University of Virginia Library

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六の四

 母はつと立ち上がって、仏壇より一つの 位牌 ( いはい ) を取りおろし、座に帰って、武男の 眼前 ( めさき ) に押しすえつ。

 「武男、 ( おまえ ) はな、女親じゃからッてわたしを何とも思わんな。さ、おとっさまの前で ( ) 一度言って見なさい、さ言って見なさい。御先祖代々のお位牌も見ておいでじゃ。さ、 ( ) 一度言って見なさい、不孝者めが!!

[_]
[23]

 きっと武男をにらみて、続けざまに煙管もて火鉢の縁打ちたたきぬ。

 さすがに武男も少し 気色 ( けしき ) ばみて「なぜ不孝です?」

 「なぜ? なぜもあッもンか。 ( さい ) の肩ばッかい持って親のいう事は聞かんやつ、不孝者じゃなッか。親が育てたからだを 粗略 ( そまつ ) にして、御先祖代々の家をつぶすやつは不孝者じゃなッか。不孝者、武男、 ( おまえ ) は不孝者、大不孝者じゃと」

 「しかし人情――」

 「まだ義理人情をいうッか。 ( おまえ ) は親よか ( さい ) が大事なッか。たわけめが。何いうと、妻、妻、妻ばかいいう、親をどうすッか。何をしても浪ばッかいいう。不孝者めが。勘当すッど」

 武男は ( くちびる ) をかみて熱涙を絞りつつ「 ( おっか ) さん、それはあんまりです」

 「何があんまいだ」

 「 ( わたくし ) は決してそんな粗略な心は決して持っちゃいないです。 ( おっか ) さんにその心が届きませんか」

 「そいならわたしがいう事をなぜきかぬ? エ? なぜ浪を 離縁 ( じえん ) せンッか」

 「しかしそれは」

 「しかしもねもンじゃ。さ、武男、 ( さい ) が大事か、親が大事か。エ? 家が大事? 浪が――? ――エエばかめ」

 「はっしと火鉢をうちたる勢いに、煙管の 羅宇 ( らう ) はぽっきと折れ、 雁首 ( がんくび ) は空を飛んではたと ( ふすま ) を破りぬ。途端に「はッ」と襖のあなたに 片唾 ( かたず ) をのむ人の ( ) はいせしが、やがて震い声に「御免――遊ばせ」

 「だれ? ――何じゃ?」

 「あの! 電報が……」

 襖開き、武男が電報をとりて見、小間使いが 女主人 ( あるじ ) の一 ( げい ) に会いて半ば消え入りつつそこそこに去りしまで、わずか二分ばかりの間――ながら、この瞬間に 二人 ( ふたり ) が間の熱やや ( くだ ) りて、しばらくは 母子 ( おやこ ) ともに 黙然 ( もくねん ) と相対しつ。雨はまたひとしきり滝のように降りそそぐ。

 母はようやく口を開きぬ。目にはまだ怒りのひらめけども、語はどこやらに湿りを帯びたり。

 「なあ、武どん。わたしがこういうも、何も ( おまえ ) のためわるかごとすっじゃなかからの。わたしにゃたッた 一人 ( ひとり ) ( おまえ ) じゃ。 ( おまえ ) に出世をさせて、丈夫な孫 ( ) えて見たかばかいがわたしの楽しみじゃからの」

 黙然と考え入りし武男はわずかに ( かしら ) を上げつ。

 「 ( おっか ) さん、とにかく ( わたくし ) も」電報を示しつつ「この通り出発が急になッて、 明日 ( あす ) はおそくも帰艦せにゃならんです。一月ぐらいすると帰って来ます。それまではどうかだれにも今夜の話は黙っていてください。どんな事があっても、 ( わたくし ) が帰って来るまでは、待っていてください」

       *

 あくる日武男はさらに母の保証をとり、さらに主治医を ( ) いて、ねんごろに浪子の上を託し、午後の汽車にて 逗子 ( ずし ) におりつ。

 汽車を ( くだ ) れば、日落ちて五日の月薄紫の空にかかりぬ。野川の橋を渡りて、一路の ( すな ) はほのぐらき松の林に入りつ。林をうがちて、 桔槹 ( はねつるべ ) の黒く夕空にそびゆるを望める時、思いがけなき 爪音 ( つまおと ) 聞こゆ。「ああ琴をひいている……」と思えば ( しん ) の臓をむしらるる 心地 ( ここち ) して、武男はしばし門外に ( なんだ ) をぬぐいぬ。今日は常よりも快かりしとて、浪子は 良人 ( おっと ) を待ちがてに絶えて久しき琴取り ( ) でて ( かな ) でしなりき。

 顔色の常ならぬをいぶかられて、武男はただ夜ふかししゆえとのみ言い紛らしつ。約あれば待ちて居し 晩餐 ( ばんさん ) ( つくえ ) に、浪子は 良人 ( おっと ) ( むか ) いしが、 二人 ( ふたり ) ともに食すすまず。浪子は心細さをさびしき ( えみ ) に紛らして、手ずから 良人 ( おっと ) のコートのボタンゆるめるをつけ直し、ブラシもて丁寧にはらいなどするうちに、終列車の時刻迫れば、今はやむなく立ち上がる武男の手にすがりて

 「あなた、もういらッしゃるの?」

 「すぐ帰ってくる。浪さんも注意して、よくなッていなさい」

 互いにしっかと手を握りつ。玄関に ( ) づれば、 ( うば ) のいくは ( くつ ) を直し、 ( ぼく ) 茂平 ( もへい ) 停車場 ( ステーション ) まで送るとて手かばんを 左手 ( ゆんで ) に、月はあれど 提燈 ( ちょうちん ) ともして待ちたり。

 「それじゃばあや、奥様を頼んだぞ。――浪さん、行って来るよ」

 「早く帰ってちょうだいな」

 うなずきて、武男は僕が照らせる提燈の光を踏みつつ門を ( ) でて十数歩、ふりかえり見れば、浪子は白き肩掛けを打ちきて、いくと門にたたずみ、ハンケチを打ちふりつつ「あなた、早く帰ってちょうだいな」

 「すぐ帰って来る。――浪さん、 夜気 ( やき ) にうたれるといかん、早くはいンなさい!」

 されど、二度三度ふりかえりし時は、白き姿の 朦朧 ( もうろう ) として見えたりしが、やがて ( みち ) はめぐりてその姿も見えずなりぬ。ただ三たび

 「早く帰ってちょうだいな」

 という声のあとを慕うてむせび来るのみ。顧みれば 片破月 ( かたわれづき ) の影冷ややかに松にかかれり。