University of Virginia Library

     二十三

 福住へ ( ) こうか、行くまいか。これは純一が自分で自分を ( もてあそ ) んでいる仮設の問題である。しかし意識の ( しきい ) の下では、それはもう ( ) っくに解決が附いている。肯定せられている。 ( ) しこの場合に ( なお ) 問題があるとすれば、それは時間の問題に過ぎないだろう。

 そしてその時間を縮めようとしている或る物が ( そん ) じている。それは小さい記念の数々で、ふと心に留まった坂井夫人の挙動や、 ( ことば ) と云う程でもない詞である。 Un geste, un mot inarticule ( アン ジェスト アン モオ イナルチクユレエ )

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である。この物は時が立っても消えない。消えないどころではない。次第に ( あらたま ) から玉が出来るように、記憶の中で ( きよ ) められて、周囲から浮き上がって、光の強い、力の大きいものになっている。本を読んでいても、そのペエジと目との間に、この記念が投射せられて、今まで 辿 ( たど ) って来た意味の上に、破り棄てることの出来ない 面紗 ( めんしゃ ) を被せる。

 この記念を忘れさせてくれる Lethe ( レエテ ) の水があるならば、飲みたいとも思って見る。そうかと思うと、又この記念位のものは、そっと棄てずに愛護して置いて、 ( わが ) 感情の領分に、或る elegiaque ( エレジアック )

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な要素があるようにしたって、それがなんの 煩累 ( はんるい ) をなそうぞと、弁護もして見る。要するに苦悩なるが故に ( ) り除かんと欲し、甘き苦悩なるが故に割愛を ( かたん ) ずるのである。

 純一はこう云う声が自分を ( あざけ ) るのを聞かずにはいられなかった。お前は東京からわざわざ箱根へ来たではないか。それがなんで柏屋から福住へ ( ) くのを ( はばか ) るのだ。これは純一が為めには、随分残酷な声であった。

  昨夜 ( ゆうべ ) 好く寐なかったからと、純一は必要のない嘘を女中に言って、 午食 ( ごしょく ) 後に床を取らせて横になっているうちに、つい二時間ばかり寐てしまった。

 目を醒まして見ると、一人の女中が火鉢に炭をついでいた。色の 蒼白 ( あおじろ ) い、美しい女である。今まで飯の給仕に来たり、昼寐の床を取りに来たりした女中とはまるで違って、着物も絹物を着ている。

「あの、新聞を御覧になりますなら、持って参りましょう」

  俯向 ( うつむ ) いた顔を挙げてちょいと見て、 ( はじ ) を含んだような物の言いようをする。

「ああ。持って来ておくれ」

 別に読みたいとも思わずに、唯女の問うに任せて答えたのである。

 女はやはり俯向いて、なまめかしい態度をして立って行った。

 純一が起きて火鉢の ( そば ) へ据わった処へ、新聞を二三枚持って来たのは、今立って行った女ではなかった。身なりも悪く、大声で物を言って、なんの動機もなく、不遠慮に笑う、骨格の ( たくま ) しい、並の女中である。純一はこの家に並の女中の外に、特別な女中の置いてあるのは、特別な用をさせる為めであろうと察したが、それを 穿鑿 ( せんさく ) して見ようとも思わなかった。

 純一は一枚の新聞を手に取って、文芸欄を 一寸 ( ちょっと ) 見て、好くも読まずに下に置いた。大村の ( ) うクリクに身を置いていない純一が為めには、 目蓋 ( めおお ) いを掛けたように一方に偏した評論は何の価値をも有せない。

 それから夕食前に少し散歩をして来ようと思って、ぶらりと宿屋を出た。石に触れて水の激する早川の岸を歩む。片側町に、宿屋と軒を並べた ※匠 ( ひきものし )

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の店がある。売っているのは名物の湯本細工である。店の ( かみ ) さんに、土産を買えと勧められて、何か 嵩張 ( かさば ) らないものをと、 楊枝入 ( ようじい ) れやら、煙草箱やらを、二つ三つ ( ) り分けていた。

