第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
四の四
不動祠 ( ふどうし ) の下まで行きて、浪子は岩を払うて 坐 ( ざ ) しぬ。この春 良人 ( おっと ) と共に坐したるもこの岩なりき。その時は春晴うらうらと、 浅碧 ( あさみどり ) の空に雲なく、海は鏡よりも光りき。今は秋陰 暗 ( あん ) として、空に 異形 ( いぎょう ) の雲満ち、海はわが坐す岩の下まで満々とたたえて、そのすごきまで 黯 ( くろ ) き 面 ( おもて ) を点破する一 帆 ( ぱん ) の影だに見えず。
浪子はふところより一通の書を取り 出 ( いだ ) しぬ。書中はただ両三行、武骨なる筆跡の、しかも千万語にまさりて浪子を思いに 堪 ( た ) えざらしめつ。「浪子さんを思わざるの日は一日も 無之候 ( これなくそろ ) 」。この一句を読むごとに、浪子は今さらに胸迫りて、恋しさの切らるるばかり身にしみて覚ゆるなりき。
いかなればかく 枉 ( まが ) れる世ぞ。身は 良人 ( おっと ) を恋い恋いて病よりも思いに死なんとし、良人はかくも 想 ( おも ) いて居たもうを、いかなれば夫妻の縁は絶えけるぞ。良人の心は血よりも 紅 ( くれない ) に注がれてこの書中にあるならずや。現にこの春この岩の上に、二人並びて、 万世 ( よろずよ ) までもと誓いしならずや。海も知れり。岩も記すべし。さるをいかなれば世はほしいままに二人が間を裂きたるぞ。恋しき良人、なつかしき良人、この春この岩の上に、岩の上――。
浪子は目を開きぬ。身はひとり岩の上に 坐 ( ざ ) せり。海は黙々として前にたたえ、後ろには滝の音ほのかに聞こゆるのみ。浪子は顔打ちおおいつつむせびぬ。細々とやせたる指を漏りて、涙ははらはらと岩におちたり。
胸は乱れ、 頭 ( かしら ) は次第に熱して、縦横に飛びかう思いは 梭 ( おさ ) のごとく 過去 ( こしかた ) を一目に織り 出 ( いだ ) しつ。浪子は今年の春良人にたすけ引かれてこの岩に来たりし時を思い、発病の時を思い、伊香保に遊べる時を思い、結婚の夕べを思いぬ。伯母に連れられて帰京せし時、むかしむかしその母に別れし時、母の顔、父の顔、継母、妹を初めさまざまの顔は 雷光 ( いなずま ) のごとくその心の目の前を過ぎつ。浪子はさらに 昨日 ( きのう ) 千鶴子より聞きし旧友の 一人 ( ひとり ) を思いぬ。 彼女 ( かれ ) は浪子より 二歳 ( ふたつ ) 長 ( た ) けて一年早く大名華族のうちにも才子の聞こえある洋行帰りの某伯爵に 嫁 ( とつ ) ぎしが、 舅姑 ( しゅうと ) の気には入りて、良人にきらわれ、子供一人もうけながら、良人は 内 ( うち ) に 妾 ( しょう ) を置き外に花柳の遊びに浸り今年の春離縁となりしが、ついこのごろ病死したりと聞く。 彼女 ( かれ ) は良人にすてられて死し、われは相思う良人と裂かれて泣く。さまざまの世と思えば、彼も悲しく、これもつらく、浪子はいよいよ 黝 ( くろ ) うなり来る海の 面 ( おもて ) をながめて 太息 ( といき ) をつきぬ。
思うほど、気はますます乱れて、浪子は身を 容 ( い ) るる 余裕 ( ひま ) もなきまで世のせまきを覚ゆるなり。身は何不足なき家に生まれながら、なつかしき母には 八歳 ( やつ ) の年に別れ、肩をすぼめて継母の 下 ( もと ) に 十年 ( ととせ ) を送り、ようやく良縁定まりて父の 安堵 ( あんど ) われもうれしと思う間もなく、 姑 ( しゅうと ) の気には入らずとも良人のためには水火もいとわざる身の、思いがけなき大疾を得て、その病も少しは 痊 ( おこた ) らんとするを喜べるほどもなく、死ねといわるるはなお慈悲の宣告を受け、愛し愛さるる良人はありながら容赦もなく間を裂かれて、夫と呼び妻と呼ばるることもならぬ身となり果てつ。もしそれほど不運なるべき身ならば、なにゆえ世には生まれ来しぞ。何ゆえ母上とともに、われも死なざりしぞ。何ゆえに良人のもとには嫁しつるぞ。何ゆえにこの病を発せしその時、良人の手に 抱 ( いだ ) かれては死せざりしぞ。何ゆえに、せめてかの恐ろしき宣告を聞けるその時、その場に倒れては死なざりしぞ。身には不治の病をいだきて、心は添われぬ人を恋う。何のためにか世に 永 ( なが ) らうべき。よしこの病 癒 ( い ) ゆとも、添われずば思いに死なん――死なん。
死なん。何の楽しみありて世に永らうべき。
はふり落つる涙をぬぐいもあえず、浪子は海の 面 ( おもて ) を打ちながめぬ。
伊豆大島 ( いずおおしま ) の 方 ( かた ) に当たりて、墨色に渦まける雲急にむらむらと立つよと見る時、いうべからざる悲壮の音ははるかの天空より落とし来たり、大海の 面 ( おもて ) たちまち 皺 ( しわ ) みぬ。一陣の風吹き 出 ( い ) でけるなり。その風 鬢 ( びん ) をかすめて過ぎつと思うほどなくまっ黒き海の 中央 ( まなか ) に一団の雪わくと見る見る奔馬のごとく寄せて、浪子が 坐 ( ざ ) したる岩も砕けよとうちつけつ。 渺々 ( びょうびょう ) たる相洋は一 分時 ( ぷんじ ) ならずして千波 万波 ( ばんぱ ) 鼎 ( かなえ ) のごとく沸きぬ。
雨と散るしぶきを避けんともせず、浪子は一心に水の 面 ( おも ) をながめ入りぬ。かの水の下には死あり。死はあるいは自由なるべし。この病をいだいて世に苦しまんより、 魂魄 ( こんぱく ) となりて良人に添うはまさらずや。良人は今黄海にあり。よしはるかなりとも、この水も黄海に通えるなり。さらば身はこの海の 泡 ( あわ ) と消えて、 魂 ( たま ) は良人のそばに行かん。
武男が書をばしっかとふところに収め、風に乱るる 鬢 ( びん ) かき上げて、浪子は立ち上がりぬ。
風は
※々 ( ひょうひょう ) として無辺の天より落とし来たり、かろうじて浪子は立ちぬ。目を上ぐれば、雲は雲と相追うて空を 奔 ( はし ) り、海は目の届く限り一面に波と泡とまっ白に煮えかえりつ。湾を隔つる桜山は悲鳴してたてがみのごとく松を振るう。風 吼 ( ほ ) え、海 哮 ( たけ ) り、山も鳴りて、 浩々 ( こうこう ) の音天地に満ちぬ。今なり、今なり、今こそこの玉の緒は絶ゆる時なれ。導きたまえ、母。許したまえ、父。十九年の夢は、今こそ――。
襟 ( えり ) 引き合わせ、 履物 ( はきもの ) をぬぎすてつつ、浪子は今打ち寄せし浪の岩に砕けて 白泡 ( しらあわ ) 沸 ( たぎ ) るあたりを目がけて、身をおどらす。
その時、あと 背後 ( うしろ ) に叫ぶ声して、浪子はたちまち抱き止められつ。
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