第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
四の四
明くる日は、 昨夜 ( ゆうべ ) の 暴風雨 ( あらし ) に引きかえて、不思議なほどの上天気。
帰京は午後と定めて、午前の暖かく風なき 間 ( ま ) を運動にと、武男は浪子と打ち連れて、別荘の裏口よりはらはら松の 砂丘 ( すなやま ) を過ぎ、浜に 出 ( い ) でたり。
「いいお天気、こんなになろうとは思いませんでしたねエ」
「実にいい天気だ。 伊豆 ( いず ) が近く見えるじゃないか、話でもできそうだ」
二人 ( ふたり ) はすでに 乾 ( かわ ) ける砂を踏みて、今日の 凪 ( なぎ ) を 地曳 ( じびき ) すと立ち騒ぐ 漁師 ( りょうし ) 、貝拾う子らをあとにし、新月 形 ( なり ) の浜を次第に人少なき 方 ( かた ) に歩みつ。
浪子はふと思い 出 ( い ) でたるように「ねエあなた。あの――千々岩さんはどうしてらッしゃるでしょう?」
「千々岩? 実に 不埒 ( ふらち ) きわまるやつだ。あれから一度も会わンが。――なぜ聞くのかい?」
浪子は少し考え「イイエ、ね、おかしい事をいうようですが、 昨夜 ( ゆうべ ) 千々岩さんの夢を見ましたの」
「千々岩の夢?」
「はあ。千々岩さんがお母さまと何か話をしていなさる夢を見ましたの」
「はははは、 気沢山 ( きだくさん ) だねエ、どんな話をしていたのかい」
「何かわからないのですけど、お母さまが何度もうなずいていらっしゃいましたわ。――お千鶴さんが、あの方と山木さんといっしょに連れ立っていなさるのを見かけたって話したから、こんな夢を見たのでしょうね。ねエ、あなた、千々岩さんが 我等宅 ( うち ) に出入りするようなことはありますまいね」
「そんな事はない、ないはずだ。 母 ( おっか ) さんも千々岩の事じゃ 怒 ( おこ ) っていなさるからね」
浪子は思わず吐息をつきつ。
「本当に、こんな病気になってしまって、おかあさまもさぞいやに思っていらッしゃいましょうねエ」
武男ははたと胸を 衝 ( つ ) きぬ。病める妻には、それといわねど、浪子が病みて地を 転 ( か ) えしより、武男は帰京するごとに母の 機嫌 ( きげん ) の次第に 悪 ( あ ) しく、伝染の恐れあればなるべく逗子には遠ざかれとまで戒められ、さまざまの壁訴訟の果ては 昂 ( こう ) じて 実家 ( さと ) の 悪口 ( わるくち ) となり、いささかなだめんとすれば妻をかばいて親に抗するたわけ者とののしらるることも、すでに一再に 止 ( とど ) まらざりけるなり。
「はははは、浪さんもいろいろな心配をするね。そんな事があるものかい。精出して養生して、 来春 ( らいはる ) はどうか暇を都合して、 母 ( おっか ) さんと三人 吉野 ( よしの ) の花見にでも行くさ――やアもうここまで来てしまッた。疲れたろう。そろそろ帰らなくもいいかい」
二人は浜尽きて山起こる所に立てるなり。
「不動まで行きましょう、ね――イイエちっとも疲れはしませんの。西洋まででも行けるわ」
「いいかい、それじゃそのショールをおやりな。岩がすべるよ、さ、しっかりつかまって」
武男は浪子をたすけ引きて、山の根の岩を伝える一条の 細逕 ( さいけい ) を、しばしば立ちどまりては 憩 ( いこ ) いつつ、一 丁 ( ちょう ) あまり行きて、しゃらしゃら滝の下にいたりつ。滝の横手に小さき不動堂あり。松五六本、ひょろひょろと 崖 ( がけ ) より 秀 ( ひい ) でて、斜めに海をのぞけり。
武男は岩をはらい、ショールを敷きて浪子を憩わし、われも腰かけて、わが 膝 ( ひざ ) を 抱 ( いだ ) きつ。「いい 凪 ( なぎ ) だね!」
海は実に 凪 ( な ) げるなり。近午の空は天心にいたるまで 蒼々 ( あおあお ) と晴れて雲なく、 一碧 ( いっぺき ) の海は 所々 ( しょしょ ) 練 ( ね ) れるように白く光りて、見渡す限り目に立つ 襞 ( ひだ ) だにもなし。海も山も春日を浴びて 悠々 ( ゆうゆう ) として眠れるなり。
「あなた!」
「何?」
「なおりましょうか」
「エ?」
「わたくしの病気」
「何をいうのかい。なおらずにどうする。なおるよ、きっとなおるよ」
浪子は 良人 ( おっと ) の肩に 倚 ( よ ) りつ、「でもひょっとしたらなおらずにしまいはせんかと、そう時々思いますの。 実母 ( はは ) もこの病気で 亡 ( な ) くなりましたし――」
「浪さん、なぜ今日に限ってそんな事をいうのかい。だいじょうぶなおる。なおると 医師 ( いしゃ ) もいうじゃアないか。ねエ浪さん、そうじゃないか。そらア 母 ( おっか ) さんはその病気で――か知らんが、浪さんはまだ 二十 ( はたち ) にもならんじゃないか。それに初期だから、どんな事があったってなおるよ。ごらんな、それ 内 ( うち ) の親類の 大河原 ( おおかわら ) 、ね、あれは右の肺がなくなッて、医者が 匙 ( さじ ) をなげてから、まだ十五年も生きてるじゃないか。ぜひなおるという精神がありさえすりアきっとなおる。なおらんというのは浪さんが僕を愛せんからだ。愛するならきっとなおるはずだ。なおらずにこれをどうするかい」
武男は浪子の 左手 ( ゆんで ) をとりて、わが 唇 ( くちびる ) に当てつ。手には結婚の前、武男が贈りしダイヤモンド入りの 指環 ( ゆびわ ) 燦然 ( さんぜん ) として輝けり。
二人 ( ふたり ) はしばし黙して語らず。江の島の 方 ( かた ) より 出 ( い ) で来たりし 白帆 ( しらほ ) 一つ、 海面 ( うなづら ) をすべり行く。
浪子は涙に曇る目に微笑を帯びて「なおりますわ、きっとなおりますわ、――あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ! 死ぬなら二人で! ねエ、二人で!」
「浪さんが亡くなれば、僕も生きちゃおらん!」
「本当? うれしい! ねエ、二人で!――でもおっ 母 ( かあ ) さまがいらッしゃるし、お 職分 ( つとめ ) があるし、そう思っておいでなすッても自由にならないでしょう。その時はわたくしだけ先に行って待たなけりゃならないのですねエ――わたくしが死んだら時々は思い出してくださるの? エ? エ? あなた?」
武男は涙をふりはらいつつ、浪子の 黒髪 ( かみ ) をかいなで「ああもうこんな話はよそうじゃないか。早く養生して、よくなッて、ねエ浪さん、二人で長生きして、金婚式をしようじゃないか」
浪子は 良人 ( おっと ) の手をひしと両手に握りしめ、身を投げかけて、熱き涙をはらはらと武男が 膝 ( ひざ ) に落としつつ「死んでも、わたしはあなたの妻ですわ! だれがどうしたッて、病気したッて、死んだッて、未来の未来の 後 ( さき ) までわたしはあなたの妻ですわ!」
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