第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
八の二
中将は浪子の手をひきつつ
「年のたつは早いもンじゃ。浪、 卿 ( おまえ ) はおぼえておるかい、 卿 ( おまえ ) がちっちゃかったころ、よくおとうさんに負ぶさって、ぽんぽんおとうさんが横腹をけったりしおったが。そうじゃ、 卿 ( おまえ ) が五つ六つのころじゃったの」
「おほほほほ、さようでございましたよ。殿様が 負 ( おん ) ぶ遊ばしますと、 少嬢様 ( ちいおじょうさま ) がよくおむずかり遊ばしたンでございますね。――ただ今もどんなにおうらやましがっていらッしゃるかもわかりませんでございますよ」と気軽に幾が 相槌 ( あいづち ) うちぬ。
浪子はたださびしげにほほえみつ。
「 駒 ( こま ) か。駒にはおわびにどっさり 土産 ( みやげ ) でも持って
行くじゃ。なあ、浪。駒よか千鶴さんがうらやましがっとるじゃろう、一度こっちに来たがっておったのじゃから」「さようでございますよ。 加藤 ( あちら ) のお嬢様がおいで遊ばしたら、どんなにおにぎやかでございましょう。――本当に 私 ( わたくし ) なぞがまあこんな珍しい見物さしていただきまして――あの何でございますか、さっき渡りましたあの川が宇治川で、あの 螢 ( ほたる ) の名所で、ではあの 駒沢 ( こまざわ ) が 深雪 ( みゆき ) にあいました所でございますね」
「はははは、幾はなかなか学者じゃの。――いや世の中の移り変わりはひどいもンじゃ。おとうさんなぞが若かった時分は、 大阪 ( おおさか ) から京へ上るというと、いつもあの三十石で、 鮓 ( すし ) のごと詰められたもンじゃ。いや、それよかおとうさんがの、 二十 ( はたち ) の年じゃった、 大西郷 ( おおさいごう ) と 有村 ( ありむら ) ―― 海江田 ( かえだ ) と 月照師 ( げっしょうさん ) を大阪まで連れ出したあとで、大事な要がでけて、おとうさんが行くことになって、さああと追っかけたが、あんまり急いで一 文 ( もん ) なしじゃ。とうとう 頬 ( ほお ) かぶりをして 跣足 ( はだし ) で――夜じゃったが―― 伏見 ( ふしみ ) から大阪まで 川堤 ( かわどて ) を走ったこともあったンじゃ。はははは。暑いじゃないか、浪、くたびれるといかん、もう少し乗ったらどうじゃ」
おくれし車を幾が手招けば、からからと 挽 ( ひ ) き来つ。 三人 ( みたり ) は乗りぬ。
「じゃ、そろそろやってくれ」
車は徐々に 麦圃 ( ばくほ ) を 穿 ( うが ) ち、茶圃を貫きて、 山科 ( やましな ) の 方 ( かた ) に向かいつ。
前なる父が 項 ( うなじ ) の 白髪 ( しらが ) を見つめて、浪子は思いに沈みぬ。 良人 ( おっと ) に別れ、不治の 疾 ( やまい ) をいだいて、父に伴なわるるこの遊びを、うれしといわんか、 哀 ( かな ) しと思わんか。望みも楽しみも世に尽き果てて遠からぬ死を待つわれを不幸といわば、そのわれを思い 想 ( おも ) う父の心をくむに難からず。浪子は限りなき父の愛を想うにつけても、今の身はただ慰めらるるほかに父を慰むべき道なきを 哀 ( かな ) しみつ。世を忘れ人を離れて 父子 ( おやこ ) ただ二人 名残 ( なごり ) の遊びをなす今日このごろは、せめて小供の昔にかえりて、 物見遊山 ( ものみゆさん ) もわれから進み、やがて消ゆべき 空蝉 ( うつせみ ) の身には要なき 唐 ( から ) 織り物も、末は 妹 ( いもと ) に 紀念 ( かたみ ) の品と、ことに 華美 ( はで ) なるを選みしなり。
父を 哀 ( かな ) しと思えば、恋しきは良人武男。旅順に父の 危難 ( あやうき ) を助けたまいしとばかり、後の消息はたれ伝うる者もなく、思いは飛び夢は通えど、今はいずくにか居たもうらん。あいたし、一度あいたし、 生命 ( いき ) あるうちに一度、ただ一度あいたしと思うにつけて、さきに聞きつる 鄙歌 ( ひなうた ) のあいにく耳に響き、かの百姓夫婦のむつまじく語れる面影は 眼前 ( めさき ) に浮かび、楽しき 粗布 ( あらぬ ) に引きかえて憂いを包む 風通 ( ふうつう ) の 袂 ( たもと ) 恨めしく――
せぐり来る涙をハンケチにおさえて、泣かじと 唇 ( くちびる ) をかめば、あいにくせきのしきりに濡れぬ。
中将は気づかわしげに、ふりかえりつ。
「もうようございます」
浪子はわずかに 笑 ( え ) みを作りぬ。
*
山科 ( やましな ) に着きて、東行の列車に乗りぬ。上等室は他に人もなく、浪子は開ける窓のそばに、父はかなたに 坐 ( ざ ) して新聞を広げつ。
おりから煙を 噴 ( は ) き地をとどろかして、 神戸 ( こうべ ) 行きの列車は東より来たり、まさに 出 ( い ) でんとするこなたの列車と相ならびたり。客車の戸を 開閉 ( あけたて ) する音、プラットフォームの 砂利 ( じゃり ) 踏みにじりて駅夫の「山科、山科」と叫び過ぐる声かなたに聞こゆるとともに、汽笛鳴りてこなたの列車はおもむろに動き初めぬ。開ける窓の 下 ( もと ) に坐して、浪子はそぞろに移り行くあなたの列車をながめつ。あたかもかの中等室の前に来し時、窓に 頬杖 ( ほおづえ ) つきたる洋装の男と顔見合わしたり。
「まッあなた!」
「おッ浪さん!」
こは武男なりき。
車は過ぎんとす。狂せるごとく、浪子は窓の外にのび上がりて、手に持てるすみれ色のハンケチを投げつけつ。
「おあぶのうございますよ、お嬢様」
幾は驚きてしかと浪子の袂を握りぬ。
新聞手に持ちたるまま中将も立ち上がりて窓の外を望みたり。
列車は五 間 ( けん ) 過 ( す ) ぎ――十間過ぎぬ。落つばかりのび上がりて、ふりかえりたる浪子は、武男が狂えるごとくかのハンケチを振りて、何か呼べるを見つ。
たちまちレールは 山角 ( さんかく ) をめぐりぬ。両窓のほか青葉の山あるのみ。後ろに聞こゆる 帛 ( きぬ ) を裂くごとき一声は、今しもかの列車が西に走れるならん。
浪子は顔打ちおおいて、父の 膝 ( ひざ ) にうつむきたり。
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