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2. 中 編

一の一

 今しも午後八時を ( ) ちたる床の間の置き時計を 炬燵 ( こたつ ) の中より顧みて、川島未亡人は

 「八時――もう帰りそうなもんじゃが」

 とつぶやきながら、やおらその肥え太りたる手をさしのべて 煙草 ( たばこ ) 盆を引き寄せ、つづけざまに二三服吸いて、耳 ( かたぶ ) けつ。山の手ながら松の ( うち ) ( ) は車東西に行き違いて、 隣家 ( となり ) には福引きの興やあるらん、若き 男女 ( なんにょ ) の声しきりにささめきて、おりおりどっと笑う声も手にとるように聞こえぬ。未亡人は舌打ち鳴らしつ。

 「何をしとっか。つッ。赤坂へ行くといつもああじゃっで…… ( たけ ) も武、 ( なみ ) も浪、 実家 ( さと ) 実家 ( さと ) じゃ。今時の者はこれじゃっでならん」

  ( ひざ ) 立て直さんとして、持病のリュウマチスの 痛所 ( いたみ ) に触れけん、「あいたあいた」顔をしかめて 癇癪 ( かんしゃく ) まぎれに煙草盆の縁手荒に打ちたたき「松、松松」とけたたましく小間使いを呼び立つる。その時おそく「お帰りい」の呼び声勇ましく二 ( ちょう ) の車がらがらと門に入りぬ。

 三が日の 晴着 ( はれぎ ) ( すそ ) 踏み開きて ( ) せ来たりし小間使いが、「御用?」と手をつかえて、「 ( なん ) をうろうろしとっか、 ( はよ ) 玄関に行きなさい」としかられてあわてて引き下がると、引きちがえに

 「 ( おっか ) さん、ただいま帰りました」

 と 凛々 ( りり ) しき声に ( さき ) を払わして 手套 ( てぶくろ ) を脱ぎつつ入り来る武男のあとより、 外套 ( がいとう ) 吾妻 ( あずま ) コートを ( おんな ) に渡しつつ、浪子は夫に引き沿うてしとやかに座につき、手をつかえつ。

 「おかあさま、大層おそなはりました」

 「おおお帰りかい。 大分 ( だいぶ ) ゆっくりじゃったのう。」

 「はあ、 今日 ( きょう ) は、なんです、加藤へ寄りますとね、赤坂へ行くならちょうどいいからいっしょに行こうッて言いましてな、加藤さんも 伯母 ( おば ) さんもそれから 千鶴子 ( ちずこ ) さんも、総勢五人で出かけたのです。赤坂でも非常の喜びで、幸い客はなし、話がはずんで、ついおそくなってしまったのです――ああ酔った」と熟せる桃のごとくなれる ( ほお ) をおさえつ、小間使いが持て来し茶をただ一息に飲みほす。

 「そうかな。そいはにぎやかでよかったの。赤坂でもお変わりもないじゃろの、浪どん?」

 「はい、よろしく申し上げます、まだ伺いもいたしませんで、……いろいろお 土産 ( みや ) をいただきまして、くれぐれお礼申し上げましてございます」

 「 土産 ( みやげ ) といえば、浪さん、あれは……うんこれだ、これだ」と浪子がさし出す盆を取り次ぎて、母の前に差し置く。盆には 雉子 ( きじ ) ひとつがい、 ( しぎ ) ( うずら ) などうずたかく積み上げたり。

 「御猟の品かい、これは沢山に――ごちそうがでくるの」

 「なんですよ、 ( おっか ) さん、今度は非常の大猟だったそうで、つい 大晦日 ( おおみそか ) の晩に帰りなすったそうです。ちょうど今日は持たしてやろうとしておいでのとこでした。まだ 明日 ( あす ) ( しし ) が来るそうで――」

 「 ( しし ) ? ――猪が ( ) れ申したか。たしかわたしの方が 三歳 ( みッつ ) 上じゃったの、浪どん。昔から元気のよか ( かた ) じゃったがの」

 「それは何ですよ、 ( おっか ) さん、非常の元気で、今度も二日も三日も山に 焚火 ( たきび ) をして 露宿 ( のじく ) しなすったそうですがね。まだなかなか若い者に負けんつもりじゃて、そう威張っていなさいます」

 「そうじゃろの、 ( おっか ) さんのごとリュウマチスが起こっちゃもう仕方があいません。人間は病気が一番いけんもんじゃ。――おおもうやがて九時じゃ。着物どんかえて、やすみなさい。――おお、そいから今日はの、武どん。 安彦 ( やすひこ ) が来て――」

 立ちかかりたる武男はいささか安からぬ色を動かし、浪子もふと耳を傾けつ。

 「千々岩が?」

 「何か ( おまえ ) に要がありそうじゃったが――」

 武男は少し考え、「そうですか、 ( わたくし ) もぜひ――あわなけりゃならん――要がありますが。――何ですか、 ( おっか ) さん、私の留守に金でも借りに来はしませんでしたか」

 「なぜ? ――そんな事はあいません――なぜかい?」

 「いや――少し聞き込んだ事もあるのですから――いずれそのうちあいますから――」

 「おおそうじゃ、そいからあの山木が来ての」

 「は、あの山木のばかですか」

 「あれが来てこの――そうじゃった、十日にごちそうをすっから、 是非 ( ぜっひ ) ( おまえ ) に来てくださいというから」

 「うるさいやつですな」

 「行ってやんなさい。 ( おとっ ) さんの恩を覚えておっがかあいかじゃなっか」

 「でも――」

 「まあ、そういわずと行ってやんなさい――どれ、わたしも寝ましょうか」

 「じゃ、 ( おっか ) さん、おやすみなさい」

 「ではお ( かあ ) 様、ちょっと着がえいたしてまいりますから」

 若夫婦は打ち連れて、居間へ通りつ。小間使いを相手に、浪子は 良人 ( おっと ) の洋服を脱がせ、 琉球紬 ( りゅうきゅうつむぎ ) の綿入れ二枚重ねしをふわりと打ちきすれば、武男は無造作に 白縮緬 ( しろちりめん ) 兵児帯 ( へこおび ) 尻高 ( しりだか ) に引き結び、やおら安楽 椅子 ( いす ) ( ) りぬ。洋服の ( ちり ) を払いて次の間の 衣桁 ( えこう ) にかけ、「紅茶を入れるようにしてお置き」と小間使いにいいつけて、浪子は良人の居間に入りつ。

 「あなた、お疲れ遊ばしたでしょう」

 葉巻の青き ( けぶり ) を吹きつつ、今日到来せし年賀状名刺など見てありし武男はふり仰ぎて、

 「浪さんこそくたびれたろう、――おおきれい」

 「?」

 「美しい花嫁様という事さ」

 「まあ、いや――あんな ( こと ) を」

 さと顔打ちあかめて、ランプの光まぶしげに、目をそらしたる、常には ( あお ) きまで白き 顔色 ( いろ ) の、今ぼうっと桜色ににおいて、 艶々 ( つやつや ) とした 丸髷 ( まるまげ ) さながら鏡と照りつ。浪に千鳥の裾模様、 黒襲 ( くろがさね ) 白茶七糸 ( しらちゃしゅちん ) の丸帯、 碧玉 ( へきぎょく ) を刻みし 勿忘草 ( フォルゲットミイノット ) ( えり ) どめ、(このたび武男が米国より ( ) て来たりしなり)四 ( ) ( はじ ) ( ) ( えみ ) を含みて、 嫣然 ( えんぜん ) として 燈光 ( あかり ) のうちに立つ姿を、わが妻ながらいみじと武男は思えるなり。

 「本当に浪さんがこう着物をかえていると、まだ 昨日 ( きのう ) 来た花嫁のように思うよ」

 「あんな ( こと ) を――そんなことをおっしゃると ( ) ってしまいますから」

 「ははははもう言わない言わない。そう逃げんでもいいじゃないか」

 「ほほほ、ちょっと着がえをいたしてまいりますよ」

一の二

 武男は昨年の夏初め、新婚間もなく遠洋航海に ( ) で、秋は帰るべかりしに、 桑港 ( そうこう ) に着きける時、器械に修覆を要すべき事の起こりて、それがために帰期を誤り、 旧臘 ( きゅうろう ) 押しつまりて帰朝しつ。今日正月三日というに、年賀をかねて浪子を伴ない加藤家より浪子の 実家 ( さと ) ( ) いたるなり。

 武男が母は昔 気質 ( かたぎ ) の、どちらかといえば西洋ぎらいの方なれば、 寝台 ( ねだい ) ( ) ねて ( さじ ) もて食らうこと思いも寄らねど、さすがに若主人のみは幾分か治外の法権を ( ) けて、十畳のその居間は和洋折衷とも言いつべく、畳の上に緑色の 絨氈 ( じゅうたん ) を敷き、テーブルに 椅子 ( いす ) 二三脚、床には 唐画 ( とうが ) の山水をかけたれど、

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[13]
※間 ( びかん ) には亡父 通武 ( みちたけ ) の肖像をかかげ、開かれざる 書筺 ( しょきょう ) と洋籍の ( たな ) は片すみに排斥せられて、正面の床の間には父が遺愛の 備前兼光 ( びぜんかねみつ ) の一刀を飾り、士官帽と両眼鏡と違い棚に、短剣は床柱にかかりぬ。写真額 数多 ( あまた ) 掛けつらねたるうちには、その乗り組める軍艦のもあり、制服したる青年のおおぜいうつりたるは、 江田島 ( えたじま ) にありけるころのなるべし。テーブルの上にも二三の写真を飾りたり。両親並びて、五六歳の 男児 ( おのこ ) の父の膝に ( ) りたるは、武男が幼きころの紀念なり。カビネの 一人 ( ひとり ) ( うつ ) しの軍服なるは 乃舅 ( しゅうと ) 片岡中将なり。主人が年若く粗豪なるに似もやらず、 几案 ( きあん ) 整然として、すみずみにいたるまで一点の ( ちり ) ( とど ) めず、あまつさえ古銅 ( へい ) に早咲きの梅一両枝趣深く ( ) けたるは、 ( あたた ) かき心と細かなる注意と熟練なる手と常にこの ( へや ) に往来するを示しぬ。げにその ( ぬし ) は銅瓶の ( もと ) に梅花の ( かおり ) を浴びて、心臓形の銀の写真掛けのうちにほほえめるなり。ランプの光はくまなく室のすみずみまでも照らして、 火桶 ( ひおけ ) の炭火は緑の 絨氈 ( じゅうたん ) の上に紫がかりし ( くれない ) ( ほのお ) を吐きぬ。

 愉快という愉快は世に数あれど、つつがなく長の旅より帰りて、旅衣を 平生服 ( ふだんぎ ) 着心地 ( きごこち ) よきにかえ、窓外にほゆる夜あらしの音を聞きつつ居間の暖炉に足さしのべて、聞きなれし時計の 軋々 ( きつきつ ) を聞くは、まったき愉快の一なるべし。いわんやまた 阿母 ( あぼ ) 老健にして、新妻のさらに ( いと ) しきあるをや。葉巻の ( かんば ) しきを吸い、陶然として身を安楽椅子の安きに託したる武男は、今まさにこの楽しみを ( ) けけるなり。

 ただ一つの ( かげ ) は、さきに母の口より聞き、今来訪名刺のうちに見たる、千々岩安彦の名なり。今日武男は千々岩につきて忌まわしき事を聞きぬ。旧臘某日の事とか、千々岩が勤むる参謀本部に千々岩にあてて一通のはがきを寄せたる者あり、 折節 ( おりふし ) 千々岩は不在なりしを同僚の ( なにがし ) 何心なく見るに、高利貸の名高き 何某 ( なにがし ) の貸し金督促状にして、しかのみならずその金額要件は特に朱書してありしという。ただそれのみならず、参謀本部の機密おりおり思いがけなき方角に漏れて、投機商人の利を博することあり。なおその上に、千々岩の姿をあるまじき相場の ( いち ) に見たる者あり。とにかく種々 嫌疑 ( けんぎ ) の雲は千々岩の上におおいかかりてあれば、この上とても千々岩には心して、かつ自ら 戒飭 ( かいちょく ) するよう忠告せよと、参謀本部に長たる某将軍とは 爾汝 ( じじょ ) の間なる ( しゅうと ) 中将の話なりき。

 「困った男だ」

 かくひとりごちて、武男はまた千々岩の名刺を打ちながめぬ。しかも今の武男は長く不快に縛らるるあたわざるなり。何も直接にあいて問いただしたる上と、思い定めて、心はまた翻然として今の楽しきに返れる時、 ( きもの ) をあらためし浪子は手ずから紅茶を入れてにこやかに入り来たりぬ。

 「おお紅茶、これはありがたい」椅子を離れて 火鉢 ( ひばち ) のそばにあぐらかきつつ、

 「 ( おっか ) さんは?」

 「今おやすみ遊ばしました」紅茶の熱きをすすめつつ、なお ( くれない ) なる 良人 ( おっと ) ( かお ) をながめ「あなた、お頭痛が遊ばすの? お酒なんぞ、召し上がれないのに、あんなに母がおしいするものですから」

 「なあに――今日は実に愉快だったね、浪さん。 阿舅 ( おとっさん ) のお話がおもしろいものだから、きらいな酒までつい過ごしてしまった。はははは、本当に浪さんはいいおとっさんをもっているね、浪さん」

 浪子はにっこり、ちらと武男の顔をながめて

 「その上に――」

 「エ? 何です?」驚き顔に武男はわざと目をみはりつ。

 「存じません、ほほほほほ」さと顔あからめ、うつぶきて 指環 ( ゆびわ ) をひねる。

 「いやこれは大変、浪さんはいつそんなにお世辞が 上手 ( じょうず ) になったのかい。これでは ( えり ) どめぐらいは ( やす ) いもんだ。はははは」

 火鉢の上にさしかざしたる ( てのひら ) にぽうっと 薔薇色 ( ばらいろ ) になりし頬を押えつ。少し吐息つきて、

 「本当に―― ( なが ) い間 ( おっか ) 様も――どんなにおさびしくッていらっしゃいましてしょう。またすぐ 勤務 ( おつとめ ) にいらっしゃると思うと、日が早くたってしようがありませんわ」

 「始終 ( うち ) にいようもんなら、それこそ三日目には、あなた、ちっと運動にでも出ていらっしゃいませんか、だろう」

 「まあ、あんな ( こと ) を――も 一杯 ( ひとつ ) あげましょうか」

 くみて差し出す紅茶を一口飲みて、葉巻の灰をほとほと火鉢の縁にはたきつ、快くあたりを見回して、

 「半年の ( ) もハンモックに揺られて、 ( うち ) に帰ると、十畳敷きがもったいないほど広くて何から何まで結構ずくめ、まるで極楽だね、浪さん。――ああ、何だか二度 蜜月遊 ( ホニムーン ) をするようだ」

 げに新婚間もなく相別れて半年ぶりに再び相あえる今日このごろは、ふたたび新婚の当時を繰り返し、正月の一時に来つらん 心地 ( ここち ) せらるるなりけり。

  ( ことば ) はしばし絶えぬ。 両人 ( ふたり ) はうっとりとしてただ 相笑 ( あいえ ) めるのみ。梅の ( ) 細々 ( さいさい ) として 両人 ( ふたり ) 火桶 ( ひおけ ) を擁して 相対 ( あいむか ) えるあたりをめぐる。

 浪子はふと思い ( ) でたるように顔を上げつ。

 「あなたいらっしゃいますの、山木に?」

 「山木かい、 ( おっか ) さんがああおっしゃるからね――行かずばなるまい」

 「ほほ、わたくしも行きたいわ」

 「行きなさいとも、行こういっしょに」

 「ほほほ、よしましょう」

 「なぜ?」

 「こわいのですもの」

 「こわい? 何が?」

 「うらまれてますから、ほほほ」

 「うらまれる? うらむ? 浪さんを?」

 「ほほほ、ありますわ、わたくしをうらんでいなさる方が。おのお ( とよ ) さん……」

 「ははは、何を――ばかな。あのばか娘もしようがないね、浪さん。あんな娘でももらい ( ) があるかしらん。ははは」

 「 ( おっか ) さまは、千々岩はあの山木と親しくするから、お豊を ( さい ) にもらったらよかろうッて、そうおっしゃっておいでなさいましたよ」

 「千々岩?――千々岩?――あいつ実に困ったやっだ。ずるいやつた知ってたが、まさかあんな 嫌疑 ( けんぎ ) を受けようとは思わんかった。いや近ごろの軍人は――僕も軍人だが――実にひどい。ちっとも昔の武士らしい ( ふう ) はありやせん、みんな金のためにかかってる。何、僕だって軍人は必ず貧乏しなけりゃならんというのじゃない。冗費を節して、 ( つね ) の産を積んで、まさかの 時節 ( とき ) に内顧の ( うれい ) のないようにするのは、そらあ当然さ。ねエ浪さん。しかし身をもって国家の干城ともなろうという者がさ、内職に高利を貸したり、あわれむべき兵の衣食をかじったり、御用商人と結託して不義の財をむさぼったりするのは実に用捨がならんじゃないか。それに実に不快なは、あの 賭博 ( とばく ) だね。僕の同僚などもこそこそやってるやつがあるが、実に不愉快でたまらん。今のやつらは上にへつらって下からむさぼることばかり知っとる」

 今そこに当の敵のあるらんように息巻き荒く攻め立つるまだ無経験の海軍少尉を、身にしみて聞き ( ) るる浪子は 勇々 ( ゆゆ ) しと誇りて、早く海軍大臣かないし軍令部長にして海軍部内の ( ふう ) を一新したしと思えるなり。

 「本当にそうでございましょうねエ。あの、何だかよくは存じませんが、 阿爺 ( ちち ) がね、大臣をしていましたころも、いろいろな頼み事をしていろいろ物を持って来ますの。 阿爺 ( ちち ) はそんな事は 大禁物 ( だいきんもつ ) ですから、できる事は頼まれなくてもできる、できない事は頼んでもできないと申して、はねつけてもはねつけてもやはりいろいろ名をつけて持ち込んで来ましたわ。で、 阿爺 ( ちち ) 戯談 ( じょうだん ) に、これではたれでも役人になりたがるはずだって笑っていましたよ」

 「そうだろう、陸軍も海軍も同じ事だ。金の世の中だね、浪さん――やあもう十時か」おりからりんりんとうつ柱時計を見かえりつ。

 「本当に 時間 ( とき ) が早くたつこと!」

二の一

 芝桜川町なる山木兵造が ( やしき ) は、すぐれて広しというにあらねど、町はずれより 西久保 ( にしのくぼ ) の丘の一部を取り込めて、庭には水をたたえ、石を据え、高きに道し、低きに橋して、 ( かえで ) 桜松竹などおもしろく植え散らし、ここに 石燈籠 ( いしどうろう ) あれば、かしこに 稲荷 ( いなり ) ( ほこら ) あり、またその奥に思いがけなき 四阿 ( あずまや ) あるなど、この門内にこの庭はと驚かるるも、山木が不義に得て不義に築きし万金の 蜃気楼 ( しんきろう ) なりけり。