 その時何か話して笑いながら、店の前を通り掛かる男女の 浴客 ( よくかく ) があった。その女の 笑声 ( わらいごえ ) が耳馴れたように聞えたので、店の上さんが 吊銭 ( つりせん ) の勘定をしている間、おもちゃの 独楽 ( こま ) を手に取って眺めていた純一が、ふと頭を挙げて声の方角を見ると、 ( はし ) なく坂井夫人と目を見合せた。

 夫人は 紺飛白 ( こんがすり ) のお 召縮緬 ( めしちりめん ) の綿入れの上に、青磁色の 鶉縮緬 ( うずらちりめん ) に三つ紋を縫わせた羽織を ( かさ ) ねて、髪を 銀杏返 ( いちょうがえ ) しに ( ) って、真珠の根掛を掛け、 黒鼈甲 ( くろべっこう ) 蝶貝 ( ちょうかい ) を入れた ( くし ) ( ) している。純一の目には唯しっとりとした、地味な、しかも ( こび ) のある姿が映ったのである。

 夫人の朗かな笑声は忽ち絶えて、 discret ( ジスクレエ ) 愛敬笑 ( あいきょうわらい ) が目に ( たた ) えられた。夫人は根岸で別れてからの時間の隔たりにも、東京とこの土地との空間の隔たりにも 頓着 ( とんじゃく ) しないらしい、極めて無造作な調子で云った。

「あら。来ていらっしゃるのね」

 純一は「ええ」と云った積りであったが、声はいかにも均衡を失った声で、しかも殆ど我耳にさえ聞えない位低かった。

 夫人は足を留めて連れの男を顧みた。四十を越した、巌乗な、肩の 廉張 ( かどば ) った男である。器械刈にした頭の、筋太な、とげとげしい髪には、霜降りのように白い処が交っていて、顔だけつやつやして血色が ( ) い。夫人はその男にこう言った。

「小泉さんと云う、文学をなさる方でございます」それから純一の方に向いて云った。「この方は画家の岡村さんですの。やはり福住に泊っていらっしゃいます。あなたなぜ福住へいらっしゃらなかったの。わたくしがそう申したじゃありませんか」

「つい名前を忘れたもんですから、柏屋にしました」

「まあ忘れっぽくていらっしゃることね。晩にお遊びにいらっしゃいましな」言い棄てて、夫人が歩き出すと、それまで 二王立 ( におうだち ) に立って、巨人が 小人島 ( こびとじま ) の人間を見るように、純一を見ていた岡村画伯は、「晩に来給え」と、 谺響 ( こだま ) のように同じ事を言って、夫人の跡に続いた。

 純一は暫く二人を見送っていた。その間店の上さんが吊銭を手に載せて、 板縁 ( いたえん ) ( ひざ ) を衝いて待っていたのである。純一はそれに気が附いて、小さい銀貨に大きい銅貨の交ったのを慌てて受け取って、 ※皮 ( わにがわ )

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蝦蟇口 ( がまぐち ) にしまって店を出た。

 対岸に茂っている木々は、 Carnaval ( カルナヴァル ) に仮装をして、脚ばかり出した ( むれ ) のように、いつの間にか夕霧に包まれてしまって 駅路 ( えきろ ) の所々 ( ところどころ ) にはぽつりぽつりと、水力電気の明りが附き始めた。

