第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
三の二
「今日はどんな?」
藤色 ( ふじいろ ) 縮緬 ( ちりめん ) のおこそ 頭巾 ( ずきん ) とともに信玄袋をわきへ押しやり、浪子の枕べ近く立ち寄るは島田の十七八、紺地 斜綾 ( はすあや ) の 吾妻 ( あずま ) コートにすらりとした姿を包んで、 三日月眉 ( みかづきまゆ ) におやかに、 凛々 ( りり ) しき黒目がちの、見るからさえざえとした娘。浪子が伯母加藤子爵夫人の長女、千鶴子というはこの 娘 ( こ ) なり。浪子と千鶴子は 一歳 ( ひとつ ) 違いの 従姉妹 ( いとこ ) 同士。幼稚園に通うころより実の 同胞 ( きょうだい ) も及ばぬほど 睦 ( むつ ) み合いて、浪子が妹の 駒子 ( こまこ ) をして「 姉 ( ねえ ) さんはお千鶴さんとばかり仲よくするからわたしいやだわ!」といわしめしこともありき。されば浪子が川島家に 嫁 ( とつ ) ぎて来し後も、他の学友らはおのずから足を遠くせしに引きかえ、千鶴子はかえってその家の近くなれるを喜びつつ、しばしば足を運べるなり。武男が遠洋航海の留守の間心さびしく 憂 ( う ) き事多かる浪子を慰めしは、燃ゆるがごとき武男の書状を除きては、千鶴子の訪問ぞその 重 ( おも ) なるものなりける。
浪子はほほえみて、
「今日はよっぽどよい方だけども、まだ 頭 ( かみ ) が重くて、時々せきが出て困るの」
「そう?――寒いのね」うやうやしく座ぶとんをすすむる 婢 ( おんな ) をちょっと顧みて、浪子のそば近くすわりつ。 桐胴 ( きりどう ) の 火鉢 ( ひばち ) に 指環 ( ゆびわ ) の宝石きらきらと輝く手をかざしつつ、桜色ににおえる 頬 ( ほお ) を 押 ( おさ ) う。
「伯母様も、伯父様も、おかわりないの?」
「あ、よろしくッてね。あまり寒いからどうかしらッてひどく心配していなさるの、時候が時候だから、少しいい方だッたら 逗子 ( ずし ) にでも転地療養しなすったらッてね、 昨夕 ( ゆうべ ) も 母 ( おっか ) さんとそう話したのですよ」
「そう? 横須賀 ( よこすか ) からもちょうどそう言って来てね……」
「兄さんから? そう? それじゃ早く転地するがいいわ」
「でももうそのうちよくなるでしょうから」
「だッて、このごろの 感冒 ( かぜ ) は本当に用心しないといけないわ」
おりから小間使いの紅茶を持ち来たりて千鶴子にすすめつ。
「 兼 ( かね ) や? 母 ( おっか ) さんは? お客? そう、どなた? 国の 方 ( かた ) なの?――お千鶴さん、今日はゆっくりしていいのでしょう。兼や、お千鶴さんに何かごちそうしておあげな」
「ほほほほ、お百度参りするのだもの、ごちそうばかりしちゃたまらないわ。お待ちなさいよ」言いつつ 服紗 ( ふくさ ) 包みの小重を取り出し「こちらの伯母さんはお 萩 ( はぎ ) がおすきだッたのね、少しだけども、――お客様ならあとにしましょう」
「まあ、ありがとう。本当に……ありがとうよ」
千鶴子はさらに 紅蜜柑 ( べにみかん ) を取り出しつつ「きれいでしょう。これはわたしのお 土産 ( みやげ ) よ。でもすっぱくていけないわ」
「まあきれい、一ツむいてちょうだいな」
千鶴子がむいて渡すを、さもうまげに吸いて、 額 ( ひたえ ) にこぼるる髪をかき上げ、かき上げつ。