 時はすでに午後四時過ぎ、 夕烏 ( ゆうがらす ) の声 遠近 ( おちこち ) に聞こゆるころ、座敷の騒ぎを ( うしろ ) にして日影薄き 築山道 ( つきやまみち ) 庭下駄 ( にわげた ) を踏みにじりつつ上り行く 羽織袴 ( はおりはかま ) の男あり。こは武男なり。母の ( ことば ) 黙止 ( もだ ) し難くて、今日山木の宴に臨みつれど、見も知らぬ相客と並びて、好まぬ ( さかずき ) ( ) ぐることのおもしろからず。さまざまの余興の果ては、いかがわしき 白拍子 ( しらびょうし ) の手踊りとなり、一座の無礼講となりて、いまいましきこと限りもなければ、 ( ) くにも辞し去らんと思いたれど、山木がしきりに引き留むるが上に、必ず ( ) わんと思える千々岩の宴たけなわなるまで足を運ばざりければ、やむなく ( とど ) まりつ、ひそかに座を立ちて、熱せる耳を冷ややかなる夕風に吹かせつつ、人なき ( かた ) をたどりしなり。

 武男が ( しゅうと ) 中将より千々岩に関する注意を受けて帰りし両三日 ( のち ) 鰐皮 ( わにかわ ) の手かばんさげし見も知らぬ男突然川島家に尋ね来たり、一通の証書を示して、思いがけなき三千円の返金を促しつ。証書面の借り主は名前も筆跡もまさしく千々岩安彦、保証人の名前は顕然川島武男と署しありて、そのうえ歴々と実印まで押してあらんとは。先方の口上によれば、契約期限すでに過ぎつるを、本人はさらに義務を果たさず、しかも突然いずれへか ( ぐう ) を移して、役所に行けばこの両三日職務上他行したりとかにて、さらに面会を得ざれば、ぜひなくこなたへ推参したる次第なりという。証書はまさしき手続きを踏みたるもの、さらに取り ( いだ ) したる往復の書面を見るに、 ( まご ) ( かた ) なき千々岩が筆跡なり。事の意外に驚きたる武男は、子細をただすに、母はもとより執事の田崎も、さる相談にあずかりし覚えなく、 印形 ( いんぎょう ) を貸したる覚えさらになしという。かのうわさにこの事実思いあわして、武男は七分事の様子を推しつ。あたかもその日千々岩は手紙を寄せて、 明日 ( あす ) 山木の宴会に会いたしといい越したり。

 その顔だに見ば、問うべき事を問い、言うべき事を言いて早帰らんと思いし千々岩は来たらず、しきりに波立つ胸の不平を葉巻の ( けぶり ) に吐きもて、武男は 崖道 ( がけみち ) を上り、 明竹 ( みんちく ) 小藪 ( こやぶ ) を回り、 常春藤 ( ふゆつた ) の陰に立つ 四阿 ( あずまや ) を見て、しばし腰をおろせる時、横手のわき道に 駒下駄 ( こまげた ) の音して、はたと 豊子 ( とよこ ) と顔見合わせつ。見れば高島田、松竹梅の ( すそ ) 模様ある 藤色縮緬 ( ふじいろちりめん ) の三 枚襲 ( まいがさね ) 、きらびやかなる服装せるほどますます ( すき ) のあらわれて、笑止とも自らは思わぬなるべし。その細き目をばいとど細うして、

 「ここにいらっしたわ」

 三十サンチ巨砲の的には立つとも、思いがけなき敵の襲来に冷やりとせし武男は、渋面作りてそこそこに兵を収めて逃げんとするを、あわてて追っかけ

 「あなた」

 「何です?」

 「おとっさんが御案内して庭をお見せ申せってそう言いますから」

 「案内? 案内はいらんです」

 「だって」

 「僕は 一人 ( ひとり ) で歩く方が勝手だ」

 これほど手強く打ち払えばいかなる 強敵 ( ごうてき ) も退散すべしと思いきや、なお懲りずまに追いすがりて

 「そうお逃げなさらんでもいいわ」

 武男はひたと当惑の ( まゆ ) をひそめぬ。そも武男とお豊の間は、その昔父が某県を知れりし時、お豊の父山木もその管下にありて常に出入したれば、子供もおりおり互いに顔合わせしが、まだ十一二の武男は常にお豊を打ちたたき泣かしては笑いしを、お豊は泣きつつなお武男にまつわりつ。年移り所変わり人 ( ) けて、武男がすでに新夫人を迎えける今日までも、お豊はなお当年の乱暴なる坊ちゃま、今は川島男爵と名乗る若者に対してはかなき恋を思えるなり。粗暴なる海軍士官も、それとうすうす知らざるにあらねば、まれに山木に往来する時もなるべく危うきに近よらざる方針を執りけるに、今日はおぞくも伏兵の ( はかりごと ) に陥れるを、またいかんともするあたわざりき。

 「逃げる? 僕は何も逃げる必要はない。行きたい方に行くのだ」

 「あなた、それはあんまりだわ」

 おかしくもあり、ばからしくもあり、迷惑にもあり、腹も立ちし武男行かんとしては引きとめられ、 ( のが ) れんとしてはまつわられ、あわれ見る人もなき庭のすみに 新日高川 ( しんひたかがわ ) の一幕を ( いだ ) せしが、ふと思いつく由ありて、

 「千々岩はまだ来ないか、お豊さんちょっと見て来てくれたまえ」

 「千々岩さんは日暮れでなけりゃ来ないわ」

 「千々岩は時々来るのかね」

 「千々岩さんは 昨日 ( きのう ) も来たわ、おそくまで奥の小座敷でおとっさんと何か話していたわ」

 「うん、そうか――しかしもう来たかもしれん、ちょっと見て来てくれないかね」

 「わたしいやよ」

 「なぜ!」

 「だって、あなた逃げて行くでしょう、なんぼわたしがいやだって、浪子さんが美しいって、そんなに人を追いやるものじゃなくってよ」

 「油断せば雨にもならんずる空模様に、百計つきたる武男はただ 大踏歩 ( だいとうほ ) して逃げんとする時、

 「お嬢様、お嬢様」

 と ( おんな ) の呼び来たりて、お豊を抑留しつ。このひまにと武男はつと ( やぶ ) を回りて、二三十歩足早に落ち延び、ほっと息つき

 「困った ( やつ ) だ」

 とつぶやきながら、再度の来襲の恐れなき屈強の要害――座敷の ( かた ) へ行きぬ。

二の二

 日は入り、客は去りて、昼の騒ぎはただ台所の ( かた ) に残れる時、羽織 ( はかま ) は脱ぎすてて、 煙草 ( たばこ ) 盆をさげながら、おぼつかなき足踏みしめて、廊下伝いに奥まりたる小座敷に入り来し主人の山木、赤 禿 ( ) げの 前額 ( ひたえ ) の湯げも立ち上らんとするを、いとどランプの光に輝かしつつ、 ( くず ) るるようにすわり、

 「若 旦那 ( だんな ) も、 千々岩君 ( ちぢわさん ) も、お待たせ申して失敬でがした。はははは、今日はおかげで非常の盛会……いや若旦那はお弱い、失敬ながらお弱い、軍人に似合いませんよ。 御大人 ( ごたいじん ) なんざそれは大したものでしたよ。年は寄っても、山木兵造――なあに、一升やそこらははははは大丈夫ですて」

 千々岩は黒水晶の目を山木に注ぎつ。

 「 大分 ( だいぶ ) ご元気ですな。山木君、もうかるでしょう?」

 「もうかるですとも、はははは――いやもうかるといえば」と山木は灰だらけにせし 煙管 ( きせる ) をようやく吸いつけ、一服吸いて「何です、その、今度あの○○○○が売り物に出るそうで、実は内々様子を探って見たが、先方もいろいろ困っている際だから、案外安く話が付きそうですて。事業の方は、大有望さ。追い追い内地雑居と来ると、いよいよ妙だが、いかがです若旦那、田崎君の名義でもよろしいから、二三万御奮発なすっちゃ。きっともうけさして上げますぜ」

 と 本性 ( ほんしょう ) ( たが ) わぬ 生酔 ( なまえ ) いの口は、酒よりもなめらかなり。千々岩は黙然と ( ) しいる武男を 流眸 ( ながしめ ) に見て、「○○○○、確か 青物町 ( あおものちょう ) の。あれは一時もうかったそうじゃないか」

 「さあ、もうかるのを 下手 ( へた ) にやり ( くず ) したんだが、うまく行ったらすばらしい金鉱ですぜ」

 「それは惜しいもんだね。 素寒貧 ( すかんぴん ) の僕じゃ仕方ないが、武男君、どうだ、一肩ぬいで見ちゃア」

 座に着きし初めより始終 黙然 ( もくねん ) として不快の色はおおう所なきまで 眉宇 ( びう ) にあらわれし武男、いよいよ ( よろこ ) ばざる色を動かして、千々岩と山木を等分に憤りを含みたる目じりにかけつつ

 「御厚意かたじけないが、わが輩のように、いつ魚の 餌食 ( えじき ) になるか、裂弾、 榴弾 ( りゅうだん ) の的になるかわからない者は、別に金もうけの必要もない。失敬だがその某会社とかに三万円を投ずるよりも、わが輩はむしろ海員養成費に献納する」

 にべなく言い放つ武男の顔、千々岩はちらとながめて、山木にめくばせし、

 「山木君、利己主義のようだが、その話はあと回しにして僕の件から願いたいがね。川島君も承諾してくれたから、願って置いた通り――御印がありますか」

 証書らしき一葉の書付を取り ( いだ ) して山木の前に置きぬ。

 千々岩の身辺に 嫌疑 ( けんぎ ) の雲のかかれるも ( うべ ) なり。彼は昨年来その位置の便宜を利用して、山木がために参謀となり 牒者 ( ちょうじゃ ) となりて、その利益の分配にあずかれるのみならず、大胆にも官金を融通して 蠣殻町 ( かきがらちょう ) に万金をつかまんとせしに、たちまち五千円余の 損亡 ( そんもう ) を来たしつ。山木をゆすり、その ( たくわ ) えの底をはたきて二千円を得たれども、なお三千の不足あり。そのただ一 親戚 ( しんせき ) なる川島家は富みてかつ未亡人の覚えめでたからざるにもあらざれど、出すといえばおくびも惜しむ 叔母 ( おば ) の性質を知れる千々岩は、打ち明けて頼めば到底らちの明かざるを 看破 ( みやぶ ) り、一時を 弥縫 ( びほう ) せんと、ここに私印偽造の罪を犯して武男の連印を ( かた ) り、高利の三千円を借り得て、ひとまず官金消費の跡を濁しつ。さるほどに期限迫りて、果てはわが勤むる官署にすら督促のはがきを送らるる始末となりたれば、今はやむなくあたかも帰朝せる武男を説き動かし、この三千円を借り得てかの三千円を償い、武男の金をもって武男の名を ( あがな ) わんと欲せしなり。さきに武男を ( ) いたれどおりあしく 得逢 ( えあ ) わず、その後二三日職務上の要を帯びて他行しつれば、いまだ高利貸のすでに武男が家に向かいしを知らざるなりき。

 山木はうなずき、ベルを鳴らして朱肉の ( いれもの ) を取り寄せ、ひと通り証書に目を通して、ふところより実印取り ( ) でつつ保証人なるわが名の下に ( ) しぬ。そを取り上げて、千々岩は武男の前に差し置き、

 「じゃ、君、証書はここにあるから――で、金はいつ受け取れるかね」

 「金はここに持っている」

 「ここに?―― 戯談 ( じょうだん ) はよしたまえ」

 「持っている。――では、参千円、確かに渡した」

 懐中より一通の紙に包みたるもの取り ( ) でて、千々岩が前に投げつけつ。

 打ち驚きつつ拾い上げ、おしひらきたる千々岩の顔はたちまち ( くれない ) になり、また ( あお ) くなりつ。きびしく歯を食いしばりぬ。彼はいまだ高利貸の手にあらんと信じ切ったる証書を現に目の前に見たるなり。武男は田崎に事の由を探らせし後、ついに ( ) しかる名前の上の三千円を払いしなりき。

 「いや、これは――」

 「覚えがないというのか。男らしく罪に ( ふく ) したまえ」

 子供、子供と今が今まで高をくくりし武男に十二分に裏をかかれて、一 ( こう ) 憤怨 ( ふんえん ) ( ほのお ) のごとく燃え起こりたる千々岩は、切れよと ( くちびる ) をかみぬ。山木は打ちおどろきて、 煙管 ( きせる ) をやに下がりに持ちたるまま 二人 ( ふたり ) の顔をながむるのみ。

 「千々岩、もうわが輩は何もいわん。 親戚 ( しんせき ) のよしみに、決して私印偽造の訴訟は起こさぬ。三千円は払ったから、高利貸のはがきが参謀本部にも行くまい、安心したまえ」

 あくまではずかしめられたる千々岩は、煮え返る胸をさすりつ。気は武男に飛びもかからんとすれども、心はもはや陳弁の時機にあらざるを認むるほどの働きを存せるなり。彼はとっさに態度を変えつ。

 「いや、君、そういわれると、実に面目ないがね、実はのっぴきならぬ――」

 「何がのっぴきならぬのだ? 徳義ばかりか法律の罪人になってまで高利を借る必要がどこにあるのか」

 「まあ、聞いてくれたまえ。実は 切迫 ( せっぱ ) つまった事で、金は ( ) る、借りるところはなし。君がいると、一も二もなく相談するのだが、叔母 ( さん ) には言いにくいだろうじゃないか。それだといって、急場の事だし、済まぬ――済まぬと思いながら――、実は先月はちっと当てもあったので、皆済してから潔く告白しようと――」

 「ばかを言いたまえ。潔く告白しようと思った者が、なぜ黙って別に三千円を借りようとするのだ」

  ( ひざ ) を乗り出す武男が見幕の鋭きに、山木はあわてて、

 「これさ、若旦那、まあ、お静かに、――何か詳しい 事情 ( わけ ) はわかりませんが、高が二千や三千の金、それに御親戚であって見ると、これは御勘弁――ねエ若旦那。千々岩 ( さん ) も悪い、悪いがそこをねエ若旦那。こんな事が ( おもて ) ざたになって見ると、千々岩 ( さん ) の立身もこれぎりになりますから。ねエ若旦那」

 「それだから三千円は払った、また訴訟なぞしないといっているじゃないか。――山木、君の事じゃない、控えて居たまえ、――それはしない、しかしもう今日限り絶交だ」

 もはや事ここにいたりては恐るる所なしと度胸を据えし千々岩は、再び態度を 嘲罵 ( ちょうば ) にかえつ。

 「絶交?――別に悲しくもないが――」

 武男の目は ( ほのお ) のごとくひらめきつ。

 「絶交はされてもかまわんが、金は出してもらうというのか。腰抜け ( ) !」

 「何?」

  気色立 ( けしきだ ) つ双方の勢いに ( ) いもいくらかさめし山木はたまり兼ねて 二人 ( ふたり ) が間に分け入り「若旦那も、千々岩 ( さん ) も、ま、ま、ま、静かに、静かに、それじゃ話も何もわからん、――これさ、お待ちなさい、ま、ま、ま、お待ちなさい」としきりにあなたを縫いこなたを繕う。

 押しとめられて、しばし 黙然 ( もくねん ) としたる武男は、じっと千々岩が ( おもて ) を見つめ、

 「千々岩、もういうまい。わが輩も子供の時から君と 兄弟 ( きょうだい ) のように育って、実際才力の上からも 年齢 ( とし ) からも君を兄と思っていた。今後も互いに力になろう、わが輩も及ぶだけ君のために尽くそうと思っていた。実はこのごろまでもまさかと信じ切っていた。しかし全く君のために売られたのだ、わが輩を売るのは一個人の事だが、君はまだその上に――いやいうまい、三千円の費途は聞くまい。しかし今までのよしみに一 ( ごん ) いって置くが、人の耳目は早いものだ、君は目をつけられているぞ、軍人の体面に関するような事をしたもうな。君たちは金より ( たっと ) いものはないのだから、言ったってしかたはあるまいが、ちっとあ恥を知りたまえ。じゃもう会うまい。三千円はあらためて君にくれる」

 厳然として言い放ちつつ武男は膝の前なる証書をとってずたずたに引き裂き ( ) てつ。つと立ち上がって次の間に ( ) でし勢いに、さっきよりここに隠れて聞きおりしと覚しき ( むすめ ) お豊を ( あお ) り倒しつ。「あれえ」という声をあとに足音荒く玄関の ( かた ) ( ) で去りたり。

 あっけにとられし山木と千々岩と顔見あわしつ。「相変わらず坊っちゃまだね。しかし千々岩さん、絶交料三千円は随分いいもうけをしたぜ」

 落ち散りたる証書の片々を見つめ、千々岩は 黙然 ( もくねん ) として ( くちびる ) をかみぬ。

三の一

  二月 ( きさらぎ ) 初旬 ( はじめ ) ふと引きこみし 風邪 ( かぜ ) の、ひとたびは

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( おこた ) りしを、ある夜 ( しゅうとめ ) の胴着を仕上ぐるとて急ぐままに ( ) ふかししより再びひき返して、今日二月の十五日というに浪子はいまだ床あぐるまで快きを覚えざるなり。

 今年の寒さは、今年の寒さは、と年々に言いなれし寒さも今年こそはまさしくこれまで覚えなきまで、日々吹き募る北風は雪を誘い雨を帯びざる日にもさながら髄を刺し骨をえぐりて、健やかなるも病み、病みたるは死し、新聞の広告は 黒囲 ( くろぶち ) のみぞ多くなり行く。この寒さはさらぬだに強からぬ浪子のかりそめの病を募らして、取り立ててはこれという異なれる病態もなけれど、ただ ( かしら ) 重く ( しょく ) うまからずして日また日を渡れるなり。

 今二点を拍ちし時計の ( ひぐらし ) など鳴きたらんように 凛々 ( りんりん ) と響きしあとは、しばし物音絶えて、秒を刻み行く時計のかえって静けさを加うるのみ。珍しくうららかに 浅碧 ( あさみどり ) をのべし初春の空は、四枚の障子に立て隔てられたれど、 悠々 ( ゆうゆう ) たる日の光くまなく紙障に ( ) えて、余りの光は紙を透かして浪子が仰ぎ ( ) しつつ黒スコッチの ( くつした ) を編める手先と、雪より白き ( まくら ) に漂う寝乱れ髪の上にちらちらおどりぬ。 左手 ( ひだり ) の障子には、ひょろひょろとした南天の影 手水鉢 ( ちょうずばち ) をおおうてうつむきざまに映り、右手には

