University of Virginia Library

     十五

   純一が日記の断片

 恥辱を語るペエジを日記に添えたくはない。しかし事実はどうもすることが出来ない。

 己は部屋を出るとき、ラシイヌの一巻を手に取りながら、こんな事を思った。読もうと思う本を持って散歩に出ることは、これまでも度々あった。今日はラシイヌを持って出る。この本が外の本と違うのは、あの坂井夫人の所へ行くことの出来る possibilite ( ポッシビリテエ )

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を己に与えるというだけの事である。 ( ) くと行かぬとの自由はまだ保留してあると思った。

 こんな考えは ( みずか ) ら欺くに近い。

 実は余程前から或る希求に伴う不安の念が、次第に強くなって来た。己は極力それを ( しりぞ ) けようとした。しかし卻けても又来る。敵と対陣して小ぜりあいの絶えないようなものである。

 大村はこの希求を抑制するのが、健康を害するものではないと云った。害せないかも知れぬが、己は殆どその煩わしさに堪えなくなった。そしてある時は、こんなうるさい生活は人間の dignite ( ジグニテエ )

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( きずつ ) けるものだとさえ思った。

 大村は神経質の遺伝のあるものには、この抑制が出来なくて、それを無理に抑制すると病気になると云った。己はそれを思い出して、 ( わが ) 神経系にそんな遺伝があるのかとさえ思った。しかしそんな筈はない。己の両親は健康であったのが、流行病で一時に死んだのである。

 己の自制力の一角を破壊したものは、久し振に尋ねて来たお雪さんである。

 お雪さんと並んで据わっていたとき、自然が己に投げ掛けようとした ( わな )

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の、頭の上近く ( ひらめ ) くのが見えた。

 お雪さんもあの※

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を見たには違いない。しかしそれを ( のが ) れようとしたのは、己の方であった。

 そして己は自分のそれを遁れようとするのを智なりとして、お雪さんを 見下 ( みく ) だしていた。

 その時己は我自制力を讃美していて、丁度それと同時に我自制力の一角が破壊せられるのに心附かずにいた。一たび ( つな ) がれては断ち難い、 堅靭 ( けんじん ) なる ( なわ ) を避けながら、己は縛せられても解き易い、 脆弱 ( ぜいじゃく ) なる索に対する、戒心を 弛廃 ( しはい ) させた。

 無智なる、 可憐 ( かれん ) なるお雪さんは、この破壊この弛廃を ( あえ ) てして自ら ( さと ) らないのである。

 もしお雪さんが来なかったら、己は部屋を出るとき、ラシイヌを持って出なかっただろう。

 己はラシイヌを手に持って、当てもなく上野の山をあちこち歩き廻っているうちに、不安の念が次第に増長して来て、 脈搏 ( みゃくはく ) の急になるのを感じた。丁度酒の ( えい ) ( めぐ ) って来るようであった。

 公園の入口まで来て、何となく物騒がしい広小路の夕暮を見渡していたとき、己は熱を病んでいるように、気が遠くなって、脚が体の重りに堪えないようになった。

 何を思うともなしに引き返して、弁天へ降りる石段の上まで来て、又立ち留まった。ベンチの明いているのが一つあるので、それに腰を掛けて、ラシイヌを ( ひるがえ ) して見たが、もうだいぶ ( くら ) くて読めない。無意味に引っ繰り返して、題号なんぞの大きい活字を拾って、 Phedre ( フェエドル )

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なんという題号を見て、ぼんやり考え込んでいた。

 ふいと気が附いて見ると、石段の傍にある街燈に火が附いていた。形が妙に大きくて、不愉快な黄色に見える街燈であった。まさかあんな色の 色硝子 ( いろガラス ) でもあるまい。こん度通る時好く見ようと思う。

 人間の心理状態は 可笑 ( おか ) しなものである。己はあの明りを見て、根岸へ行こうと決心した。そして明りの附いたのと決心との間に、密接の関係でもあるように感じた。人間は遅疑しながら何かするときは、その行為の動機を有り合せの物に帰するものと見える。

 根岸へ向いて歩き出してからは、己はぐんぐん歩いた。歩度は次第に急になった。そして見覚えのある生垣や門が見えるようになってからも、先方の思わくに気兼をして、歩度を緩めるような事はなかった。あの奥さんがどう迎えてくれるかとは思ったが、その迎えかたにこっちが困るような事があろうとは思わなかったのである。

 門には表札の上の処に小さい電燈が附いていて、 ( くぐ ) りの戸が押せば ( ) くようになっていた。それを這入って、 門口 ( かどぐち ) のベルを押したときは、さすがに胸が ( おど ) った。それは奥さんに気兼をする感じではなくて、シチュアシヨンの感じであった。