「うるさいでしょう。ざっと 結 ( い ) ってた方がよかないの? ね、ちょっと結いましょう。――そのままでいいわ」
勝手知ったる次の間の鏡台の 櫛 ( くし ) 取り 出 ( いだ ) して、千鶴子は手柔らかにすき始めぬ。
「そうそう、昨日の同窓会―― 案内状 ( しらせ ) が来たでしょう――はおもしろかってよ。みんながよろしくッて、ね。ほほほほ、学校を下がってからまだやっと一年しかならないのに、もう三一はお嫁だわ。それはおかしいの、 大久保 ( おおくぼ ) さんも 本多 ( ほんだ ) さんも 北小路 ( きたこうじ ) さんもみんな 丸髷 ( まるまげ ) に 結 ( い ) ってね、変に奥様じみているからおかしいわ。――痛かないの?―ほほほほ、どんな話かと思ったら、みんな自分の 吹聴 ( ふいちょう ) ですわ。そうそう、それから親子別居論が始まってね、北小路さんは自分がちっとも家政ができないに 姑 ( おっかさん ) がたいへんやさしくするものだから同居に限るっていうし、大久保さんはまた 姑 ( おっかさん ) がやかましやだから別居論の勇将だし、それはおかしいの。それからね、わたしがまぜッかえしてやったら、お千鶴さんはまだ門外漢――漢がおかしいわ――だから話せないというのですよ。――すこしつまり過ぎはしないの?」
「イイエ。――それはおもしろかったでしょう。ほほほほ、みんな 自己 ( じぶん ) から割り出すのね。どうせ 局々 ( ところところ ) で違うのだから、一概には言えないのでしょうよ。ねエ、お千鶴さん。伯母様もいつかそうおっしゃったでしょう。若い者ばかりじゃわがままになるッて、本当にそうですよ、年寄りを疎略に思っちゃ済まないのね」
父中将の教えを受くるが上に、おのずから家政に趣味をもてる浪子は、 実家 ( さと ) にありけるころより継母の 政 ( まつりごと ) を傍観しつつ、ひそかに自家の 見 ( けん ) をいだきて、自ら一家の 女主 ( あるじ ) になりたらん日には、みごと家を 斉 ( ととの ) えんものと思えるは、一日にあらざりき。されど川島家に来たり嫁ぎて、万機一に摂政太后の手にありて、身はその 位 ( くらい ) ありてその権なき太子妃の位置にあるを見るに及びて、しばしおのれを収めて姑の支配の 下 ( もと ) に立ちつ。親子の間に立ち迷いて、思うさま 良人 ( おっと ) にかしずくことのままならぬをひそかにかこてるおりおりは、かつてわが 国風 ( こくふう ) に 適 ( あ ) わずと思いし継母が得意の 親子 ( しんし ) 別居論のあるいは真理にあらざるやを疑うこともありしが、これがためにかえって浪子は初心を破らじとひそかに心に 帯 ( おび ) せるなり。
継母の 下 ( もと ) に 十年 ( ととせ ) を送り、今は姑のそばにやがて一年の経験を積める 従姉 ( いとこ ) の底意を、ことごとくはくみかねし千鶴子、三つに組みたる髪の端を白きリボンもて結わえつつ、浪子の顔さしのぞきて、声を低め、「このごろでも 御機嫌 ( ごきげん ) がわるくッて?」
「でも、病気してからよくしてくださるのですよ。でもね、…… 武男 ( うち ) にいろいろするのが、おかあさまのお気に入らないには困るわ! それで、いつでも 此家 ( ここ ) ではおかあさまが 女皇陛下 ( クイーン ) だからおれよりもたれよりもおかあさまを一番大事にするンだッて、しょっちゅう言って聞かされるのですわ……あ、もうこんな話はよしましょうね。おおいい気持ち、ありがとう。頭が軽くなったわ」