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槎※ ( さが ) たる老梅の縦横に枝をさしかわしたるがあざやかに映りて、まだつぼみがちなるその影の、花は数うべくまばらなるにも春の浅きは知られつべし。 南縁 ( なんえん ) ( けん ) を迎うるにやあらん、腰板の上に ( ねこ ) ( かしら ) の映りたるが、今日の暖気に浮かれ ( ) でし 羽虫 ( はむし ) 目がけて飛び上がりしに、 ( ) りはずしてどうと落ちたるをまた心に関せざるもののごとく、悠々としてわが足をなむるにか、影なる ( かしら ) のしきりにうなずきつ。微笑を含みてこの 光景 ( ありさま ) を見し浪子は、日のまぶしきに ( まゆ ) ( あつ ) め、目を閉じて、うっとりとしていたりしが、やおらあなたに 転臥 ( ねがえり ) して、編みかけの ( くつした ) をなで試みつつ、また縦横に編み棒を動かし始めぬ。

 ドシドシと縁に ( おも ) やかなる足音して、 ( たけひく ) 仁王 ( におう ) の影障子を伝い来つ。

 「気分はどうごあんすな?」

 と枕べにすわるは ( しゅうと ) なり。

 「今日は大層ようございます。起きられるのですけども――」と編み物をさしおき、 ( えり ) の乱れを繕いつつ、起き上がらんとするを、姑は押しとめ、

 「そ、そいがいかん、そいがいかん。他人じゃなし、遠慮がいッもンか。そ、そ、そ、また編み物しなはるな。いけませんど。病人な 養生 ( ようじょう ) が仕事、なあ浪どん。 和女 ( おまえ ) は武男が事ちゅうと、何もかも忘れッちまいなはる。いけません。早う養生してな――」

 「本当に済みません、やすんでばかし……」

 「そ、そいが他人行儀、なあ。わたしはそいが大きらいじゃ」

 うそをつきたもうな、 ( おんみ ) は常に当今の嫁なるものの 舅姑 ( しゅうと ) に礼足らずとつぶやき、ひそかにわが

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( よめ ) のこれに異なるをもっけの ( さち ) と思うならずや。浪子は 実家 ( さと ) にありけるころより、口にいわねどひそかにその継母のよろず洋風にさばさばとせるをあきたらず思いて、一家の作法の上にはおのずから一種古風の 嗜味 ( しみ ) を有せるなりき。

 姑はふと思い ( ) でたるように、

 「お、武男から手紙が来たようじゃったが、どう ( ) えて 来申 ( きも ) した?」

 浪子は枕べに置きし一通の手紙のなかぬき ( いだ ) して姑に渡しつつ、

 「この日曜にはきっといらッしゃいますそうでございますよ」

 「そうかな」ずうと目を通してくるくるとまき収め、「転地養生もねもんじゃ。この寒にエットからだ ( いご ) かして見なさい、それこそ ( ) か病気も出て来ます。 風邪 ( かぜ ) はじいと寝ておると、なおるもんじゃ。武は年が若かでな。 医師 ( いしゃ ) をかえるの、やれ転地をすッのと騒ぎ ( ) す。わたしたちが若か時分な、腹が痛かてて寝る ( こた ) なし、産あがりだて十日と寝た事アあいません。世間が開けて ( ) っと皆が ( よお ) うなり申すでな。はははは。武にそう ( ) えてやったもんな、 ( おっか ) さんがおるで心配しなはんな、ての、ははははは、どれ」

 口には笑えど、目はいささか ( よろこ ) ばざる色を帯びて、 ( ) で行く姑の後ろ影、

 「御免遊ばせ」

 と起き直りつつ見送りて、浪子はかすかに吐息を漏らしぬ。

 親が子をねたむということ、あるべしとは思われねど、浪子は 良人 ( おっと ) の帰りし以来、一種異なる関係の姑との間にわき ( ) でたるを覚えつ。遠洋航海より帰り来て、浪子のやせしを見たる武男が、粗豪なる男心にも留守の心づかいをくみて、いよいよいたわるをば、いささか 苦々 ( にがにが ) しく姑の思える様子は、 怜悧 ( さと ) き浪子の目をのがれず。時にはかの孝――姑のいわゆる――とこの愛の道と、一時に踏み難く ( わか ) るることあるを、浪子はひそかに思い悩めるなり。

 「奥様、加藤様のお嬢様がおいで遊ばしましてございます」

 と呼ぶ ( おんな ) の声に、浪子はぱっちり目を開きつ。入り来る ( ひと ) を見るより喜色はたちまち 眉間 ( びかん ) に上りぬ。

 「あ、お 千鶴 ( ちず ) さん、よく来たのね」

三の二

 「今日はどんな?」

  藤色 ( ふじいろ ) 縮緬 ( ちりめん ) のおこそ 頭巾 ( ずきん ) とともに信玄袋をわきへ押しやり、浪子の枕べ近く立ち寄るは島田の十七八、紺地 斜綾 ( はすあや ) 吾妻 ( あずま ) コートにすらりとした姿を包んで、 三日月眉 ( みかづきまゆ ) におやかに、 凛々 ( りり ) しき黒目がちの、見るからさえざえとした娘。浪子が伯母加藤子爵夫人の長女、千鶴子というはこの ( ) なり。浪子と千鶴子は 一歳 ( ひとつ ) 違いの 従姉妹 ( いとこ ) 同士。幼稚園に通うころより実の 同胞 ( きょうだい ) も及ばぬほど ( むつ ) み合いて、浪子が妹の 駒子 ( こまこ ) をして「 ( ねえ ) さんはお千鶴さんとばかり仲よくするからわたしいやだわ!」といわしめしこともありき。されば浪子が川島家に ( とつ ) ぎて来し後も、他の学友らはおのずから足を遠くせしに引きかえ、千鶴子はかえってその家の近くなれるを喜びつつ、しばしば足を運べるなり。武男が遠洋航海の留守の間心さびしく ( ) き事多かる浪子を慰めしは、燃ゆるがごとき武男の書状を除きては、千鶴子の訪問ぞその ( おも ) なるものなりける。

 浪子はほほえみて、

 「今日はよっぽどよい方だけども、まだ ( かみ ) が重くて、時々せきが出て困るの」

 「そう?――寒いのね」うやうやしく座ぶとんをすすむる ( おんな ) をちょっと顧みて、浪子のそば近くすわりつ。 桐胴 ( きりどう ) 火鉢 ( ひばち ) 指環 ( ゆびわ ) の宝石きらきらと輝く手をかざしつつ、桜色ににおえる ( ほお ) ( おさ ) う。

 「伯母様も、伯父様も、おかわりないの?」

 「あ、よろしくッてね。あまり寒いからどうかしらッてひどく心配していなさるの、時候が時候だから、少しいい方だッたら 逗子 ( ずし ) にでも転地療養しなすったらッてね、 昨夕 ( ゆうべ ) ( おっか ) さんとそう話したのですよ」

 「そう?  横須賀 ( よこすか ) からもちょうどそう言って来てね……」

 「兄さんから? そう? それじゃ早く転地するがいいわ」

 「でももうそのうちよくなるでしょうから」

 「だッて、このごろの 感冒 ( かぜ ) は本当に用心しないといけないわ」

 おりから小間使いの紅茶を持ち来たりて千鶴子にすすめつ。

 「 ( かね ) や?  ( おっか ) さんは? お客? そう、どなた? 国の ( かた ) なの?――お千鶴さん、今日はゆっくりしていいのでしょう。兼や、お千鶴さんに何かごちそうしておあげな」

 「ほほほほ、お百度参りするのだもの、ごちそうばかりしちゃたまらないわ。お待ちなさいよ」言いつつ 服紗 ( ふくさ ) 包みの小重を取り出し「こちらの伯母さんはお ( はぎ ) がおすきだッたのね、少しだけども、――お客様ならあとにしましょう」

 「まあ、ありがとう。本当に……ありがとうよ」

 千鶴子はさらに 紅蜜柑 ( べにみかん ) を取り出しつつ「きれいでしょう。これはわたしのお 土産 ( みやげ ) よ。でもすっぱくていけないわ」

 「まあきれい、一ツむいてちょうだいな」

 千鶴子がむいて渡すを、さもうまげに吸いて、 ( ひたえ ) にこぼるる髪をかき上げ、かき上げつ。

 「うるさいでしょう。ざっと ( ) ってた方がよかないの? ね、ちょっと結いましょう。――そのままでいいわ」

 勝手知ったる次の間の鏡台の ( くし ) 取り ( いだ ) して、千鶴子は手柔らかにすき始めぬ。

 「そうそう、昨日の同窓会―― 案内状 ( しらせ ) が来たでしょう――はおもしろかってよ。みんながよろしくッて、ね。ほほほほ、学校を下がってからまだやっと一年しかならないのに、もう三一はお嫁だわ。それはおかしいの、 大久保 ( おおくぼ ) さんも 本多 ( ほんだ ) さんも 北小路 ( きたこうじ ) さんもみんな 丸髷 ( まるまげ ) ( ) ってね、変に奥様じみているからおかしいわ。――痛かないの?―ほほほほ、どんな話かと思ったら、みんな自分の 吹聴 ( ふいちょう ) ですわ。そうそう、それから親子別居論が始まってね、北小路さんは自分がちっとも家政ができないに ( おっかさん ) がたいへんやさしくするものだから同居に限るっていうし、大久保さんはまた ( おっかさん ) がやかましやだから別居論の勇将だし、それはおかしいの。それからね、わたしがまぜッかえしてやったら、お千鶴さんはまだ門外漢――漢がおかしいわ――だから話せないというのですよ。――すこしつまり過ぎはしないの?」

 「イイエ。――それはおもしろかったでしょう。ほほほほ、みんな 自己 ( じぶん ) から割り出すのね。どうせ 局々 ( ところところ ) で違うのだから、一概には言えないのでしょうよ。ねエ、お千鶴さん。伯母様もいつかそうおっしゃったでしょう。若い者ばかりじゃわがままになるッて、本当にそうですよ、年寄りを疎略に思っちゃ済まないのね」

 父中将の教えを受くるが上に、おのずから家政に趣味をもてる浪子は、 実家 ( さと ) にありけるころより継母の ( まつりごと ) を傍観しつつ、ひそかに自家の ( けん ) をいだきて、自ら一家の 女主 ( あるじ ) になりたらん日には、みごと家を ( ととの ) えんものと思えるは、一日にあらざりき。されど川島家に来たり嫁ぎて、万機一に摂政太后の手にありて、身はその ( くらい ) ありてその権なき太子妃の位置にあるを見るに及びて、しばしおのれを収めて姑の支配の ( もと ) に立ちつ。親子の間に立ち迷いて、思うさま 良人 ( おっと ) にかしずくことのままならぬをひそかにかこてるおりおりは、かつてわが 国風 ( こくふう ) ( ) わずと思いし継母が得意の 親子 ( しんし ) 別居論のあるいは真理にあらざるやを疑うこともありしが、これがためにかえって浪子は初心を破らじとひそかに心に ( おび ) せるなり。

 継母の ( もと ) 十年 ( ととせ ) を送り、今は姑のそばにやがて一年の経験を積める 従姉 ( いとこ ) の底意を、ことごとくはくみかねし千鶴子、三つに組みたる髪の端を白きリボンもて結わえつつ、浪子の顔さしのぞきて、声を低め、「このごろでも 御機嫌 ( ごきげん ) がわるくッて?」

 「でも、病気してからよくしてくださるのですよ。でもね、…… 武男 ( うち ) にいろいろするのが、おかあさまのお気に入らないには困るわ! それで、いつでも 此家 ( ここ ) ではおかあさまが 女皇陛下 ( クイーン ) だからおれよりもたれよりもおかあさまを一番大事にするンだッて、しょっちゅう言って聞かされるのですわ……あ、もうこんな話はよしましょうね。おおいい気持ち、ありがとう。頭が軽くなったわ」

 言いつつ三つ組みにせし髪をなで試みつ。さすがに疲れを覚えつらん、浪子は目を閉じぬ。

  ( くし ) をしまいて、紙に手をふきふき、鏡台の前に立ちし千鶴子は、小さき箱の ( ふた ) を開きて、 ( たなそこ ) に載せつつ、

 「何度見てもこの 襟止 ( びん ) はきれいだわ。本当に ( にい ) さんはよくなさるのねエ。 ( うち ) の――兄さん(これは千鶴子の婿養子と定まれる 俊次 ( しゅんじ ) といいて、目下外務省に奉職せる男)なんか、外交官の妻になるには語学が達者でなくちゃいけないッて、 仏語 ( フレンチ ) を勉強するがいいの、ドイツ語がぜひ必要のッて、責めてばかりいるから困るわ」

 「ほほほほ、お千鶴さんが 丸髷 ( まるまげ ) ( ) ったのを早く見たいわ――島田も惜しいけれど」

 「まあいや!」美しき ( まゆ ) はひそめど、裏切る 微笑 ( えみ ) 薔薇 ( ばら ) ( つぼ ) めるごとき唇に流れぬ。

 「あ、ほんに、 萩原 ( はぎわら ) さんね、そらわたしたちより一年 ( さき ) に卒業した――」

 「あの 松平 ( まつだいら ) さんに ( ) らっした方でしょう」

 「は、あの方がね、 昨日 ( きのう ) 離縁になったンですッて」

 「離縁に? どうしたの?」

 「それがね、 ( おとうさん ) ( おかあさん ) の気には入ってたけども、松平さんがきらってね」

 「子供がありはしなかったの」

 「 一人 ( ひとり ) あったわ。でもね、松平さんがきらって、このごろは ( めかけ ) を置いたり、囲い者をしたり、乱暴ばかりするからね、萩原さんのおとうさんがひどく ( おこ ) つてね、そんな薄情な者には、娘はやって置かれぬてね、とうとう引き取ってしまったんですッて」

 「まあ、かあいそうね。――どうしてきらうのでしょう、本当にひどいわ」

 「腹が立つのねエ。――逆さまだとまだいいのだけど、 舅姑 ( しゅうと ) の気に入っても 良人 ( おっと ) にきらわれてあんな事になっては本当につらいでしょうねエ」

 浪子は吐息しつ。

 「同じ学校に出て同じ教場で同じ本を読んでも、みんなちりぢりになって、どうなるかわからないものねエ。――お千鶴さん、いつまでも仲よく、さきざき力になりましょうねエ」

 「うれしいわ!」

  二人 ( ふたり ) の手はおのずから相結びつ。ややありて浪子はほほえみ、

 「こんなに寝ていると、ね、いろいろな事を考えるの。ほほほほ、笑っちゃいやよ。これから何年かたッてね、どこか外国と戦争が起こるでしょう、日本が勝つでしょう、そうするとね、お千鶴さん ( とこ ) の兄さんが外務大臣で、先方へ乗り込んで講和の談判をなさるでしょう、それから 武男 ( うち ) が艦隊の司令長官で、何十 ( そう ) という軍艦を向こうの港にならべてね……」

 「それから赤坂の叔父さんが軍司令官で、 ( うち ) のおとうさんが貴族院で何億万円の軍事費を議決さして……」

 「そうするとわたしはお千鶴さんと赤十字の旗でもたてて出かけるわ」

 「でもからだが弱くちゃできないわ。ほほほほ」

 「おほほほほ」

 笑う下より浪子はたちまちせきを発して、右の胸をおさえつ。

 「あまり話したからいけないのでしょう。胸が痛むの?」

 「時々せきするとね、ここに響いてしようがないの」

 言いつつ浪子の目はたちまちすうと薄れ行く障子の日影を打ちながめつ。

四の一

 山木が奥の小座敷に、あくまで武男にはずかしめられて、燃ゆるがごとき 憤嫉 ( ふんしつ ) を胸に ( たた ) みつつわが ( ぐう ) に帰りしその ( ) より 僅々 ( きんきん ) 五日を経て、 千々岩 ( ちぢわ ) は突然参謀本部よりして第一師団の某連隊付きに移されつ。

 人の一生には、なす事なす事皆図星をはずれて、さながら皇天ことにわれ一 ( にん ) をえらんで 折檻 ( せっかん ) また折檻の ( むち ) を続けざまに打ちおろすかのごとくに感ぜらるる、いわゆる「泣き ( つら ) ( はち ) 」の時期少なくとも一度はあるものなり。去年以来千々岩はこの瀬戸に舟やり入れて、今もって容易にその瀬戸を過ぎおわるべき見当のつかざるなりき。浪子はすでに武男に奪われつ。相場に手を出せば失敗を重ね、高利を借りれば恥をかき、 小児 ( こども ) と見くびりし武男には 下司 ( げす ) 同然にはずかしめられ、ただ一 親戚 ( しんせき ) たる川島家との通路は絶えつ。果てはただ一立身の 捷逕 ( しょうけい ) として、死すとも去らじと思える参謀本部の位置まで、一言半句の 挨拶 ( あいさつ ) もなくはぎとられて、このごろまで 牛馬 ( うしうま ) 同様に思いし師団の一士官とならんとは。 ( きず ) 持つ足の千々岩は、今さら抗議するわけにも行かず、倒れてもつかむ 馬糞 ( ばふん ) ( しゅう ) をいとわで、おめおめと練兵行軍の事に従いしが、この打撃はいたく千々岩を刺激して、従来事に臨んでさらにあわてず、冷静に「われ」を持したる彼をして、思うてここにいたるごとに、一 肚皮 ( とひ ) の憤恨猛火よりもはげしく騰上し来たるを覚えざらしめたり。

 頭上に輝く名利の ( かんむり ) を、上らば必ず ( ) べき立身の 梯子 ( はしご ) に足踏みかけて、すでに一段二段を上り行きけるその時、突然 ( ) 落とされしは千々岩が今の身の上なり。 ( ) が蹴落とせし。千々岩は武男が言葉の端より、参謀本部に長たる将軍が片岡中将と無二の 昵懇 ( じっこん ) なる事実よりして、少なくも中将が幾分の手を仮したるを疑いつ。彼はまた従来金には淡白なる武男が、三千金のために、――たとい偽印の事はありとも――法外に怒れるを怪しみて、浪子が ( ふる ) き事まで取り ( ) でてわれを武男に ( ざん ) したるにあらずやと疑いつ。思えば思うほど疑いは事実と募り、事実は怒火に油さし、失恋のうらみ、功名の道における 蹉跌 ( さてつ ) の恨み、失望、不平、嫉妬さまざまの悪感は中将と浪子と武男をめぐりて ( ほのお ) のごとく立ち上りつ。かの常にわが冷頭を誇り、情に熱して数字を忘るるの愚を笑える千々岩も、連敗の余のさすがに気は乱れ心狂いて、一 ( こう ) 怨毒 ( えんどく ) いずれに向かってか吐き尽くすべき ( みち ) を得ずば、自己――千々岩安彦が五尺の ( ) まず破れおわらんずる 心地 ( ここち ) せるなり。

