University of Virginia Library

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四の二

 逗子に来てよりは、 ( やまい ) やや快く、あたりの静かなるに、心も少しは静まりぬ。海の音遠き 午後 ( ひるすぎ ) 、湯上がりの ( たい ) を安楽 椅子 ( いす ) ( ) せて、鳥の音の清きを聞きつつうっとりとしてあれば、さながら ( ) にし春のころここにありける時の 心地 ( ここち ) して、今にも良人の横須賀より来たり ( ) わん思いもせらるるなりけり。

  別墅 ( べっしょ ) の生活は、去る四五月のころに異ならず。幾と看護婦を相手に、日課は服薬運動の時間を ( たが ) えず、体温を検し、定められたる摂生法を守るほかは、せめての心やりに歌 ( ) み秋草を ( ) けなどして過ごせるなり。週に一二回、医は東京より来たり見舞いぬ。月に両三日、あるいは伯母、あるいは千鶴子、まれに継母も来たり見舞いぬ。その幼き 弟妹 ( はらから ) 二人は病める姉をなつかしがりて、しばしば母に請えど、病を忌み、かつは二人の浪子になずくをおもしろからず思える母は、ただしかりてやみぬ。今の身の上を聞き知りてか、昔の学友の手紙を送れるも少なからねど、おおかたは 文字 ( もじ ) 麗しくして心を慰むべきものはかえってまれなる 心地 ( ここち ) して、よくも見ざりき。ただ千鶴子の来たるをば待ちわびつ。聞きたしと思う消息は重に千鶴子より伝われるなり。

 縁絶えしより、川島家は次第に遠くなりつ。幾百里西なる人の 面影 ( おもかげ ) 日夕 ( にっせき ) 心に往来するに引きかえて、浪子はさらにその人の母をば思わざりき。思わずとにはあらで、思わじと務めしなりけり。心一たびその ( しゅうと ) の上に及ぶごとに、われながら恐ろしく苦き一念の ( おさ ) うれどむらむらと ( むね ) にわき来たりて、気の怪しく乱れんとするを、浪子はふりはらいふりはらいて、心を他に転ぜしなり。山木の ( むすめ ) の川島家に入り込みしと聞けるその時は、さすがに心地乱れぬ。しかもそはわが思う人のあずかり知る所ならざるべきを思いて、しいて心をそなたにふさげるなり。 彼女 ( かれ ) が身は湘南に病に ( ) して、心は絶えず西に向かいぬ。

 この世において最も愛すなる二人は、現に征清の役に従えるならずや。父中将は浪子が逗子に来たりしより間もなく、大元帥 纛下 ( とうか ) 扈従 ( こじゅう ) して広島におもむき、さらに遠く 遼東 ( りょうとう ) に向かわんとす。せめて新橋までと思えるを、父は制して、くれぐれも自愛し、 凱旋 ( がいせん ) の日には全快して迎えに来よと言い送りぬ。武男はあの後直ちに戦地に向かいて、現に連合艦隊の旗艦にありと聞く。秋雨秋風身につつがなく、戦闘の務めに服せらるるや、いかに。 日々夜々 ( にちにちやや ) 陸に海に心は ( ) せて、世には要なしといえる浪子もおどる心に新聞をば読みて、皇軍連勝、わが父息災、武男の武運長久を祈らぬ日はあらざりしなり。

 九月末にいたり、黄海の 捷報 ( しょうほう ) は聞こえ、さらに 数日 ( すじつ ) を経て負傷者のうちに浪子は武男の姓名を見 ( いだ ) しぬ。浪子は一夜眠らざりき。幸いに東京なる伯母のその心をくめるありて、いずくより聞き得て報ぜしか、浪子は武男の負傷のはなはだしく重からずして現に佐世保の病院にある由を知りつ。 生死 ( しょうし ) の憂いを慰められしも、さてかなたを思いやりて、かくもしたしと思う事の多きにつけても、今の身の上の思うに任せぬ恨みはまたむらむらと胸をふさぎぬ。なまじいに夫妻の名義絶えしばかりに、まさしく心は通いつつ、彼は西に傷つき、われは東に病みて、行きて問うべくもあらぬのみか、明らさまにははがき一枚の見舞すら心に任せぬ身ならずや。かく思いてはやる方なくもだえしが、なおやみ難き心より思いつきて、浪子は病の 間々 ( ひまひま ) に幾を相手にその人の衣を縫い、その好める品をも取りそろえつつ、裂けんとすなる胸の思いの万分一も通えかしと、名をばかくして、はるかに佐世保に送りしなり。

 週去り週来たりて、十一月中旬、佐世保の消印ある一通の書は浪子の手に落ちたり。浪子はその書をひしと握りて泣きぬ。