University of Virginia Library

     二十二

 箱根湯本の柏屋という温泉宿の 小座舗 ( こざしき ) に、純一が独り顔を ( しか ) めて据わっている。

 きょうは十二月三十一日なので、取引やら新年の設けやらの為めに、 ( うち ) のものは立ち騒いでいるが、客が少いから、純一のいる部屋へは、余り物音も聞えない。只早川の水の音がごうごうと鳴っているばかりである。伊藤公の書いた 七絶 ( しちぜつ ) 半折 ( はんせつ ) を掛けた床の間の前に、 革包 ( かばん ) が開けてあって、その ( そば ) に仮綴の inoctavo ( アノクタヴォ ) 版の洋書が二三冊、それから大版の 横文 ( おうぶん ) 雑誌が一冊出して開いてある。縦にペエジを二つに割って印刷して、 挿画 ( さしえ ) がしてある。これは L'Illustration Theatrale ( リルリュストラション テアトラアル )

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の来たのを、東京を立つ時、そのまま革包に入れて出たのである。

 ゆうべ東京を立って、今箱根に着いた。その足で浴室に行って、綺麗な湯を快く浴びては来たが、この旅行を ( あえ ) てした自分に対して、純一は ( すこぶ ) る不満足な感じを ( いだ ) いている。それが知らず ( ) らず顔色にあらわれているのである。

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 大村は近県旅行に立ってしまう。外に友達は無い。大都会の年の暮に、純一が寂しさに襲われたのも、無理は無いと云えば、それまでの事である。しかし純一はこれまで二日や三日人に物を言わずにいたって、本さえ読んでいれば、寂しいなんと云うことを思ったことはなかったのである。

 寂しさ。純一を駆って箱根に来させたのは、果して寂しさであろうか。 Solitude ( ソリチュウド ) であろうか。そうではない。気の毒ながらそうではない。ニイチェの 詞遣 ( ことばづかい ) で言えば、純一は einsam ( アインザアム ) なることを恐れたのではなくて、 zweisam ( ツヴァイザアム ) ならんことを願ったのである。

 それも恋愛ゆえだと云うことが出来るなら、弁護にもなるだろう。純一は坂井夫人を愛しているのではない。純一を左右したものはなんだと、追窮して見れば、つまり動物的の策励だと云わなくてはなるまい。これはどうしたって 庇護 ( ひご ) をも文飾をも加える余地が無さそうだ。

 東京を立った三十日の朝、純一はなんとなく気が鬱してならないのを、曇った天気の 所為 ( せい ) に帰しておった。本を読んで見ても、どうも興味を感じない。午後から空が晴れて、障子に日が差して来たので、純一は気分が直るかと思ったが、予期とは反対に、心の底に潜んでいた不安の塊りが意識に上ぼって、それが急劇に増長して来て、反理性的の意志の 叫声 ( さけびごえ ) になって聞え始めた。その「箱根へ、箱根へ」と云う叫声に、純一は ( むち ) うたれて ( ) ったに相違ない。

 純一は夕方になって、急に支度をし始めた。そこらにある物を ( ) き集めて、国から持って出た革包に入れようとしたが、余り大きくて不便なように思われたので、風炉敷に包んだ。それから東京に出る時買って来た、 駱駝 ( らくだ ) 膝掛 ( ひざかけ ) を出した。そして植長の婆あさんに、年礼に廻るのがうるさいから、箱根で新年をするのだと云って、車を雇わせた。実は東京にいたって、年礼に ( ) かなくてはならない家は一軒も無いのである。

 余り出し抜けなので、驚いて目を ( みは )

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っている婆あさんに送られて、純一は車に乗って新橋へ急がせた。年の暮で、夜も賑やかな銀座を通る時、ふと風炉敷包みの不体裁なのに気が附いて 鞆屋 ( ともえや ) に寄って小さい革包を買って、 ( つつみ ) をそのまま革包に押し込んだ。

