University of Virginia Library

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三の二

 新来の客は二十六七にや。陸軍中尉の服を着たり。軍人には珍しき色白の好男子。惜しきことには、口のあたりどことなく ( いや ) しげなるところありて、黒水晶のごとき目の光鋭く、見つめらるる人に不快の感を起こさすが、 ( きず ) なるべし。こは武男が 従兄 ( いとこ ) に当たる 千々岩安彦 ( ちぢわやすひこ ) とて、当時参謀本部の下僚におれど、腕ききの聞こえある男なり。

 「だしぬけで、びっくりだろう。実は 昨日 ( きのう ) 用があって 高崎 ( たかさき ) に泊まって、 今朝 ( けさ ) 渋川まで来たんだが、伊香保はひと足と聞いたから、ちょっと遊びに来たのさ。それから宿に行ったら、君たちは ( わらび ) 採りの 御遊 ( ぎょゆう ) だと聞いたから、 ( みち ) ( おそ ) わってやって来たんだ。なに、 明日 ( あす ) は帰らなけりゃならん。邪魔に来たようだな。はッはッ」

 「ばかな。――君それから ( うち ) に行ってくれたかね」

 「 昨朝 ( きのう ) ちょっと寄って来た。 叔母様 ( おばさん ) も元気でいなさる。が、もう君たちが帰りそうなものだってしきりとこぼしていなすッたッけ。―― 赤坂 ( あかさか ) の方でもお変わりもありませんです」と例の黒水晶の目はぎらりと浪子の顔に注ぐ。

 さっきからあからめし顔はひとしお ( あこ ) うなりて浪子は下向きぬ。

 「さあ、援兵が来たからもう負けないぞ。陸海軍一致したら、 娘子 ( じょうし ) 軍百万ありといえども恐るるに足らずだ。――なにさ、さっきからこの御婦人方がわが輩 一人 ( ひとり ) をいじめて、やれ蕨の取り方が少ないの、採ったが蕨じゃないだの、 悪口 ( あっこう ) して困ったンだ」と武男は ( あご ) もて今来し ( うば ) と女中をさす。

 「おや、千々岩様――どうしていらッしゃいまして?」と ( うば ) はびっくりした様子にて少し小鼻にしわを寄せつ。

 「おれがさっき電報かけて加勢に呼んだンだ」

 「おほほほ、あんな ( こと ) をおしゃるよ――ああそうで、へえ、 明日 ( あす ) はお帰り遊ばすンで。へえ、帰ると申しますと、ね、奥様、お 夕飯 ( ゆう ) のしたくもございますから、わたくしどもはお先に帰りますでございますよ」

 「うん、それがいい、それがいい。千々岩君も来たから、どっさりごちそうするンだ。そのつもりで腹を減らして来るぞ。ははははは。なに、浪さんも帰る? まあいるがいいじゃないか。味方がなくなるから逃げるンだな。大丈夫さ、決していじめはしないよ。あはははは」

 引きとめられて浪子は居残れば、幾は 女中 ( おんな ) と荷物になるべき 毛布 ( ケット ) 蕨などとりおさめて帰り行きぬ。

 あとに 三人 ( みたり ) はひとしきり蕨を採りて、それよりまだ日も高ければとて 水沢 ( みさわ ) の観音に ( もう ) で、さきに蕨を採りし所まで帰りてしばらく休み、そろそろ帰途に上りぬ。

 夕日は 物聞山 ( ものききやま ) の肩より花やかにさして、道の左右の草原は 萌黄 ( もえぎ ) の色燃えんとするに、そこここに立つ 孤松 ( ひとつまつ ) の影長々と横たわりつ。目をあぐれば、遠き山々静かに夕日を浴び、 ( ふもと ) の方は夕煙諸処に立ち上る。はるか向こうを行く草負い牛の、しかられてもうと鳴く声空に満ちぬ。

 武男は千々岩と並びて話しながら行くあとより浪子は従いて行く。 三人 ( みたり ) ( しず ) かに歩みて、今しも ( たに ) ( わた ) り終わり、坂を上りてまばゆき夕日の道に ( ) でつ。

 武男はたちまち足をとどめぬ。

 「やあ、しまった。ステッキを忘れた。なに、さっき休んだところだ。待っててくれたまえ、ひと走り取って来るから――なに、浪さんは待ってればいいじゃないか。すぐそこだ。全速力で駆けて来る」

 と武男はしいて浪子を押しとめ、ハンケチ包みの蕨を草の上にさし置き、急ぎ足に坂を下りて見えずなりぬ。