第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
三の一
二月 ( きさらぎ ) 初旬 ( はじめ ) ふと引きこみし 風邪 ( かぜ ) の、ひとたびは
※ ( おこた ) りしを、ある夜 姑 ( しゅうとめ ) の胴着を仕上ぐるとて急ぐままに 夜 ( よ ) ふかししより再びひき返して、今日二月の十五日というに浪子はいまだ床あぐるまで快きを覚えざるなり。今年の寒さは、今年の寒さは、と年々に言いなれし寒さも今年こそはまさしくこれまで覚えなきまで、日々吹き募る北風は雪を誘い雨を帯びざる日にもさながら髄を刺し骨をえぐりて、健やかなるも病み、病みたるは死し、新聞の広告は 黒囲 ( くろぶち ) のみぞ多くなり行く。この寒さはさらぬだに強からぬ浪子のかりそめの病を募らして、取り立ててはこれという異なれる病態もなけれど、ただ 頭 ( かしら ) 重く 食 ( しょく ) うまからずして日また日を渡れるなり。
今二点を拍ちし時計の 蜩 ( ひぐらし ) など鳴きたらんように 凛々 ( りんりん ) と響きしあとは、しばし物音絶えて、秒を刻み行く時計のかえって静けさを加うるのみ。珍しくうららかに 浅碧 ( あさみどり ) をのべし初春の空は、四枚の障子に立て隔てられたれど、 悠々 ( ゆうゆう ) たる日の光くまなく紙障に 栄 ( は ) えて、余りの光は紙を透かして浪子が仰ぎ 臥 ( ふ ) しつつ黒スコッチの 韈 ( くつした ) を編める手先と、雪より白き 枕 ( まくら ) に漂う寝乱れ髪の上にちらちらおどりぬ。 左手 ( ひだり ) の障子には、ひょろひょろとした南天の影 手水鉢 ( ちょうずばち ) をおおうてうつむきざまに映り、右手には
槎※ ( さが ) たる老梅の縦横に枝をさしかわしたるがあざやかに映りて、まだつぼみがちなるその影の、花は数うべくまばらなるにも春の浅きは知られつべし。 南縁 ( なんえん ) 暄 ( けん ) を迎うるにやあらん、腰板の上に 猫 ( ねこ ) の 頭 ( かしら ) の映りたるが、今日の暖気に浮かれ 出 ( い ) でし 羽虫 ( はむし ) 目がけて飛び上がりしに、 捕 ( と ) りはずしてどうと落ちたるをまた心に関せざるもののごとく、悠々としてわが足をなむるにか、影なる 頭 ( かしら ) のしきりにうなずきつ。微笑を含みてこの 光景 ( ありさま ) を見し浪子は、日のまぶしきに 眉 ( まゆ ) を 攅 ( あつ ) め、目を閉じて、うっとりとしていたりしが、やおらあなたに 転臥 ( ねがえり ) して、編みかけの 韈 ( くつした ) をなで試みつつ、また縦横に編み棒を動かし始めぬ。ドシドシと縁に 重 ( おも ) やかなる足音して、 矮 ( たけひく ) き 仁王 ( におう ) の影障子を伝い来つ。
「気分はどうごあんすな?」
と枕べにすわるは 姑 ( しゅうと ) なり。
「今日は大層ようございます。起きられるのですけども――」と編み物をさしおき、 襟 ( えり ) の乱れを繕いつつ、起き上がらんとするを、姑は押しとめ、
「そ、そいがいかん、そいがいかん。他人じゃなし、遠慮がいッもンか。そ、そ、そ、また編み物しなはるな。いけませんど。病人な 養生 ( ようじょう ) が仕事、なあ浪どん。 和女 ( おまえ ) は武男が事ちゅうと、何もかも忘れッちまいなはる。いけません。早う養生してな――」
「本当に済みません、やすんでばかし……」
「そ、そいが他人行儀、なあ。わたしはそいが大きらいじゃ」
うそをつきたもうな、 卿 ( おんみ ) は常に当今の嫁なるものの 舅姑 ( しゅうと ) に礼足らずとつぶやき、ひそかにわが
※ ( よめ ) のこれに異なるをもっけの 幸 ( さち ) と思うならずや。浪子は 実家 ( さと ) にありけるころより、口にいわねどひそかにその継母のよろず洋風にさばさばとせるをあきたらず思いて、一家の作法の上にはおのずから一種古風の 嗜味 ( しみ ) を有せるなりき。姑はふと思い 出 ( い ) でたるように、
「お、武男から手紙が来たようじゃったが、どう 書 ( け ) えて 来申 ( きも ) した?」
浪子は枕べに置きし一通の手紙のなかぬき 出 ( いだ ) して姑に渡しつつ、
「この日曜にはきっといらッしゃいますそうでございますよ」
「そうかな」ずうと目を通してくるくるとまき収め、「転地養生もねもんじゃ。この寒にエットからだ 動 ( いご ) かして見なさい、それこそ 無 ( な ) か病気も出て来ます。 風邪 ( かぜ ) はじいと寝ておると、なおるもんじゃ。武は年が若かでな。 医師 ( いしゃ ) をかえるの、やれ転地をすッのと騒ぎ 申 ( も ) す。わたしたちが若か時分な、腹が痛かてて寝る 事 ( こた ) なし、産あがりだて十日と寝た事アあいません。世間が開けて 来 ( く ) っと皆が 弱 ( よお ) うなり申すでな。はははは。武にそう 書 ( け ) えてやったもんな、 母 ( おっか ) さんがおるで心配しなはんな、ての、ははははは、どれ」
口には笑えど、目はいささか 懌 ( よろこ ) ばざる色を帯びて、 出 ( い ) で行く姑の後ろ影、
「御免遊ばせ」
と起き直りつつ見送りて、浪子はかすかに吐息を漏らしぬ。
親が子をねたむということ、あるべしとは思われねど、浪子は 良人 ( おっと ) の帰りし以来、一種異なる関係の姑との間にわき 出 ( い ) でたるを覚えつ。遠洋航海より帰り来て、浪子のやせしを見たる武男が、粗豪なる男心にも留守の心づかいをくみて、いよいよいたわるをば、いささか 苦々 ( にがにが ) しく姑の思える様子は、 怜悧 ( さと ) き浪子の目をのがれず。時にはかの孝――姑のいわゆる――とこの愛の道と、一時に踏み難く 岐 ( わか ) るることあるを、浪子はひそかに思い悩めるなり。
「奥様、加藤様のお嬢様がおいで遊ばしましてございます」
と呼ぶ 婢 ( おんな ) の声に、浪子はぱっちり目を開きつ。入り来る 客 ( ひと ) を見るより喜色はたちまち 眉間 ( びかん ) に上りぬ。
「あ、お 千鶴 ( ちず ) さん、よく来たのね」
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