  復讎 ( ふくしゅう ) 、復讎、世に心よきはにくしと思う人の血をすすって、その ( ほお ) の一 ( れん ) に舌鼓うつ時の感なるべし。復讎、復讎、ああいかにして復讎すべき、いかにしてうらみ重なる片岡川島両家をみじんに吹き飛ばすべき地雷火坑を発見し、なるべくおのれは危険なき距離より糸をひきて、憎しと思う ( やから ) の心 ( やぶ ) ( はらわた ) 裂け骨 ( くじ ) け脳 ( まみ ) れ生きながら死ぬ光景をながめつつ、快く一杯を過ごさんか。こは一月以来 ( ) となく日となく千々岩の ( かしら ) を往来せる問題なりき。

 梅花雪とこぼるる三月中旬、ある日千々岩は親しく往来せる旧同窓生の 何某 ( なにがし ) が第三師団より東京に転じ来たるを迎うるとて、新橋におもむきつ。待合室を ( ) づるとて、あたかも十五六の 少女 ( おとめ ) を連れし ( たけ ) 高き婦人――貴婦人の婦人待合室より出で来たるにはたと行きあいたり。

 「お珍しいじゃございませんか」

  駒子 ( こまこ ) を連れて、片岡子爵夫人 繁子 ( しげこ ) はたたずめるなり。一瞬時、変われる千々岩の顔色は、先方の顔色をのぞいて、たちまち一変しつ。中将にこそ浪子にこそ恨みはあれ、少なくもこの人をば敵視する要なしと早くも心を決せるなり。千々岩はうやうやしく一礼して、微笑を帯び、

 「ついごぶさたいたしました」

 「ひどいお見限りようですね」

 「いや、ちょっとお伺い申すのでしたが、いろいろ職務上の要で、つい多忙だものですから―― 今日 ( きょう ) はどちらへか?」

 「は、ちょっと 逗子 ( ずし ) まで――あなたは?」

 「何、ちょっと 朋友 ( ともだち ) を迎えにまいったのですが――逗子は御保養でございますか」

 「おや、まだご存じないのでしたね、――病人ができましてね」

 「御病人? どなたで?」

 「浪子です」

 おりからベルの鳴りて人は ( うしお ) のごとく改札口へ流れ行くに、 少女 ( おとめ ) は母の ( そで ) 引き動かして

 「おかあさま、おそくなるわ」

 千々岩はいち早く子爵夫人が手にしたる四季袋を引っとり、打ち連れて歩みつつ

 「それは――何ですか、よほどお悪いので?」

 「はあ、とうとう肺になりましてね」

 「肺?――結核?」

 「は、ひどく 喀血 ( かっけつ ) をしましてね、それでつい先日逗子へまいりました。今日はちょっと見舞に」言いつつ千々岩が手より四季袋を受け取り「ではさようなら、すぐ帰ります、ちとお遊びにいらッしゃいよ」

  華美 ( はで ) なるカシミールのショールと ( くれない ) のリボンかけし 垂髪 ( おさげ ) とはるかに上等室に消ゆるを目送して、歩を返す時、千々岩の唇には恐ろしき微笑を浮かべたり。

四の二

 医師が見舞うたびに、あえて口にはいわねど、その症候の次第に著しくなり来るを認めつつ、 ( てだて ) を尽くして防ぎ止めんとせしかいもなく、目には見えねど浪子の病は ( ひび ) に募りて、三月の 初旬 ( はじめ ) には、疑うべくもあらぬ肺結核の初期に入りぬ。

 わが 老健 ( すこやか ) を鼻にかけて 今世 ( いまどき ) の若者の 羸弱 ( よわき ) をあざけり、転地の事耳に入れざりし ( しゅうと ) も、現在目の前に浪子の一度ならずに喀血するを見ては、さすがに驚き――伝染の恐ろしきを聞きおれば――恐れ、医師が勧むるまましかるべき看護婦を添えて浪子を相州逗子なる実家――片岡家の 別墅 ( べっしょ ) に送りやりぬ。肺結核!  茫々 ( ぼうぼう ) たる野原にただひとり立つ 旅客 ( たびびと ) の、頭上に迫り来る夕立雲のまっ黒きを望める心こそ、もしや、もしやとその病を待ちし浪子の心なりけれ。今は恐ろしき沈黙はすでにとく破れて、雷鳴り ( でん ) ひらめき 黒風 ( こくふう ) 吹き 白雨 ( はくう ) ほとばしる 真中 ( まなか ) に立てる浪子は、ただ身を ( ) して早く風雨の 重囲 ( ちょうい ) を通り過ぎなんと思うのみ。それにしても第一撃のいかにすさまじかりしぞ。思い ( ) づる三月の二日、今日は常にまさりて快く覚ゆるままに、久しく打ちすてし生け花の慰み、 ( しゅうと ) 部屋 ( へや ) 花瓶 ( かへい ) にささん料に、おりから帰りて ( ) たまいし 良人 ( おっと ) に願いて、においも深き紅梅の枝を折るとて、庭さき近く 端居 ( はしい ) して、あれこれとえらみ居しに、にわかに 胸先 ( むなさき ) 苦しく ( かしら ) ふらふらとして、 ( くれない ) ( もや ) 眼前 ( めさき ) に渦まき、われ知らずあと叫びて、肺を絞りし鮮血の紅なるを吐けるその時! その時こそ「ああとうとう!」と思う同時に、いずくともなくはるかにわが墓の影をかいま見しが。

 ああ死!  以前 ( むかし ) 世をつらしと見しころは、生何の楽しみぞ死何の 哀惜 ( かなしみ ) ぞと思いしおりもありけるが、今は人の 生命 ( いのち ) ( ) しければいとどわが命の惜しまれて千代までも生きたしと思う浪子。情けなしと思うほど、病に勝たんの心も切に、おりおり沈むわが気をふり起こしては、われより医師を促すまでに怠らず病を養えるなりき。

 目と鼻の 横須賀 ( よこすか ) にあたかも在勤せる武男が、ひまをぬすみてしばしば往来するさえあるに、父の書、伯母、千鶴子の見舞たえ間なく、別荘には、去年の夏川島家を追われし以来絶えて久しきかの ( うば ) のいくが、その再会の 縁由 ( よし ) となれるがために病そのものの悲しむべきをも喜ばんずるまで浪子をなつかしめるありて、 ( あと ) うべくは 以前 ( むかし ) に倍する熱心もて 伏侍 ( ふくじ ) するあり。まめまめしき老僕が心を用いて ( つこ ) うるあり。春寒きびしき都門を去りて、身を暖かき 湘南 ( しょうなん ) の空気に投じたる浪子は、 ( ひび ) に自然の人をいつくしめる温光を吸い、身をめぐる暖かき人の情けを吸いて、気も心もおのずからのびやかになりつ。地を転じてすでに二旬を経たれば、喀血やみ 咳嗽 ( がいそう ) やや減り、一週二回東京より来たり診する医師も、快しというまでにはいたらねど病の進まざるをかいありと喜びて、この上はげしき心神の刺激を避け、安静にして療養の功を続けなば、快復の望みありと許すにいたりぬ。

四の三

 都の花はまだ少し早けれど、逗子あたりは若葉の山に 山桜 ( さくら ) 咲き ( ) めて、山また山にさりもあえぬ白雲をかけし四月初めの土曜。今日は朝よりそぼ降る春雨に、海も山も 一色 ( ひといろ ) に打ち ( けぶ ) り、たださえ ( なが ) き日の果てもなきまで永き 心地 ( ここち ) せしが、日暮れ方より大降りになって、風さえ強く吹きいで、戸障子の鳴る ( おと ) すさまじく、怒りたける 相模灘 ( さがみなだ ) 濤声 ( とうせい ) 万馬 ( ばんば ) ( おど ) るがごとく、海村戸を ( とざ ) して 燈火 ( ともしび ) 一つ漏る家もあらず。

 片岡家の 別墅 ( べっしょ ) にては、今日は ( ) ( ) べかりしに勤務上やみ難き要ありておくれし武男が、 ( ) に入りて、風雨の暗を ( ) きつつ来たりしが、今はすでに ( ) をあらため、 晩餐 ( ばんさん ) を終え、卓によりかかりて、手紙を読みており。 相対 ( あいむか ) いて、浪子は美しき 巾着 ( きんちゃく ) を縫いつつ、時々針をとどめて 良人 ( おっと ) ( かた ) 打ちながめては ( ) み、風雨の音に耳傾けては静かに思いに沈みており。 揚巻 ( あげまき ) に結いし緑の髪には、一 ( ) の山桜を葉ながらにさしはさみたり。 二人 ( ふたり ) の間には、一脚の卓ありて、桃色のかさかけしランプはじじと燃えつつ、 薄紅 ( うすくれない ) の光を落とし、そのかたわらには 白磁瓶 ( はくじへい ) にさしはさみたる一枝の山桜、雪のごとく黙して語らず。 今朝 ( けさ ) 別れ来し故山の春を夢むるなるべし。

 風雨の声 ( おく ) をめぐりて騒がし。

 武男は手紙を巻きおさめつ。「 阿舅 ( おとうさん ) もよほど心配しておいでなさる。どうせ 明日 ( あす ) はちょっと 帰京 ( かえ ) るから、赤坂へ回って来よう」

 「明日いらッしゃるの? このお天気に!――でもお ( かあ ) 様もお待ちなすッていらッしゃいましょうねエ。わたくしも行きたいわ!」

 「浪さんが!!!

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とんでもない! それこそまっぴら御免こうむる。もうしばらくは 流刑 ( しまながし ) にあったつもりでいなさい。はははは」

 「ほほほ、こんな 流刑 ( しまながし ) なら生涯でもようござんすわ――あなた、 巻莨 ( たばこ ) 召し上がれな」

 「ほしそうに見えるかい。まあよそう。そのかわり来る前の日と、帰った日は、二日 ( ぶり ) のむのだからね。ははははは」

 「ほほほ、それじゃごほうびに、今いいお菓子がまいりますよ」

 「それはごちそうさま。大方お千鶴さんの 土産 ( みやげ ) だろう。――それは何かい、立派な物ができるじゃないか」

 「この間から日が ( なが ) くッてしようがないのですから、おかあさまへ上げようと思ってしているのですけど――イイエ大丈夫ですわ、遊び遊びしてますから。ああ何だか気分が 清々 ( せいせい ) したこと。も少し起きさしてちょうだいな、こうしてますとちっとも病気のようじゃないでしょう」

 「ドクトル川島がついているのだもの、はははは。でも、近ごろは本当に浪さんの顔色がよくなッた。もうこっちのものだて」

 この時次の間よりかの老女のいくが、菓子 ( ばち ) と茶盆を両手にささげ来つ。

 「ひどい 暴風雨 ( しけ ) でございますこと。 旦那 ( だんな ) 様がいらッしゃいませんと、ねエ奥様、 今夜 ( こんばん ) なんざとても目が合いませんよ。 飯田町 ( いいだまち ) のお嬢様はお 帰京 ( かえり ) 遊ばす、看護婦さんまで、ちょっと 帰京 ( かえり ) ますし、今日はどんなにさびしゅうございましてしょう、ねエ奥様。 茂平 ( もへい ) (老僕)どんはいますけれども」

 「こんな晩に船に乗ってる人の 心地 ( こころもち ) はどんなでしょうねエ。でも乗ってる人を思いやる人はなお悲しいわ!」

 「なあに」と武男は茶をすすり果てて風月の 唐饅頭 ( とうまんじゅう ) 二つ三つ一息に平らげながら「なあに、これくらいの 風雨 ( しけ ) はまだいいが、南シナ海あたりで二日も三日も 大暴風雨 ( おおしけ ) に出あうと、随分こたえるよ。四千何百トンの ( ふね ) が三四十度ぐらいに傾いてさ、山のようなやつがドンドン 甲板 ( かんぱん ) を打ち越してさ、 ( ふね ) がぎいぎい ( ) るとあまりいい 心地 ( こころもち ) はしないね」

 風いよいよ吹き募りて、暴雨一陣 ( つぶて ) のごとく雨戸にほとばしる。浪子は目を閉じつ。いくは身を震わしぬ。 三人 ( みたり ) ( ことば ) しばし途絶えて、風雨の音のみぞすさまじき。

 「さあ、陰気な話はもう中止だ。こんな ( ばん ) は、ランプでも明るくして愉快に話すのだ。ここは横須賀よりまた暖かいね、もうこんなに山桜が咲いたな」

 浪子は 磁瓶 ( じへい ) にさしし桜の花びらを ( かろ ) くなでつつ「 今朝 ( けさ ) 老爺 ( じいや ) が山から折って来ましたの。きれいでしょう。――でもこの雨風で山のはよっぽど散りましょうよ。本当にどうしてこんなに潔いものでしょう! そうそう、さっき 蓮月 ( れんげつ ) の歌にこんなのがありましたよ『うらやまし心のままにとく咲きて、すがすがしくも散るさくらかな』よく ( ) んでありますのねエ」

 「なに? すがすがしくも散る? 僕――わしはそう思うがね、花でも何でも日本人はあまり散るのを 賞翫 ( しょうがん ) するが、それも潔白でいいが、過ぎるとよくないね。 戦争 ( いくさ ) でも早く 討死 ( うちじに ) する方が負けだよ。も少し剛情にさ、 執拗 ( しつこく ) さ、気ながな方を奨励したいと思うね。それでわが輩――わしはこんな歌を詠んだ。いいかね、皮切りだからどうせおかしいよ、しつこしと、笑っちゃいかん、しつこしと人はいえども八重桜盛りながきはうれしかりけり、はははは 梨本 ( なしもと ) 跣足 ( はだし ) だろう」

 「まあおもしろいお歌でございますこと、ねエ奥様」

 「はははは、ばあやの折り紙つきじゃ、こらいよいよ秀逸にきまったぞ」

 話の途切れ目をまたひとしきり激しくなりまさる風雨の音、 ( なみ ) の音の立ち添いて、家はさながら大海に浮かべる舟にも似たり。いくは 鉄瓶 ( てつびん ) の湯をかうるとて次に立ちぬ。浪子はさしはさみ居し体温器をちょっと 燈火 ( あかり ) に透かし見て、 今宵 ( こよい ) は常よりも上らぬ熱を手柄顔に 良人 ( おっと ) に示しつつ、筒に収め、しばらくテーブルの 桜花 ( さくら ) を見るともなくながめていたりしが、たちまちほほえみて

 「もう一年たちますのねエ、よウくおぼえていますよ、あの時馬車に乗って出ると 家内 ( みんな ) の者が送って出てますから何とか言いたかったのですけどどうしても口に出ませんの。おほほほ。それから 溜池橋 ( ためいけばし ) を渡るともう日が暮れて、十五夜でしょう、まん丸な月が出て、それから 山王 ( さんのう ) のあの坂を上がるとちょうど 桜花 ( さくら ) の盛りで、馬車の窓からはらはらはらはらまるで 吹雪 ( ふぶき ) のように降り込んで来ましてね、ほほほ、 ( まげ ) に花びらがとまってましたのを、もうおりるという時、気がついて伯母がとってくれましたッけ」

 武男はテーブルに 頬杖 ( ほおづえ ) つき「一年ぐらいたつな早いもんだ。かれこれするとすぐ銀婚式になっちまうよ。はははは、あの時浪さんの澄まし方といったらはッははは思い出してもおかしい、おかしい。どうしてああ澄まされるかな」

 「でも、ほほほほ――あなたも若殿様できちんと澄ましていらッしたわ。ほほほほ手が震えて、杯がどうしても持てなかったンですもの」

 「 大分 ( だいぶ ) おにぎやかでございますねエ」といくはにこにこ ( ) みつつ 鉄瓶 ( てつびん ) を持ちて再び入り来つ。「ばあやもこんなに気分が 清々 ( せいせい ) いたしたことはありませんでございますよ。ごいっしょにこうしておりますと、昨年伊香保にいた時のような 心地 ( こころもち ) がいたしますでございますよ」

 「伊香保はうれしかったわ!」

 「 ( わらび ) 狩りはどうだい、たれかさんの 御足 ( おみあし ) が大分重かッたっけ」

 「でもあなたがあまりお急ぎなさるんですもの」と浪子はほほえむ。

 「もうすぐ蕨の時候になるね。浪さん、早くよくなッて、また蕨 ( ) りの競争しようじゃないか」

 「ほほほ、それまでにはきっとなおりますよ」

四の四

 明くる日は、 昨夜 ( ゆうべ ) 暴風雨 ( あらし ) に引きかえて、不思議なほどの上天気。

 帰京は午後と定めて、午前の暖かく風なき ( ) を運動にと、武男は浪子と打ち連れて、別荘の裏口よりはらはら松の 砂丘 ( すなやま ) を過ぎ、浜に ( ) でたり。

 「いいお天気、こんなになろうとは思いませんでしたねエ」

 「実にいい天気だ。 伊豆 ( いず ) が近く見えるじゃないか、話でもできそうだ」

  二人 ( ふたり ) はすでに ( かわ ) ける砂を踏みて、今日の ( なぎ ) 地曳 ( じびき ) すと立ち騒ぐ 漁師 ( りょうし ) 、貝拾う子らをあとにし、新月 ( なり ) の浜を次第に人少なき ( かた ) に歩みつ。

 浪子はふと思い ( ) でたるように「ねエあなた。あの――千々岩さんはどうしてらッしゃるでしょう?」

 「千々岩? 実に 不埒 ( ふらち ) きわまるやつだ。あれから一度も会わンが。――なぜ聞くのかい?」

 浪子は少し考え「イイエ、ね、おかしい事をいうようですが、 昨夜 ( ゆうべ ) 千々岩さんの夢を見ましたの」

 「千々岩の夢?」

 「はあ。千々岩さんがお母さまと何か話をしていなさる夢を見ましたの」

 「はははは、 気沢山 ( きだくさん ) だねエ、どんな話をしていたのかい」

 「何かわからないのですけど、お母さまが何度もうなずいていらっしゃいましたわ。――お千鶴さんが、あの方と山木さんといっしょに連れ立っていなさるのを見かけたって話したから、こんな夢を見たのでしょうね。ねエ、あなた、千々岩さんが 我等宅 ( うち ) に出入りするようなことはありますまいね」

 「そんな事はない、ないはずだ。 ( おっか ) さんも千々岩の事じゃ ( おこ ) っていなさるからね」

 浪子は思わず吐息をつきつ。

 「本当に、こんな病気になってしまって、おかあさまもさぞいやに思っていらッしゃいましょうねエ」

 武男ははたと胸を ( ) きぬ。病める妻には、それといわねど、浪子が病みて地を ( ) えしより、武男は帰京するごとに母の 機嫌 ( きげん ) の次第に ( ) しく、伝染の恐れあればなるべく逗子には遠ざかれとまで戒められ、さまざまの壁訴訟の果ては ( こう ) じて 実家 ( さと ) 悪口 ( わるくち ) となり、いささかなだめんとすれば妻をかばいて親に抗するたわけ者とののしらるることも、すでに一再に ( とど ) まらざりけるなり。