 新橋で発車時間を調べて見ると、もう七時五十分発の列車が出た跡で、次は九時発の急行である。 国府津 ( こうづ ) に着くのは十時五十三分の筈であるから、どうしても、適当な時刻に箱根まで ( ) ぎ着けるわけには ( ) かない。 ( まま ) よ。 ( ) き当りばったりだと、純一は思って、いよいよ九時発の列車に乗ることに ( ) めた。そして革包と膝掛とを駅夫に預けて、切符を買うことも頼んで置いて、二階の壺屋の出店に上がって行った。まだ東洋軒には代っていなかったのである。

  Buffet ( ビュッフェエ ) の前を通り抜けて、取り附きの室に這入って見れば、丁度夕食の時間が過ぎているので、 一間 ( ひとま ) は空虚である。壁に塗り込んだ、古風な煖炉に 骸炭 ( コオクス ) の火がきたない灰を ( かぶ ) っていて、只電燈だけが景気好く附いている。純一は帽とインバネスとを壁の ( かぎ ) に掛けて、ビュッフェエと壁一重を隔てている所に腰を掛けた。そして 二品 ( ふたしな ) ばかりの料理を ( あつら ) えて、申しわけに持って来させたビイルを、 ( ) めるようにちびちび飲んでいた。

 初音町の家を出るまで、 苛立 ( いらだ ) つようであった純一の心が、いよいよこれで汽車にさえ乗れば、箱根に ( ) かれるのだと思うと同時に、差していた ( しお ) の引くように、ずうと静まって来た。そしてこんな事を思った。平生自分は瀬戸なんぞの人柄の ( いや ) しいのを見て、何事につけても、彼と我との間には大した懸隔があると思っていた。 就中 ( なかんずく ) 性欲に関する動作は、若し 刹那 ( せつな ) に動いて、偶然提供せられた受用を ( ゆる ) すか ( しりぞ ) けるかと云うだけが、問題になっているのなら、それは ( じょ ) すべきである。最初から計画して、 ( けが )

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れた行いをするとなると、余りに卑劣である。瀬戸なんぞは、悪所へ行く積りで家を出る。そんな事は自分は敢てしないと思っていた。それに今わざわざ箱根へ ( ) く。これではいよいよ堕落して、瀬戸なんぞと同じようになるのではあるまいかとも思われる。この考えは、純一の為めに、頗る fierte ( フィエルテエ )
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を損ずるもののように感ぜられたのである。そこで純一の意識は無理な弁護を試みた。それは箱根へ行ったって、必ず坂井夫人との関係を継続するとは極まっていない。向うへ行った上で、まだどうでもなる。去就の自由はまだ保留せられていると云うのであった。

 こんな事を思っているうちに、給仕が ham-eggs ( ハム エッグス ) か何か持って来たので、純一はそれを食っていると、一人の女が這入って来た。薄給の家庭教師ででもあろうかと思われる、 ( ) せた、醜い女である。 竿 ( さお ) のように真っ直な体附きをして、引き詰めた束髪の下に、細長い ( くび ) ( あら ) わしている。持って来た 蝙蝠傘 ( こうもりがさ ) を椅子に ( ) せ掛けて腰を掛けたのが丁度純一のいる所と対角線で結び附けられている隅の卓で、純一にはその幅の狭い背中が見える。 ※※ ( コオフィイ )

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creme ( クレエム )
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を誂えたが、クレエムが来たかと思うと、直ぐに代りを言い付けて、ぺろりと舐めてしまう。又代りを言い付ける。見る間に四皿舐めた。どうしても生涯に一度クレエムを食べたい程食べて見たいと思っていたとしか思われない。純一はなんとなく無気味なように感じて、食べているものの味が無くなった。 ( ) わばロオマ人の想像していたような lemures ( レムレス ) の一人が、群を離れて這入って来たように感じたのである。これには仏教の方の餓鬼という想像も手伝っていたかも知れない。とにかく迷信の無い純一がどうした事かこの女を見て、旅行が不幸に終る前兆のように感じたのである。

 急行の出る九時が段段近づいて来ると共に、客がぽつぽつこの ( ) に這入って来て、中には老人や子供の交った大勢の組もあるので、純一の写象はやっと陰気でなくなった。どこかの学校の制服を着た、十五六の少年が煖炉の火を掻き起して、「皆ここへお ( ) で」と云って、弟や妹を呼んでいる。 ( たれ ) かが食事を誂える。誰かが誂えたものが来ないと云って、小言を言う。

