University of Virginia Library

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四の二

 医師が見舞うたびに、あえて口にはいわねど、その症候の次第に著しくなり来るを認めつつ、 ( てだて ) を尽くして防ぎ止めんとせしかいもなく、目には見えねど浪子の病は ( ひび ) に募りて、三月の 初旬 ( はじめ ) には、疑うべくもあらぬ肺結核の初期に入りぬ。

 わが 老健 ( すこやか ) を鼻にかけて 今世 ( いまどき ) の若者の 羸弱 ( よわき ) をあざけり、転地の事耳に入れざりし ( しゅうと ) も、現在目の前に浪子の一度ならずに喀血するを見ては、さすがに驚き――伝染の恐ろしきを聞きおれば――恐れ、医師が勧むるまましかるべき看護婦を添えて浪子を相州逗子なる実家――片岡家の 別墅 ( べっしょ ) に送りやりぬ。肺結核!  茫々 ( ぼうぼう ) たる野原にただひとり立つ 旅客 ( たびびと ) の、頭上に迫り来る夕立雲のまっ黒きを望める心こそ、もしや、もしやとその病を待ちし浪子の心なりけれ。今は恐ろしき沈黙はすでにとく破れて、雷鳴り ( でん ) ひらめき 黒風 ( こくふう ) 吹き 白雨 ( はくう ) ほとばしる 真中 ( まなか ) に立てる浪子は、ただ身を ( ) して早く風雨の 重囲 ( ちょうい ) を通り過ぎなんと思うのみ。それにしても第一撃のいかにすさまじかりしぞ。思い ( ) づる三月の二日、今日は常にまさりて快く覚ゆるままに、久しく打ちすてし生け花の慰み、 ( しゅうと ) 部屋 ( へや ) 花瓶 ( かへい ) にささん料に、おりから帰りて ( ) たまいし 良人 ( おっと ) に願いて、においも深き紅梅の枝を折るとて、庭さき近く 端居 ( はしい ) して、あれこれとえらみ居しに、にわかに 胸先 ( むなさき ) 苦しく ( かしら ) ふらふらとして、 ( くれない ) ( もや ) 眼前 ( めさき ) に渦まき、われ知らずあと叫びて、肺を絞りし鮮血の紅なるを吐けるその時! その時こそ「ああとうとう!」と思う同時に、いずくともなくはるかにわが墓の影をかいま見しが。

 ああ死!  以前 ( むかし ) 世をつらしと見しころは、生何の楽しみぞ死何の 哀惜 ( かなしみ ) ぞと思いしおりもありけるが、今は人の 生命 ( いのち ) ( ) しければいとどわが命の惜しまれて千代までも生きたしと思う浪子。情けなしと思うほど、病に勝たんの心も切に、おりおり沈むわが気をふり起こしては、われより医師を促すまでに怠らず病を養えるなりき。

 目と鼻の 横須賀 ( よこすか ) にあたかも在勤せる武男が、ひまをぬすみてしばしば往来するさえあるに、父の書、伯母、千鶴子の見舞たえ間なく、別荘には、去年の夏川島家を追われし以来絶えて久しきかの ( うば ) のいくが、その再会の 縁由 ( よし ) となれるがために病そのものの悲しむべきをも喜ばんずるまで浪子をなつかしめるありて、 ( あと ) うべくは 以前 ( むかし ) に倍する熱心もて 伏侍 ( ふくじ ) するあり。まめまめしき老僕が心を用いて ( つこ ) うるあり。春寒きびしき都門を去りて、身を暖かき 湘南 ( しょうなん ) の空気に投じたる浪子は、 ( ひび ) に自然の人をいつくしめる温光を吸い、身をめぐる暖かき人の情けを吸いて、気も心もおのずからのびやかになりつ。地を転じてすでに二旬を経たれば、喀血やみ 咳嗽 ( がいそう ) やや減り、一週二回東京より来たり診する医師も、快しというまでにはいたらねど病の進まざるをかいありと喜びて、この上はげしき心神の刺激を避け、安静にして療養の功を続けなば、快復の望みありと許すにいたりぬ。