University of Virginia Library

     二十四

 福住の戸口を足早に出て来た純一は、外へ出ると歩度を緩めて、万翠楼の外囲いに沿うて廻って、坂井夫人のいる座敷の前に立ち留まった。この ( むね ) だけ石垣を高く積み上げて、中二階のように立ててある。まだ雨戸が締めてないので、 燈火 ( ともしび ) の光が障子にさしている。純一は暫く障子を見詰めていたが、電燈の位置が人の据わっている処より、障子の方へ近いと見えて、人の影は映っていなかった。

  暇乞 ( いとまごい ) をして出る時には、そんな事を考える余裕はなかったが、今になって思えば、自分が座敷を立つ時、岡村も一しょに暇乞をすべきではなかっただろうか。それとも子供のような自分なので、それ程の遠慮もしなかったのか。それとも自分を見くびる見くびらないに ( かかわ ) らず、岡村は夫人と遠慮なんぞをする必要の全く無い交際をしているのか。純一はこんな事を気に掛けて、明りのさしている障子を 目守 ( まも ) っている。今にも岡村の席を ( ) って帰る影が映りはしないかと待つのである。そして純一の為めには、それが気に掛かり、それが待たれるのが腹が立つ。恋人でもなんでもない夫人ではないか。その夫人の部屋に岡村がいつまでいようと ( ) いではないか。それをなんで自分が気にするのか。なんと云う 腑甲斐 ( ふがい ) ない事だろうと思うと、憤慨に ( ) えない。

 純一は暫く立っていたが、 ( たれ ) に恥じるともなく、うしろめたいような気がして来たので、ぶらぶら歩き出した。 ( ) ( ) って 一際 ( ひときわ ) 高くなった、早川の水の音が、純一が頭の中の乱れた 情緒 ( じょうしょ ) の伴奏をして、昼間感じたよりは強い寂しさが、虚に乗ずるように襲って来る。

 柏屋に帰った。戸口を這入る時から聞えていた三味線が、 生憎 ( あいにく ) 純一が部屋の上で鳴っている。女中が来て、「おやかましゅうございましょう」と挨拶をする。どんな客かと問えば、名古屋から折々見える人だと云う。来たのは無論並の女中である。特別な女中は定めて二階の客をもてなしているのであろう。

 二階はなかなか ( にぎ ) やかである。わざわざ 大晦日 ( おおみそか ) の夜を騒ぎ明かす積りで来たのかも知れない。三味線の ( ) が絶えずする。女が笑う。年増らしい女の声で、こんな 呪文 ( じゅもん ) のようなものを唱える。「べろべろの神さんは、正直な神さんで、おさきの方へお向きやれ。どこへ ( さかずき ) さあしましょ。ここ ( ) か、ここ等か」この呪文は繰り返し繰り返しして唱えられる。一度唱える毎に、誰かが ( さかずき ) を受けるのであろう。

 純一は取ってある床の中に潜り込んで、じっとしている。枕に触れて、何物をか促し立てるように、 ( くび ) の動脈が響くので、それを避けようと思って寝返りをする。その脈がどうしても響く。 動悸 ( どうき ) が高まっているのであろう。それさえあるに、べろべろの神さんがしゅうねく ( たた ) って、呪文はいよいよ高く唱えられるのである。

 純一は何事をも忘れて ( ) ようと思ったが、とても寐附かれそうにはない。過度に緊張した神経が、どんな微細な刺戟にも異様に 感応 ( かんおう ) する。それを意識が丁度局外に立って観察している人の意見のように、「こんな頭に今物を考えさせたって駄目だ、どうにかして寐かす事だ」と云って促している。さて意識の提議する所に依ると、純一たるものはこの際行うべき或る事を決定して、それを段落にして、無理にも気を落ち着けて寐るに ( ) くはない。その或る事は 巧緻 ( こうち ) でなくても ( ) い。頗る粗大な、脳髄に余計な要求をしない事柄で好い。 ( かえっ ) て愈々 ( いよいよ ) 粗大なだけ愈々適当であるかも知れない。

