第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
十の一
四月 ( よつき ) あまり過ぎたり。
霜に染みたる南天の影長々と庭に 臥 ( ふ ) す午後四時過ぎ、相も変わらず肥えに肥えたる川島未亡人は、やおら障子をあけて縁側に 出 ( い ) で来たり、 手水鉢 ( ちょうずばち ) に立ち寄りて、水なきに舌鼓を鳴らしつ。
「 松 ( まアつ ) 、―― 竹 ( たけエ ) 」
呼ぶ声に 一人 ( ひとり ) は庭口より一人は縁側よりあわただしく走り来つ。恐慌の色は 面 ( おもて ) にあらわれたり。
「 汝達 ( わいども ) は 何 ( なあに ) をしとッか。 先日 ( こないだ ) もいっといたじゃなっか。こ、これを見なさい」
柄杓 ( ひしゃく ) をとって、からの手水鉢をからからとかき回せば、色を失える 二人 ( ふたり ) はただ息をのみつ。
「 早 ( は ) よせんか」
耳近き落雷にいよいよ色を失いて、二人は去りぬ。未亡人は何か口のうちにつぶやきつつ、やがてもたらし来し水に手を洗いて、入らんとする時、他の一人は入り来たりて小腰を 屈 ( かが ) めたり。
「何か」
「山木様とおっしゃいます方が――」
言 ( こと ) 終わらざるに、一種の冷笑は不平と相半ばして面積広き未亡人の顔をおおいぬ。実を言えば去年の秋お 豊 ( とよ ) が逃げ帰りたる以後はおのずから山木の足も遠かりき。山木は去年このかたの戦争に幾万の利を占めける由を聞き知りて、川島未亡人はいよいよもって山木の仕打ちに不満をいだき、召使いにむかいて恩の忘るべからざるを説法するごとに、 暗 ( あん ) に山木を実例にとれるなりき。しかも習慣はついに勝ちを占めぬ。
「通しなさい」
やがて屋敷に通れる山木は幾たびかかの 赤黒子 ( あかぼくろ ) の顔を上げ下げつ。
「山木さん、久しぶりごあんすな」
「いや、御隠居様、どうも申しわけないごぶさたをいたしました。ぜひお伺い申すでございましたが、その、戦争後は商用でもって始終あちこちいたしておりまして、まず御壮健おめでとう存じます」
「山木さん、戦争じゃしっかいもうかったでごあんそいな」
「へへへへ、どういたしまして――まあおかげさまでその、とやかく、へへへへへ」
おりから小間使いが水引かけたる品々を腕もたわわにささげ来つ。
「お客様の――」と座の 中央 ( もなか ) に差し 出 ( いだ ) して、 罷 ( まか ) りぬ。
じろり 一瞥 ( いちべつ ) を台の上の物にくれて、やや満足の 笑 ( え ) みは未亡人の顔にあらわれたり。
「これはいろいろ気の毒でごあんすの、ほほほほ」
「いえ、どうつかまつりまして。ついほンの、その――いや、申しおくれましたが、武――若旦那様も大尉に御昇進遊ばして、御勲章や御賜金がございましたそうで、実は先日新聞で拝見いたしまして――おめでとうございました。で、ただ今はどちら――佐世保においででございましょうか」
「武でごあんすか。武は 昨日 ( きのう ) 帰って 来申 ( きも ) した」
「へエ、昨日? 昨日お帰りで? へエ、それはそれは、それはよくこそ、お変わりもございませんで?」
「相変わらず坊っちゃまで困いますよ。ほほほほ、 今日 ( きょう ) は朝から出て、まだ帰いません」
「へエ、それは。まずお帰りで御安心でございます。いや御安心と申しますと、片岡様でも誠に早お気の毒でございました。たしかもう百か日もお過ぎなさいましたそうで――しかしあの御病気ばかりはどうもいたし方のないもので、御隠居様、さすがお目が届きましたね」
川島夫人は顔ふくらしつ。
「 彼女 ( あい ) の事じゃ、わたしも実に困いましたよ。銭はつかう、 悴 ( せがれ ) とけんかまでする、そのあげくにゃ 鬼婆 ( おにばば ) のごと言わるる、得のいかン
※御 ( よめご ) じゃってな、山木さん――。そいばかいか 彼女 ( あい ) が死んだと聞いたから、 弔儀 ( くやみ ) に田崎をやって、 生花 ( はな ) をなあ、やったと思いなさい。礼どころか――突っ返して 来申 ( きも ) した。失礼じゃごあはんか、なあ山木さん」浪子が死せしと聞きしその時は、未亡人もさすがによき 心地 ( ここち ) はせざりしが、そのたまたま贈りし生花の一も二もなく突き返されしにて、 万 ( よろず ) の感情はさらりと消えて、ただ 苦味 ( にがみ ) のみ残りしなり。
「へエ、それは――それはまたあんまりな。――いや、御隠居様――」
小間使いがささげ来たれる一 碗 ( わん ) の 茗 ( めい ) になめらかなる唇をうるおし
「昨年来は長々お世話に相成りましてございますが、娘―― 豊 ( とよ ) も 近々 ( ちかぢか ) に嫁にやることにいたしまして――」
「お豊どんが嫁に?――それはまあ――そして 先方 ( むこう ) は?」
「先方は法学士で、 目下 ( ただいま ) 農商務省の○○課長をいたしておる男で、ご存じでございましょうか、○○と申します人でございまして、 千々岩 ( ちぢわ ) さんなどももと世話に――や、千々岩さんと申しますと、誠にお気の毒な、まだ若いお方を、残念でございました」
一点の 翳 ( かげ ) 未亡人の額をかすめつ。
「 戦争 ( いくさ ) はいやなもんでごあんすの、山木さん。――そいでその婚礼は 何日 ( いつ ) ?」
「取り急ぎまして明後々日に 定 ( き ) めましてございますが――御隠居様、どうかひとつ 御来駕 ( おいで ) くださいますように、――川島様の御隠居様がおすわり遊ばしておいで遊ばすと申しますれば、へへへ手前どもの鼻も高うございますわけで、――どうかぜひ――家内も出ますはずでございますが、その、取り込んでいますので――武――若旦那様もどうか――」
未亡人はうなずきつ。おりから五点をうつ 床上 ( とこ ) の置き時計を顧みて、
「おおもう五時じゃ、日が短いな。武はどうしつろ?」
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