第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
十
「号外! 号外! 朝鮮事件の号外!」と 鈴 ( りん ) の音のけたたましゅう呼びあるく新聞売り子のあとより、一 挺 ( ちょう ) の車がらがらと番町なる川島家の門に入りたり。武男は今しも帰り来たれるなり。
武男が帰らば立腹もすべけれど、勝ちは 畢竟 ( ひっきょう ) 先 ( せん ) の 太刀 ( たち ) 、思い切って武男が母は山木が吉報をもたらし帰りしその日、善は急げと
※ ( よめ ) が 箪笥 ( たんす ) 諸道具一切を片岡家に送り戻し、ちと殺生ではあったれど、どうせそのままには置かれぬ 腫物 ( はれもの ) 、切ってしまって安心とこの二三日近ごろになき 好機嫌 ( こうきげん ) のそれに引きかえて、若夫婦 方 ( がた ) なる 僕婢 ( めしつかい ) は気の毒とも笑止ともいわん 方 ( かた ) なく、今にもあれ 旦那 ( だんな ) がお帰りなさらば、いかに孝行の 方 ( かた ) とて、なかなか一通りでは済むまじとはらはら思っていたりしその武男は今帰り来たれるなり。加藤子爵夫人が急を報ぜしその書は途中に 往 ( ゆ ) き違いて、もとより母はそれと言い送らねば、知る由もなき武男は 横須賀 ( よこすか ) に着きて 暇 ( いとま ) を 得 ( う ) るやいな急ぎ帰り来たれるなり。今奥より 出 ( い ) で来たりし仲働きは、茶を入れおりし小間使いを手招き、
「ねエ松ちゃん。旦那さまはちっともご存じないようじゃないか。奥様にお 土産 ( みやげ ) なんぞ持っていらッしたよ」
「ほんとにしどいね。どこの世界に、旦那の留守に奥様を離縁しちまう 母 ( おっか ) さんがあるものかね。旦那様の身になっちゃア、腹も立つはずだわ。鬼 婆 ( ばば ) め」
「あれくらいいやな 婆 ( ばば ) っちゃありゃしない。けちけちの、わからずやの、人をしかり飛ばすがおやくめだからね、なんにもご存じなしのくせにさ。そのはずだよ、ねエ、昔は 薩摩 ( さつま ) でお 芋 ( いも ) を掘ってたンだもの。わたしゃもうこんな 家 ( うち ) にいるのが、しみじみいやになッちゃった」
「でも旦那様も旦那様じゃないか。御自分の奥様が離縁されてしまうのもちょっとも知らんてえのは、あんまり七月のお 槍 ( やり ) じゃないかね」
「だッて、そらア無理ゃないわ。遠方にいらっしたンだもの。だれだって、 下女 ( おんな ) じゃあるまいし、肝心な 子息 ( むすこ ) に相談もしずに、さっさと
※ ( よめ ) を追い出してしまおうた思わないわね。それに旦那様もお年が若いからねエ。ほんとに旦那様もおかあいそう――奥様はなおおかあいそうだわ。今ごろはどうしていらッしゃるだろうねエ。ああいやだ――ほウら、 婆 ( ばば ) あが怒鳴りだしたよ。松ちゃんせッせとしないと、また八つ当たりでおいでるよ」奥の一間には母子の問答次第に熱しつ。
「だッて、あの時あれほど申し上げて置いたです。それに手紙一本くださらず、無断で――実にひどいです。実際ひどいです。今日もちょいと逗子に寄って来ると、浪はおらんでしょう、いくに尋ねると何か要があって東京に帰ったというです。変と思ったですが、まさか 母 ( おっか ) さんがそんな事を――実にひどい――」
「それはわたしがわるかった。わるかったからこの通り親がわびをしておるじゃなッかい。わたしじゃッて何も浪が 悪 ( にく ) かというじゃなし、 卿 ( おまえ ) がかあいいばッかいで――」
「 母 ( おっか ) さんはからだばッかり大事にして、名誉も体面も情もちょっとも思ってくださらんのですな。あんまりです」
「武男、 卿 ( おまえ ) はの、男かい。女じゃあるまいの。親にわび 言 ( ごと ) いわせても、やっぱい浪が恋しかかい。恋しかかい。恋しかか」
「だッて、あんまりです、実際あんまりです」
「あんまいじゃッて、もう 後 ( あと ) の 祭 ( まつい ) じゃなッか。あっちも承知して、きれいに引き取ったあとの事じゃ。この上どうすッかい。 女々 ( めめ ) しか事をしなはッと、親の恥ばッかいか、 卿 ( おまえ ) の男が立つまいが」
黙然 ( もくねん ) と聞く武男は 断 ( き ) れよとばかり下くちびるをかみつ。たちまち 勃然 ( ぼつねん ) と立ち上がって、病妻にもたらし帰りし 貯林檎 ( かこいりんご ) の 籠 ( かご ) をみじんに踏み砕き、
「 母 ( おっか ) さん、あなたは、浪を殺し、またそのうえにこの武男をお殺しなすッた。もうお目にかかりません」
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武男は直ちに横須賀なる軍艦に引き返しぬ。
韓山 ( かんざん ) の風雲はいよいよ急に、七 月 ( げつ ) の中旬 廟堂 ( びょうどう ) の議はいよいよ 清国 ( しんこく ) と開戦に一決して、同月十八日には 樺山 ( かばやま ) 中将新たに海軍軍令部長に補せられ、武男が乗り組める連合艦隊旗艦松島号は他の諸艦を率いて佐世保に集中すべき命を 被 ( こうむ ) りつ。捨てばちの身は砲丸の 的 ( まと ) にもなれよと、武男はまっしぐらに 艦 ( ふね ) とともに西に向かいぬ。
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片岡陸軍中将は浪子の帰りしその翌日より、自らさしずして、邸中の日あたりよく静かなるあたりをえらびて、ことに浪子のために八畳一間六畳二間四畳一間の 離家 ( はなれ ) を建て、逗子より 姥 ( うば ) のいくを呼び寄せて、浪子とともにここに 棲 ( す ) ましつ。九月にはいよいよ命ありて現役に復し、一 夕 ( せき ) 夫人 繁子 ( しげこ ) を書斎に呼びて懇々浪子の事を託したる後、同十三日 大纛 ( だいとう ) に 扈従 ( こしょう ) して広島大本営におもむき、翌月さらに 大山大将 ( おおやまたいしょう ) 山路 ( やまじ ) 中将と前後して 遼東 ( りょうとう ) に向かいぬ。
われらが次を 逐 ( お ) うてその運命をたどり来たれる敵も、味方も、かの消魂も、この 怨恨 ( えんこん ) も、しばし 征清 ( せいしん ) 戦争の大渦に巻き込まれつ。
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