  例之 ( たとえ ) ば箱根を去るなんぞはどうだろう。それが ( ) い。それなら断然たる処置であって、その癖 温存 ( おんそん ) 的工夫を要する今の頭を苦めなくて済む。そして種々の不愉快を伝達している幾条の電線が一時に切断せられてしまうのである。

 箱根を去るのが実に名案である。これに限る。そうすれば、あの夫人に見せ附けて ( ) ることが出来る。己だってそう馬鹿にせられてばかりはいないということを、見せ附けて遣ることが出来る。いやいや。そんな事は考えなくても ( ) い。夫人がなんと思おうと構うことは無い。とにかく箱根を去る。そしてこれを機会にして、根岸との交通を ( ) ってしまう。あの ( しち ) のようになっているラシイヌの ( しゅう ) を小包で送り返して遣る。早く谷中へ帰って、あれを郵便に出してしまいたい。そうしたらさぞさっぱりするだろう。

 こう思うと、純一の心は濁水に 明礬 ( みょうばん ) を入れたように、思いの外早く澄んで来た。その濁りと云うものの ( うち ) には、種々の ( ) み入った、分析し難い物があるのを、かれこれの別なく、引きくるめて 沈澱 ( ちんでん ) させてしまったのである。これは夜の意識が 仮初 ( かりそめ ) に到達した安心の ( さかい ) ではあるが、この境が幸に 黒甜郷 ( こくてんきょう ) の近所になっていたと見えて、べろべろの神さんの相変らず 跳梁 ( ちょうりょう ) しているにも拘らず、純一は頭を夜着の中に ( うず ) めて、寐入ってしまった。

  翌朝 ( よくあさ ) 純一は早く起きる積りでもいなかったが、 夜明 ( よあけ ) 近く物音がして、人の話声が聞えたので、目を ( ) まして便所へ行った。そうすると廊下で早立ちの客に逢った。洋服を着た、どちらも 四十恰好 ( しじゅうがっこう ) の二人である。荷物を玄関に運ぶ宿の男を促しながら、 外套 ( がいとう ) ( えり ) の底に縮めた首を傾け合って、 ( せわ ) しそうに話をしている。極めて真面目で、極めて窮屈らしい態度である。純一は、なぜゆうべのような馬鹿げた騒ぎをするのだと云って見たい位であった。

 便所からの帰りに、ふと湯に ( ) ろうかと思って、共同浴室を ( のぞ ) いて見ると、 ( たれ ) か一人這入っている。蒸気が立ち籠めて、好くは見えないが、湯壺の側に ( つくば ) っている人の姿が女らしかった。そしてその姿が、人のけはいに驚かされて、急いで上がろうとするらしく思われた。純一は罪を犯したような気がして、そっとその場を逃げて自分の部屋に帰った。

 部屋には帰って見たが、早立ちの客の外は、まだ寐静まっている時なので、火鉢に火も入れてない。純一は又床に這入って、強いて寐ようとも思わずに、横になっていた。

 目がはっきり ( ) えて、もう寐られそうにもない。そしてゆうべ床に這入ってから考えた事が、糸で手繰り寄せられるように、次第に細かに心に浮んで来る。

 夜疲れた ( のち ) に考えた事は、翌朝になって見れば、役に立たないと云う経験は、純一もこれまでしているのだが、ゆうべの決心は今頭が直ってから繰り返して見ても、やはり価値を減ぜないようである。 ( ただ ) に価値を減ぜないばかりでは無い。明かな目で見れば見る程、大胆で、 heroique ( エロイック )

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な処が現れて来るかとさえ思われる。今から ( さかのぼ ) って考えて見れば、ゆうべは頭が鈍くなっていたので、 左顧右眄 ( さこゆうへん ) することが少く、種々な思慮に 掣肘 ( せいちゅう ) せられずに、却って早くあんな決心に到着したかとも ( すい ) せられるのである。

