University of Virginia Library

Search this document 
  

collapse section1. 
 1. 
 2. 
 3. 
 4. 
 5. 
 6. 
 7. 
 8. 
 9. 
 10. 
 11. 
 12. 
 13. 
 14. 
 15. 
 16. 
 17. 
 18. 
七の一
 19. 
collapse section2. 
 1. 
 2. 
 3. 
 4. 
 5. 
 6. 
 7. 
 8. 
 9. 
 10. 
 11. 
 12. 
 13. 
 14. 
 15. 
 16. 
 17. 
 18. 
 19. 
 20. 
 21. 
 22. 
 23. 
 24. 
collapse section3. 
 1. 
 2. 
 3. 
 4. 
 5. 
 6. 
 7. 
 8. 
 9. 
 10. 
 11. 
 12. 
 13. 
 14. 
 15. 
 16. 
 17. 
 18. 
 19. 
 20. 
 21. 
 22. 
 23. 
 24. 
 25. 
 26. 
 27. 
 28. 
 29. 
  

  

七の一

 流汗を ( ふる ) いつつ華氏九十九度の 香港 ( ほんこん ) より申し上げ ( そろ ) 佐世保 ( させほ ) 抜錨 ( ばつびょう ) までは先便すでに申し上げ置きたる通りに 有之 ( これあり ) 候。さて佐世保出帆後は連日の快晴にて暑気 ( ) くがごとく、さすが神州海国男子も少々 辟易 ( へきえき ) 、もっとも同僚士官及び兵のうち八九名日射病に襲われたる者 有之 ( これあり ) 候えども、小生は至極健全、 ( ごう ) も病室の厄介に相成り申さず。ただしご存じ通りの 黒人 ( くろんぼう ) が赤道近き烈日に焦がされたるため、いよいよもって大々的黒面漢と相成り、 今日 ( こんにち ) ちょっと同僚と上陸し、市中の理髪店にいたり候ところ、ふと鏡を見てわれながらびっくりいたし候。 意地 ( いじ ) わるき同僚が、君、どう、着色写真でも ( ) って、君のブライドに送らんかと戯れ候も一興に候。途中は右の通り快晴(もっとも一回モンスーンの来襲ありたれども)一同万歳を唱えて昨早朝 ( いかり ) を当湾内に投じ申し候。
 先日のお手紙は佐世保にて落手、一読再読いたし候。母上リョウマチス、年来の御持病、誠に困りたる事に候。しかし今年は浪さんが控えられ候事ゆえ、小生も大きに安心に候。何とぞ小生に代わりてよくよく心を 御用 ( おんもち ) いくださるべく候。御病気の節は別して御気分よろしからざる方なれば、浪さんも定めていろいろと骨折らるべく 遙察 ( ようさつ ) いたし候。赤坂の方も定めておかわりもなかるべくと存じ申し候。加藤の伯父さんは相変わらず 木鋏 ( きばさみ ) が手を放れ申すまじきか。
  幾姥 ( いくばあ ) は帰り候由。何ゆえに候や存ぜず候えども、実に残念の事どもに候。浪さんより 便 ( たより ) あらばよろしくよろしく伝えらるべく、帰りには ( ばあ ) へ沢山 土産 ( みやげ ) を持って来ると 御伝 ( おんつた ) えくだされたく候。実に愉快な女にて小生も大好きに候ところ、赤坂の方に帰りしは残念に候。浪さんも何かと不自由にさびしかるべくと存じ候。加藤の伯母様や 千鶴子 ( ちずこ ) さんは時々まいられ候や。
  千々岩 ( ちぢわ ) はおりおりまいり候由。小生らは誠に親類少なく、千々岩はその少なき親類の一 ( にん ) なれば、母上も自然頼みに ( おぼ ) す事に候。同人をよく ( たい ) するも母上に孝行の一に 有之 ( これある ) べく候。同人も才気あり胆力ある男なれば、まさかの時の頼みにも相成るべく候。(下略)
香港にて        
    七月 日
武 男     
   お浪どの
 母上に別紙(略之)読んでお聞かせ申し上げられたく候。
 当池には四五日 碇泊 ( ていはく ) 、食糧など買い入れ、それよりマニラを経て豪州シドニーへ、それよりニューカレドニア、フィジー諸島を経て、サンフランシスコへ、それよりハワイを経て帰国のはずに候。帰国は多分秋に相成り申すべく候。
 手紙はサンフランシスコ日本領事館留め置きにして出したまえ。

     〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 (前文略)去る五月は浪さんと伊香保にあり、 ( わらび ) 採りて慰みしに今は南半球なる豪州シドニーにあり、サウゾルンクロッスの星を仰いでその時を ( おも ) う。奇妙なる世の中に候。先年練習艦にて遠洋航海の節は、どうしても時々 船暈 ( ふなよい ) を感ぜしが、今度は無病息災われながら達者なるにあきれ候。しかし今回は先年に覚えなき感情身につきまとい候。航海中当直の ( ) など、まっ黒き空に金剛石をまき散らしたるような南天を仰ぎて、ひとり艦橋の上に立つ時は、何とも言い難き感が起こりて、浪さんの姿が目さきにちらちらいたし( 女々 ( めめ ) しと笑いたもうな)候。同僚の前ではさもあらばあれ 家郷思遠征 ( かきょうえんせいをおもう ) と吟じて平気に澄ましておれど、(笑いたもうな)浪さんの写真は始終ある人の内ポケットに潜みおり候。今この手紙を書く時も、 ( うち ) のあの六畳の 部屋 ( へや ) 芭蕉 ( ばしょう ) の陰の机に 頬杖 ( ほおづえ ) つきてこの手紙を読む人の面影がすぐそこに見え候(中略)
 シドニー港内には夫婦、家族、他人交えずヨットに乗りて遊ぶ者多し。他日功成り名遂げて小生も浪さんも 白髪 ( しらが ) 爺姥 ( じじばば ) になる時は、あにただヨットのみならんや、五千トンぐらいの汽船を 一艘 ( いっそう ) こしらえ、小生が船長となって、子供や孫を乗組員として世界週航を企て申すべく候。その節はこのシドニーにも来て、何十年 ( ぜん ) 血気盛りの海軍少尉の夢を白髪の浪さんに話し申すべく候(下略)
シドニーにて       
    八月 日
武 男 生     
   浪子さま