 「はははは、浪さんもいろいろな心配をするね。そんな事があるものかい。精出して養生して、 来春 ( らいはる ) はどうか暇を都合して、 ( おっか ) さんと三人 吉野 ( よしの ) の花見にでも行くさ――やアもうここまで来てしまッた。疲れたろう。そろそろ帰らなくもいいかい」

 二人は浜尽きて山起こる所に立てるなり。

 「不動まで行きましょう、ね――イイエちっとも疲れはしませんの。西洋まででも行けるわ」

 「いいかい、それじゃそのショールをおやりな。岩がすべるよ、さ、しっかりつかまって」

 武男は浪子をたすけ引きて、山の根の岩を伝える一条の 細逕 ( さいけい ) を、しばしば立ちどまりては ( いこ ) いつつ、一 ( ちょう ) あまり行きて、しゃらしゃら滝の下にいたりつ。滝の横手に小さき不動堂あり。松五六本、ひょろひょろと ( がけ ) より ( ひい ) でて、斜めに海をのぞけり。

 武男は岩をはらい、ショールを敷きて浪子を憩わし、われも腰かけて、わが ( ひざ ) ( いだ ) きつ。「いい ( なぎ ) だね!」

 海は実に ( ) げるなり。近午の空は天心にいたるまで 蒼々 ( あおあお ) と晴れて雲なく、 一碧 ( いっぺき ) の海は 所々 ( しょしょ ) ( ) れるように白く光りて、見渡す限り目に立つ ( ひだ ) だにもなし。海も山も春日を浴びて 悠々 ( ゆうゆう ) として眠れるなり。

 「あなた!」

 「何?」

 「なおりましょうか」

 「エ?」

 「わたくしの病気」

 「何をいうのかい。なおらずにどうする。なおるよ、きっとなおるよ」

 浪子は 良人 ( おっと ) の肩に ( ) りつ、「でもひょっとしたらなおらずにしまいはせんかと、そう時々思いますの。 実母 ( はは ) もこの病気で ( ) くなりましたし――」

 「浪さん、なぜ今日に限ってそんな事をいうのかい。だいじょうぶなおる。なおると 医師 ( いしゃ ) もいうじゃアないか。ねエ浪さん、そうじゃないか。そらア ( おっか ) さんはその病気で――か知らんが、浪さんはまだ 二十 ( はたち ) にもならんじゃないか。それに初期だから、どんな事があったってなおるよ。ごらんな、それ ( うち ) の親類の 大河原 ( おおかわら ) 、ね、あれは右の肺がなくなッて、医者が ( さじ ) をなげてから、まだ十五年も生きてるじゃないか。ぜひなおるという精神がありさえすりアきっとなおる。なおらんというのは浪さんが僕を愛せんからだ。愛するならきっとなおるはずだ。なおらずにこれをどうするかい」

 武男は浪子の 左手 ( ゆんで ) をとりて、わが ( くちびる ) に当てつ。手には結婚の前、武男が贈りしダイヤモンド入りの 指環 ( ゆびわ ) 燦然 ( さんぜん ) として輝けり。

  二人 ( ふたり ) はしばし黙して語らず。江の島の ( かた ) より ( ) で来たりし 白帆 ( しらほ ) 一つ、 海面 ( うなづら ) をすべり行く。

 浪子は涙に曇る目に微笑を帯びて「なおりますわ、きっとなおりますわ、――あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ! 死ぬなら二人で! ねエ、二人で!」

 「浪さんが亡くなれば、僕も生きちゃおらん!」

 「本当? うれしい! ねエ、二人で!――でもおっ ( かあ ) さまがいらッしゃるし、お 職分 ( つとめ ) があるし、そう思っておいでなすッても自由にならないでしょう。その時はわたくしだけ先に行って待たなけりゃならないのですねエ――わたくしが死んだら時々は思い出してくださるの? エ? エ? あなた?」

 武男は涙をふりはらいつつ、浪子の 黒髪 ( かみ ) をかいなで「ああもうこんな話はよそうじゃないか。早く養生して、よくなッて、ねエ浪さん、二人で長生きして、金婚式をしようじゃないか」

 浪子は 良人 ( おっと ) の手をひしと両手に握りしめ、身を投げかけて、熱き涙をはらはらと武男が ( ひざ ) に落としつつ「死んでも、わたしはあなたの妻ですわ! だれがどうしたッて、病気したッて、死んだッて、未来の未来の ( さき ) までわたしはあなたの妻ですわ!」

五の一

 新橋停車場に浪子の病を聞きける時、千々岩の ( くちびる ) に上りし微笑は、解かんと欲して解き得ざりし難問の 忽然 ( こつぜん ) としてその端緒を示せるに対して、まず揚がれる心の 凱歌 ( がいか ) なりき。にくしと思う川島片岡両家の 関鍵 ( かんけん ) は実に浪子にありて、浪子のこの肺患は取りも直さず天特にわれ千々岩安彦のために 復讎 ( ふくしゅう ) の機会を与うるもの、病は伝染致命の大患、武男は多く家にあらず、

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姑※ ( こそく ) の間に 軽々 ( けいけい ) 一片の ( ことば ) を放ち、一指を動かさずして破裂せしむるに何の子細かあるべき。事成らば、われは直ちに飛びのきて、あとは彼らが互いに手を負い負わし生き死に苦しむ活劇を見るべきのみ。千々岩は実にかく思いて、いささか不快の ( まゆ ) を開けるなり。

 叔母の気質はよく知りつ。武男がわれに怒りしほど、叔母はわれに怒らざるもよく知りつ。叔母が常に武男を子供視して、むしろわれ――千々岩の年よりも世故に ( ) けたる ( こうべ ) に依頼するの多きも、よく知りつ。そもそもまた 親戚 ( しんせき ) 知己も多からず、人をしかり飛ばして内心には心細く覚ゆる叔母が、若夫婦にあきたらで味方ほしく思うをもよく知りつ。さればいまだ一兵を進めずしてその作戦計画の必ず成効すべきを測りしなり。

 胸中すでに成竹ある千々岩は、さらに山木を語らいて、時々川島家に行きては、その模様を探らせ、かつは自己――千々岩はいたく 悔悛 ( かいしゅん ) 覚悟 ( かくご ) せる由をほのめかしつ。浪子の病すでに 二月 ( ふたつき ) に及びてはかばかしく ( ) せず、叔母の 機嫌 ( きげん ) のいよいよ ( ) しきを聞きし四月の末、武男はあらず、執事の田崎も家用を帯びて旅行せしすきをうかがい、一 ( ) 千々岩は不意に絶えて久しき川島家の門を入りぬ。あたかも叔母がひとり武男の書状を前に置きて、深く深く沈吟せるところに行きあわせつ。

五の二

 「いや、一向 ( はか ) がいきませんじゃ。金は使う、二月も三月もたったてようなるじゃなし、困ったものじゃて、のう安さん。――こういう時分にゃ頼もしか親類でもあって相談すっとこじゃが、武はあの通り子供――」

 「そこでございますて、伯母 ( さん ) 、実に 小甥 ( わたくし ) もこうしてのこのこ上がられるわけじゃないのですが、――御恩になった 故叔父様 ( おじさん ) や叔母 ( さん ) に対しても、また武男君に対しても、このまま黙って見ていられないのです。実にいわば川島家の一大事ですからね、顔をぬぐってまいったわけで――いや、叔母 ( さん ) 、この肺病という ( やつ ) ばかりは恐ろしいもんですね、叔母 ( さん ) もいくらもご存じでしょう、 ( さい ) の病気が夫に伝染して一家総だおれになるはよくある ( ためし ) です、わたくしも武男君の上が心配でなりませんて、叔母 ( さん ) から少し御注意なさらんと大事になりますよ」

 「そうじゃて。わたしもそいが恐ろしかで、逗子に行くな行くなて、武にいうんじゃがの、やっぱい聞かんで、見なさい――」

 手紙をとりて示しつつ「医者がどうの、やれ看護婦がどうしたの、――ばかが、 ( さい ) の事ばかい」

 千々岩はにやり笑いつ。「でも叔母 ( さん ) 、それは無理ですよ、夫婦に仲のよすぎるということはないものです。病気であって見ると、武男君もいよいよこらそうあるべきじゃありませんか」

 「それじゃてて、 ( さい ) が病気すッから親に不孝をすッ法はなかもんじゃ」

 千々岩は慨然として嘆息し「いや実に困った事ですな。せっかく武男君もいい細君ができて、叔母 ( さん ) もやっと御安心なさると、すぐこんな事になって――しかし川島家の存亡は実に今ですね――ところでお浪さんの 実家 ( さと ) からは何か 挨拶 ( あいさつ ) がありましたでしょうな」

 「挨拶、ふん、挨拶、あの 横柄 ( おうへい ) 継母 ( かか ) が、ふんちっとばかい 土産 ( みやげ ) を持っての、言い訳ばかいの挨拶じゃ。加藤の ( うち ) から二三度、来は来たがの――」

 千々岩は再び 大息 ( たいそく ) しつ。「こんな時にゃ 実家 ( さと ) からちと気をきかすものですが、病人の娘を押し付けて、よくいられるですね。しかし利己主義が本尊の世の中ですからね、叔母 ( さん )

 「そうとも」

 「それはいいですが、心配なのは武男君の健康です。もしもの事があったらそれこそ川島家は破滅です、――そういううちにもいつ伝染しないとも限りませんよ。それだって、夫婦というと、まさか叔母 ( さん ) ( かき ) をお結いなさるわけにも行きませんし――」

 「そうじゃ」

 「でも、このままになすっちゃ川島家の大事になりますし」

 「そうとも」

 「子供の言うようにするばかりが親の職分じゃなし、時々は子を泣かすが慈悲になることもありますし、それに若い者はいったん、思い込んだようでも少したつと案外気の変わるものですからね」

 「そうじゃ」

 「少しぐらいのかあいそうや気の毒は家の大事には換えられませんからね」

 「おおそうじゃ」

 「それに万一、子供でもできなさると、それこそ到底――」

 「いや、そこじゃ」

 膝乗り出して、がっくりと一つうなずける叔母のようすを見るより、千々岩は心の膝をうちて、翻然として話を転じつ。彼はその ( ) ぎ込みし薬の見る見る回るを認めしのみならず、叔母の 心田 ( しんでん ) もとすでに一種子の落ちたるありて、いまだ 左右 ( とこう ) の顧慮におおわれいるも、その ( ) を破りて芽ぐみ長じ花さき実るにいたるはただ時日の問題にして、その時日も勢いはなはだ長からざるべきを悟りしなりき。

 その真質において悪人ならぬ武男が母は、浪子を愛せぬまでもにくめるにはあらざりき。浪子が家風、教育の異なるにかかわらず、なるべくおのれを ( ) てて ( しゅうと ) に調和せんとするをば、さすがに母も知り、あまつさえそのある点において趣味をわれと同じゅうせるを感じて、口にしかれど心にはわが花嫁のころはとてもあれほどに届かざりしとひそかに思えることもありき。さりながら浪子がほとんど一月にわたるぶらぶら病のあと、いよいよ肺結核の忌まわしき名をつけられて、眼前に 喀血 ( かっけつ ) の恐ろしきを見るに及び、なおその病の少なからぬ費用をかけ時日を費やしてはかばかしき快復を見ざるを見るに及び、失望といわんか 嫌厭 ( けんえん ) と名づけんか自ら ( わか ) つあたわざるある一念の心底に ( ) ( ) でたるを覚えつ。彼を思い ( ) で、これを思いやりつつ、一種不快なる感情の胸中に

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※醸 ( うんじょう ) するに従って、武男が母は ( うわ ) うちおおいたる顧慮の一塊一塊融け去りてかの一念の驚くべき勢いもて日々長じ来たるを覚えしなり。

 千々岩は 分明 ( ぶんみょう ) に叔母が心の 逕路 ( けいろ ) をたどりて、これよりおりおり足を運びては、たださりげなく微雨軽風の両三点を放って、その顧慮をゆるめ、その 萌芽 ( ほうが ) をつちかいつつ、局面の近くに発展せん時を待ちぬ。そのおりおり武男の留守をうかがいて川島家に往来することのおぼろにほかに漏れしころは、千々岩はすでにその所作の大要をおえて、早くも舞台より足を抜きつつ、かの山木に向かい近きに起こるべき活劇の 予告 ( まえぶれ ) をなして、あらかじめ祝杯をあげけるなり。

六の一

 五月 初旬 ( はじめ ) 、武男はその乗り組める ( ふね ) のまさに ( くれ ) より 佐世保 ( させほ ) におもむき、それより 函館 ( はこだて ) 付近に行なわるべき連合艦隊の演習に列せんため引きかえして北航するはずなれば、かれこれ四五十日がほどは帰省の 機会 ( おり ) を得ざるべく、しばしの 告別 ( いとま ) かたがた、 一夜 ( あるよ ) 帰京して母の 機嫌 ( きげん ) を伺いたり。

 近ごろはとかく奥歯に物のはさまりしように、いつ帰りても機嫌よからぬ母の、 今夜 ( こよい ) は珍しくにこにこ顔を見せて、 風呂 ( ふろ ) ( ) かせ、武男が好物の 薩摩汁 ( さつまじる ) など自ら手をおろさぬばかり肝いりてすすめつ。元来あまり細かき事には気をとめぬ武男も、ようすのいつになくあらたまれるを不思議――とは思いしが、 何歳 ( いくつ ) になってもかあいがられてうれしからぬ子はなきに、父に別れてよりひとしお母なつかしき武男、母の機嫌の直れるに心うれしく、快く夜食の ( はし ) をとりしあとは、湯に入りてはらはら降り出せし雨の音を聞きつつ、この上の欲には浪子が早く全快してここにわが帰りを待っているようにならばなど今日立ち寄りて来し逗子の様子思い浮かべながら、陶然とよき 心地 ( ここち ) になりて浴を ( ) で、 使女 ( おんな ) ( はお ) 平生服 ( ふだんぎ ) を無造作に引きかけて、葉巻握りし 右手 ( めて ) の甲に額をこすりながら、母が八畳の居間に入り来たりぬ。

 小間使いに肩 ( ひね ) らして、 羅宇 ( らう ) の長き 煙管 ( きせる ) にて 国分 ( こくぶ ) をくゆらしいたる母は目をあげ「おお早上がって来たな。ほほほほほ、おとっさまがちょうどそうじゃったが――そ、その座ぶとんにすわッがいい。――松、 和女郎 ( おまえ ) はもうよかで、茶を入れて来なさい」と自ら立って 茶棚 ( ちゃだな ) より菓子鉢を取り ( ) でつ。

 「まるでお客様ですな」

 武男は葉巻を一吸い吸いて ( あお ) ( けぶり ) を吹きつつ、うちほほえむ。

 「武どん、よう帰ったもった。――実はその、ちっと相談もあるし、 是非 ( ぜっひ ) 帰ってもらおうと思ってた所じゃった。まあ帰ってくれたで、いい都合ッごあした。逗子――寄って ( ) つろの?」

 逗子はしげく往来するを母のきらうはよく知れど、まさかに見え透いたるうそも言いかねて、

 「はあ、ちょっと寄って来ました。―― 大分 ( だいぶ ) 血色も直りかけたようです。 ( おっか ) さんに済まないッて、ひどく心配していましたッけ」

 「そうかい」

 母はしげしげ武男の顔をみつめつ。

 おりから小間使いの茶道具を ( ) て来しを母は引き取り、

 「松、 御身 ( おまえ ) はあっち行っていなさい。そ、その ( ふすま ) をちゃんとしめて――」

六の二

 手ずから茶をくみて武男にすすめ、われも飲みて、やおら 煙管 ( きせる ) をとりあげつ。母はおもむろに口を開きぬ。

 「なあ武どん、わたしももう 大分 ( だいぶ ) 弱いましたよ。去年のリュウマチでがっつり弱い申した。 昨日 ( きのう ) お墓まいりしたばかいで、まだ肩腰が痛んでな。年が寄ると何かと心細うなッて困いますよ――武どん、 ( おまえ ) からだを大事にしての、病気をせん ( ごと ) してくれんとないませんぞ」

 葉巻の灰をほとほと火鉢の縁にはたきつつ、武男はでっぷりと肥えたれどさすがに争われぬ年波の寄る母の額を仰ぎ「 ( わたくし ) は始終 ( ほか ) にいますし、何もかも ( おっか ) さんが総理大臣ですからな――浪でも達者ですといいですが。あれも早くよくなって ( おっか ) さんのお肩を休めたいッてそういつも言ってます」

 「さあ、そう思っとるじゃろうが、病気が病気でな」

 「でも、大分 快方 ( いいほう ) になりましたよ。だんだん暖かくはなるし、とにかく若い者ですからな」

 「さあ、病気が病気じゃから、よく行けばええがの、武どん―― 医師 ( おいしゃ ) の話じゃったが、浪どんの 母御 ( かさま ) も、やっぱい肺病で ( ) くなッてじゃないかの?」

 「はあ、そんなことをいッてましたがね、しかし――」

 「この病気は親から子に伝わッてじゃないかい?」

 「はあ、そんな事を言いますが、しかし浪のは全く 感冒 ( かぜ ) から引き起こしたンですからね。なあに、 ( おっか ) さん用心次第です、伝染の、遺伝のいうですが、実際そういうほどでもないですよ。現に浪のおとっさんもあんな 健康 ( じょうぶ ) ( かた ) ですし、浪の妹――はああのお ( こま ) さんです――あれも肺のはの字もないくらいです。人間は 医師 ( いしゃ ) のいうほど弱いものじゃありません、ははははは」

 「いいえ、笑い事じゃあいません」と母はほとほと 煙管 ( きせる ) をはたきながら

 「病気のなかでもこの病気ばかいは恐ろしいもンでな、武どん。 ( おまえ ) も知っとるはずじゃが、あの知事の 東郷 ( とうごう ) 、な、 ( おまえ ) がよくけんかをしたあの ( ) 母御 ( かさま ) な、どうかい、あの ( ひと ) が肺病で死んでの、 一昨年 ( おととし ) の四月じゃったが、その年の暮れに、どうかい、東郷さんもやっぱい肺病で死んで、ええかい、それからあの 息子 ( むすこ ) さん――どこかの技師をしとったそうじゃがの――もやっぱい肺病でこのあいだ亡くなッた、な。みいな 母御 ( かさま ) のがうつッたのじゃ。まだこんな話が幾つもあいます。そいでわたしはの、武どん、この病気ばかいは油断がならん、油断をすれば大事じゃと思うッがの」

 母は煙管をさしおきて、少し ( ひざ ) をすすめ、黙して聞きおれる武男の横顔をのぞきつつ

 「実はの、わたしもこの間から相談したいしたい思っ ( ) い申したが――」

 少し言いよどんで、武男の顔しげしげとみつめ、

 「浪じゃがの――」

 「はあ?」

 武男は顔をあげたり。

 「浪を――引き取ってもろちゃどうじゃろの?」

 「引き取る? どう引き取るのですか」

 母は武男の顔より目をはなさず、「 実家 ( さと ) によ」

 「 実家 ( さと ) に?  実家 ( さと ) で養生さすのですか」

 「養生もしようがの、とにかく引き取って――」

 「養生には 逗子 ( ずし ) がいいですよ。 実家 ( さと ) では子供もいますし、 実家 ( さと ) で養生さすくらいなら 此家 ( うち ) の方がよっぽどましですからね」

 冷たくなりし茶をすすりつつ、母は少し震い声に「武どん、 ( おまえ ) 酔っちゃいまいの、わかんふりするのかい?」じっとわが子の顔みつめ「わたしがいうのはな、浪を―― 実家 ( さと ) に戻すのじゃ」

 「戻す? ……戻す? ――離縁ですな!!