 純一はきょうきっと実行しようと自ら誓った。そして心の中にも体の中にも、これに邪魔をしそうな或る物が動き出さないのを見て、最終の勝利を ( ) ち得たように思った。しかしこれは一の感情が力強く浮き出せば、他の感情が暫く影を ( おさ ) めるのであった。 ( のち ) になってから、純一は幾度か似寄った誘惑に遭って、似寄った奮闘を繰り返して、生物学上の出来事が潮の差引のように往来するものだと云うことを、次第に切実に覚知して、太田 錦城 ( きんじょう ) と云う漢学の先生が、「天の風雨の如し」と原始的な 譬喩 ( ひゆ ) を下したのを面白く思った。

 さてきょう実行すると極めて、心が落ち着くと共に、潜っている温泉宿の布団の中へ、追憶やら感想やら希望やら 過現未 ( かげんみ ) 三つの世界から、いろいろな客が 音信 ( おとず ) れて来る。国を立って東京へ出てから、まだ二箇月余りを ( けみ ) したばかりではある。しかし東京に出たら、こうしようと、国で思っていた事は、 ( ことごと ) 泡沫 ( ほうまつ ) の如くに消えて、積極的にはなんのし 出来 ( でか ) したわざも無い。自分だけの力で為し得ない事を、人にたよってしようと云うのは、おおかた 空頼 ( そらだの ) めになるものと見える。これに反して思い掛けなく接触した人から、種々な刺戟を受けて、 蜜蜂 ( みつばち ) がどの花からも、変った露を吸うように、内に何物かを蓄えた。その花から花へと飛び渡っている間、国にいた時とは違って、己は製作上の ( つたな ) い試みをせずにいた。これが却て己の為めには薬になっていはすまいか。今何か書いて見たら、書けるようになっているかも知れない。国にいた時、碁を打つ友達がいた。或る会の席でその男が、打たずにいる間に ( ) が上がると云う経験談をすると、教員の山村さんが、それは意識の ( しきい ) の下で、棋の稽古をしていたのだと云った事がある。今書いたら書けるかも知れない。そう思うとこの ( うち ) で、どこかの静かな部屋を借りて、久し振に少し書き始めて見たいものだ。いや。そうだっけ。それでは切角のあの実行が出来ない。ええ ( くそ ) 。坂井の奥さんだの岡村だのと云う奴が厄介だな。大村の言草ではないが、 Der Teufel hole sie! ( デル トイフェル ホオレ ジイ ) だ。 ( ) いわ。早く東京へ帰って書こう。

 純一は夜着をはね 退 ( ) けて、起きて敷布団の上に 胡坐 ( あぐら ) ( ) いて、火鉢に火のないのをも忘れて、考えている。いよいよ書こうと思い立つと共に、現在の自分の周囲も、過去に自分の閲して来た事も、総て価値を失ってしまって、 咫尺 ( しせき ) ( あいだ ) の福住の離れに、美しい肉の塊が ( よこた ) わっているのがなんだと云うような気がするのである。 ( くれない ) が両の頬に ( ちょう ) して、大きい目が 耀 ( かがや ) いている。純一はこれまで物を書き出す時、興奮を感じたことは度々あったが、今のような、夕立の前の雲が電気に飽きているような、気分の充実を感じたことはない。

 純一が書こうと思っている物は、現今の流行とは少し方角を異にしている。なぜと云うに、その sujet ( シュジェエ ) は国の亡くなったお 祖母 ( ) あさんが話して聞せた伝説であるからである。この伝説を書こうと云うことは、これまでにも度々企てた。形式も種々に考えて、韻文にしようとしたり、散文にしようとしたり、叙事的に Flaubert ( フロオベル ) の三つの物語の中の或る物のような体裁を学ぼうと思ったこともあり、 Maeterlinck ( マアテルリンク ) の短い脚本を 藍本 ( らんほん ) にしようと思ったこともある。東京へ出る少し前にした、最後の試みは二三十枚書き掛けたままで、谷中にある 革包 ( かばん ) の底に這入っている。あれはその頃知らず ( ) らずの間に、 所謂 ( いわゆる ) 自然派小説の影響を受けている最中であったので、初めに狙って書き出した Archaisme ( アルシャイスム )