  喧騒 ( けんそう ) ( うち ) に時間が来て、 誰彼 ( たれかれ ) となくぽつぽつ席を立ち始めた。クレエムを食った femme omineuse ( ファム オミニョオズ ) もこの時棒立ちに立って、蝙蝠傘を体に添えるようにして持って、出て ( ) く。純一の所へは、駅夫が切符を持って催促に来た。

 プラットフォオムはだいぶ 雑※ ( ざっとう )

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していたが、純一の乗った二等室は、駅夫の世話にならずに、跡から這入って来た客さえ、坐席に困らない位であった。 向側 ( むこうがわ ) に細君を連れて腰を掛けている男が、「 ( かえっ ) て一等の方が ( ) んでいるよ」と、細君に話していた。

 汽車が動き出してから、純一は革包を開けて、風炉敷の中を捜して、本を一冊取り出した。青い鳥と同じ体裁の青表紙で、 Henry Bernstein ( アンリイ ベルンスタイン ) Le voleur ( ル ヴォリヨオル ) である。つまらない物と云うことは知っていながら、俗受けのする脚本の、ドラマらしいよりは ( むし ) ろ演劇らしい処を、参考に見て置こうと思って取り寄せて、そのまま読まずに置いたのであった。

  象牙 ( ぞうげ ) の紙切り 小刀 ( こがたな ) で、初めの方を少し切って、表題や人物の書いてある処を ( ひるがえ ) して、第一幕の対話を読んでいる。気の利いた、軽い、唯骨折らずに、筋を運ばせて ( ) くだけの対話だと云うことが、直ぐに分かる。退屈もしないが、興味をも感じない。

 二三ペエジ読むと、目が ( だる ) くなって来た。明りが悪いのに、黄いろを帯びた紙に、小さい活字で印刷してある、ファスケル版の本が、汽車の振動に連れて、目の前でちらちらしているのだから ( ) まらない。大村が活動写真は目に毒だと云ったことなどを思い出す。お ( まけ ) に隣席の商人らしい風をした男が、無遠慮に横から ( のぞ ) くのも気になる。

 読みさした処に、指を一本挟んで閉じた本を、膝の上に載せたまま、純一は暫く向いの窓に目を移している。汽車は品川にちょっと寄った切りで、ずんずん進行する。闇のうちを、折折どこかの 燈火 ( ともしび ) が、流星のように背後へ走る。 ( たちま ) ち稍大きい明りが窓に迫って来て、車ははためきながら、或る小さい停車 ( ) を通り抜ける。

 純一の想像には、なんの動機もなく、ふいと故郷の事が浮かんだ。お 祖母 ( ) あ様の手紙は、定期刊行物のように極まって来る。書いてある事は、いつも同じである。故郷の「時」は平等に、同じ姿に流れて ( ) く。こちらから御返事をするのは、遅速がある。書く手紙にも、長短がある。しかもそれが遅くなり勝ち、短くなり勝ちである。優しく、親切に書こうとは心掛けているが、いつでも紙に臨んでから、書くことのないのに当惑する。ぼんやりした、捕捉し難い本能のようなものの外には、お祖母あ様と自分とを結び附けている内生活というものが無い。しかしこれは手紙だからで、帰ってお目に掛ったら、お話をすることがないことはあるまいなどと思う。こう思うと、新年には一度帰れと、二度も続けて言って来ているのに、この汽車を国府津で降りるのが、なんだか済まない事のようで、純一は軽い良心の呵責を覚えた。

 隣の商人らしい男が新聞を読み出したのに促されて、純一は又脚本を明けて少し読む。女主人公 Marie Louise ( マリイ ルイイズ ) の金をほしがる動機として、裁縫屋 Paquin ( パケン ) の勘定の ( かさ ) むことなぞが、官能欲を隠したり ( あらわ ) したりする、夫との対話の ( うち ) に、そっと投げ入れてある。謀計と性欲との二つを ( ) い交ぜにして、人を ( ) ませないように筋を運ばせて ( ) くのが、作者の唯一の手柄である。舞台に注ぐ目だけは、倦まないだろうと云うことが想像せられる。しかし読んでいる人の心は、何等の動揺をも受けない。つまりこれでは脚本と云うものの theatral ( テアトラル )

