青年
森鴎外 (Seinen) | ||
参
初めて大石を尋ねた翌日の事である。純一は居所を極めようと思って宿屋を出た。
袖浦館を見てから、下宿屋というものが厭になっているので、どこか静かな 処 ( ところ ) で小さい家を借りようと思うのである。前日には大石に袖浦館の前で別れて、上野へ行って文部省の展覧会を見て帰った。その時上野がなんとなく気に入ったので、きょうは新橋から真直に上野へ来た。
博物館の門に突き当って、根岸の方へ 行 ( ゆ ) こうか、きのう通った谷中の方へ行こうかと 暫 ( しばら ) く考えたが、大石を尋ねるに便利な処をと思っているので、足が自然に谷中の方へ向いた。美術学校の角を曲って、桜木町から天王寺の墓地へ出た。
今日も風のない 好 ( い ) い天気である。 銀杏 ( いちょう ) の落葉の散らばっている敷石を踏んで、大小種々な墓石に掘ってある、知らぬ人の名を読みながら、ぶらぶらと 初音町 ( はつねちょう ) に出た。
人通りの少い広々とした町に、生垣を結い 繞 ( めぐ ) らした小さい家の並んでいる処がある。その中の一軒の、 自然木 ( しぜんぼく ) の 門柱 ( もんばしら ) に取り附けた 柴折戸 ( しおりど ) に、貸家の札が張ってあるのが目に附いた。
純一がその門の前に立ち留まって、垣の内を覗いていると、隣の植木鉢を沢山 入口 ( いりくち ) に並べてある家から、 白髪 ( しらが ) の婆あさんが出て来て話をし掛けた。聞けば貸家になっている家は、この婆あさんの亭主で、植木屋をしていた爺いさんが、 倅 ( せがれ ) に 娵 ( よめ ) を取って家を譲るとき、新しく立てて 這入 ( はい ) った隠居所なのである。爺いさんは四年前に、倅が戦争に行っている留守に、七十幾つとかで亡くなった。それから貸家にして、油画をかく人に 借 ( か ) していたが、先月その人が京都へ越して行って、 明家 ( あきや ) になったというのである。画家は一人ものであった。食事は植木屋から運んだ。総てこの家から上がる銭は婆あさんのものになるので、 若 ( も ) し一人もののお客が附いたら、やはり前通りに食事の世話をしても 好 ( い ) いと云っている。
婆あさんの 質樸 ( しつぼく ) で、 身綺麗 ( みぎれい ) にしているのが、純一にはひどく気に入った。婆あさんの方でも、純一の大人しそうな、品の 好 ( い ) いのが、一目見て気に入ったので、「お友達があって、御一しょにお住まいになるなら、それでも宜しゅうございますが、出来ることならあなたのようなお方に、お一人で住まって 戴 ( いただ ) きたいのでございます」と云った。
「まあ、とにかく御覧なすって下さい」と云って、婆あさんは柴折戸を開けた。純一は国のお 祖母 ( ば ) あ様の腰が曲って耳の遠いのを思い出して、こんな 巌乗 ( がんじょう ) な年寄もあるものかと思いながら、一しょに這入って見た。婆あさんは建ててから十年になると云うが、住み荒したと云うような処は少しもない。この家に手入をして綺麗にするのを、婆あさんは為事にしていると云っているが、いかにもそうらしく思われる。一番 好 ( い ) い部屋は四畳半で、飛石の曲り角に 蹲 ( つくば ) いの 手水鉢 ( ちょうずばち ) が据えてある。 茶道口 ( ちゃどうぐち ) のような西側の戸の外は、鏡のように拭き入れた廊下で、六畳の間に続けてある。それに勝手が附いている。
純一は、これまで、茶室というと陰気な、厭な感じが伴うように思っていた。国の家には、旧藩時代に殿様がお 出 ( いで ) になったという茶席がある。寒くなってからも蚊がいて、気の詰まるような処であった。それにこの家は茶掛かった 拵 ( こしら ) えでありながら、いかにも 晴晴 ( はればれ ) している。 蹂口 ( にじりぐち ) のような戸口が南向になっていて、東の窓の外は狭い庭を隔てて、直ぐに広い往来になっているからであろう。
話はいつ極まるともなく極まったという工合である。 一巡 ( ひとまわり ) して来て、蹂口に据えてある、大きい 鞍馬石 ( くらまいし ) の上に立ち留まって、純一が「 午 ( ひる ) から越して来ても 好 ( い ) いのですか」と云うと、蹲の 傍 ( そば ) の 苔 ( こけ ) にまじっている、小さい草を 撮 ( つま ) んで抜いていた婆あさんが、「宜しいどころじゃあございません、この通りいつでもお住まいになるように、毎日掃除をしていますから」と云った。
隣の植木屋との間は、低い竹垣になっていて、丁度純一の立っている向うの処に、花の散ってしまった 萩 ( はぎ ) がまん 円 ( まる ) に繁っている。その傍に二度咲のダアリアの赤に黄の 雑 ( まじ ) った花が十ばかり、高く首を 擡 ( もた ) げて咲いている。その花の上に青み掛かった日の光が一ぱいに差しているのを、純一が見るともなしに見ていると、萩の茂みを離れて、ダアリアの花の間へ、幅の広いクリイム色のリボンを掛けた束髪の娘の頭がひょいと出た。大きい目で純一をじいっと見ているので、純一もじいっと見ている。
婆あさんは純一の視線を 辿 ( たど ) って娘の首を見着けて、「おやおや」と云った。
「お客さま」
答を待たない問の調子で娘は云って、にっこり笑った。そして萩の茂みに隠れてしまった。
純一は午後越して来る約束をして、忙がしそうにこの家の門を出た。植木屋の前を通るとき、ダアリアの咲いているあたりを見たが、四枚並べて敷いてある 御蔭石 ( みかげいし ) が、萩の植わっている処から右に折れ曲っていて、それより奥は見えなかった。
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