売色鴨南蛮
泉鏡花 (Baishoku kamonanban) | ||
十
年若 ( としわか ) い駅員が、
「貴方がたは?」
と言った。
乗り余った黒山の群集も、三四輛立続けに来た電車が、泥まで綺麗に 浚 ( さら ) ったのに、まだ待合所を出なかった女二人、(別に一人)と宗吉をいぶかったのである。
宗吉は言った。
「この御婦人が御病気なんです。」
と、やっぱり、けろりと 仰向 ( あおむ ) いている緋縮緬の女を、 外套 ( がいとう ) の 肘 ( ひじ ) で 庇 ( かば ) って言った。
駅員の去ったあとで、
「 唯今 ( ただいま ) 、自動車を差上げますよ。」
と宗吉は、優しく顔を 覗 ( のぞ ) きつつ、丸髷の女に瞳を返して、
「巣鴨はお見合せを願えませんか。……きっと御介抱申します。 私 ( わたくし ) はこういうものです。」
なふだに医学博士――秦宗吉とあるのを見た時、……もう一人居た、 散切 ( ざんぎり ) で被布の女が、P形に直立して、Zのごとく敬礼した。これは附添の 雑仕婦 ( ぞうしふ ) であったが、――博士が、その従弟の細君に似たのをよすがに、これより 前 ( さき ) 、丸髷の女に 言 ( ことば ) を掛けて、その人品のゆえに人をして疑わしめず、 連 ( つれ ) は品川の某楼の女郎で、気の狂ったため巣鴨の病院に送るのだが、自動車で行きたい、それでなければ 厭 ( いや ) だと言う。そのつもりにして、すかして電車で来ると、ここで自動車でないからと言って、何でも下りて、すねたのだと言う。……丸髷は某楼のその娘分。女郎の本名をお千と聞くまで、――この雑仕婦は 物頂面 ( ぶっちょうづら ) して 睨 ( にら ) んでいた。
不時の回診に驚いて、ある日、その助手たち、その白衣の看護婦たちの、ばらばらと急いで、しかも、静粛に駆寄るのを、 徐 ( おもむ ) ろに、左右に辞して、医学博士秦宗吉氏が、
「いえ、個人で見舞うのです……皆さん、どうぞ。」
やがて博士は、特等室にただ一人、膝も胸も、しどけない、けろんとした狂女に、何と……手に 剃刀 ( かみそり ) を持たせながら、 臥床 ( ベッド ) に 跪 ( ひざまず ) いて、その胸に額を埋めて、ひしと 縋 ( すが ) って、 潸然 ( さんぜん ) として泣きながら、 微笑 ( ほほえ ) みながら、身も世も忘れて愚に返ったように、だらしなく、涙を 髯 ( ひげ ) に伝わらせていた。
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