言いつつ三つ組みにせし髪をなで試みつ。さすがに疲れを覚えつらん、浪子は目を閉じぬ。
櫛 ( くし ) をしまいて、紙に手をふきふき、鏡台の前に立ちし千鶴子は、小さき箱の 蓋 ( ふた ) を開きて、 掌 ( たなそこ ) に載せつつ、
「何度見てもこの 襟止 ( びん ) はきれいだわ。本当に 兄 ( にい ) さんはよくなさるのねエ。 内 ( うち ) の――兄さん(これは千鶴子の婿養子と定まれる 俊次 ( しゅんじ ) といいて、目下外務省に奉職せる男)なんか、外交官の妻になるには語学が達者でなくちゃいけないッて、 仏語 ( フレンチ ) を勉強するがいいの、ドイツ語がぜひ必要のッて、責めてばかりいるから困るわ」
「ほほほほ、お千鶴さんが 丸髷 ( まるまげ ) に 結 ( い ) ったのを早く見たいわ――島田も惜しいけれど」
「まあいや!」美しき 眉 ( まゆ ) はひそめど、裏切る 微笑 ( えみ ) は 薔薇 ( ばら ) の 莟 ( つぼ ) めるごとき唇に流れぬ。
「あ、ほんに、 萩原 ( はぎわら ) さんね、そらわたしたちより一年 前 ( さき ) に卒業した――」
「あの 松平 ( まつだいら ) さんに 嫁 ( い ) らっした方でしょう」
「は、あの方がね、 昨日 ( きのう ) 離縁になったンですッて」
「離縁に? どうしたの?」
「それがね、 舅 ( おとうさん ) 姑 ( おかあさん ) の気には入ってたけども、松平さんがきらってね」
「子供がありはしなかったの」
「 一人 ( ひとり ) あったわ。でもね、松平さんがきらって、このごろは 妾 ( めかけ ) を置いたり、囲い者をしたり、乱暴ばかりするからね、萩原さんのおとうさんがひどく 怒 ( おこ ) つてね、そんな薄情な者には、娘はやって置かれぬてね、とうとう引き取ってしまったんですッて」
「まあ、かあいそうね。――どうしてきらうのでしょう、本当にひどいわ」
「腹が立つのねエ。――逆さまだとまだいいのだけど、 舅姑 ( しゅうと ) の気に入っても 良人 ( おっと ) にきらわれてあんな事になっては本当につらいでしょうねエ」
浪子は吐息しつ。
「同じ学校に出て同じ教場で同じ本を読んでも、みんなちりぢりになって、どうなるかわからないものねエ。――お千鶴さん、いつまでも仲よく、さきざき力になりましょうねエ」
「うれしいわ!」
二人 ( ふたり ) の手はおのずから相結びつ。ややありて浪子はほほえみ、
「こんなに寝ていると、ね、いろいろな事を考えるの。ほほほほ、笑っちゃいやよ。これから何年かたッてね、どこか外国と戦争が起こるでしょう、日本が勝つでしょう、そうするとね、お千鶴さん 宅 ( とこ ) の兄さんが外務大臣で、先方へ乗り込んで講和の談判をなさるでしょう、それから 武男 ( うち ) が艦隊の司令長官で、何十 艘 ( そう ) という軍艦を向こうの港にならべてね……」
「それから赤坂の叔父さんが軍司令官で、 宅 ( うち ) のおとうさんが貴族院で何億万円の軍事費を議決さして……」
「そうするとわたしはお千鶴さんと赤十字の旗でもたてて出かけるわ」
「でもからだが弱くちゃできないわ。ほほほほ」
「おほほほほ」
笑う下より浪子はたちまちせきを発して、右の胸をおさえつ。
「あまり話したからいけないのでしょう。胸が痛むの?」
「時々せきするとね、ここに響いてしようがないの」
言いつつ浪子の目はたちまちすうと薄れ行く障子の日影を打ちながめつ。
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