 純一はぼんやりして宿屋の方へ歩いている。或る分析し難い不愉快と、忘れていたのを急に思い出したような寂しさとが、頭を一ぱいに ( うず ) めている。そしてその不愉快が 嫉妬 ( しっと ) ではないと云うことを、純一の意識は証明しようとするが、それがなかなかむずかしい。なぜと云うに、あの湯本細工の店で 邂逅 ( かいこう ) した時、もし坂井夫人が一人であったなら、この不愉快はあるまいと思うからである。純一の考はざっとこうである。とにかくあの岡村という大男の存在が、 ( おれ ) 刺戟 ( しげき ) したには相違ない。画家の岡村と云えば、四条派の ( ) で名高い大家だということを、己も聞いている。どんな性質の人かは知らない。それを強いて知りたくもない。唯あの二人を並べて見たとき、なんだか夫婦のようだと思ったのが、慥かに己の感情を害した。そう思ったのは、決して 僻目 ( ひがめ ) ではない。知らぬ人の 冷澹 ( れいたん ) な目で見ても、同じように見えるに違いない。早い話が、あの店の上さんだって、若しあの二人に対して物を言うことになったら、旦那様奥様と云っただろう。己は何もあんな男を ( うらや ) みなんかしない。あの男の地位に身を置きたくはない。しかし ( しゃく ) に障る奴だ。こんな風に岡村を憎む念が起って、それと同時に坂井夫人に対しては暗黒な、しかも鋭い不平を感ずる。不義理な、約束に背いた女だとさえ云いたい。しかし夫人は己にどんな義理があるか。夫人の守らなくてはならない約束はどんな約束であるか。この問には答うべき詞が一つもないのである。どうしてもこの感じは嫉妬にまぎらわしいようである。

 そしてこの感じに寂しさが伴っている。厭な、厭な寂しさである。大村に別れた ( のち ) に、東京で寂しいと思ったのなんぞは、まるで比べものにならない。小さい時、小学校で友達が数人首を集めて、何か ( ささや )

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き合っていて、己がひとり遠くからそれを望見したとき、 ( やや ) これに似た寂しさを感じたことがある。己はあの時十四位であった。丁度同じ学校に、一つ二つ年上で ( やせ ) ぎすの、背の高い、お勝という女生徒がいた。それが己を憎んで、 ( やや ) もすればこう云う境地に己を置いたのである。いつも首を集めて※
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き合う群の真中には蝶々 ( ちょうちょうまげ ) だけ外の子供より高いお勝がいて、折々己の方を顧みる。何か非常な事を己に隠して遣っているらしい。その癖群に加わっている子供の一人に、跡からその時の話を聞いて見れば、なんでもない、己に聞せても 差支 ( さしつかえ ) ない事である。己はその度毎に、お勝の 技倆 ( ぎりょう ) に敬服して、好くも外の子供を糾合してあんな complot ( コムプロオ ) の影を幻出することだと思った。今己がこの事を思い出したのは、寂しさの感じから思い出したのであるが、つくづく考えて見れば、あの時の感じも寂しさばかりではなかったらしい。お勝は嫉妬の 萌芽 ( ほうが ) を己の心に植え附けたのではあるまいか。

 純一はこんな事を考えながら歩いていて、あぶなく柏屋の 門口 ( かどぐち ) を通り過ぎようとした。幸に内から声を掛けられたので、気が附いて戸口を這入って、腰を掛けたり立ったりした二三人の男が、帳場の番頭と話をしている、物騒がしい店を通り抜けて、自分の部屋の障子を明けた。女中がひとり 背後 ( うしろ ) から駈け抜けて、電燈の ( かぎ ) ( ねじ ) った。

     *     *     *

 夕食をしまって、純一は昼間見なかった分の新聞を取り上げて、引っ繰り返して見た。ふと「色糸」と題した六号活字の欄に、女の写真が出ているのを見ると、その首の下に横に「栄屋おちゃら」と書いてあった。印刷インクがぼってりとにじんでいて、半分隠れた顔ではあるが、確かに名刺をくれた柳橋の芸者である。

 記事はこうである。「栄屋の抱えおちゃら(十六)

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は半玉の時から男狂いの ( うわさ ) が高かったが、役者は宇佐衛門が 贔屓 ( ひいき ) 性懲 ( しょうこり ) のない 人形喰 ( にんぎょうくい ) である。但し慾気のないのが取柄とは、 ( ほか ) からの側面観で、同家のお 辰姉 ( たつね ) えさんの 強意見 ( こわいけん ) は、 ( やや ) ともすれば 折檻賽 ( せっかんまが ) いの手荒い仕打になるのである。まさか江戸時代の柳橋芸者の遺風を慕うのでもあるまいが、昨今松さんという 絆纏着 ( はんてんき ) ( ) いさんに熱くなって、お辰姉えさんの大目玉を ( ) い、しょげ返っているとはお気の毒」