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[20]

 「こーれ、声が高かじゃなッか、武どん」うちふるう武男をじっと見て

 「 離縁 ( じえん ) 、そうじゃ、まあ 離縁 ( じえん ) よ」

 「 離縁 ( りえん ) ! 離縁!!

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[21]
――なぜですか」

 「なぜ? さっきからいう通り、病気が病気じゃからの」

 「肺病だから……離縁するとおっしゃるのですな? 浪を離縁すると?」

 「そうよ、かあいそうじゃがの――」

 「離縁!!!

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[22]

 武男の手よりすべり落ちたる葉巻は火鉢に落ちておびただしくうち ( けぶ ) りぬ。一燈じじと燃えて、夜の雨はらはらと窓をうつ。

六の三

 母はしきりに ( けぶ ) る葉巻を灰に葬りつつ、少し乗り出して

 「なあ、武どん、あんまいふいじゃから ( おまえ ) もびっくいするなもっともっごあすがの、わたしはもうこれまで 幾夜 ( いくばん ) も幾晩も考えた上の話じゃ、そんつもいで聞いてたもらんといけませんぞ。

 そらアもう浪にはわたしも別にこいという不足はなし、 ( おまえ ) も気に入っとっこっじゃから、何もこちの好きで 離縁 ( じえん ) のし ( ) すじゃごあはんがの、何を言うても病気が病気――」

 「病気は 快方 ( いいほう ) に向いてるです」武男は口早に言いて、きっと母親の顔を仰ぎたり。

 「まあわたしの言うことを聞きなさい。――それは 目下 ( いま ) の所じゃわるくないかもしらんがの、わたしはよウく 医師 ( おいしゃ ) から聞いたが、この病気ばかいは一 ( とき ) よかってもまたわるくなる、暑さ寒さですぐまた起こるもんじゃ、肺結核でようなッた人はまあ 一人 ( ひとり ) もない、お医者がそう言い申すじゃての。よし浪が今死なんにしたとこが、そのうちまたきっとわるくなッはうけあいじゃ。そのうちにはきっと ( おまえ ) に伝染すッなこらうけあいじゃ、なあ武どん。 ( おまえ ) にうつる、子供が 出来 ( でく ) る、子供にうつる、浪ばかいじゃない、大事な主人の ( おまえ ) も、の、大事な 家嫡 ( あととり ) の子供も、肺病持ちなッて、死んでしもうて見なさい、川島家はつぶれじゃなッかい。ええかい、 ( おまえ ) がおとっさまの 丹精 ( たんせい ) で、せっかくこれまでになッて、天子様からお 直々 ( じきじき ) に取り立ててくださったこの川島家も ( おまえ ) の代でつぶれッしまいますぞ。――そいは、も、浪もかあいそう、 ( おまえ ) もなかなかきつか、わたしも親でおってこういう事言い出すなおもしろくない、つらいがの、何をいうても病気が病気じゃ、浪がかあいそうじゃて主人の ( おまえ ) にゃ代えられン、川島家にも代えられン。よウく分別のして、ここは一つ思い切ってたもらんとないませんぞ」

  黙然 ( もくねん ) と聞きいる武男が心には、 今日 ( きょう ) 見舞い来し病妻の顔ありありと浮かみつ。

 「 ( おっか ) さん、 ( わたくし ) はそんな事はできないです」

 「なっぜ?」母はやや 声高 ( こわだか ) になりぬ。

 「 ( おっか ) さん、今そんな事をしたら、浪は死にます!」

 「そいは死ぬかもしれン、じゃが、武どん、わたしは ( おまえ ) の命が惜しい、川島家が惜しいのじゃ!」

 「 ( おっか ) さん、そうわたしを大事になさるなら、どうかわたしの心をくんでください。こんな事を言うのは異なようですが、実際わたしにはそんな事はどうしてもできないです。まだ慣れないものですから、それはいろいろ届かぬ所はあるですが、しかし ( おっか ) さんを大事にして、 ( わたくし ) にもよくしてくれる、実に罪も何もないあれを病気したからッて離別するなんぞ、どうしても ( わたくし ) はできないです。肺病だッてなおらん事はありますまい、現になおりかけとるです。もしまたなおらずに、どうしても死ぬなら、 ( おっか ) さん、どうか ( わたくし ) ( さい ) で死なしてください。病気が危険なら往来も絶つです、用心もするです。それは ( おっか ) さんの御安心なさるようにするです。でも離別だけはどうあッても ( わたくし ) はできないです!」

 「へへへへ、武男、 ( おまえ ) は浪の事ばッかいいうがの、自分は死んでもかまわンか、川島家はつぶしてもええかい?」

 「 ( おっか ) さんはわたしのからだばッかりおっしゃるが、そんな不人情な不義理な事して長生きしたッてどうしますか。人情にそむいて、義理を欠いて、決して家のためにいい事はありません。決して川島家の名誉でも光栄でもないです。どうでも離別はできません、断じてできないです」

 難関あるべしとは ( ) しながら思いしよりもはげしき抵抗に出会いし母は、例の 癇癖 ( かんぺき ) のむらむらと 胸先 ( むなさき ) にこみあげて、額のあたり筋立ち、こめかみ ( うご ) き、煙管持つ手のわなわなと震わるるを、ようよう押ししずめて、わずかに ( えみ ) を装いつ。

 「そ、そうせき込まんでも、まあ静かに考えて見なさい。 ( おまえ ) はまだ年が若かで、 世間 ( よのなか ) を知ンなさらンがの、よくいうわ、それ、小の虫を殺しても大の虫は助けろじゃ。なあ。浪は小の虫、 ( おまえ ) ――川島家は大の虫じゃ、の。それは 先方 ( むこう ) も気の毒、浪もかあいそうなよなものじゃが、病気すっがわるかじゃなッか。何と思われたて、川島家が断絶するよかまだええじゃなッか、なあ。それに不義理の不人情の言いなはるが、こんな ( こと ) は世間に幾らもあります。家風に合わンと 離縁 ( じえん ) する、子供がなかと 離縁 ( じえん ) する、悪い病気があっと 離縁 ( じえん ) する。これが世間の法、なあ武どん。何の不義理な事も不人情な事もないもんじゃ。 全体 ( いったい ) こんな病気のした時ゃの、嫁の 実家 ( さと ) から引き取ってええはずじゃ。 先方 ( むこう ) からいわンからこつちで言い出すが、何のわるか事恥ずかしか事があッもンか」

 「 ( おっか ) さんは世間世間とおっしゃるが、何も世間が悪い事をするから自分も悪い事をしていいという法はありません。病気すると離別するなんか昔の事です。もしまたそれが今の世間の法なら、今の世間は ( ) ちこわしていい、 ( ) ちこわさなけりゃならんです。 ( おっか ) さんはこっちの事ばっかりおっしゃるが、片岡の ( うち ) だッてせっかく嫁にやった者が病気になったからッて戻されていい気持ちがしますか。浪だってどの顔さげて帰られますか。ひょっとこれがさかさまで、わたしが肺病で、浪の 実家 ( さと ) から肺病は 険呑 ( けんのん ) だからッて浪を取り戻したら、 ( おっか ) さんいい 心地 ( こころもち ) がしますか。 ( おんな ) じ事です」

 「いいえ、そいは違う。男と女とはまた違うじゃなッか」

 「同じ事です。情理からいって、同じ事です。わたしからそんな事をいっちゃおかしいようですが、浪もやっと 喀血 ( かっけつ ) がとまって少し 快方 ( いいほう ) に向いたかという時じゃありませんか、今そんな事をするのは実に血を吐かすようなものです。浪は死んでしまいます。きっと死ぬです。他人だッてそんな事はできンです、 ( おっか ) さんはわたしに浪を殺せ……とおっしゃるのですか」

 武男は思わず熱き涙をはらはらと畳に落としつ。

六の四

 母はつと立ち上がって、仏壇より一つの 位牌 ( いはい ) を取りおろし、座に帰って、武男の 眼前 ( めさき ) に押しすえつ。

 「武男、 ( おまえ ) はな、女親じゃからッてわたしを何とも思わんな。さ、おとっさまの前で ( ) 一度言って見なさい、さ言って見なさい。御先祖代々のお位牌も見ておいでじゃ。さ、 ( ) 一度言って見なさい、不孝者めが!!

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[23]

 きっと武男をにらみて、続けざまに煙管もて火鉢の縁打ちたたきぬ。

 さすがに武男も少し 気色 ( けしき ) ばみて「なぜ不孝です?」

 「なぜ? なぜもあッもンか。 ( さい ) の肩ばッかい持って親のいう事は聞かんやつ、不孝者じゃなッか。親が育てたからだを 粗略 ( そまつ ) にして、御先祖代々の家をつぶすやつは不孝者じゃなッか。不孝者、武男、 ( おまえ ) は不孝者、大不孝者じゃと」

 「しかし人情――」

 「まだ義理人情をいうッか。 ( おまえ ) は親よか ( さい ) が大事なッか。たわけめが。何いうと、妻、妻、妻ばかいいう、親をどうすッか。何をしても浪ばッかいいう。不孝者めが。勘当すッど」

 武男は ( くちびる ) をかみて熱涙を絞りつつ「 ( おっか ) さん、それはあんまりです」

 「何があんまいだ」

 「 ( わたくし ) は決してそんな粗略な心は決して持っちゃいないです。 ( おっか ) さんにその心が届きませんか」

 「そいならわたしがいう事をなぜきかぬ? エ? なぜ浪を 離縁 ( じえん ) せンッか」

 「しかしそれは」

 「しかしもねもンじゃ。さ、武男、 ( さい ) が大事か、親が大事か。エ? 家が大事? 浪が――? ――エエばかめ」

 「はっしと火鉢をうちたる勢いに、煙管の 羅宇 ( らう ) はぽっきと折れ、 雁首 ( がんくび ) は空を飛んではたと ( ふすま ) を破りぬ。途端に「はッ」と襖のあなたに 片唾 ( かたず ) をのむ人の ( ) はいせしが、やがて震い声に「御免――遊ばせ」

 「だれ? ――何じゃ?」

 「あの! 電報が……」

 襖開き、武男が電報をとりて見、小間使いが 女主人 ( あるじ ) の一 ( げい ) に会いて半ば消え入りつつそこそこに去りしまで、わずか二分ばかりの間――ながら、この瞬間に 二人 ( ふたり ) が間の熱やや ( くだ ) りて、しばらくは 母子 ( おやこ ) ともに 黙然 ( もくねん ) と相対しつ。雨はまたひとしきり滝のように降りそそぐ。

 母はようやく口を開きぬ。目にはまだ怒りのひらめけども、語はどこやらに湿りを帯びたり。

 「なあ、武どん。わたしがこういうも、何も ( おまえ ) のためわるかごとすっじゃなかからの。わたしにゃたッた 一人 ( ひとり ) ( おまえ ) じゃ。 ( おまえ ) に出世をさせて、丈夫な孫 ( ) えて見たかばかいがわたしの楽しみじゃからの」

 黙然と考え入りし武男はわずかに ( かしら ) を上げつ。

 「 ( おっか ) さん、とにかく ( わたくし ) も」電報を示しつつ「この通り出発が急になッて、 明日 ( あす ) はおそくも帰艦せにゃならんです。一月ぐらいすると帰って来ます。それまではどうかだれにも今夜の話は黙っていてください。どんな事があっても、 ( わたくし ) が帰って来るまでは、待っていてください」

       *

 あくる日武男はさらに母の保証をとり、さらに主治医を ( ) いて、ねんごろに浪子の上を託し、午後の汽車にて 逗子 ( ずし ) におりつ。

 汽車を ( くだ ) れば、日落ちて五日の月薄紫の空にかかりぬ。野川の橋を渡りて、一路の ( すな ) はほのぐらき松の林に入りつ。林をうがちて、 桔槹 ( はねつるべ ) の黒く夕空にそびゆるを望める時、思いがけなき 爪音 ( つまおと ) 聞こゆ。「ああ琴をひいている……」と思えば ( しん ) の臓をむしらるる 心地 ( ここち ) して、武男はしばし門外に ( なんだ ) をぬぐいぬ。今日は常よりも快かりしとて、浪子は 良人 ( おっと ) を待ちがてに絶えて久しき琴取り ( ) でて ( かな ) でしなりき。

 顔色の常ならぬをいぶかられて、武男はただ夜ふかししゆえとのみ言い紛らしつ。約あれば待ちて居し 晩餐 ( ばんさん ) ( つくえ ) に、浪子は 良人 ( おっと ) ( むか ) いしが、 二人 ( ふたり ) ともに食すすまず。浪子は心細さをさびしき ( えみ ) に紛らして、手ずから 良人 ( おっと ) のコートのボタンゆるめるをつけ直し、ブラシもて丁寧にはらいなどするうちに、終列車の時刻迫れば、今はやむなく立ち上がる武男の手にすがりて

 「あなた、もういらッしゃるの?」

 「すぐ帰ってくる。浪さんも注意して、よくなッていなさい」

 互いにしっかと手を握りつ。玄関に ( ) づれば、 ( うば ) のいくは ( くつ ) を直し、 ( ぼく ) 茂平 ( もへい ) 停車場 ( ステーション ) まで送るとて手かばんを 左手 ( ゆんで ) に、月はあれど 提燈 ( ちょうちん ) ともして待ちたり。

 「それじゃばあや、奥様を頼んだぞ。――浪さん、行って来るよ」

 「早く帰ってちょうだいな」

 うなずきて、武男は僕が照らせる提燈の光を踏みつつ門を ( ) でて十数歩、ふりかえり見れば、浪子は白き肩掛けを打ちきて、いくと門にたたずみ、ハンケチを打ちふりつつ「あなた、早く帰ってちょうだいな」

 「すぐ帰って来る。――浪さん、 夜気 ( やき ) にうたれるといかん、早くはいンなさい!」

 されど、二度三度ふりかえりし時は、白き姿の 朦朧 ( もうろう ) として見えたりしが、やがて ( みち ) はめぐりてその姿も見えずなりぬ。ただ三たび

 「早く帰ってちょうだいな」

 という声のあとを慕うてむせび来るのみ。顧みれば 片破月 ( かたわれづき ) の影冷ややかに松にかかれり。

七の一

 「お帰り」の前触れ勇ましく、先刻玄関先に二 ( にん ) びきをおりし山木は、早湯に入りて、早咲きの 花菖蒲 ( はなしょうぶ ) ( ) けられし床を後ろに、ふうわりとした座ぶとんにあぐらをかきて、さあこれからがようようこっちのからだになりしという 風情 ( ふぜい ) 。欲には 酌人 ( しゃくにん ) がちと 無意気 ( ぶいき ) と思い ( がお ) に、しかし愉快らしく、 ( さい ) のお ( すみ ) の顔じろりと見て、まず三四杯 ( かたぶ ) くるところに、 ( おんな ) ( ) て来し新聞の号外ランプの光にてらし見つ。

 「うう朝鮮か…… 東学党 ( とうがくとう ) ますます 猖獗 ( しょうけつ ) ……なに 清国 ( しんこく ) が出兵したと……。さあ 大分 ( だいぶ ) おもしろくなッて来たぞ。これで 我邦 ( こっち ) も出兵する―― 戦争 ( いくさ ) になる――さあもうかるぜ。お隅、前祝いだ、 ( おまえ ) も一つ飲め」

 「あんた、ほんまに 戦争 ( いくさ ) になりますやろか」

 「なるとも。愉快、愉快、実に愉快。――愉快といや、なあお隅、 今日 ( きょう ) ちょっと 千々岩 ( ちぢわ ) に会ったがの、例の一条も大分 ( はか ) が行きそうだて」

 「まあ、そうかいな。若 旦那 ( だんな ) が納得しやはったのかいな」

 「なあに、武男さんはまだ帰って来ないから、相談も納得もありゃしないが、お浪さんがまた血を ( ) いたンだ。ところで御隠居ももうだめだ、武男が帰らんうちに断行するといっているそうだ。も一度千々岩につッついてもらえば、大丈夫できる。武男さんが帰りゃなかなか断行もむずかしいからね、そこで帰らんうちにすっかり 処置 ( かた ) をつけてしまおうと御隠居も思っとるのだて。もうそうなりゃアこっちのものだ。――さ、 御台所 ( みだいどころ ) 、お酌だ」

 「お浪はんもかあいそうやな」

 「お前もよっぽど変ちきな女だ。お ( とよ ) がかあいそうだからお浪さんを 退 ( ) いてもらおうというかと思えば、もうできそうになると今度アお浪さんがかあいそう! そんなばかな事は 中止 ( よし ) として、今度はお豊を 後釜 ( あとがま ) に据える 計略 ( ふんべつ ) が肝心だ」

 「でもあんた、留守にお浪はんを離縁して、武男はん――若旦那が承知しなはろまいがな、なああんた――」

 「さあ、武男さんが帰ったら ( おこ ) るだろうが、離縁してしまッて置けば、帰って来てどう怒ってもしようがない。それに武男さんは 親孝行 ( おやおもい ) だから、御隠居が泣いて見せなさりア、まあ泣き寝入りだな。そっちはそれでよいとして、さて肝心 ( かなめ ) のお豊姫の一条だが、とにかく武男さんの火の手が少ししずまってから、食糧つきの行儀見習いとでもいう 口実 ( おしだし ) で、無理に押しかけるだな。なあに、むずかしいようでもやすいものさ。御隠居の 機嫌 ( きげん ) さえとりアできるこった。お豊がいよいよ川島男爵夫人になりア、 彼女 ( あれ ) は恋がかなうというものだし、おれはさしより 舅役 ( しゅうとやく ) で、武男さんはあんな坊ちゃんだから、川島家の財産はまずおれが扱ってやらなけりゃならん。すこぶる妙――いや妙な役を受け持って、迷惑じゃが、それはまあ仕方がないとして、さてお豊だがな」

