第百版不如帰の巻首に (Hototogisu shosetsu) | ||
六の一
武男が母は、名をお 慶 ( けい ) と言いて今年五十三、時々リュウマチスの起これど、そのほかは無病息災、 麹町上 ( こうじまちかみ ) 二 番町 ( ばんちょう ) の 邸 ( やしき ) より亡夫の眠る 品川 ( しながわ ) 東海寺 ( とうかいじ ) まで 徒歩 ( かち ) の往来容易なりという。体重は十九貫、公侯伯子男爵の 女性 ( にょしょう ) を通じて、 体格 ( がら ) にかけては 関脇 ( せきわき ) は確かとの評あり。しかしその肥大も実は五六年前 前 ( ぜん ) 夫 通武 ( みちたけ ) の病没したる後の事にて、その以前はやせぎすの色 蒼 ( あお ) ざめて、病人のようなりしという。されば 圧 ( お ) しつけられしゴム 球 ( まり ) の手を離されてぶくぶくと 膨 ( ふく ) れ上がる 類 ( たぐい ) にやという者もありき。
亡夫は 麑藩 ( げいはん ) の軽き城下 士 ( さむらい ) にて、お慶の縁づきて来し時は、 太閤 ( たいこう ) 様に少しましなる婚礼をなしたりしが、維新の風雲に際会して身を起こし、 大久保甲東 ( おおくぼこうとう ) に見込まれて久しく各地に 令尹 ( れいいん ) を務め、一時探題の名は世に聞こえぬ。しかも 特質 ( もちまえ ) のわがまま剛情が累をなして、明治政府に友少なく、浪子を 媒 ( なかだち ) せる加藤子爵などはその少なき友の一 人 ( にん ) なりき。甲東没後はとかく志を得ずして世をおえつ。男爵を得しも、実は生まれ所のよかりしおかげ、という者もありし。されば剛情者、わがまま者、 癇癪 ( かんしゃく ) 持ちの通武はいつも 怏々 ( おうおう ) として不平を 酒杯 ( さけ ) に漏らしつ。三合入りの大杯たてつけに五つも重ねて、赤鬼のごとくなりつつ、肩を 掉 ( ふ ) って県会に臨めば、議員に 顔色 ( がんしょく ) ある者少なかりしとか。さもありつらん。
されば川島家はつねに戒厳令の 下 ( もと ) にありて、家族は避雷針なき大木の下に夏住むごとく、戦々 兢々 ( きょうきょう ) として明かし暮らしぬ。父の 膝 ( ひざ ) をばわが舞踏 場 ( ば ) として、父にまさる遊び相手は世になきように幼き時より思い込みし武男のほかは、夫人の慶子はもとより 奴婢 ( ぬひ ) 出入りの者果ては居間の柱まで主人が 鉄拳 ( てっけん ) の味を知らぬ者なく、今は紳商とて世に知られたるかの山木ごときもこの 賜物 ( たまもの ) を 頂戴 ( ちょうだい ) して痛み入りしこともたびたびなりけるが、何これしきの下され物、もうけさして賜わると思えば、なあに 廉 ( やす ) い所得税だ、としばしば伺候しては 戴 ( いただ ) きける。右の通りの次第なれば、それ御前の 御機嫌 ( ごきげん ) がわるいといえば、台所の 鼠 ( ねずみ ) までひっそりとして、 迅雷 ( じんらい ) 一声奥より響いて耳の太き下女手に持つ 庖丁 ( ほうちょう ) 取り落とし、用ありて私宅へ来る属官などはまず裏口に回って 今日 ( きょう ) の天気予報を聞くくらいなりし。
三十年から連れ添う夫人お慶の身になっては、なかなかひと通りのつらさにあらず。嫁に来ての当座はさすがに 舅 ( しゅうと ) や 姑 ( しゅうとめ ) もありて夫の気質そうも覚えず過ごせしが、ほどなく姑舅と相ついで果てられし後は、夫の本性ありありと拝まれて、夫人も胸をつきぬ。初め五六 度 ( たび ) は夫人もちょいと 盾 ( たて ) ついて見しが、とてもむだと悟っては、もはや争わず、 韓信 ( かんしん ) 流に負けて 匍伏 ( ほふく ) し、さもなければ三十六計のその随一をとりて逃げつ。そうするうちにはちっとは呼吸ものみ込みて三度の事は二度で済むようになりしが、さりとて夫の気質は年とともに改まらず。