 いつか見た小間使の外にどんな奉公人がいるか知らないが、もう日が暮れているのだから、知らない顔のものが出て来はしないかと思った。しかしベルが鳴ると、直ぐにあの小間使が出た。奥さんがしづえと呼んでいたっけ。代々の小間使の名かも知れない。おおかた表玄関のお客には、外の女中は出ないのだろう。

 ベルが鳴ってから電気を附けたと見えて、玄関の ( わき ) ※子 ( れんじ )

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の硝子にぱっと明りが映ったのであった。

 己の顔を見て「おや」と云って、「 一寸 ( ちょっと ) 申し上げて参ります」と、急いで引き返して行った。黙って上がっても ( ) いと云われたことはあるが、そうも出来ない。奥へ行ったかと思うと、直ぐに出て来て、「洋室は 煖炉 ( ストオブ ) ( ) いてございませんから、こちらへ」と云って、赤い緒の上草履を ( そろ ) えて出した。

 廊下を二つ三つ曲がった。曲がり角に電気が附いているきりで、どの部屋も真暗で、しんとしている。

 しづえの軽い足音と己の重い足音とが反響をした。短い間ではあったが、夢を見ているような物語めいた感じがした。

 突き当りに 牡丹 ( ぼたん ) 孔雀 ( くじゃく ) をかいた、 塗縁 ( ぬりぶち ) の杉戸がある。上草履を脱いで這入って見ると 内外 ( うちそと ) が障子で、内の障子から明りがさしている。国の内に昔お代官の泊った座敷というのがあって、あれがあんな風に出来ていた。なんというものだか知らない。仮りに書院造りの colonnade ( コロンナアド ) と名づけて置く。 ( こう ) 先生はだいぶお 大名染 ( だいみょうじ ) みた事が好きであったと思う。

 しづえが腰を ( かが ) めて、内の障子を一枚開けた。この ( ) には微かな電燈が只一つ附けてあった。何も掛けてない、大きい 衣桁 ( いこう ) が一つ置いてあるのが目に留まった。しづえは向うの唐紙の際へ行って、こん度は ( ひざ ) を衝いて、「いらっしゃいました」と云って、少し間を置いて唐紙を開けた。

 己はとうとう奥さんに逢った。この第三の会見は、己が幾度か実現させまいと思って、未来へ押し遣るようにしていたのであったが、とうとう実現させてしまったのである。しかも自分が主動者になって。

「どうぞお這入り下さいまし、大変お久し振でございますね」と奥さんは云って、退紅色の粗い ( かた ) の布団を掛けた 置炬燵 ( おきごたつ ) を脇へ押し遣って、 ( きり ) の円火鉢の火を掻き起して、座敷の真ん中に ( ) いてある、お嬢様の据わりそうな、 紫縮緬 ( むらさきちりめん ) の座布団の前に出した。炬燵の ( かたわら ) には 天外 ( てんがい ) の長者星が開けて伏せてあった。

 己は奥さんの態度に意外な真面目と意外な落着きとを感じた。只例の ( なぞ ) の目のうちに、微かな ( えみ ) の影がほのめいているだけであった。奥さんがどんな態度で己に対するだろうという、はっきりした想像を画くことは、己には出来なかった。しかし目前の態度が意外だということだけは直ぐに感ぜられた。そして一種の物足らぬような情と、 萌芽 ( ほうが ) のような反抗心とが、己の意識の底に起った。己が奥さんを「敵」として視る最初は、この瞬間であったかと思う。

 奥さんは人に逢うのを予期してでもいたかと思われるように、束髪の髪の毛一筋乱れていなかった。こん度は己も奥さんの着物をはっきり記憶している。羽織はついぞ見たことのない、黄の勝った緑いろの縮緬であった。綿入はお召縮緬だろう。明るい褐色に、細かい黒い格子があった。帯は銀色に鈍く光る、粗い唐草のような 摸様 ( もよう ) であった。薄桃色の帯揚げが、際立って ( えん ) に若々しく見えた。

 己は良心の軽い 呵責 ( かしゃく ) を受けながら、とうとう読んで見ずにしまったラシイヌの一巻を返した。奥さんは見遣りもせず手にも取らずに、「お帰りの時、どれでも外のをお持ちなさいまし」と云った。