 「あんた、もう 御飯 ( おまんま ) になはれな」

 「まあいいさ。取るとやるの前祝いだ。――ところでお豊だがの、 ( おまえ ) もっと ( しつけ ) をせんと困るぜ。あの通り毎日 駄々 ( だだ ) をこねてばかりいちゃ、 先方 ( あっち ) 行ってからが実際思われるぞ。観音様が ( しゅうと ) だッて、ああじゃ 愛想 ( あいそ ) をつかすぜ」

 「それじゃてて、あんた、 ( しつけ ) はわたしばかいじゃでけまへんがな。いつでもあんたは――」

 「おっとその言い訳が拙者大きらいでござるて。はははははは。論より証拠、おれが躾をして見せる。さ、お豊をここに呼びなさい」

七の二

 「お嬢様、お奥でちょいといらッしゃいましッて」

 と小間使いの竹が ( ふすま ) を明けて呼ぶ声に、今しも夕化粧を終えてまだ鏡の前を立ち去り兼ねしお豊は、 悠々 ( ゆうゆう ) とふりかえり

 「あいよ。今行くよ。――ねエ竹や、ここンとこが」

 と ( びん ) をかいなでつつ「ちっとそそけちゃいないこと?」

 「いいえ、ちっともそそけてはいませんよ。おほほほほ。お 化粧 ( つくり ) がよくできましたこと! ほほほほッ。ほれぼれいたしますよ」

 「いやだよ、お世辞なんぞいッてさ」言いながらまた鏡をのぞいてにこりと笑う。

 竹は口打ちおおいし ( たもと ) をとりて、 片唾 ( かたず ) を飲みつつ、

 「お嬢様、お待ち兼ねでございますよ」

 「いいよ、今行くよ」

 ようやく思い切りし ( てい ) にて鏡の前を離れつつ、ちょこちょこ走りに幾 ( ) か通りて、父の居間に入り行きたり。

 「おお、お豊か。待っていた。ここへ来な来な。さ ( おっか ) さんに代わって酌でもしなさい。おっと乱暴な 銚子 ( ちょうし ) の置き方をするぜ。茶の湯生け花のけいこまでした令嬢にゃ似合わンぞ。そうだそうだそう 山形 ( やまがた ) に置くものだ」

 はや陶然と色づきし山木は、 ( さい ) の留むるをさらに幾杯か重ねつつ「なあお ( すみ ) 、お豊がこう 化粧 ( おつくり ) した所は随分 別嬪 ( べっぴん ) だな。色は白し―― 姿 ( なり ) はよし。 ( うち ) じゃそうもないが、外に出りゃちょいとお世辞もよし。惜しい事には ( おっか ) さんに ( ) て少し 反歯 ( そっぱ ) だが――」

 「あんた!」

 「目じりをもう三 ( ) 上げると女っぷりが上がるがな――」

 「あんた!」

 「こら、お豊何をふくれるのだ? ふくれると ( むすめ ) っぷりが下がるぞ。何もそう不景気な顔をせんでもいい、なあお豊。 ( おまえ ) がうれしがる話があるのだ。さあ話賃に一杯 ( ) げ注げ」

 なみなみと ( ) がせし 猪口 ( ちょこ ) を一息にあおりつつ、

 「なあお豊、今も ( おっか ) さんと話したことだが、 ( おまえ ) も知っとるが、武男さんの事だがの――」

 むなしき 槽櫪 ( そうれき ) の間に 不平臥 ( ふてね ) したる馬の春草の ( かんば ) しきを聞けるごとく、お豊はふっと ( かしら ) をもたげて両耳を引っ立てつ。

 「 ( おまえ ) が写真を引っかいたりしたもんだからとうとう浪子さんも ( たた ) られて――」

 「あんた!」お隅夫人は三たび ( まゆ ) をひそめつ。

 「これから本題に入るのだ。とにかく浪子さんが 病気 ( あんばい ) が悪い、というンで、まあ離縁になるのだ。いいや、まだ先方に談判はせん、浪子さんも知らんそうじゃが、とにかく近いうちにそうなりそうなのだ。ところでそっちの 処置 ( かた ) がついたら、そろそろ 後釜 ( あとがま ) の売りつけ――いやここだて、おれも ( おっか ) さんも ( おまえ ) をな、まあお浪さんのあとに入れたいと思っているのだ。いや、そうすぐ――というわけにも行くまいから、まあ ( おまえ ) を小間使い、これさ、そうびっくりせんでもいいわ、まあ候補生のつもりで、行儀見習いという名義で、 川島家 ( あしこ ) に入り込ますのだ。――御隠居に頼んで、ないいかい、ここだて――」

 一息つきて、山木は ( さい ) と娘の顔をかれよりこれと見やりつ。

 「ここだて、なお豊。少し早いようだが――いって聞かして置く事があるがの。 ( おまえ ) も知っとる通り、あの武男さんの ( おっか ) さん――御隠居は、評判の 癇癪 ( かんしゃく ) 持ちの、わがまま者の、 頑固 ( がんこ ) の――おっと ( おまえ ) ( おっか ) さんを 悪口 ( あっこう ) しちゃ済まんがの――とにかくここにすわっておいでのこの ( おっか ) さんのように――やさしくない人だて。しかし鬼でもない、 ( じゃ ) でもない、やっぱり人間じゃ。その呼吸さえ飲み込むと、鬼の

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[24]
( よめ ) でも ( じゃ ) の女房にでもなれるものじゃ。なあに、あの隠居ぐらい、おれが女なら二日もそばへいりゃ豆腐のようにして見せる。――と自慢した所で、仕方ないが、実際あんな 老人 ( としより ) でも扱いようじゃ何でもないて。ところで、いいかい、お豊、 ( おまえ ) がいよいよ先方へ、まあ小間使い兼細君候補生として入り込む時になると、第一今のようになまけていちゃならん、朝も早く起きて―― 老人 ( としより ) は目が早くさめるものじゃ――ほかの事はどうでもいいとして、御隠居の用をよく ( ) すのだ。いいかい。第二にはだ、今のように何といえばすぐふくれるようじゃいけない、何でもかでも負けるのだ。いいかい。しかられても負ける、無理をいわれても負ける、こっちがよけりゃなお負ける、な。そうすると 先方 ( むこう ) で折れて来る、な、ここがよくいう負けて勝つのだ。決して腹を立っちゃいかん、よしか。それから第三にはだ、――これは少し早過ぎるが、ついでだからいっとくがの、無事に婚礼が済んだッて、いいかい、決して武男さんと仲がよすぎちゃいけない。何さ、内々はどうでもいいが、 表面 ( おもてむき ) の所をよく注意しなけりゃいけんぜ。 姑御 ( しゅうとご ) にはなれなれしくさ、なるたけ近くして、婿殿にゃ姑の前で毒にならんくらいの 小悪口 ( わるくち ) もつくくらいでなけりゃならぬ。おかしいもンで、わが子の ( さい ) だから夫婦仲がいいとうれしがりそうなもんじゃが、実際あまりいいと姑の方ではおもしろく思わぬ。まあ一種の 嫉妬 ( しっと ) ――わがままだな。でなくも、あまり夫婦仲がいいと、自然姑の方が疎略になる――と、まあ姑の方では思うだな。浪子さんも一つはそこでやりそこなったかもしれぬ。仲がよすぎての――おッと、そう角が ( ) えそうな顔しちゃいけない、なあお豊、今いった負けるのはそこじゃぞ。ところで、いいかい、なるたけ注意して、この ( ) ( ほん ) にわたしの
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[25]
( よめ ) だ、 子息 ( せがれ ) ( さい ) じゃない、というように姑に感じさせなけりゃならん。
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[26]
姑※ ( しゅうとよめ ) のけんかは大抵この若夫婦の仲がよすぎて、姑に孤立の感を起こさすから起こるのが多いて。いいかい、 ( おまえ ) は御隠居の
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[27]
※だ、とそう思っていなけりゃならん。なあに御隠居が追っつけめでたくなったあとじゃ、武男さんの首ッ玉にかじりついて、ぶら下がッてあるいてもかまわンさ。しかし姑の前では、決して武男さんに横目でもつかっちゃならんぞ。まだあるが、それはいざ乗り込みの時にいって聞かす。この三か条はなかなか面倒じゃが、しかし ( おまえ ) も恋しい武男さんの奥方になろうというンじゃないか、辛抱が大事じゃぞ。 明日 ( あす ) といわずと今夜からそのけいこを始めるのだ」

 言葉のうちに、 ( ふすま ) 開きて、小間使いの竹「御返事がいるそうでございます」

 と一封の 女筆 ( にょひつ ) の手紙を差し ( いだ ) しぬ。

 封をひらきてすうと目を通したる山木は、手紙を ( さい ) と娘の目さきにひけらかしつつ

 「どうだ、川島の御隠居からすぐ来てくれは!」

七の三

 武男が艦隊演習におもむける二週の後、川島家より手紙して山木を招ける 数日前 ( すじつぜん ) 逗子 ( ずし ) に療養せる浪子はまた 喀血 ( かっけつ ) して、急に医師を招きつ。幸いにして喀血は一回にしてやみ、医師は当分事なかるべきを保証せしが、この報は少なからぬ刺激を武男が母に与えぬ。 ( あわい ) 両三日を置きて、門を ( ) づることまれなる川島未亡人の 尨大 ( ぼうだい ) なる ( たい ) は、 飯田町 ( いいだまち ) なる加藤家の門を入りたり。

 離婚問題の 母子 ( おやこ ) の間に争われつるかの ( ) 、武男が辞色の思うにましてはげしかりしを見たる母は、さすがにその請いに任せて彼が帰り来るまでは 黙止 ( もだ ) すべき約をばなしつれど、よしそれまでまてばとて武男が心は容易に移すべくもあらずして、かえって時たつほど彼の愛着のきずなはいよいよ絶ち難かるべく、かつ思いも寄らぬ 障礙 ( しょうげ ) ( ) で来たるべきを思いしなり。さればその子のいまだ帰らざるに乗じて、早く処置をつけ置くのむしろ得策なるを思いしが、さりとてさすがにかの 言質 ( ことじち ) もありこの顧慮もまたなきにあらずして、その心はありながら、いまだ時々来てはあおる千々岩を満足さすほどの果断なる処置をばなさざるなり。浪子が再度喀血の報を聞くに及びて、母は決然としてかつて 媒妁 ( ばいしゃく ) をなしし加藤家を ( ) いたるなり。

 番町と飯田町といわば目と鼻の間に ( ) みながら、いつなりしか媒妁の礼に来しよりほとんど顔を見せざりし川島未亡人が突然来訪せし事の尋常にあらざるべきを思いつつ、ねんごろに客間に ( しょう ) ぜし加藤夫人もその話の要件を聞くよりはたと胸をつきぬ。そのかつて片岡川島両家を結びたる手もて、今やそのつなげる糸を絶ちくれよとは!

 いかなる顔のいかなる口あればさる事は言わるるかと、加藤夫人は今さらのように客のようすを打ちながめぬ。見ればいつにかわらぬ肥満の体格、太き両手を ( ひざ ) の上に組みて、 ( はだえ ) たゆまず、目まじろがず、口を漏るる 薩弁 ( さつべん ) ( よど ) みもやらぬは、戯れにあらず、狂気せしにもあらで、まさしく分別の上と思えば、驚きはまた胸を ( ) く憤りにかわりつ。あまり勝手な 言条 ( いいぶん ) と、 罵倒 ( ばとう ) せんずる ( こと ) のすでに ( のど ) もとまで ( ) でけるを、実の娘とも思う浪子が一生の浮沈の境と、わずかに飲み込みて、まず問いつ、また説きつ、なだめもし、請いもしつれど、わが事をのみ言い募る先方の耳にはすこしも入らで、かえってそれは入らぬ繰り ( ごと ) 、こっちの話を浪の 実家 ( さと ) に伝えてもらえば要は済むというふうの明らかに見ゆれば、話聞く聞く病める ( めい ) の顔、亡き ( いもうと ) ――浪子の実母――の臨終、浪子が父中将の傷心、など胸のうちにあらわれ来たり乱れ去りて、情けなく腹立たしき涙のわれ知らず催し来たれる夫人はきっと ( かたち ) をあらため、当家においては御両家の 結縁 ( けちえん ) のためにこそ御加勢もいたしつれ、さる不義非情の御加勢は決してできぬこと、 良人 ( おっと ) に相談するまでもなくその義は堅くお断わり、ときっぱりとはねつけつ。

  忿然 ( ふんぜん ) として加藤の門を ( ) でたる武男が母は、即夜手紙して山木を招きつ。(篤実なる田崎にてはらち明かずと思えるなり)。おりもおりとて主人の留守に、かつはまどい、かつは怒り、かつは悲しめる加藤子爵夫人と千鶴子と心を三方に砕きつつ、母はさ言えどいかにも武男の素意にあるまじと思うより、その乗艦の所在を ( ただ ) して至急の報を発せる ( ) に、いらちにいらちし武男が母は早 直接 ( じき ) 談判と心を決して、その使節を命ぜられたる山木の車はすでに片岡家の門にかかりしなり。

八の一

 山木が車赤坂 氷川町 ( ひかわちょう ) なる片岡中将の門を入れる時、あたかも英姿 颯爽 ( さっそう ) たる一将軍の 栗毛 ( くりげ ) の馬にまたがりつつ ( ) で来たれるが、車の駆け込みし ( おと ) にふと驚きて、馬は 竿立 ( さおだ ) ちになるを、馬上の将軍は馬丁をわずらわすまでもなく、

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( たづな ) を絞りて容易に乗り静めつつ、一回圏を ( えが ) きて、 戞々 ( かつかつ ) と歩ませ去りぬ。

 みごとの武者ぶりを見送りて、 ( こわ ) づくろいしていかめしき中将の玄関にかかれる山木は、幾多の権門をくぐりなれたる身の、常にはあるまじく ( たん ) 落つるを覚えつ。昨夜川島家に呼ばれて、その使命を託されし時も、 ( かしら ) をかきつるが、今現にこの場に臨みては彼は実に大なりと誇れる ( きも ) のなお小にして、その面皮のいまだ十分に厚からざるを ( うら ) みしなり。

 名刺一たび入り、書生二たび ( ) でて、山木は応接間に導かれつ。テーブルの上には 清韓 ( しんかん ) の地図一葉広げられたるが、まだ清めもやらぬ 火皿 ( ひざら ) のマッチ 巻莨 ( シガー ) のからとともに、先座の話をほぼ ( おも ) わしむ。げにも東学党の乱、清国出兵の報、わが出兵のうわさ、相ついで 海内 ( かいだい ) の注意一に朝鮮問題に集まれる 今日 ( きょう ) このごろは、主人中将も予備にこそおれおのずから事多くして、またかの英文読本を手にするの ( いとま ) あるべくも思われず。

 山木が 椅子 ( いす ) ( ) りて、ぎょろぎょろあたりをながめおる時、遠雷の鳴るがごとき足音次第に近づきて、やがて小山のごとき人はゆるやかに入りて主位につきぬ。山木は中将と見るよりあわてて ( ) てる拍子に、わがかけて居し椅子をば後ろざまにどうと ( ) 倒しつ。「あっ、これは

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疎※ ( そそう ) を」と叫びつつ、あわてて引き起こし、しかる後二つ三つ四つ続けざまに主人に向かいて 叮重 ( ていちょう ) に辞儀をなしぬ。今の 疎忽 ( そこつ ) のわびも交れるなるべし。

 「さあ、どうかおかけください。あなたが山木 ( さん ) ――お名は承知しちょったですが」

 「はッ。これは初めまして……手前は山木 兵造 ( ひょうぞう ) と申す不調法者で(句ごとに辞儀しつ、辞儀するごとに椅子はききときしりぬ、仰せのごとくと笑えるように)……どうか今後ともごひいきを……」

 避け得られぬ閑話の両三句、朝鮮のうわさの三両句――しかる後中将は ( ことば ) をあらためて、山木に来意を問いつ。

 山木は口を開かんとしてまず 片唾 ( かたず ) をのみ、片唾をのみてまた片唾をのみ、三たび口を開かんとしてまた片唾をのみぬ。彼はつねに誇るその流滑自在なる舌の今日に限りてひたと渋るを怪しめるなり。

八の二

 山木はわずかに口を開き、

 「実は 今日 ( こんにち ) は川島家の 御名代 ( ごみょうだい ) でまかりいでましたので」

 思いがけずといわんがごとく、主人の中将はその 体格 ( がら ) に似合わぬ細き目を山木が ( おもて ) に注ぎつ。

 「はあ?」

 「実は川島の御隠居がおいでになるところでございますが――まあ ( わたくし ) がまかりいでました次第で」

 「なるほど」

 山木はしきりににじみ ( ) づる額の汗押しぬぐいて「実は加藤様からお話を願いたいと存じましたンでございますが、少し都合もございまして―― ( わたくし ) がまかりいでました次第で」

 「なるほど。で御要は?」

 「その要と申しますのは、――申し兼ねますが、その実は 川島家 ( あちら ) の奥様浪子様――」

 主人中将の目はまばたきもせずしばし 話者 ( あなた ) ( おもて ) を打ちまもりぬ。

 「はあ?」

 「その、 浪子様 ( わかおくさま ) でございますが、どうもかような事は実もって申し上げにくいお話でございますが、御承知どおりあの御病気につきましては、手前ども――川島でも、よほど心配をいたしまして、近ごろでは少しはお快い ( かた ) ではございますが――まあおめでとうございますが――」

 「なるほど」

 「手前どもから、かような事は誠に申し上げられぬのでございますが、はなはだ勝手がましい申し ( ぶん ) でございますが、実は御病気がらではございますし――御承知どおり川島の方でも家族と申しましても別にございませんし、男子と申してはまず当主の武男―― ( さん ) だけでございますンで、実は御隠居もよほど心配もいたしておりまして、どうも実もって申しにくい――いかにも身勝手な話でございますが、御病気が御病気で、その、万一伝染――まあそんな事もめったにございますまいが――しかしどちかと申しますとやはりその、その恐れもないではございませンので、その、万一武男――川島の主人に異変でもございますと、まあ川島家も断絶と申すわけで、その断絶いたしてもよろしいようなものでございますが、何分にもその、実もってどうもその、誠に済みませんがその、そこの所をその、御病気が御病気――」