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が、意味の上からも、 ( ことば ) の上からも途中で邪魔になって来たのであった。こん度は現代語で、現代人の微細な観察を書いて、そして古い伝説の ( あじわい ) ( きずつ ) けないようにして見せようと、純一は工夫しているのである。

 こんな事を思って、暫く前から勝手の方でがたがた物音のしているのを、気にも留めずにいると、天井の真中に手繰り上げてある電燈が突然消えた。それと同時に、もう外は明るくなっていると見えて、 欄間 ( らんま ) から青白い光が幾筋かの細かい線になってさし込んでいる。

 女中が 十能 ( じゅうのう ) を持って這入って来て、「おや」と云った。どうしたわけか、 綺麗 ( きれい ) な分の女中が来たのである。「つい存じませんのでございますから」と云いながら、火鉢に火を ( ) けている。

 ろくろく寝る ( ひま ) もなかったと思われるのに、女は綺麗に髪を ( ) で附けて、化粧をしている。火を活けるのがだいぶ手間が取れる。それに無口な ( たち ) ででもあるか、黙っている。

 純一は義務として何か言わなくてはならないような気がした。

「ねむたかないか」と云って見た。

「いいえ」と女の答えた頃には、純一はまずい、 sentimental ( サンチマンタル ) な事を言ったように感じて、後悔している。「おやかましかったでしょう」と、女が反問した。

「なに。好く寐られた」と、純一は努めて 無造做 ( むぞうさ ) に云った。

 障子の外では、がらがらと雨戸を繰り明ける音がし出した。女は丁度火を活けてしまって、火鉢の ( ふち ) を拭いていたが、その手を停めて云った。

「あのお雑煮を上がりますでしょうね」

「ああ、そうか。元日だったな。そんなら顔でも洗って来よう」

 純一は 楊枝 ( ようじ ) を使って顔を洗う間、綺麗な女中の事を思っていた。あの女はどこか柔かみのある、気に入った女だ。立つ時、特別に心附けを遣ろうかしら。いや、 ( ) そう。そうしては、なんだか意味があるようで 可笑 ( おか ) しい。こんな事を思ったのである。

 部屋に返るとき、 入口 ( いりくち ) で逢ったのは並の女中であった。夜具を片附けてくれたのであろう。

 雑煮のお給仕も並のであった。その女中に九時八分の急行に間に合うように、国府津へ ( ) くのだと云って勘定を言い附けると、仰山らしく驚いて、「あら、それでは御養生にもなんにもなりませんわ」と云った。

「でも己より早く帰った人もあるじゃないか」

「それは違いますわ」

「どう違う」

「あれは騒ぎにいらっしゃる方ですもの」

「なる程。騒ぐことは己には出来ないなあ」

 雑煮の代りを取りに立つとき、女中は本当に立つのかと念を押した。そして純一が ( うなず ) くのを見て、 独言 ( ひとりごと ) のようにつぶやいた。

「お絹さんがきっとびっくりするわ」

「おい」と純一は呼び留めた。「お絹さんというのは ( だれ ) だい」

「そら、けさこちらへお火を入れにまいったでしょう。きのうあなたがお着きになると、あれが直ぐにそう云いましたわ。あの方は本を沢山持っていらっしゃったから、きっとお休みの間勉強をしにいらっしゃったのだって」

 こう云って置いて、女中は通い盆を持って廊下へ出た。

 純一はお絹と云う名が、自分の想像したあの女の性質に相応しているように思って、一種の満足を覚えた。そしてそのお絹が ( いそが ) しい中で自分を観察してくれたのを感謝すると同時に、自分があの女の生活を余り卑しく考えたのを悔いた。

 雑煮の代りが来た。給仕の女中から、お絹の事を今少し ( くわ ) しく聞き出すことは、むずかしくもなさそうであったが、純一は遠慮して問わなかった。意味があって問うように思われるのがつらかったのである。