 前からあったのと同じ桐の火鉢が出る。茶が出る。菓子が出る。しづえは静かに這入って静かに立って ( ) く。一間のうちはしんとしていて、話が絶えると、衝く息の音が聞える程である。二重に ( とざ ) された戸の外には風の音もしないので、汽車が汽笛を鳴らして過ぎる時だけ、実世間の消息が通うように思われるのである。

 奥さんは己の返した一つの火鉢を顧みないで、指の ( さき ) の驚くべく細い、透き徹るような左の手を、退紅色摸様の炬燵布団の上に載せて、 ( やや ) 神経質らしく指を拡げたりすぼめたりしながら、目を大きく ( みは )

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って己の顔をじっと見て、「お 烟草 ( たばこ ) を上がりませんの」だの、「この頃あなた何をしていらっしって」だのというような、無意味な問を発する。己も勉めて無意味な返事をする。己は何か言いながら、覚えず奥さんの顔とお雪さんの顔とを較べて見た。

 まあ、なんという違いようだろう。お雪さんの、血の急流が毛細管の中を ( はし ) っているような、ふっくりしてすべっこくない顔には、刹那も表情の変化の絶える ( ひま ) がない。 ( らち ) もない対話をしているのに、 一一 ( いちいち ) ( ことば ) に応じて、一一の表情筋の 顫動 ( せんどう ) が現れる。 Naif ( ナイイフ ) な小曲に sensible ( サンシイブル ) な伴奏がある。

 それに較べて見ると、青み掛かって白い、 希臘 ( ギリシャ ) 風に正しいとでも云いたいような奥さんの顔は、殆ど masque ( マスク ) である。仮面である。表情の影を強いて尋ねる触角は尋ね尋ねて、いつでも大きい濃い褐色の ( ひとみ ) に達してそこに止まる。この奥にばかり何物かがある。これがあるので、奥さんの顔には今にも雷雨が ( ) ようかという夏の空の、電気に飽いた重くるしさがある。 鷙鳥 ( しちょう ) や猛獣の物をねらう目だと云いたいが、そんなに 獰猛 ( どうもう ) なのではない。 Nymphe ( ニンフ ) というものが熱帯の海にいたら、こんな目をしているだろうか。これがなかったら奥さんの顔を mine de mort ( ミイヌ ド モオル ) と云っても好かろう。美しい死人の顔色と云っても好かろう。

 そういう感じをいよいよ強めるのは、この目にだけある唯一の表情が談話と合一しない事である。口は口の詞を語って、目は目の詞を語る。謎の目を一層謎ならしめて、その持主を Sphinx ( スファンクス ) にする処はここにある。

 或る神学者が dogma ( ドグマ ) は詞だと云うと、或る他の神学者が詞は詞だが、「強いられたる」詞だと云ったと聞いたが、奥さんの目の謎に己の与えた解釈も強いられたる解釈である。

 己がこの日記を今の形のままでか、又はその形を改めてか、世に公にする時が来るだろうか。それはまだ解釈せられない疑問である。仮に他日これを読む人があるとして、己はここでその読む人に言う。「読者よ。僕は君に或る不可思議な告白をせねばならない。そしてその告白の端緒はこれから開ける」

 奥さんの目の謎は伝染する。その謎の詞に己の目も応答しなくてはならなくなる。

 夜の静けさと闇とに飽いている上野の森を背に負うた、根岸の家の一間で、電燈は ( やわらか ) い明りを ( たた ) え、火鉢の火が被った白い灰の下から、 ( うすぎぬ ) を漏る肌の光のように、優しい ( あたた ) まりを送る時、奥さんと己とは、汽車の座席やホテルの食卓を偶然共にした旅人と旅人とが語り交すような対話をしている。万人に公開しても ( ) いような対話である。初度の会見の折の出来事を ( けみ ) して来た己が、決して予期していなかった対話である。

 それと同時に奥さんはその口にする詞の一語一語を目の詞で打消して、「あなたとわたくしとの間では、そんな事はどうでも好うございまさあねえ」とでもいうように、 ironiquement ( イロニックマン ) に打消して全く別様な話をしている。 Une persuasion puissante et chaleureuse ( ユヌ ペルシュアジョン ピュイッサント エエ シャリヨナリヨオズ ) である。そして己の目は 無慙 ( むざん ) に、抗抵なくこの話に引き入れられて、同じ詞を語る。

 席と席とは二三尺を隔てて、己の手を ( かざ ) しているのと、奥さんに閑却せられているのと、二つの火鉢が中に置いてある。そして目は吸引し、霊は回抱する。一団の 火焔 ( かえん ) が二人を ( つつ ) んでしまう。

