University of Virginia Library

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六の三

 母はしきりに ( けぶ ) る葉巻を灰に葬りつつ、少し乗り出して

 「なあ、武どん、あんまいふいじゃから ( おまえ ) もびっくいするなもっともっごあすがの、わたしはもうこれまで 幾夜 ( いくばん ) も幾晩も考えた上の話じゃ、そんつもいで聞いてたもらんといけませんぞ。

 そらアもう浪にはわたしも別にこいという不足はなし、 ( おまえ ) も気に入っとっこっじゃから、何もこちの好きで 離縁 ( じえん ) のし ( ) すじゃごあはんがの、何を言うても病気が病気――」

 「病気は 快方 ( いいほう ) に向いてるです」武男は口早に言いて、きっと母親の顔を仰ぎたり。

 「まあわたしの言うことを聞きなさい。――それは 目下 ( いま ) の所じゃわるくないかもしらんがの、わたしはよウく 医師 ( おいしゃ ) から聞いたが、この病気ばかいは一 ( とき ) よかってもまたわるくなる、暑さ寒さですぐまた起こるもんじゃ、肺結核でようなッた人はまあ 一人 ( ひとり ) もない、お医者がそう言い申すじゃての。よし浪が今死なんにしたとこが、そのうちまたきっとわるくなッはうけあいじゃ。そのうちにはきっと ( おまえ ) に伝染すッなこらうけあいじゃ、なあ武どん。 ( おまえ ) にうつる、子供が 出来 ( でく ) る、子供にうつる、浪ばかいじゃない、大事な主人の ( おまえ ) も、の、大事な 家嫡 ( あととり ) の子供も、肺病持ちなッて、死んでしもうて見なさい、川島家はつぶれじゃなッかい。ええかい、 ( おまえ ) がおとっさまの 丹精 ( たんせい ) で、せっかくこれまでになッて、天子様からお 直々 ( じきじき ) に取り立ててくださったこの川島家も ( おまえ ) の代でつぶれッしまいますぞ。――そいは、も、浪もかあいそう、 ( おまえ ) もなかなかきつか、わたしも親でおってこういう事言い出すなおもしろくない、つらいがの、何をいうても病気が病気じゃ、浪がかあいそうじゃて主人の ( おまえ ) にゃ代えられン、川島家にも代えられン。よウく分別のして、ここは一つ思い切ってたもらんとないませんぞ」

  黙然 ( もくねん ) と聞きいる武男が心には、 今日 ( きょう ) 見舞い来し病妻の顔ありありと浮かみつ。

 「 ( おっか ) さん、 ( わたくし ) はそんな事はできないです」

 「なっぜ?」母はやや 声高 ( こわだか ) になりぬ。

 「 ( おっか ) さん、今そんな事をしたら、浪は死にます!」

 「そいは死ぬかもしれン、じゃが、武どん、わたしは ( おまえ ) の命が惜しい、川島家が惜しいのじゃ!」

 「 ( おっか ) さん、そうわたしを大事になさるなら、どうかわたしの心をくんでください。こんな事を言うのは異なようですが、実際わたしにはそんな事はどうしてもできないです。まだ慣れないものですから、それはいろいろ届かぬ所はあるですが、しかし ( おっか ) さんを大事にして、 ( わたくし ) にもよくしてくれる、実に罪も何もないあれを病気したからッて離別するなんぞ、どうしても ( わたくし ) はできないです。肺病だッてなおらん事はありますまい、現になおりかけとるです。もしまたなおらずに、どうしても死ぬなら、 ( おっか ) さん、どうか ( わたくし ) ( さい ) で死なしてください。病気が危険なら往来も絶つです、用心もするです。それは ( おっか ) さんの御安心なさるようにするです。でも離別だけはどうあッても ( わたくし ) はできないです!」

 「へへへへ、武男、 ( おまえ ) は浪の事ばッかいいうがの、自分は死んでもかまわンか、川島家はつぶしてもええかい?」

 「 ( おっか ) さんはわたしのからだばッかりおっしゃるが、そんな不人情な不義理な事して長生きしたッてどうしますか。人情にそむいて、義理を欠いて、決して家のためにいい事はありません。決して川島家の名誉でも光栄でもないです。どうでも離別はできません、断じてできないです」

 難関あるべしとは ( ) しながら思いしよりもはげしき抵抗に出会いし母は、例の 癇癖 ( かんぺき ) のむらむらと 胸先 ( むなさき ) にこみあげて、額のあたり筋立ち、こめかみ ( うご ) き、煙管持つ手のわなわなと震わるるを、ようよう押ししずめて、わずかに ( えみ ) を装いつ。

 「そ、そうせき込まんでも、まあ静かに考えて見なさい。 ( おまえ ) はまだ年が若かで、 世間 ( よのなか ) を知ンなさらンがの、よくいうわ、それ、小の虫を殺しても大の虫は助けろじゃ。なあ。浪は小の虫、 ( おまえ ) ――川島家は大の虫じゃ、の。それは 先方 ( むこう ) も気の毒、浪もかあいそうなよなものじゃが、病気すっがわるかじゃなッか。何と思われたて、川島家が断絶するよかまだええじゃなッか、なあ。それに不義理の不人情の言いなはるが、こんな ( こと ) は世間に幾らもあります。家風に合わンと 離縁 ( じえん ) する、子供がなかと 離縁 ( じえん ) する、悪い病気があっと 離縁 ( じえん ) する。これが世間の法、なあ武どん。何の不義理な事も不人情な事もないもんじゃ。 全体 ( いったい ) こんな病気のした時ゃの、嫁の 実家 ( さと ) から引き取ってええはずじゃ。 先方 ( むこう ) からいわンからこつちで言い出すが、何のわるか事恥ずかしか事があッもンか」

 「 ( おっか ) さんは世間世間とおっしゃるが、何も世間が悪い事をするから自分も悪い事をしていいという法はありません。病気すると離別するなんか昔の事です。もしまたそれが今の世間の法なら、今の世間は ( ) ちこわしていい、 ( ) ちこわさなけりゃならんです。 ( おっか ) さんはこっちの事ばっかりおっしゃるが、片岡の ( うち ) だッてせっかく嫁にやった者が病気になったからッて戻されていい気持ちがしますか。浪だってどの顔さげて帰られますか。ひょっとこれがさかさまで、わたしが肺病で、浪の 実家 ( さと ) から肺病は 険呑 ( けんのん ) だからッて浪を取り戻したら、 ( おっか ) さんいい 心地 ( こころもち ) がしますか。 ( おんな ) じ事です」

 「いいえ、そいは違う。男と女とはまた違うじゃなッか」

 「同じ事です。情理からいって、同じ事です。わたしからそんな事をいっちゃおかしいようですが、浪もやっと 喀血 ( かっけつ ) がとまって少し 快方 ( いいほう ) に向いたかという時じゃありませんか、今そんな事をするのは実に血を吐かすようなものです。浪は死んでしまいます。きっと死ぬです。他人だッてそんな事はできンです、 ( おっか ) さんはわたしに浪を殺せ……とおっしゃるのですか」

 武男は思わず熱き涙をはらはらと畳に落としつ。