 読んでしまって純一は覚えず 微笑 ( ほほえ ) んだ。 ( たと ) い性欲の為めにもせよ、利を図ることを忘れることの出来る女であったと云うのが、殆ど 嘉言善行 ( かげんぜんこう ) を見聞きしたような慰めを、自分に与えてくれるのである。それは人形喰いという詞が、 ( すこぶ ) る純一の自ら喜ぶ心を満足せしめるのである。若い心は弾力に富んでいる。どんな不愉快な事があって、自己を抑圧していても、 ( いささ ) かの ( ゆる ) みが生ずるや否や、弾力は待ち構えていたようにそれを機として、無意識に元に帰そうとする。純一はおちゃらの記事を見て、少し気分を 恢復 ( かいふく ) した。

 丁度そこへ女中が来て、福住から来た 使 ( つかい ) の口上を取り次いだ。お暇ならお遊びにいらっしゃいと、坂井さんが ( おっし ) ゃったと云うのである。純一は 躊躇 ( ちゅうちょ ) せずに、只今伺いますと云えと答えた。想うに純一は到底この招きに応ぜずにしまうことは出来なかったであろう。なぜと云うに、 ( ) しや ( ) ねてことわって見たい情はあるとしても、 卑怯 ( ひきょう ) らしく 退嬰 ( たいえい ) の態度を見せることが、残念になるに ( ) まっているからである。しかし少しも 逡巡 ( しゅんじゅん ) することなしに、承諾の返事をさせたのは、色糸のおちゃらが坂井夫人の為めに 緩頬 ( かんきょう ) の労を取ったのだと云っても ( ) い。

 純一は直ぐに福住へ行った。

 女中に案内せられて、 万翠楼 ( ばんすいろう ) の三階の下を通り抜けて、奥の平家立ての座敷に近づくと、電燈が明るく障子に差して、内からは 笑声 ( わらいごえ ) が聞えている。 Basse ( バス ) ( いなな ) くような笑声である。岡村だなと思うと同時に、このまま引き返してしまいたいような反感が本能的に起って来る。

 箱根に於ける坂井夫人。これは純一の空想に度々 ( えが ) ( いだ ) されたものであった。 鬱蒼 ( うっそう ) たる千年の老木の間に、温泉宿の離れ座敷がある。根岸の家の居間ですら、騒がしい都会の趣はないのであるが、ここは又全く人間に遠ざかった ( さかい ) で、その静寂の ( うち ) Ondine ( オンジイヌ ) のような美人を見出すだろうと思った。それに純一は今 ( ) Faune ( フォオヌ ) の笑声を聞かなくてはならないのである。

 廊下に出迎えた女を見れば、根岸で見たしづ枝である。

「お待ちなさっていらっしゃいますから、どうぞこちらへ」ここで客の受取り渡しがある。前哨線が張ってあるようなものだと、純一は思った。そして何物が 掩護 ( えんご ) せられてあるのか。その神聖なる場所は、岡村という男との差向いの場所ではないか。根岸で嬉しく思ったことを、ここでは直ぐに厭に思う。地を ( ) うれば皆 ( しか ) りである。

 次の間に入って ( ひざまず ) いたしづ枝が、「小泉様がお出でになりました」と案内をして、 ( しず ) かに隔ての障子を開けた。

「さあ、こっちへ 這入 ( はい ) り給え。奥さんがお待兼だ」声を掛けたのは岡村である。さすがに主客の行儀は ( ) い。手あぶりは別々に置かれて、茶と菓子とが出る。しかし奥さんの ( そば ) にある 置炬燵 ( おきごたつ ) は、又純一に不快な感じを起させた。

