第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
五の三
「御免ください」
とはいって来しは四十五六とも見ゆる品よき婦人、目 病 ( や ) ましきにや、水色の 眼鏡 ( めがね ) をかけたり。顔のどことなく伊香保の三階に見し人に似たりと思うもそのはずなるべし。こは片岡中将の先妻の姉 清子 ( せいこ ) とて、貴族院議員子爵 加藤俊明 ( かとうとしあき ) 氏の夫人、 媒妁 ( なかだち ) として浪子を川島家に 嫁 ( とつ ) がしつるもこの夫婦なりけるなり。
中将はにこやかにたちて椅子をすすめ、椅子に向かえる窓の 帷 ( とばり ) を少し引き立てながら、
「さあ、どうか。非常にごぶさたをしました。 御主人 ( おうち ) じゃ相変わらずお 忙 ( せわ ) しいでしょうな。ははははは」
「まるで
※駝師 ( うえきや ) でね、 木鋏 ( はさみ ) は放しませんよ。ほほほほ。まだ 菖蒲 ( しょうぶ ) には早いのですが、自慢の朝鮮 柘榴 ( ざくろ ) が花盛りで、 薔薇 ( ばら ) もまだ残ってますからどうかおほめに来てくださいまして、ね、くれぐれ申しましたよ。ほほほほ。――どうか、 毅一 ( きい ) さんや 道 ( みい ) ちゃんをお連れなすッて」と水色の眼鏡は片岡夫人の 方 ( かた ) に向かいぬ。打ち明けていえば、子爵夫人はあまり水色の眼鏡をば好まぬなり。教育の 差 ( ちがい ) 、気質の異なり、そはもちろんの事として、先妻の姉――これが始終心にわだかまりて、不快の 種子 ( たね ) となれるなり。われひとり主人中将の心を占領して、われひとり家に女 主人 ( あるじ ) の威光を振るわんずる鼻さきへ、先妻の姉なる人のしばしば出入して、 亡 ( な ) き妻の 面影 ( おもかげ ) を主人の 眼前 ( めさき ) に浮かぶるのみか、口にこそ 出 ( いだ ) さね、わがこれをも昔の 名残 ( なごり ) とし 疎 ( うと ) める浪子、 姥 ( うば ) の幾らに同情を寄せ、死せる 孔明 ( こうめい ) のそれならねども、何かにつけてみまかりし人の影をよび起こしてわれと争わすが、はなはだ快からざりしなり。今やその浪子と姥の幾はようやくに去りて、治外の法権 撤 ( と ) れしはやや心安きに似たれど、今もかの水色眼鏡の顔見るごとに、 髣髴 ( ほうふつ ) 墓中の人の 出 ( い ) で来たりてわれと 良人 ( おっと ) を争い、主婦の権力を争い、せっかく立てし教育の方法家政の 経綸 ( けいりん ) をも争わんずる 心地 ( ここち ) して、おのずから安からず覚ゆるなりけり。
水色の眼鏡は 蝦夷錦 ( えぞにしき ) の 信玄袋 ( しんげんぶくろ ) より 瓶詰 ( びんづめ ) の菓子を取り 出 ( いだ ) し
「もらい物ですが、 毅一 ( きい ) さんと 道 ( みい ) ちゃんに。まだ学校ですか、見えませんねエ。ああ、そうですか。――それからこれは 駒 ( こま ) さんに」
と紅茶を持て来し 紅 ( くれない ) のリボンの少女に 紫陽花 ( あじさい ) の 花簪 ( はなかんざし ) を与えつ。
「いつもいつもお気の毒さまですねエ、どんなに喜びましょう」と言いつつ子爵夫人は 件 ( くだん ) の瓶をテーブルの上に置きぬ。
おりから 婢 ( おんな ) の来たりて、赤十字社のお方の奥様に御面会なされたしというに、子爵夫人は会釈して場をはずしぬ。室を 出 ( い ) でける時、あとよりつきて 出 ( い ) でし 少女 ( おとめ ) を小手招きして、何事をかささやきつ。小戻りして、窓のカーテンの陰に 内 ( うち ) の話を立ち聞く 少女 ( おとめ ) をあとに残して、夫人は廊下伝いに応接間の 方 ( かた ) へ行きたり。紅のリボンのお駒というは、今年十五にて、これも先妻の腹なりしが、夫人は姉の浪子を 疎 ( うと ) めるに引きかえてお駒を愛しぬ。 寡言 ( ことばすくな ) にして何事も内気なる浪子を、意地わるき 拗 ( す ) ね者とのみ思い誤りし夫人は、姉に比してやや 侠 ( きゃん ) なる 妹 ( いもと ) のおのが気質に似たるを喜び、一は姉へのあてつけに、一はまた 継子 ( ままこ ) とて愛せぬものかと世間に見せたき心も――ありて、父の愛の姉に注げるに対しておのずから味方を妹に求めぬ。
私強 ( わたくしづよ ) き人の 性質 ( たち ) として、ある 方 ( かた ) には人の思わくも思わずわが思うままにやり通すこともあれど、また思いのほかにもろくて人の評判に気をかねるものなり。 畢竟 ( ひっきょう ) 名と利とあわせ収めて、好きな事する上に人によく思われんとするは、わがまま者の常なり。かかる人に限りて、おのずからへつらいを喜ぶ。子爵夫人は男まさりの、しかも洋風仕込みの、議論にかけては威命天下に響ける夫中将にすら 負 ( ひけ ) を取らねど、中将のいたるところ友を作り 逢 ( あ ) う人ごとに慕わるるに引きかえて、愛なき身には味方なく、心さびしきままにおのずからへつらい寄る人をば喜びつ。召使いの 僕婢 ( おとこおんな ) も 言 ( こと ) に 訥 ( おそ ) きはいつか退けられて、世辞よきが用いられるようになれば、幼き駒子も必ずしも姉を忌むにはあらざれど、姉を 譏 ( そし ) るが継母の気に入るを覚えてより、ついには告げ口の癖をなして、 姥 ( うば ) の幾に顔しかめさせしも一度二度にはあらず。されば姉は 嫁 ( とつ ) ぎての今までも、継母のためには細作をも務むるなりけり。
東側の縁の、二つ目の窓の陰に身を 側 ( そば ) めて、聞きおれば、時々腹より押し出したような父の笑い声、 凛 ( りん ) とした伯母の笑い声、かわるがわる聞こえしが、後には話し声のようやく 低音 ( こえひく ) になりて、「 姑 ( しゅうとめ ) 」「浪さん」などのとぎれとぎれに聞こゆるに、 紅 ( あか ) リボンの 少女 ( おとめ ) はいよよ耳傾けて聞き居たり。
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