第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
一の五
わが本隊は右、 先鋒隊 ( せんぽうたい ) は左、敵の艦隊をまん中に取りこめて、引つ包んで撃たんとす。戦いは今たけなわになりぬ。戦いの熱するに従って、武男はいよいよわれを忘れつ。その昔学校にありて、ベースボールに熱中せし時、勝敗のここしばらくの間に決せんとする大事の時に際するごとに、身のたれたり場所のいずくたるを忘れ、ほとんど物ありて 空 ( くう ) よりわれを引き回すように覚えしが、今やあたかもその時に異ならざるの感を覚えぬ。艦隊敵と離れてまた敵に向かい行く間と、艦体一転して左舷敵に向かい右舷しばらく閑なる間とを除くほかは、間断なき号令に声かれ、汗は 淋漓 ( りんり ) として満面にしたたるも、さらに覚えず。旗艦を目ざす敵の弾丸ひとえに松島にむらがり、鉄板上に裂け、 木板 ( ぼくはん ) 焦がれ、血は甲板にまみるるも、さらに覚えず。敵味方の砲声はあたかも心臓の鼓動に時を合わしつつ、やや 間 ( かん ) あれば耳辺の寂しきを怪しむまで、身は全く血戦の熱に浮かされつ。されば、部下の砲員も乱れ飛ぶ敵弾を物ともせず、 装填 ( そうてん ) し照準を定め 牽索 ( ひきなわ ) を張り発射しまた装填するまで、射的場の精確さらに実戦の熱を加えて、火災は起こらんとするに消し、 弾 ( だん ) は命ぜざるに運び、死亡負傷はたちまち運び去り、ほとんど士官の命を待つまでもなく、手おのずから動き、足おのずから働きて、戦闘機関は間断なくなめらかに運転せるなり。
この時目をあぐれば、灰色の煙空をおおい海をおおうて 十重二十重 ( とえはたえ ) に渦まける間より、思いがけなき敵味方の 檣 ( ほばしら ) と軍艦旗はかなたこなたにほの見え、ほとんど秒ごとに 轟然 ( ごうぜん ) たる響きは海を震わして、 弾 ( だん ) は弾と空中に相うって爆発し、海は間断なく水柱をけ上げて煮えかえらんとす。
「愉快! 定遠が焼けるぞ!」かれたる声ふり絞りて分隊長は叫びぬ。
煙の絶え間より望めば、 黄竜旗 ( こうりょうき ) を翻せる敵の旗艦の前部は黄煙渦まき起こりて、 蟻 ( あり ) のごとく敵兵のうごめき騒ぐを見る。
武男を初め砲員一斉に快を叫びぬ。
「さあ、やれ。やっつけろッ!」
勢い込んで、砲は一時に打ち 出 ( いだ ) しぬ。
左右より 夾撃 ( きょうげき ) せられて、敵の艦隊はくずれ立ちたり。超勇はすでにまっ先に火を帯びて沈み、揚威はとくすでに大破して 逃 ( のが ) れ、致遠また没せんとし、定遠火起こり、来遠また火災に苦しむ。こらえ兼ねし敵艦隊はついに定遠鎮遠を残して、ことごとくちりぢりに逃げ 出 ( いだ ) しぬ。わが先鋒隊はすかさずそのあとを追いぬ。本隊五艦は残れる定遠鎮遠を撃たんとす。
第四回の戦い始まりぬ。
時まさに三時、定遠の前部は火いよいよ燃えて、黄煙おびただしく立ち上れど、なお 逃 ( のが ) れず。鎮遠またよく旗艦を護して、二大鉄艦 巍然 ( ぎぜん ) 山のごとくわれに向かいつ。わが本隊の五艦は今や全速力をもって敵の周囲を 駛 ( は ) せつつ、幾回かめぐりては乱射し、めぐりては乱射す。砲弾は雨のごとく二艦に注ぎぬ。しかも軽装快馬のサラセン武士が馬をめぐらして 重鎧 ( じゅうがい ) の十字軍士を射るがごとく、命中する弾丸多くは二艦の重鎧にはねかえされて、艦外に破裂し終わりつ。午後三時二十五分わが旗艦松島はあたかも敵の旗艦と相並びぬ。わがうち出す速射砲弾のまさしく彼が艦腹に 中 ( あた ) りて、はねかえりて花火のごとくむなしく艦外に破裂するを望みたる武男は、憤りに 堪 ( た ) え得ず、歯をくいしばりて、右の手もて剣の 柄 ( つか ) を 破 ( わ ) れよと打ちたたき、
「分隊長、無念です。あ……あれをごらんなさい。 畜生 ( ちくしょう ) ッ!」
分隊長は 血眼 ( ちまなこ ) になりて甲板を踏み鳴らし
「うてッ! 甲板をうて、甲板を! なあに! うてッ!」
「うてッ!」武男も声ふり絞りぬ。
歯をくいしばりたる砲員は憤然として勢い 猛 ( たけ ) く 連 ( つる ) べ 放 ( う ) ちに打ち 出 ( いだ ) しぬ。
「も一つ!」
武男が叫びし声と同時に、 霹靂 ( へきれき ) 満艦を震動して、砲台内に噴火山の破裂するよと思うその時おそく、雨のごとく飛び散る物にうたれて、武男はどうと倒れぬ。
敵艦の 発 ( う ) ち 出 ( いだ ) したる三十サンチの 大榴弾 ( だいりゅうだん ) 二個、あたかも砲台のまん中を貫いて破裂せしなり。
「残念ッ!」
叫びつつはね起きたる武男は、また 尻居 ( しりい ) にどうと倒れぬ。
彼は今 体 ( たい ) の下半におびただしき苦痛を覚えつ。倒れながらに見れば、あたりは一面の血、火、肉のみ。分隊長は見えず。砲台は 洞 ( ほら ) のごとくなりて、その間より青きもの揺らめきたり。こは海なりき。
苦痛と、いうべからざるいたましき 臭 ( か ) のために、武男が目は閉じぬ。人のうめく声。物の燃ゆる音。ついで「火災! 火災! ポンプ用意ッ!」と叫ぶ声。同時に 走 ( は ) せ来る足音。
たちまち武男は手ありてわれをもたぐるを覚えつ。手の脚部に触るるとともに、限りなき苦痛は脳頂に響いて、思わず「あ」と叫びつつのけぞり―― 紅 ( くれない ) の 靄 ( もや ) 閉ざせる目の前に渦まきて、次第にわれを失いぬ。
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