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な一面を、純粋に発展させたようなものだと思う。

 目がむず ( がゆ ) いようになると、本を閉じて外を見る。汽車の進行する向きが少し変って、風が ( けむり ) を横に吹き ( なび ) けるものと見えて、窓の外の闇を、火の子が 彗星 ( すいせい ) の尾のように背後へ飛んでいる。目が直ると、又本を読む。この脚本の先が読みたくなるのは、丁度探偵小説が跡を引くのと同じである。金を盗んだマリイ・ルイイズが探偵に見顕されそうになったとたんに、この女に懸想している青年 Fernand ( フェルナン ) が罪を自分で引き受ける。 憂悶 ( ゆうもん ) の雲は忽ち 無辜 ( むこ ) の青年と、金を盗まれた両親との上に ( おお ) い掛かる。それを余所に見て、余りに気軽なマリイ・ルイイズは、 ( ねや ) に入って夫に戯れ掛かる。陽に拒み、陰に促して、女は自分の寝支度を夫に手伝わせる。半ば ( ) み半ば吐く対話と共に、女の身の皮は ( たかんな ) を剥ぐ如くに、一枚々々剥がれる。所詮東京の劇場などで演ぜられる場では無い。女の紙入れが出る。「お前は生涯 ( おれ ) の写真を持ち廻るのか」「ええ。生涯持ち廻ってよ」「ちょっと見たいな」「いじっちゃあ、いや」「なぜ」「どうしてもいや」「そう云われると見たくなるなあ」「直ぐ返すのなら」「返さなかったら、どうする」「生涯あなたに物を言わないわ」「ちと 覚束 ( おぼつか ) ないな」「わたし迷信があるの。それを見られると」「変だぞ。変だぞ。その熱心に隠すのが怪しい」「開けないで下さいよ」「開ける。間男の写真を拝見しなくては」こんな対話の末、紙入れは開かれる。 大金 ( たいきん ) が出る。蒸暑い恋の詞が、氷のように冷たい嫌疑の詞になる。純一は目の痛むのも忘れて、 Bresil ( ブレジル )

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( ) られる青年を気の毒がって、マリイ・ルイイズが白状する処まで、一息に読んでしまった。そして本を革包に投げ込んで、馬鹿にせられたような心持になっていた。

 間もなく汽車が国府津に着いた。純一はどこも不案内であるから、余り遅くならないうちに泊って、あすの朝箱根へ ( ) こうと思った。革包と膝掛とを自分に持って、ぶらりと停車場を出て見ると、図抜けて大きい松の向うに、静かな夜の海が横たわっている。

 宿屋はまだ皆 ( ) いていて、 燈火 ( ともしび ) の影に女中の立ち働いているのが見える。手近な一軒につと這入って、留めてくれと云った。甲斐々々 ( かいがい ) しい支度をした、小綺麗な女中が、 ( いそが ) しそうな足を留めて、玄関に立ちはたがって、純一を頭のてっぺんから足の 爪尖 ( つまさき ) まで見卸して、「どこも ( ) いておりません、お気の毒様」と云ったきり、くるりと背中を向けて引っ込んでしまった。

 次の宿屋に ( ) く。同じようにことわられる。三軒目も四軒目も同じ事である。インバネスを着て、革包と膝掛とを提げた体裁は、余り立派ではないに違いない。しかし宿屋で気味を悪がって留めない程不都合な身なりだと云うでもあるまい。一人旅の客を留めないとか云う話が、いつどこで聞いたともなく、ぼんやり記憶には残っているが、そんな事が相応に繁華な土地に、今あろうとは思われない。現に東京では、なんの故障もなく留めてくれたではないか。

 不思議だとは思うが、誰に問うて見ようもない。お 伽話 ( とぎばなし ) にある、魔女に姿を変えられた人のような気がしてならないのである。

 純一はとうとう巡査の派出所に行って、宿泊の世話をして貰いたいと云った。巡査は四十ばかりの、 flegmatique ( フレグマチック ) な、 寝惚 ( ねぼ ) けたような、口数を利かない男で、純一が不平らしく宿屋に拒絶せられた話をするのを聞いても、当り前だとも不当だとも云わない。 ( ふち ) の焦げた火鉢に、 股火 ( またび ) をして当っていたのが、不精らしく椅子を離れて、机の上に置いてあった角燈を持って、「そんならこっちへお出でなさい」と云って、先きに立った。