 しづ枝に茶を入れ換えることを命じて置いて、奥さんは純一の顔をじっと見た。

「あなた、いつから来ていらっしゃいますの」

「まだ来たばっかりです。来ると直ぐあなたにお目に掛かったのです」

「柏屋には別品がいるでしょう」と、岡村が詞を挟んだ。

「どうですか。まだ来たばっかりですから、僕には分かりません」

「そんな事じゃあ困るじゃないか。我輩なんぞは宿屋に着いて第一に着眼するのはそれだね」

 声と云い、詞と云い、だいぶ晩酌が利いているらしい。

「世間の人が皆岡村さんのようでは大変ですわね」奥さんは純一の顔を見て、 庇護 ( ひご ) するように云った。

 岡村はなかなか黙っていない。「いや、奥さん。そうではありませんよ。文学者なんというものは、画かきよりは盛んな事を遣るのです」これを冒頭に、岡村の名を知っている、若い文学者の噂が出る。近頃そろそろ出来掛かった文芸界の Bohemiens ( ボエミアン )

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が、岡村の交際している待合のお上だの、芸者だのの目に、いかに映じているかと云うことを聞くに過ぎない。次いで話は作品の上に及んで、「 蒲団 ( ふとん ) 」がどうの、「 煤烟 ( ばいえん ) 」がどうのと云うことになる。意外に文学通だと思って、純一が聞いて見ると、どれも読んではいないのであった。

 純一にはこの席にいることが面白くない。しかしおとなしい ( たち ) なので厭な顔をしてはならないと思って、努めて調子を合せている。その間にも純一はこう思った。世間に起る、新しい文芸に対する非難と云うものは、大抵この岡村のような人が言い広めるのだろう。作品を自分で読んで見て、かれこれ云うのではあるまい。そうして見れば、作品そのものが社会の排斥を招くのではなくて、クリク同士の攻撃的批評に、社会は雷同するのである。発売禁止の処分だけは、役人が ( あば ) いて申し立てるのだが、政府が自然主義とか個人主義とか云って、文芸に干渉を試みるようになるのは、確かに攻撃的批評の ( もたら ) した結果である。文士は自己の建築したものの下に、坑道を 穿 ( うが ) って、基礎を ( あやう ) くしていると云っても ( ) い。蒲団や煤烟には、無論事実問題も伴っていた。しかし煤烟の種になっている事実こそは、稍 外間 ( がいかん ) へ暴露した行動を見たのであるが、蒲団やその外の事実問題は大抵皆文士の間で起したので、 所謂 ( いわゆる ) 六号文学のすっぱ抜きに根ざしているではないか。

 しず枝が茶を入れ換えて、主客三人の茶碗に注いで置いて、次へ下がった跡で、奥さんが云った。

「小泉さん。あなた余りおとなしくしていらっしゃるから、岡村さんが勝手な事ばかし仰ゃいますわ。あなたの方でも、画かきの悪口でも言ってお上げなさると ( ) いわ」

「まあ僕は ( ) しましょう」純一は ( わらい ) を含んでこう云った。しかしこの席に這入ってから、 ( やや ) もすれば奥さんの自分を庇護してくれるのが、次第に不愉快に感ぜられて来た。それは他人あしらいにせられると思うからである。その反面には、奥さんが岡村に対して、遠慮することを ( もち ) いない程の親しさを示しているという意味がある。極言すれば、夫婦気取りでいるとも云いたいのである。

 岡村が純一に、何か箱根で書く積りかと問うたので、純一はありのままに、そんな企ては持っていないと云った。その時奥さんが「小泉さんなんぞはまだお若いのですから、そんなにお急ぎなさらなくても」と云ったが、これも庇護の詞になったのである。純一は稍反抗したいような気になって、「先生は何かおかきですか」と問い返した。そうすると奥さんが、岡村は今年の夏万翠楼の ( ふすま ) 衝立 ( ついたて ) を大抵かいてしまったのだと云った。それが又岡村との親しさを示すと同時に、岡村と奥さんとが夏も福住で一しょにいたのではないかと云う問題が、端なく純一の心に浮んだ。

