第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
四の三
打ち連れて土曜の夕べより見舞に来し千鶴子と 妹 ( いもと ) 駒子 ( こまこ ) は、 今朝 ( けさ ) 帰り去りつ。しばしにぎやかなりし家の 内 ( うち ) また常のさびしきにかえりて、曇りがちなる障子のうち、浪子はひとり床にかけたる 亡 ( な ) き母の写真にむかいて 坐 ( ざ ) しぬ。
今日、十一月十九日は亡き母の命日なり。はばかる人もなければ、浪子は 手匣 ( てばこ ) より母の写真取り 出 ( い ) でて床にかけ、千鶴子が 持 ( も ) て来し白菊のやや狂わんとするをその前に 手向 ( たむ ) け、午後には茶など 点 ( い ) れて、幾の昔語りに耳傾けしが、今は幾も看護婦も 罷 ( まか ) りて、浪子はひとり写真の前に残れるなり。
母に別れてすでに 十年 ( ととせ ) にあまりぬ。 十年 ( ととせ ) の間、浪子は亡き母を忘るるの日なかりき。されど今日このごろはなつかしさの 堪 ( た ) え難きまで募りて、事ごとにその母を思えり。恋しと思う父は今遠く遼東にあり。継母は近く東京にあれど、 中垣 ( なかがき ) の隔て昔のままに、ともすれば聞きづらきことも耳に入る。亡き母の、もし亡き母の無事に永らえて居たまわば、かの苦しみも告げ、この悲しさも訴えて、かよわきこの身に負いあまる重荷もすこしは軽く思うべきに、何ゆえ見すてて 逝 ( ゆ ) きたまいしと 思 ( おも ) う下より涙はわきて、写真は霧を隔てしようにおぼろになりぬ。
昨日 ( きのう ) のようなれど、指を折れば 十年 ( ととせ ) たちたり。母上の亡くなりたもうその年の春なりき。 自身 ( みずから ) は 八歳 ( やつ ) 、 妹 ( いもと ) は 五歳 ( いつつ ) (そのころは片言まじりの、今はあの通り大きくなりけるよ)桜模様の 曙染 ( あけぼのぞめ ) 、二人そろうて美しと父上にほめられてうれしく、われは右妹は左母上を中に、馬車をきしらして、九段の 鈴木 ( すずき ) に 撮 ( と ) らししうちの一枚はここにかけたるこの写真ならずや。思えば 十年 ( ととせ ) は夢と過ぎて、母上はこの写真になりたまい、わが身は――。
わが身の上は思わじと定めながらも、味気なき今の境涯はあいにくにありありと目の前に現われつ。思えば思うほどなんの楽しみもなんの望みもなき身は 十重二十重 ( とえはたえ ) 黒雲に包まれて、この八畳の間は日影も漏れぬ死囚 牢 ( ろう ) になりかわりたる 心地 ( ここち ) すなり。
たちまち柱時計は 家内 ( やうち ) に響き渡りて午後 二点 ( にじ ) をうちぬ。おどろかれし浪子はのがるるごとく次の間に立てば、ここには人もなくて、裏の 方 ( かた ) に幾と看護婦と語る声す。聞くともなく耳傾けし浪子は、またこの室を 出 ( い ) でて庭におり立ち、 枝折戸 ( しおりど ) あけて浜に 出 ( い ) でぬ。
空は曇りぬ。秋ながらうっとりと雲立ち迷い、海はまっ黒に 顰 ( ひそ ) みたり。大気は恐ろしく静まりて、一陣の風なく、一 波 ( ぱ ) だに動かず、見渡す限り海に 帆影 ( はんえい ) 絶えつ。
浪子は次第に浜を歩み行きぬ。今日は 網曳 ( あびき ) する者もなく、運動する 客 ( ひと ) の影も見えず。 孩 ( こ ) を負える 十歳 ( とお ) あまりの女の子の歌いながら貝拾えるが、浪子を見てほほえみつつ 頭 ( かしら ) を下げぬ。浪子は惨として 笑 ( え ) みつ。またうっとりと思いつづけて、うつむきて歩みぬ。
たちまち浪子は立ちどまりぬ。浜尽き、岩起これるなり。岩に一条の 路 ( みち ) あり、そをたどれば滝の不動にいたるべし。この春浪子が 良人 ( おっと ) に導かれて行きしところ。
浪子はその路をとりて進みぬ。
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