 巡査が純一を連れて行って立ち留まったのは、これまで純一が叩いたような、新築の宿屋と違って、壁も柱も ( すす ) で真っ黒に染まった家の ( かど ) であった。もう締めてある戸を開けさせて、巡査が何か掛け合った。話は直ぐに ( まと ) まったらしい。中から頭を角刈にして、布子の下に 湯帷子 ( ゆかた ) を重ねて着た男が出て来て、純一を迎え入れた。巡査は角燈を光らせて帰って行った。

 純一は真っ黒な、狭い 梯子 ( はしご ) を踏んで、二階に上ぼった。 ( のぼ ) ( ぐち ) 手摩 ( てす ) りが ( めぐ ) らしてある。二階は縁側のない、十五六畳敷の広間である。締め切ってある雨戸の ( ほか ) には、建具が無い。角刈の男は、 行燈 ( あんどん ) の中に石油ランプを ( ) め込んだのを提げて案内して来て、それを古畳の上に置いて、純一の前に膝を ( ) いた。

「直ぐにお休みなさいますか。何か御用は」

 純一は唯とにかく屋根の下には這入られたと思っただけで、何を考える暇もなく、茫然としていたが、その屋根の下に這入られた ( よろこび ) を感ずると共に、報酬的に何か言い付けた方が好かろうと、問われた瞬間に思い付いた。

「何か ( さかな ) があるなら酒を一本附けて来ておくれ。飯は済んだのだ」

「煮肴がございます」

「それで ( ) い」

 角刈の男は、形ばかりの床の間の ( そば ) の押入れを開けた。この二階にも床の間だけはあるのである。そして布団と夜着と ( くく ) ( まくら ) とを出して、そこへ床を ( ) べて置いて、降りて行った。

 純一は衝っ立ったままで、 ( しばら ) く床を眺めていた。座布団なんと云う 贅沢品 ( ぜいたくひん ) は、この家では出さないので、帽をそこへ ( ) げたまま、まだ据わらずにいたのである。布団は縞が分からない程よごれている。枕に巻いてある白木綿も、 油垢 ( あぶらあか ) で鼠色に染まっている。

 純一はおそるおそる敷布団の上に据わって、時計を出して見た。もう殆ど十二時である。なんとも名状し難い不愉快が、若い、弾力に富んでいる心をさえ抑え附けようとする。このきたない家に泊るのが不愉快なのではない。境遇の 懐子 ( ふところご ) たる純一ではあるが、優柔な effemine ( エッフェミネエ )

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な人間にはなりたくないと、平生心掛けている。折々はことさらに Sparta ( スパルタ ) 風の生活をして見ようと思うこともある位である。しかしそれは自分の意志から出て、進んで困厄に就くのでなくては ( いや ) だ。他働的に、周囲から余儀なくせられて、窮屈な目に遭いたくはない。最初に旅宿をことわられてから、或る意地の悪い魔女の威力が自分の上に加わっているように、一歩一歩と不愉快な世界に陥って来たように思われる。それが厭でならない。

 角刈の男が火鉢を持って上がって来た。 藍色 ( あいいろ ) の、嫌に光る ( くすり ) の掛かった陶器の円火鉢である。跡から十四五の ( たすき ) を掛けた女の子が、誂えた 酒肴 ( さけさかな ) を持って来た。徳利一本、 猪口 ( ちょく ) 一つに、 ( なまぐさ ) そうな 青肴 ( あおざかな ) の切身が一皿添えてある。女の子はこの品々を載せた盆を 枕許 ( まくらもと ) に置いて、珍らしそうに純一の ( しか ) めた顔を覗いて見て、黙って降りて行った。男は懐から帳面を出して、矢立の筆を手に持って、「お名前を」と云った。純一は東京の宿所と名前とを言ったが、純の字が分からないので、とうとう自分で書いて遣った。