 純一は取り散らしたものを革包の中に入れながら、 昨夜 ( ゆうべ ) よりも今朝起きた時よりも、だいぶ冷かになった心で、自己を反省し出した。東京へ帰ろうと云う決心を ( ひるがえ ) そうとは思わない。又それを飜す必要をも見出さない。帰って書いて見ようと思う意志も衰えない。しかしその意志の純粋な中へ、 ( ごく ) 軽い疑惑が 抜足 ( ぬきあし ) をして来て ( まじ ) る。それはこれまで度々一時の発動に促されて書き出して見ては、 挫折 ( ざせつ ) してしまったではないかと云う ( ささや )

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きである。幸な事には、この※
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きは意志を 麻痺 ( まひ ) させようとするだけの力のあるものではない。却て製作の欲望を刺戟して、抗抵を増させるかと思われる位である。

 これに反して、少しの間に余程変じたのは、坂井夫人に対する感じである。面当てをしよう、思い知らせようと云うような心持が、ゆうべから始終幾分かこの感じに交っていたが、今明るい昼の光の中で考えて見ると、それは ( たし ) かに ( あやま ) っている。我ながらなんと云うけちな事を考えたものだろう。まるで奴隷のような 料簡 ( りょうけん ) だ。この様子では己はまだ大いに性格上の修養をしなくてはならない。それにあの坂井の奥さんがなんで己が立ったと云って、悔恨や苦痛を感ずるものか。八年前に死んだ詩人 Albert Samain ( アルベエル サメン ) Xanthis ( クサンチス ) と云う女人形の恋を書いていた。恋人の中には platonique ( プラトニック ) な公爵がいる。芸術家風の熱情のある青年音楽家がいる。それでもあの女人形を満足させるには、力士めいた銅人形がいなくてはならなかった。岡村は恐らくは坂井の奥さんの銅人形であろう。己はなんだ。青年音楽家程の熱情をも、あの奥さんに ( ささ ) げてはいない。なんの取柄があるのだ。己が箱根を去ったからと云って、あの奥さんは小使を入れた 蝦蟇口 ( がまぐち ) を落した程にも思ってはいまい。そこでその奥さんに対して、己は不平がる権利がありそうにはない。一体己の不平はなんだ。あの奥さんを失う ( かなしみ ) から出た不平ではない。自己を愛する心が傷つけられた不平に過ぎない。大村が恩もなく ( うらみ ) もなく別れた女の話をしたっけ。場合は違うが、己も今恩もなく怨もなく別れれば ( ) いのだ。ああ、しかしなんと思って見ても寂しいことは寂しい。どうも自分の身の周囲に空虚が出来て来るような気がしてならない。好いわ。この寂しさの中から作品が生れないにも限らない。

 帳場の男が勘定を持って来た。瀬戸の話に、湯治場やなんぞでは、書生さんと云うと、一人前の客としては扱わないと云ったが、この男は格別失敬な事も言わなかった。純一は書生社会の名誉を重んじて茶代を気張った。それからお絹に多く遣りたい為めに、外の女中にも並より多く祝儀を遣った。

 宿泊料、茶代、祝儀それぞれの 請取 ( うけとり ) を持って来た女中が、車の支度が出来ていると知らせた。純一は革包に錠を卸して立ち上がった。そこへお上さんが挨拶に出た。敷居の外に手を衝いて物を言う、その態度がいかにも ( うやうや ) しい。

 純一が立って出ると、女中が革包を持って跡から来た。廊下の広い所に、女中が集まって、何か※

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き合っていたのが、皆純一に暇乞をした。お絹は背後の方にしょんぼり立っていて、一人遅れて辞儀をした。

 車に乗って外へ出て見ると、元日の空は晴れて、湯坂山には ( もや ) が掛かっている。きょうも格別寒くはない。

 朝日橋に掛かる前に振り返って、坂井の奥さんの泊っている福住の座敷を見たら、障子が皆締まって、中はひっそりしていた。

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 鴎外云。小説「青年」は一応これで終とする。書こうと企てた事の一小部分しかまだ書かず、物語の上の日数が六七十日になったに過ぎない。霜が降り始める頃の事を発端に書いてから、やっと雪もろくに降らない冬の時候まで ( ) ぎ附けたのである。それだけの事を書いているうちに、いつの間にか二年立った。とにかく一応これで終とする。