末の三四年は別してはげしくなりて、不平が 煽 ( あお ) る無理酒の 焔 ( ほのお ) に、燃ゆるがごとき癇癪を、二十年の上もそれで鍛われし夫人もさすがにあしらいかねて、武男という子もあり、 鬢 ( びん ) に 白髪 ( しらが ) もまじれるさえ打ち忘れて、知事様の奥方男爵夫人と人にいわるる 栄耀 ( えいよう ) も物かは、いっそこのつらさにかえて 墓守爺 ( はかもり ) の 嬶 ( かか ) ともなりて世を楽に過ごして見たしという考えのむらむらとわきたることもありしが、そうこうする 間 ( ま ) につい三十年うっかりと過ごして、そのつれなき夫通武が目を 瞑 ( ねぶ ) って棺のなかに仰向けに 臥 ( ね ) し姿を見し時は、ほっと息はつきながら、さて偽りならぬ涙もほろほろとこぼれぬ。
涙はこぼれしが、息をつきぬ。息とともに勢いもつきぬ。夫通武存命の間は、その大きなる体と大きなる声にかき消されてどこにいるとも知れざりし夫人、奥の間よりのこのこ 出 ( い ) で来たり、見る見る家いっぱいにふくれ出しぬ。いつも主人のそばに肩をすぼめて細くなりて居し夫人を見し 輩 ( もの ) は、いずれもあきれ果てつ。もっとも西洋の学者の説にては、夫婦は永くなるほど 容貌 ( かおかたち ) 気質まで似て来るものといえるが、なるほど近ごろの夫人が物ごし格好、その濃き 眉毛 ( まゆげ ) をひくひく動かして、 煙管 ( きせる ) 片手に相手の顔をじっと見る様子より、 起居 ( たちい ) の荒さ、それよりも第一 癇癪 ( かんしゃく ) が似たとは愚か亡くなられし男爵そのままという者もありき。
江戸の 敵 ( かたき ) を長崎で 討 ( う ) つということあり。「世の中の事は概して江戸の敵を長崎で討つものなり。在野党の代議士今日議院に 慷慨 ( こうがい ) 激烈の演説をなして、盛んに政府を攻撃したもう。至極結構なれども、実はその 気焔 ( きえん ) の一半は、昨夜 宅 ( うち ) にてさんざんに 高利貸 ( アイスクリーム ) を 喫 ( く ) いたまいし 鬱憤 ( うっぷん ) と聞いて知れば、ありがた味も半ば減ずるわけなり。されば南シナ海の低気圧は 岐阜 ( ぎふ ) 愛知 ( あいち ) に洪水を起こし、タスカローラの陥落は三陸に 海嘯 ( かいしょう ) を見舞い、 師直 ( もろなお ) はかなわぬ恋のやけ腹を「物の用にたたぬ 能書 ( てかき ) 」に立つるなり。宇宙はただ平均、物は皆その平を求むるなり。しこうしてその平均を求むるに、 吝嗇者 ( りんしょくもの ) の 日済 ( ひなし ) を 督促 ( はた ) るように、われよりあせりて今戻せ 明日 ( あす ) 返せとせがむが 小人 ( しょうじん ) にて、いわゆる 大人 ( たいじん ) とは一切の勘定を 天道様 ( てんとうさま ) の銀行に任して、われは真一文字にわが分をかせぐ者ぞ」とある人情 博士 ( はかせ ) はのたまいける。
しかし 凡夫 ( ぼんぷ ) は平均を目の前に求め、その求むるや物体運動の法則にしたがいて、水の低きにつくがごとく、障害の少なき方に向かう。されば川島未亡人も三十年の辛抱、こらえこらえし 堪忍 ( かんにん ) の水門、夫の棺の 蓋 ( ふた ) 閉ずるより早く、さっと押し開いて一度に切って流しぬ。世に恐ろしと思う 一人 ( ひとり ) は、もはやいかに 拳 ( こぶし ) を伸ばすもわが 頭 ( こうべ ) には届かぬ遠方へ 逝 ( ゆ ) きぬ。今まで黙りて居しは 意気地 ( いくじ ) なきのにはあらず、夫死してもわれは生きたりと言い顔に、知らず知らず積みし貸し金、利に利をつけてむやみに手近の者に 督促 ( はた ) り始めぬ。その癇癪も、亡くなられし男爵は英雄 肌 ( はだ ) の人物だけ、迷惑にもまたどこやらに小気味よきところもありたるが、それほどの 力量 ( ちから ) はなしにわけわからず、狭くひがみてわがまま強き奥様より 出 ( い ) でては、ただただむやみにつらくて、奉公人は故男爵の時よりも泣きける。
浪子の姑はこの通りの人なりき。
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