 純一はどうして寝ようかと考えた。眠たくはないが、疲労と不愉快とで、頭の ( しん ) が痛む。とにかく横にだけはなりたい。そこで ( はかま ) を脱いで、括り枕の上にそれを巻いた。それから駱駝の膝掛を二つに折って、その二枚の間に夜着の ( えり ) の処を挟むようにして被せた。こうすれば顔や手だけは不潔な物に障らずに済む。

 純一は革包を枕許に持って来て置いた。それから徳利を ( つか ) んで、 燗酒 ( かんざけ ) を一口ぐいと飲んで、インバネスを着たまま、足袋を 穿 ( ) いたまま、被せた膝掛のいざらないように、そっと夜着の領を持って、ごろりと寝た。暫くは顔がほてって来て、ひどく 動悸 ( どうき ) がするようであったが、いつかぐっすり ( ) てしまった。

 いくら寐たか分からない。何か物音がすると云うことを、 夢現 ( ゆめうつつ ) の間に覚えていた。それから話声が聞えた。しかも男と女の話声である。そう思うと同時に純一は目が覚めた。「お名前は」男の声である。それに女が返事をする。愛知県なんとか ( ごおり ) なんとか村 ( なん ) 何兵衛 ( なにべえ ) の妹 ( なに ) と云っているのは、若い女の声である。男は降りて行った。

 知らぬ女と二人で、この二階に寝るのだと思うと、純一は不思議なような心持がした。しかし間の悪いのと、気の毒なのとで、その方を見ずに、じっとしていた。暫くして女が「もしもし」と云った。 ( たし ) かに自分に言ったのである。想うに女の方では自分の熟睡していた処へ来て、目を ( ) ました様子から、わざと女の方を見ずにいる様子まで、すっかり見て知っているのらしい。純一はなんと云って ( ) いか分からないので、黙っていた。女はこう云った。

「あの東京へ参りますのですが、上りの一番は何時に出ますでしょうか」

 純一は強情に女の方を見ずに答えた。「そうですね。僕も知らないのですが、革包の中に旅行案内があるから、起きて見て上げましょうか」

 女は短い 笑声 ( わらいごえ ) を漏した。「いいえ。それでは ( よろ ) しゅうございます。どうせ起して貰うように頼んで置きましたから」

 こう云ったきり、女は黙ってしまった。純一はやはり強情に見ずにいる。女の寐附かれないらしい様子で、度々寝返りをする音が聞える。どんな女か見たいとも思ったが、今更見るのは ( いよいよ ) 間が悪いので見ずにいる。そのうちに純一は又寐入った。

 朝になって純一が目を醒ました時には、女はもういなかった。こんな ( うち ) 手水 ( ちょうず ) を使う気にもなられないので、急いで勘定をして、この家を飛び出した。角刈の男が革包を持って附いて来そうにするのをもことわった。この家との縁故を、少しも早く絶ちたいように思ったのである。

 湯本の朝日橋まで三里の鉄道馬車に身を托して、 ( もや ) をちぎって持て来るような朝風に、洗わずに出た顔を吹かせつつ、松林を 穿 ( うが ) ち、小田原の駅を貫いて進むうちに、悪夢に似た国府津の一夜を、純一の写象は繰り返して見て、同じ間に寝て、詞を交しながら、とうとう姿を見ずにしまった、不思議な女のあったのを、せめてもの記念だと思った。奉公に都へ出る、醜い女であったかも知れない。それはどうでも ( ) い。どんな女とも知らずに落ち合って、知らずに別れたのを面白く思ったのである。

 鉄道馬車を降りてから、純一はわざと坂井夫人のいる 福住 ( ふくずみ ) を避けて、この柏屋に泊った。国府津に懲りて拒絶せられはしないかと云う心配もあったが、余り歓迎しないだけで、小さい部屋を一つ貸してくれた。去就の自由がまだあるのなんのと、覚束ない 分疏 ( いいわけ ) をして見るものの、いかなる 詭弁 ( きべん ) 的見解を以てしても、その自由の ( おおき ) さが距離の反比例に加わるとは思われない。湯を浴びて来て、少し気分が直ったので、革包の中の本や雑誌を、あれかこれかと出しては見たが、どうも真面目に読み初めようと云う落着きを得られなかった。