 純一はそれを ( たしか ) めたいような心持がしたが、そんな問を発するのは、人に言いたくない事を言わせるに当るように思われるので、気を兼ねて詞をそらした。

「箱根は夏の方が ( ) いでしょうね」

「そうさ」と云って、岡村は無邪気に暫く考える様子であった。そして何か思い出したように、 顴骨 ( かんこつ ) の張った大きい顔に ( えみ ) を湛えて、詞を ( ) いだ。「いや。夏が好くもないね。今時分は ( もや ) が一ぱい立ち ( ) めて、明りを ( ねら ) って虫が飛んで来て 為様 ( しよう ) がないからね。それ、あの 兜虫 ( かぶとむし ) のような奴さ。東京でも子供がかなぶんぶんと云って、 ( つか ) まえておもちゃにするのだ。あいつが来るのだね」

 奥さんが ( そば ) から云った。「それは本当に大変でございますの。障子を締めると、飛んで来て、ばたばた紙にぶっ附かるでしょう。そしておっこって、廊下をがさがさ這い廻るのを、男達が ( さら ) って、 手桶 ( ておけ ) の底に水を入れたのを持って来て、その中へ叩き込んで運んで ( ) きますの」

 純一は聞きながら、二人は一しょにそう云う事に出逢ったと云うのだろうか、それとも岡村も奥さんも偶然同じ箱根の夏を知っているに過ぎないのだろうかと、まだ幾分の疑いを ( そん ) じている。

 岡村は少し興に乗じて来た。「随分かなぶんぶんには責められたね。しかし吾輩は 復讎 ( ふくしゅう ) を考えている。あいつの羽を切って、そいつに厚紙で ( こしら ) えた車を、 磐石糊 ( ばんじゃくのり ) という奴で張り附けて ( ) かせると、いつまでも生きていて曳くからね。吾輩は画かきを廃して、辻に出てかなぶんぶんの車を曳く奴を、子供に売って遣ろうかと思っている」こう云って、独りで笑った。例の ( いなな ) くように。

「磐石糊というのは、どんな物でございますの」と、奥さんが問うた。

「磐石糊ですか。町で幾らも売っていまさあ」

「わたくしあなたが上野の広小路あたりへ立って、かなぶんぶんを売っていらっしゃる処が拝見しとうございますわ」

「きっと盛んに売れますよ。三越なんぞで児童博覧会だのなんのと云って、いろんなおもちゃを陳列して見せていますが、まだ生きたおもちゃと云うのはないのですからね」

「直ぐに人が真似をいたしはしませんでしょうか。戦争の跡に出来たロシア 麪包 ( パン ) のように」

「吾輩専売にします」

「生きた物の専売がございましょうか」

「さあ、そこまでは吾輩まだ考えませんでした」岡村は又笑った。そして言い足した。「とにかくうるさい奴ですよ。大抵 ( かがり ) に飛び込んで、焼け死んだ跡が、あれ程遣って来るのですからね」

「ほんとにあの篝は美しゅうございましたわね」

 純一ははっと思った。この「美しゅうございました」と云った過去の語法は、二人が一しょに篝を見たのだと云うことを irrefutable ( イルレフュタアブル )

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に証明しているのである。情況から判断すれば、二人が夏を一しょに暮らしたと云うことは、もう ( ) っくに遺憾なく慥められているのであるが、純一はそれを問わないで、何等かの方法を以て、直接に知りたいと、悟性を鋭く働かせて、対話に注意していたのであった。

 純一の不快な心持は、急劇に増長して来た。そしてこの席にいる自分が車の第三輪ではあるまいかという疑いが起って、それが間断なく自分を刺戟して、とうとう席に安んぜざらしむるに至った。

「僕は今夜はもうお ( いとま ) をします」純一は激した心を声にあらわすまいと努めてこう云って、用ありげに時計を出して見ながら座を起った。実は時計の ( はり ) はどこにあるか、目にも留まらず意識にも ( のぼ ) らなかったのである。