 己はこういう時間の非常に長いのを感じた。その時間は苦痛の時間である。そして或る瞬間に、今あからさまに覚える苦痛を、この奥さんを知ってからは、意識の下で絶間なく、 ( かすか ) に覚えているのであったという発見が、稲妻のように、地獄の ( ほのお ) ( けむり ) とに巻かれている、己の意識を ( かす ) めて過ぎた。

 この ( あいだ ) に苦痛は次第に奥さんを敵として見させるようになった。時間が延びて ( ) くに連れて、この感じが段々長じて来た。 ( ) し己が強烈な意志を持っていたならば、この時席を ( ) ( ) って帰っただろう。そして奥さんの白い滑かな頬を ( ) たずに帰ったのを遺憾としただろう。

 突然なんの著明な動機もなく、なんの 過渡 ( かと ) もなしに。(この下日記の紙一枚引き裂きあり)

 その時己は奥さんの目の ( うち ) の微笑が、 凱歌 ( がいか ) を奏するような ( わらい ) に変じているのを見た。そして一たび ( ) えた無意味な、余所々々 ( よそよそ ) しい対話が又続けられた。奥さんを敵とする己の感じは愈々 ( いよいよ ) 強まった。奥さんは云った。

「わたくし二十七日に立って、箱根の 福住 ( ふくずみ ) へ参りますの。一人で参っておりますから、お暇ならいらっしゃいましな」

「さようですね。僕は少し遣って見ようかと思っている 為事 ( しごと ) がありますから、どうなりますか分りません。もう大変遅くなりました」

「でもお暇がございましたらね」

 奥さんが、傍に這っている、絹糸を巻いた導線の尖の 控鈕 ( ぼたん ) を押すと、遠くにベルの鳴る音がした。廊下の足音が暫くの間はっきり聞えていてから、次の間まで来たしづえの御用を伺う声がした。呼ばなければ来ないように訓練してあるのだなと、己は思った。

 しづえは己を書棚のある洋室へ案内するのである。己は 迂濶 ( うかつ ) にも、借りている一巻を返すことに就いてはいろいろ考えていたが、跡を ( かり ) るということに就いてはちっとも考えていなかった。己は思案する ( ひま ) もなく、口実の書物を取り換えに座を起った。打勝たれた人の 腑甲斐 ( ふがい ) ない感じが、己の胸を刺した。

 先きに立って這入って、電燈を点じてくれたしづえと一しょに、己は洋室にいたとき、意識の海がまだ波立っていた為めか、お雪さんと一しょにいるより、一層強い 窘迫 ( きんぱく ) と興奮とを感じた。しかしこの娘はフランスの小説や脚本にある部屋附きの女中とは違って、おとなしく、つつましやかに、 入口 ( いりくち ) の傍に立ち留まって、両手の指を 緋鹿子 ( ひがのこ ) の帯上げの上の処で、からみ合わせていた。こういう時に恐るべき微笑もせずに、極めて真面目に。

 己は選びもせずに、ラシイヌの ( ほか ) の一巻を ( ) き出して、 ( ) て来た一巻を代りに入れて置いて、しづえと一しょに洋室を出た。

 己を悩ました ( しち ) の、ラシイヌの一巻は依然として己の手の ( うち ) に残ったのである。そして又己を悩まさなくては済まないだろう。

 奥さんの部屋へ、 暇乞 ( いとまごい ) に覗くと、奥さんは起って送りに出た。上草履を直したしづえは、廊下の曲り角で姿の見えなくなる程距離を置いて、跡から附いて来た。

「お暇があったら箱根へいらっしゃいましね」と、静かな緩い語気で、奥さんは玄関に立っていて繰り返した。

「ええ」と云って、己は奥さんの姿に最後の 一瞥 ( いちべつ ) を送った。

 髪の毛一筋も乱れていない。着物の襟をきちんと正して立っている、しなやかな姿が、又端なく己の反感を促した。敵は己を箱根へ誘致せずには置かないかなと、己は心に思いながら右の手に持っていた帽を被って出た。

 空は青く晴れて、低い処を濃い霧の立ち ( ) めている根岸の小道を歩きながら、己は坂井夫人の人と ( ) りを思った。その時己の記憶の表面へ、力強く他の写象を排して浮き出して来たのは、ベルジック文壇の 耆宿 ( きしゅく ) Lemonnier ( ルモンニエエ の書いた Aude ( オオド ) が事であった。あの読んだ時に、女というものの一面を余りに誇張して書いたらしく感じたオオドのような女も、坂井夫人が有る以上は、決して無いとは云われない。

 恥辱のペエジはここに尽きる。

 己は ( まず ) い小説のような日記を書いた。