 言いよどみ言いそそくれて一句一句に額より汗を流せる山木が顔うちまもりて黙念と聞きいたる主人中将は、この時 右手 ( めて ) をあげ、

 「よろしい。わかいました。つまり浪が病気が 険呑 ( けんのん ) じゃから、引き取ってくれと、おっしゃるのじゃな。よろしい。わかいました」

 うなずきて、手もと近く燃えさがれる葉巻をテーブルの上なる灰皿にさし置きつつ、腕を組みぬ。

 山木は踏み込めるぬかるみより手をとりて引き出されしように、ほっと息つきて、額上の汗をぬぐいつ。

 「さようでございます。実もって申し上げにくい事でございますが、その、どうかそこの所をあしからず――」

 「で、武男君はもう帰られたですな?」

 「いや、まだ帰りませんでございますが、もちろんこれは 同人 ( ほんにん ) 承知の上の事でございまして、どうかあしからずその――」

 「よろしい」

 中将はうなずきつ。腕を組みて、しばし目を閉じぬ。思いのほかにたやすくはこびけるよ、とひそかに 笑坪 ( えつぼ ) に入りて目をあげたる山木は、目を閉じ口を結びてさながら ( ねぶ ) れるごとき中将の 相貌 ( かお ) を仰ぎて、さすがに一種の ( おそ ) れを覚えつ。

 「山木 ( さん )

 中将は目をみひらきて、山木の顔をしげしげと打ちながめたり。

 「はッ」

 「山木 ( さん ) 、あなたは子を持っておいでかな」

 その問いの見当を定めかねたる山木はしきりに ( かしら ) を下げつつ「はッ。 愚息 ( せがれ ) 一人 ( ひとり ) に――娘が一人でございまして、何分お引き立てを――」

 「山木 ( さん ) 、子というやつはかわい ( もの ) じゃ」

 「はッ?」

 「いや、よろしい。承知しました。川島の御隠居にそういってください、浪は今日引き取るから、御安心なさい。――お 使者 ( つかい ) 御苦労じゃった」

 使命を全うせしをよろこぶか、さすがに気の毒とわぶるにか、五つ六つ七八つ続けざまに小腰を ( かが ) めて、どぎまぎ立ち上がる山木を、主人中将は玄関まで送り出して、帰り入る書斎の戸をばはたと ( ) したり。

九の一

 逗子の別荘にては、武男が出発後は、病める身の心細さやるせなく思うほどいよいよ長き 日一日 ( ひまたひ ) のさすがに暮らせば暮らされて、はや一月あまりたちたれば、麦刈り済みて 山百合 ( やまゆり ) 咲くころとなりぬ。過ぐる日の 喀血 ( かっけつ ) に、一たびは気落ちしが、幸いにして 医師 ( いしゃ ) の言えるがごとくそのあとに著しき衰弱もなく、先日 函館 ( はこだて ) よりの 良人 ( おっと ) 書信 ( てがみ ) にも 帰来 ( かえり ) の近かるべきを知らせ来つれば、よし良人を驚かすほどにはいたらぬとも、喀血の前ほどにはなりおらではと、自ら気を励まし浪子は薬用に運動に細かに 医師 ( いしゃ ) の戒めを守りて摂生しつつ、指を折りて良人の帰期を待ちぬ。さるにてもこの四五日、東京だよりのはたと絶え、番町の宅よりも、 実家 ( さと ) よりも、 飯田町 ( いいだまち ) 伯母 ( おば ) よりすらも、はがき一枚来ぬことの何となく気にかかり、今しも日ながの手すさびに山百合を生くとて 下葉 ( したば ) ( はさ ) みおれる浪子は、水さし持ちて入り来たりし ( うば ) のいくに

 「ねエ、ばあや、ちょっとも東京のたよりがないのね。どうしたのだろう?」

 「さようでございますねエ。おかわりもないンでございましょう。もうそのうちにはまいりましょうよ。こう申しておりますうちにどなたぞいらっしゃるかもわかりませんよ。――ほんとに何てきれいな花でございましょう、ねエ、奥様。これがしおれないうちに 旦那 ( だんな ) 様がお帰り遊ばすとようございますのに、ねエ奥様」

 浪子は手に持ちし山百合の花うちまもりつつ「きれい。でも、山に置いといた方がいいのね、 ( ) るのはかあいそうだわ!」

  二人 ( ふたり ) が問答の ( うち ) に、一 ( りょう ) の車は別荘の門に近づきぬ。車は加藤子爵夫人を載せたり。川島未亡人の要求をはねつけしその翌日、子爵夫人は気にかかるままに、要を託して車を片岡家に走らせ、ここに初めて川島家の使者が早くも直接談判に来たりて、すでに中将の承諾を得て去りたる由を聞きつ。武男を待つの企ても今はむなしくなりて、かつ驚きかつ嘆きしが、せめては ( めい ) の迎え(手放し置きて、それと聞かさば不慮の事の起こりもやせん、とにかく 膝下 ( しっか ) に呼び取って、と中将は ( おもんばか ) れるなり)にと、すぐその足にて逗子には来たりしなり。

 「まあ。よく……ちょうど今うわさをしてましたの」

 「本当によくまあ……いかがでございます、奥様、ばあやが ( こと ) は当たりましてございましょう」

 「浪さん、あんばいはどうです? もうあれから何も変わった事もないのかい?」

 と伯母の目はちょっと浪子の ( おもて ) をかすめて、わきへそれぬ。

 「は、 快方 ( いいほう ) ですの。――それよりも伯母様はどうなすッたの。たいへんに 顔色 ( おいろ ) が悪いわ」

 「わたしかい、何ね、少し頭痛がするものだから。――時候のせいだろうよ。――武男さんから 便 ( たより ) がありましたか、浪さん?」

 「 一昨日 ( おととい ) 、ね、函館から。もう 近々 ( ちかぢか ) に帰りますッて――いいえ、 何日 ( なんち ) という事は ( ) まらないのですよ。お 土産 ( みや ) があるなンぞ書いてありましたわ」

 「そう? おそい――ねエ――もう――もう何時? 二時だ、ね!」

 「伯母 ( さん ) 、何をそんなにそわそわしておいでなさるの? ごゆっくりなさいな。お 千鶴 ( ちず ) さんは?」

 「あ、よろしくッて、ね」言いつついくが ( ) て来し茶を受け取りしまま、飲みもやらず 沈吟 ( うちあん ) じつ。

 「どうぞごゆるりと遊ばせ。――奥様、ちょいとお ( さかな ) を見てまいりますから」

 「あ、そうしておくれな」

 伯母は打ち驚きたるように浪子の顔をちょっと見て、また目をそらしつつ

 「およしな。今日はゆっくりされないよ。浪さん――迎えに来たよ」

 「エ? 迎え?」

 「あ、おとうさまが、病気の事で 医師 ( おいしゃ ) と少し相談もあるからちょいと来るようにッてね、――番町の方でも――承知だから」

 「相談? 何でしょう」

 「――病気の ( こと ) ですよ、それからまた――おとうさんも久しく会わンからッてね」

 「そうですの?」

 浪子は 怪訝 ( けげん ) な顔。いくも 不審議 ( ふしぎ ) に思える様子。

 「でも 今夜 ( こんばん ) はお泊まり遊ばすンでございましょう?」

 「いいえね、あちでも―― 医師 ( いしゃ ) も待ってたし、暮れないうちがいいから、すぐ今度の汽車で、ね」

 「へエー!」

  ( ばあ ) は驚きたるなり。浪子も ( ) に落ちぬ事はあれど、言うは伯母なり、呼ぶは父なり、 ( しゅうと ) は承知の上ともいえば、ともかくもいわるるままに用意をば整えつ。

 「伯母様何を考え込んでいらッしゃるの? ――看護婦は行かなくもいいでしょうね、すぐ帰るのでしょうから」

 伯母は ( ) ちて浪子の帯を直し ( えり ) をそろえつつ「連れておいでなさいね、不自由ですよ」

       *

 四時ごろには用意成りて、三 ( ちょう ) の車門に待ちぬ。浪子は 風通御召 ( ふうつうおめし ) 単衣 ( ひとえ ) に、 御納戸色繻珍 ( おなんどいろしゅちん ) の丸帯して、髪は 揚巻 ( あげまき ) 山梔 ( くちなし ) の花一輪、 革色 ( かわいろ ) 洋傘 ( かさ ) 右手 ( めて ) につき、漏れ ( ) づるせきを 白綾 ( しろあや ) のハンカチにおさえながら、

 「ばあや、ちょっと行って来るよ。あああ、久しぶりに 帰京 ( かえ ) るのね。――それから、あの――お 単衣 ( ひとえ ) ね、もすこしだけども――あ、いいよ、帰ってからにしましょう」

 忍びかねてほろほろ落つる涙を伯母は 洋傘 ( かさ ) に押し隠しつ。

九の二

 運命の ( あな ) 黙々として人を待つ。人は知らず ( ) らずその運命に歩む。すなわち知らずというとも、近づくに従うて一種冷ややかなる ( ) はいを感ずるは、たれもしかる事なり。

 伯母の迎え、父に会うの喜びに、深く子細を問わずして帰京の ( みち ) に上りし浪子は、車に上るよりしきりに胸打ち騒ぎつ。思えば思うほど ( ) に落ちぬこと多く、ただ頭痛とのみ言い紛らしし伯母がようすのただならぬも深く ( かく ) せる事のありげに思われて、問わんも汽車の ( うち ) 人の手前、それもなり難く、新橋に着くころはただこの暗き疑心のみ胸に立ち迷いて、久しぶりなる帰京の喜びもほとんど忘れぬ。

 皆人のおりしあとより、浪子は看護婦にたすけられ伯母に従いてそぞろにプラットフォームを歩みつつ、改札口を過ぎける時、かなたに立ちて話しおれる陸軍士官の 一人 ( ひとり ) 、ふっとこなたを顧みてあたかも浪子と目を見合わしつ。千々岩! 彼は浪子の ( かしら ) より 爪先 ( つまさき ) まで 一瞥 ( ひとめ ) に測りて、ことさらに目礼しつつ――わらいぬ。その 一瞥 ( いちべつ ) 、その笑いの怪しく胸にひびきて、 ( かしら ) より水そそがれし 心地 ( ここち ) せし浪子は、迎えの馬車に打ち乗りしあとまで、病のゆえならでさらに 悪寒 ( おかん ) を覚えしなり。

 伯母はもの言わず。浪子も黙しぬ。馬車の窓に輝きし夕日は落ちて、氷川町の ( やしき ) に着けば、 黄昏 ( たそがれ ) ほのかに ( くり ) の花の ( ) を浮かべつ。門の 内外 ( うちそと ) には荷車釣り台など見えて、 ( わき ) 玄関にランプの 火光 ( あかり ) さし、人の声す。物など運び入れしさまなり。浪子は何事のあるぞと思いつつ、伯母と看護婦にたすけられて馬車を下れば、玄関には ( おんな ) にランプとらして片岡子爵夫人たたずみたり。

 「おお、これは早く。――御苦労さまでございました」と夫人の目は浪子の ( おもて ) より加藤子爵夫人に走りつ。

 「おかあさま、お変わりも……おとうさまは?」

 「は、書斎に」

 おりから「 ( ねえ ) さまが来たよ姉さまが」と子供の声にぎやかに 二人 ( ふたり ) 幼弟妹 ( はらから ) 走り ( ) で来たりて、その母の「静かになさい」とたしなむるも顧みず、左右より浪子にすがりつ。駒子もつづいて ( ) で来たりぬ。

 「おお ( みい ) ちゃん、 毅一 ( きい ) さん。どうだえ? ――ああ駒ちゃん」

 道子はすがれる ( あね ) ( たもと ) を引き動かしつつ「あたしうれしいわ、姉さまはもうこれからいつまでも 此家 ( うち ) にいるのね。お道具もすっかり来てよ」

 はッと声もなし得ず、子爵夫人も、伯母も、 ( おんな ) も、駒子も一斉に浪子の ( おもて ) をうちまもりつ。

 「エ?」

 おどろきし浪子の目は継母の顔より伯母の顔をかすめて、たちまち玄関わきの室も狭しと積まれたるさまざまの道具に注ぎぬ。まさしく 良人宅 ( うち ) に置きたるわが 箪笥 ( たんす ) ! 長持ち! 鏡台!

 浪子はわなわなと震いつ。倒れんとして伯母の手をひしととらえぬ。

 皆泣きつ。

 重やかなる足音して、父中将の姿見え来たりぬ。

 「お、おとうさま!!

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 「おお、浪か。待って――いた。よく、帰ってくれた」

 中将はその大いなる胸に、わなわなと震う浪子をばかき ( いだ ) きつ。

 半時の後、家の ( うち ) しんとなりぬ。中将の書斎には、 父子 ( おやこ ) ただ二人、再び帰らじと 此家 ( ここ ) ( ) でし日別れの 訓戒 ( いましめ ) を聞きし時そのままに、浪子はひざまずきて父の ( ひざ ) にむせび、中将は ( ) き入る ( むすめ ) ( せな ) をおもむろになでおろしつ。

 「号外! 号外! 朝鮮事件の号外!」と ( りん ) の音のけたたましゅう呼びあるく新聞売り子のあとより、一 ( ちょう ) の車がらがらと番町なる川島家の門に入りたり。武男は今しも帰り来たれるなり。

 武男が帰らば立腹もすべけれど、勝ちは 畢竟 ( ひっきょう ) ( せん ) 太刀 ( たち ) 、思い切って武男が母は山木が吉報をもたらし帰りしその日、善は急げと

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( よめ ) 箪笥 ( たんす ) 諸道具一切を片岡家に送り戻し、ちと殺生ではあったれど、どうせそのままには置かれぬ 腫物 ( はれもの ) 、切ってしまって安心とこの二三日近ごろになき 好機嫌 ( こうきげん ) のそれに引きかえて、若夫婦 ( がた ) なる 僕婢 ( めしつかい ) は気の毒とも笑止ともいわん ( かた ) なく、今にもあれ 旦那 ( だんな ) がお帰りなさらば、いかに孝行の ( かた ) とて、なかなか一通りでは済むまじとはらはら思っていたりしその武男は今帰り来たれるなり。加藤子爵夫人が急を報ぜしその書は途中に ( ) き違いて、もとより母はそれと言い送らねば、知る由もなき武男は 横須賀 ( よこすか ) に着きて ( いとま ) ( ) るやいな急ぎ帰り来たれるなり。

 今奥より ( ) で来たりし仲働きは、茶を入れおりし小間使いを手招き、

 「ねエ松ちゃん。旦那さまはちっともご存じないようじゃないか。奥様にお 土産 ( みやげ ) なんぞ持っていらッしたよ」

 「ほんとにしどいね。どこの世界に、旦那の留守に奥様を離縁しちまう ( おっか ) さんがあるものかね。旦那様の身になっちゃア、腹も立つはずだわ。鬼 ( ばば ) め」

 「あれくらいいやな ( ばば ) っちゃありゃしない。けちけちの、わからずやの、人をしかり飛ばすがおやくめだからね、なんにもご存じなしのくせにさ。そのはずだよ、ねエ、昔は 薩摩 ( さつま ) でお ( いも ) を掘ってたンだもの。わたしゃもうこんな ( うち ) にいるのが、しみじみいやになッちゃった」

 「でも旦那様も旦那様じゃないか。御自分の奥様が離縁されてしまうのもちょっとも知らんてえのは、あんまり七月のお ( やり ) じゃないかね」

 「だッて、そらア無理ゃないわ。遠方にいらっしたンだもの。だれだって、 下女 ( おんな ) じゃあるまいし、肝心な 子息 ( むすこ ) に相談もしずに、さっさと

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( よめ ) を追い出してしまおうた思わないわね。それに旦那様もお年が若いからねエ。ほんとに旦那様もおかあいそう――奥様はなおおかあいそうだわ。今ごろはどうしていらッしゃるだろうねエ。ああいやだ――ほウら、 ( ばば ) あが怒鳴りだしたよ。松ちゃんせッせとしないと、また八つ当たりでおいでるよ」

 奥の一間には母子の問答次第に熱しつ。

 「だッて、あの時あれほど申し上げて置いたです。それに手紙一本くださらず、無断で――実にひどいです。実際ひどいです。今日もちょいと逗子に寄って来ると、浪はおらんでしょう、いくに尋ねると何か要があって東京に帰ったというです。変と思ったですが、まさか ( おっか ) さんがそんな事を――実にひどい――」

 「それはわたしがわるかった。わるかったからこの通り親がわびをしておるじゃなッかい。わたしじゃッて何も浪が ( にく ) かというじゃなし、 ( おまえ ) がかあいいばッかいで――」

 「 ( おっか ) さんはからだばッかり大事にして、名誉も体面も情もちょっとも思ってくださらんのですな。あんまりです」

 「武男、 ( おまえ ) はの、男かい。女じゃあるまいの。親にわび ( ごと ) いわせても、やっぱい浪が恋しかかい。恋しかかい。恋しかか」

 「だッて、あんまりです、実際あんまりです」

 「あんまいじゃッて、もう ( あと ) ( まつい ) じゃなッか。あっちも承知して、きれいに引き取ったあとの事じゃ。この上どうすッかい。 女々 ( めめ ) しか事をしなはッと、親の恥ばッかいか、 ( おまえ ) の男が立つまいが」

  黙然 ( もくねん ) と聞く武男は ( ) れよとばかり下くちびるをかみつ。たちまち 勃然 ( ぼつねん ) と立ち上がって、病妻にもたらし帰りし 貯林檎 ( かこいりんご ) ( かご ) をみじんに踏み砕き、

 「 ( おっか ) さん、あなたは、浪を殺し、またそのうえにこの武男をお殺しなすッた。もうお目にかかりません」

       *

 武男は直ちに横須賀なる軍艦に引き返しぬ。

  韓山 ( かんざん ) の風雲はいよいよ急に、七 ( げつ ) の中旬 廟堂 ( びょうどう ) の議はいよいよ 清国 ( しんこく ) と開戦に一決して、同月十八日には 樺山 ( かばやま ) 中将新たに海軍軍令部長に補せられ、武男が乗り組める連合艦隊旗艦松島号は他の諸艦を率いて佐世保に集中すべき命を ( こうむ ) りつ。捨てばちの身は砲丸の ( まと ) にもなれよと、武男はまっしぐらに ( ふね ) とともに西に向かいぬ。

       *

 片岡陸軍中将は浪子の帰りしその翌日より、自らさしずして、邸中の日あたりよく静かなるあたりをえらびて、ことに浪子のために八畳一間六畳二間四畳一間の 離家 ( はなれ ) を建て、逗子より ( うば ) のいくを呼び寄せて、浪子とともにここに ( ) ましつ。九月にはいよいよ命ありて現役に復し、一 ( せき ) 夫人 繁子 ( しげこ ) を書斎に呼びて懇々浪子の事を託したる後、同十三日 大纛 ( だいとう ) 扈従 ( こしょう ) して広島大本営におもむき、翌月さらに 大山大将 ( おおやまたいしょう ) 山路 ( やまじ ) 中将と前後して 遼東 ( りょうとう ) に向かいぬ。

 われらが次を ( ) うてその運命をたどり来たれる敵も、味方も、かの消魂も、この 怨恨 ( えんこん ) も、しばし 征清 ( せいしん ) 戦争の大渦に巻き込まれつ。

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