第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
一の四
黄海! 昨夜月を浮かべて白く、今日もさりげなく雲を
※ ( ひた ) し、島影を載せ、 睡鴎 ( すいおう ) の夢を浮かべて、 悠々 ( ゆうゆう ) として 画 ( え ) よりも静かなりし黄海は、今 修羅場 ( しゅらじょう ) となりぬ。艦橋をおりて武男は右舷速射砲台に行けば、分隊長はまさに双眼鏡をあげて敵の 方 ( かた ) を望み、部下の砲員は 兵曹 ( へいそう ) 以下おおむねジャケットを脱ぎすて、腰より上は 臂 ( ひじ ) ぎりのシャツをまといて潮風に黒める筋太の腕をあらわし、 白木綿 ( しろもめん ) もてしっかと腹部を巻けるもあり。黙して号令を待ち構えつ。この時わが先鋒隊は敵の右翼を乱射しつつすでに敵前を過ぎ終わらんとし、わが本隊の第一に進める松島は全速力をもって敵に近づきつつあり。双眼鏡をとってかなたを望めば、敵の中央を堅めし定遠鎮遠はまっ先にぬきんでて、横陣やや鈍角をなし、距離ようやく縮まりて二艦の 形状 ( かたち ) は遠目にも次第にあざやかになり来たりぬ。卒然として往年かの二艦を横浜の 埠頭 ( ふとう ) に見しことを思い 出 ( い ) でたる武男は、倍の好奇心もて打ち見やりつ。依然当時の二艦なり。ただ、今は黒煙をはき、 白波 ( はくは ) をけり、砲門を開きて、 咄々 ( とつとつ ) 来たってわれに迫らんとするさまの、さながら悪獣なんどの来たり向こうごとく、恐るるとにはあらで一種やみ難き 嫌厭 ( けんえん ) を 憎悪 ( ぞうお ) の胸中にみなぎり 出 ( い ) づるを覚えしなり。
たちまち海上はるかに一声の 雷 ( らい ) とどろき、物ありグーンと空中に鳴りをうって、松島の 大檣 ( たいしょう ) をかすめつつ、海に落ちて、二丈ばかり水をけ上げぬ。武男は後頂より 脊髄 ( せきずい ) を通じて言うべからざる冷気の走るを覚えしが、たちまち足を踏み固めぬ。他はいかにと見れば、砲尾に群がりし砲員の列一たびは揺らぎて、また動かず。艦いよいよ進んで、三個四個五個の敵弾つづけざまに乱れ飛び、一は左舷につりし端艇を打ち砕き、他はすべて松島の四辺に水柱をけ立てつ。
「分隊長、まだですか」こらえ兼ねたる武男は叫びぬ。時まさに一時を過ぎんとす。「四千メートル」の語は、あまねく右舷及び艦の首尾に伝わりて、照尺整い、 牽索 ( けんさく ) 握られつ。待ち構えたる一声のラッパ鳴りぬ。「打てッ!」の号令とともに、わが三十二サンチ巨砲を初め、右舷側砲一斉に第一弾を敵艦にほとばしらしつ。艦は震い、舷にそうて煙おびただしく渦まき起こりぬ。
あたかもその答礼として、定遠鎮遠のいずれか放ちたる大弾丸すさまじく空にうなりて、煙突の上二寸ばかりかすめて海に落ちたり。砲員の二三は思わず 頭 ( かしら ) を下げぬ。
分隊長顧みて「だれだ、だれだ、お辞儀をするのは?」
武男を初め候補生も砲員もどっと笑いつ。
「さあ、打てッ! しっかり、しっかり――打てッ!」
右舷側砲は 連 ( つる ) べ 放 ( う ) ちにうち出しぬ。三十二サンチ巨砲も艦を震わして鳴りぬ。後続の諸艦も一斉にうち出しぬ。たちまち敵のうちたる時限弾の一個は、砲台近く破裂して、今しも弾丸を砲尾に運びし砲員の一人武男が後ろにどうと倒れつ。起き上がらんとして、また倒れ、血はさっとほとばしりてしたたかに武男がズボンにかかりぬ。砲員の過半はそなたを顧みつ。
「だれだ? だれだ?」
「西山じゃないか、西山だ、西山だ」
「死んだか」
「打てッ!」分隊長の声鳴りて、砲員皆砲に群がりつ。
武男は手早く運搬手に死者を運ばし、ふりかえってその位置に立たんとすれば、分隊長は武男がズボンに目をつけ
「川島君、負傷じゃないか」
「なあに、今のとばしるです」
「おおそうか。さあ、今の 仇 ( かたき ) を討ってやれ」
砲は間断なく発射し、艦は全速力をもてはしる。わが本隊は敵の横陣に対して大いなる弧をえがきつつ、かつ射かつ 駛 ( は ) せて、一時三十分過ぎにはすでに敵を半周してその右翼を回り、まさに敵の 背後 ( うしろ ) に 出 ( い ) でんとす。
第一回の戦い終わりて、第二回の戦いこれより始まらんとすなり。松島の右舷砲しばし鳴りを静めて、諸士官砲員 淋漓 ( りんり ) たる汗をぬぐいぬ。
この時彼我の陣形を見れば、わが先鋒隊はいち早く敵の右翼を乱射して、超勇揚威を戦闘力なきまでに悩ましつつ、一回転して本隊と敵の背後を撃たんとし、わが本隊のうち 比叡 ( ひえい ) は速力劣れるがため本隊に続行するあたわずして、大胆にもひとり敵陣の中央を突貫し、死戦して活路を開きしが、火災のゆえに圏外に去り、西京丸また危険をのがれて圏外に去らんとし、敵前に残されし赤城は六百トンの小艦をもって独力奮闘 重囲 ( ちょうい ) を 衝 ( つ ) いて、比叡のあとをおわんとす。しかして先鋒の四艦と、本隊の五艦とは、整々として列を乱さず。
敵 ( てき ) の 方 ( かた ) を望めば、超勇焼け、揚威戦闘力を失して、敵の右翼乱れ、左翼の三艦は列を乱してわが比叡赤城を追わんとし、その援軍水雷艇は隔離して一辺にあり。しかして定遠鎮遠以下数艦は、わがその背後に回らんとするより、急に 舳 ( へさき ) をめぐらして縦陣に変じつつ、けなげにもわが本隊に向かい来たる。
第二回の戦いは今や始まりぬ。わが本隊は西京丸が掲げし「赤城比叡危険」の信号を見るより、速力大なる先鋒隊の四艦を 遣 ( つか ) わして、赤城比叡を 尾 ( び ) する敵の三艦を追い払わせつつ、一隊五艦依然単縦陣をとって、同じく縦陣をとれる敵艦を中心に大なる 蛇 ( じゃ ) の目をえがきもてかつ 駛 ( はし ) りかつ撃ち、二時すでに半ばならんとする時、敵艦隊を一周し終わって敵のこなたに達しつ。このときわが先鋒隊は比叡赤城を 尾 ( び ) する敵の三艦を一戦にけ散らし、にぐるを追うて敵の本陣に駆り入れつつ、一括してかなたより攻撃にかかりぬ。さればわが本隊先鋒隊はあたかも敵の艦隊を中央に取りこめて、左右よりさしはさみ撃たんとすなり。
第三次の激戦今始まりぬ。わが海軍の精鋭と、敵の海軍の主力と、共に集まりたる彼我の艦隊は、大全速力もて 駛 ( は ) せ違い入り乱れつつ相たたかう。あたかも二 竜 ( りゅう ) の長鯨を巻くがごとく黄海の水たぎって一面の 泡 ( あわ ) となりぬ。
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