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 桜にはちと早い、 木瓜 ぼけ か、何やら、枝ながら障子に映る花の影に、ほんのりと 日南 ひなた かおり が添って、お千がもとの座に着いた。

 向うには、旦那の熊沢が、上下大島の金鎖、あの大々したので、ドカリと 胡坐 あぐら を組むのであろう。

「お留守ですか。」

 宗吉が何となく甘谷に言った。ここにも見えず、湯に行った中にも居なかった。その熊沢を いたのである。

 縁側の片隅で、

「えへん!」と屋鳴りのするような 咳払 せきばらい を響かせた、便所の なか で。

「熊沢はここに るぞう。」

「まあ。」

「随分ですこと、ほほほ。」

 と 家主 いえぬし のお妾が、次の を台所へ とおり がかりに笑って くと、お千さんが 俯向 うつむ いて、 莞爾 にっこり して、

あんま り色気がなさ過ぎるわ。」

「そこが御婦人の毒でげす。」

 と甘谷は前掛をポンポンと たた いて、

「お千さんは大将のあすこン処へ落ッこちたんだ。」

「あら、随分…… ひど いじゃありませんか、甘谷さん、 あんま りだよ。」

 何にも知らない宗吉にも、この間違は直ぐ分った、汚いに相違ない。

「いやあ、これは、失敗、失敬、失礼。」

 甘谷は立続けに 叩頭 おじぎ をして、

「そこで、おわびに、一つ貴女の顔を あた らして頂きやしょう。いえ、自慢じゃありませんがね、 昨夜 ゆうべ ッから申す通り、野郎 図体 ずうたい は不器用でも、 勝奴 かつやっこ ぐらいにゃ たしか に使えます。 剃刀 かみそり を持たしちゃ たしか です。――秦君、ちょっと奥へ行って、剃刀を借りて来たまえ。」

 宗吉は、お千さんの、湯にだけは そっ と行っても、床屋へは けもせず、呼ぶのも慎むべき境遇を うなず きながら、お妾に剃刀を借りて戻る。……

「おっと!……ついでに 金盥 かなだらい ……気を利かして、気を利かして。」

 この間に、いま何か話があったと見える。

「さあ、君、ここへ顔を出したり、一つ手際を御覧に入れないじゃ、奥さん御信用下さらない。」

「いいえ、そうじゃありませんけれどもね、私まだ、そんなでもないんですから。」

「何、御遠慮にゃあ及びません。間違った処でたかが小僧の顔でさ。……ちょうど、ほら、むく毛が生えて、 ※子 あんこ

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撮食 つまみぐい をしたようだ。」

 宗吉は、 可憐 あわれ やゴクリと を呑んだ。

「仰向いて、ぐっと。そら、どうです、つるつるのつるつると、鮮かなもんでげしょう。」

「何だか あぶな ッかしいわね。」

 と少し膝を浮かしながら、手元を覗いて 憂慮 きづかわ しそうに、動かす顔が、鉄瓶の湯気の 陽炎 かげろう に薄絹を掛けつつ、宗吉の目に、ちらちら、ちらちら。

「大丈夫、それこの通り、ちょいちょいの、ちょいちょいと、」

「あれ、 して頂戴、止してよ。」

 と浮かした膝を揺ら揺らと、袖が薫って伸上る。

「なぜですてば。」

「危いわ、危いわ。おとなしい、その優しい 眉毛 まみえ を、落したらどうしましょう。」

「その事ですかい。」

 と、ちょっと留めた剃刀をまた当てた。

「構やしません。」

「あれ、目の縁はまだしもよ、上は止して、後生だから。」

「貴女の襟脚を ろうてんだ。何、こんなものぐらい。」

「ああ、ああああ、ああーッ。」

 と便所の なか で屋根へ投げた、筒抜けな 大欠伸 おおあくび

「笑っちゃあ…… 不可 いけな い不可い。」

「ははははは、笑ったって泣いたって、何、こんな小僧ッ子の 眉毛 まゆげ なんか。」

いや 、厭、厭。」

 と 支膝 つきひざ のまま、するすると寄る 衣摺 きぬずれ が、遠くから羽衣の音の ちかづ くように宗吉の胸に響いた……畳の波に人魚の半身。

「どんな おっか さんでしょう、このお方。」

 雪を欺く かいな を空に、甘谷の剃刀の手を支え、突いて離して、胸へ、抱くようにして じっ た。

うらやま しい事、まあ、何て、いい 眉毛 まみえ だろう。親御はさぞ、お可愛いだろうねえ。」

 乳も白々と、優しさと 可懐 なつか しさが透通るように えながら、 きぬ あや 衣紋 えもん の色も、黒髪も、宗吉の目の 真暗 まっくら になった時、肩に袖をば掛けられて、 おもて を襟に伏せながら、忍び兼ねた胸を絞って、思わず、ほろほろと熱い涙。

 お妾が次の から、

「切れますか剃刀は……あわせに ろう遣ろうと思いましちゃあ……ついね……」

 自殺をするのに、宗吉は、床屋に持って きましょう、と言って、この剃刀を取って出た。それは同じ日の ってからである。

  仔細 しさい は……