不思議なあいまいな切り盛りで、木村は、どこか不確実ではあるが、ともかく葉子を妻としうる保障を握ったのだった。