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  おどか しては 不可 いけな い。何、黒山の中の赤帽で、そこに腕組をしつつ、うしろ向きに 凭掛 もたれかか っていたが、宗吉が顔を出したのを、茶色のちょんぼり ひげ はや した小白い横顔で、じろりと めると、

「上りは停電……下りは故障です。」

 と、人の顔さえ見れば、返事はこう言うものと めたようにほとんど機械的に言った。そして 頸窪 ぼんのくぼ をその凭掛った柱で小突いて、超然とした。

「へッ! 上りは停電。」

「下りは故障だ。」

  ひびき の応ずるがごとく、四五人口々に 饒舌 しゃべ った。

「ああ、ああ、」

たま らねえなあ。」

「よく出来てら。」

「困ったわねえ。」と、つい釣込まれたかして、 つれ もない女学生が 猪首 いくび を縮めて つぶや いた。

 が、いずれも、今はじめて知ったのでは無さそうで、赤帽がしかく機械的に言うのでも分る。

 かかる群集の 動揺 どよ む下に、冷然たる線路は、日脚に薄暗く沈んで、いまに はぜ が釣れるから待て、と大都市の泥海に、入江のごとく 彎曲 わんきょく しつつ、 伸々 のびのび と静まり返って、その癖 底光 そこびかり のする歯の土手を見せて、 冷笑 あざわら う。

 赤帽の言葉を善意に解するにつけても、いやしくも中 山高帽 やまたか かぶ って、外套も服も身に添った、洋行がえりの大学教授が、 端近 はしぢか へ押出して、その際じたばたすべきではあるまい。

 宗吉は―― 煙草 たばこ まないが――その火鉢の そば 引籠 ひきこも ろうとして、靴を返しながら、 爪尖 つまさき を見れば、ぐしょ ぬれ の土間に、ちらちらとまた くれない の褄が流れる。

  緋鯉 ひごい が躍ったようである。

 思わず視線の向うのと、肩を合せて、その時、腰掛を立上った、もう一人の女がある。ちょうど緋縮緬のと並んでいた、そのつれかとも思われる、大島の羽織を着た、 丸髷 まるまげ の、脊の高い、面長な、目鼻立のきっぱりした顔を見ると、宗吉は、あっと思った。

 再び、おや、と思った。

 と言うのは、このごろ忙しさに、 不沙汰 ぶさた はしているが、 知己 ちかづき も知己、しかもその婚礼の席に つらな った、 従弟 いとこ の細君にそっくりで。 世馴 よな れた人間だと、すぐに、「おお。」と声を掛けるほど、よく似ている。がその似ているのを驚いたのでもなければ、思い掛けず出会ったのを驚いたのでもない。まさしくその人と思うのが、 近々 ちかぢか と顔を会わせながら、すっと外らして窓から雨の空を た、取っても附けない、赤の他人らしい処置 ぶり に、一驚を きっ したのである。

 いや、全く他人に違いない。

 けれども、 脊恰好 せいかっこう から、 形容 なりかたち 生際 はえぎわ の少し乱れた処、色白な 容色 きりょう よしで、 浅葱 あさぎ 手柄 てがら が、いかにも似合う細君だが、この女もまた不思議に浅葱の手柄で。 びん の色っぽい処から……それそれ、少し 仰向 あおむ いている顔つき。他人が、ちょっと眉を ひそ める 工合 ぐあい を、その細君は小鼻から口元に しわ を寄せる癖がある。……それまでが、そのままで、電車を 待草臥 まちくたび れて、雨に わび しげな様子が、小鼻に寄せた皺に 明白 あからさま であった。

 勿論、別人とは納得しながら、うっかり口に出そうな 挨拶 こんにちは を、唇で 噛留 かみと めて、心着くと、いつの間にか、足もやや近づいて、帽子に手を掛けていた きまり の悪さに、背を向けて立直ると、雲低く、 下谷 したや 、神田の屋根一面、雨も霞も みなぎ って濁った なか に、神田明神の森が見える。

 と、緋縮緬の女が、同じ方を じっ ていた。