売色鴨南蛮
泉鏡花 (Baishoku kamonanban) | ||
二
威 ( おどか ) しては 不可 ( いけな ) い。何、黒山の中の赤帽で、そこに腕組をしつつ、うしろ向きに 凭掛 ( もたれかか ) っていたが、宗吉が顔を出したのを、茶色のちょんぼり 髯 ( ひげ ) を 生 ( はや ) した小白い横顔で、じろりと 撓 ( た ) めると、
「上りは停電……下りは故障です。」
と、人の顔さえ見れば、返事はこう言うものと 極 ( き ) めたようにほとんど機械的に言った。そして 頸窪 ( ぼんのくぼ ) をその凭掛った柱で小突いて、超然とした。
「へッ! 上りは停電。」
「下りは故障だ。」
響 ( ひびき ) の応ずるがごとく、四五人口々に 饒舌 ( しゃべ ) った。
「ああ、ああ、」
「 堪 ( たま ) らねえなあ。」
「よく出来てら。」
「困ったわねえ。」と、つい釣込まれたかして、 連 ( つれ ) もない女学生が 猪首 ( いくび ) を縮めて 呟 ( つぶや ) いた。
が、いずれも、今はじめて知ったのでは無さそうで、赤帽がしかく機械的に言うのでも分る。
かかる群集の 動揺 ( どよ ) む下に、冷然たる線路は、日脚に薄暗く沈んで、いまに 鯊 ( はぜ ) が釣れるから待て、と大都市の泥海に、入江のごとく 彎曲 ( わんきょく ) しつつ、 伸々 ( のびのび ) と静まり返って、その癖 底光 ( そこびかり ) のする歯の土手を見せて、 冷笑 ( あざわら ) う。
赤帽の言葉を善意に解するにつけても、いやしくも中 山高帽 ( やまたか ) を 冠 ( かぶ ) って、外套も服も身に添った、洋行がえりの大学教授が、 端近 ( はしぢか ) へ押出して、その際じたばたすべきではあるまい。
宗吉は―― 煙草 ( たばこ ) は 喫 ( の ) まないが――その火鉢の 傍 ( そば ) へ 引籠 ( ひきこも ) ろうとして、靴を返しながら、 爪尖 ( つまさき ) を見れば、ぐしょ 濡 ( ぬれ ) の土間に、ちらちらとまた 紅 ( くれない ) の褄が流れる。
緋鯉 ( ひごい ) が躍ったようである。
思わず視線の向うのと、肩を合せて、その時、腰掛を立上った、もう一人の女がある。ちょうど緋縮緬のと並んでいた、そのつれかとも思われる、大島の羽織を着た、 丸髷 ( まるまげ ) の、脊の高い、面長な、目鼻立のきっぱりした顔を見ると、宗吉は、あっと思った。
再び、おや、と思った。
と言うのは、このごろ忙しさに、 不沙汰 ( ぶさた ) はしているが、 知己 ( ちかづき ) も知己、しかもその婚礼の席に 列 ( つらな ) った、 従弟 ( いとこ ) の細君にそっくりで。 世馴 ( よな ) れた人間だと、すぐに、「おお。」と声を掛けるほど、よく似ている。がその似ているのを驚いたのでもなければ、思い掛けず出会ったのを驚いたのでもない。まさしくその人と思うのが、 近々 ( ちかぢか ) と顔を会わせながら、すっと外らして窓から雨の空を 視 ( み ) た、取っても附けない、赤の他人らしい処置 振 ( ぶり ) に、一驚を 吃 ( きっ ) したのである。
いや、全く他人に違いない。
けれども、 脊恰好 ( せいかっこう ) から、 形容 ( なりかたち ) 、 生際 ( はえぎわ ) の少し乱れた処、色白な 容色 ( きりょう ) よしで、 浅葱 ( あさぎ ) の 手柄 ( てがら ) が、いかにも似合う細君だが、この女もまた不思議に浅葱の手柄で。 鬢 ( びん ) の色っぽい処から……それそれ、少し 仰向 ( あおむ ) いている顔つき。他人が、ちょっと眉を 顰 ( ひそ ) める 工合 ( ぐあい ) を、その細君は小鼻から口元に 皺 ( しわ ) を寄せる癖がある。……それまでが、そのままで、電車を 待草臥 ( まちくたび ) れて、雨に 侘 ( わび ) しげな様子が、小鼻に寄せた皺に 明白 ( あからさま ) であった。
勿論、別人とは納得しながら、うっかり口に出そうな 挨拶 ( こんにちは ) を、唇で 噛留 ( かみと ) めて、心着くと、いつの間にか、足もやや近づいて、帽子に手を掛けていた 極 ( きまり ) の悪さに、背を向けて立直ると、雲低く、 下谷 ( したや ) 、神田の屋根一面、雨も霞も 漲 ( みなぎ ) って濁った 裡 ( なか ) に、神田明神の森が見える。
と、緋縮緬の女が、同じ方を 凝 ( じっ ) と 視 ( み ) ていた。
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