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 お千は、世を忍び、人目を はばか る女であった。宗吉が世話になる、 渠等 かれら なかまの、ほとんど首領とも言うべき、熊沢という、 おっ て大実業家となると聞いた、絵に描いた 化地蔵 ばけじぞう のような 大漢 おおおとこ が、そんじょその辺のを 落籍 ひか したとは 表向 おもてむき 、得心させて、連出して、内証で囲っていたのであるから。

 言うまでもなく 商売人 くろうと だけれど、 芸妓 げいしゃ だか、 遊女 おいらん だか――それは今において分らない――何しろ、宗吉には三ツ四ツ、もっとかと思う年紀上の綺麗な姉さん、 婀娜 あだ なお千さんだったのである。

 前夜まで―― 唯今 ただいま のような、じとじと ぶり の雨だったのが、花の開くように あが った、彼岸前の日曜の朝、宗吉は 朝飯前 あさはんまえ ……というが、やがて、十時。……ここは、ひもじい経験のない読者にも御推読を願っておく。が、いつになってもその朝の御飯はなかった。

 妾宅では、前の晩、宵に一度、てんどんのお あつら え、夜中一時頃に 蕎麦 そば の出前が、 ぷん 枕頭 まくらもと を匂って露路を入ったことを知っているので、 けば何かあるだろう……天気が いとなお食べたい。 空腹 すきばら を抱いて、げっそりと落込むように、 みぞ の減った裏長屋の格子戸を開けた処へ、突当りの妾宅の柳の下から、ぞろぞろと 長閑 のどか そうに三人出た。

 肩幅の広いのが、薄汚れた黄八丈の書生羽織を、ぞろりと着たのは、この長屋の 主人 あるじ で。一度戸口へ 引込 ひっこ んだ宗吉を横目で見ると、小指を出して、

「どうした。」

 と小声で言った。

「まだ、お ってです。」

 起きるのに張合がなくて、細君の、まだ 裸体 はだか 柏餅 かしわもち くる まっているのを、そう言うと、主人はちょっと舌を出して黙って く。

 次のは、 りたての頭の青々とした綺麗な出家。 細面 ほそおもて の色の白いのが、鼠の 法衣下 ころもした の上へ、黒縮緬の 五紋 いつつもん 、――お千さんのだ、 ふり あか い――羽織を着ていた。 昨夜 ゆうべ 、この露路に入った時は、紫の 輪袈裟 わげさ を雲のごとく尊く まと って、水晶の 数珠 じゅず を提げたのに。――

 と、うしろから、 拳固 げんこ で、前の円い頭をコツンと たた く真似して、宗吉を 流眄 ながしめ で、ニヤリとして続いたのは、 頭毛 かみのけ 真中 まんなか に皿に似た 禿 はげ のある、色の黒い、目の くぼ んだ、口の おおき な男で、近頃まで政治家だったが、飜って商業に志した、ために 紋着 もんつき を脱いで、綿銘仙の羽織を 裄短 ゆきみじか に、めりやすの 股引 ももひき 痩脚 やせずね 穿 いている。……小皿の平四郎。

 いずれも、 花骨牌 はちはち で徹夜の今、明神坂の 常盤湯 ときわゆ へ行ったのである。

 行違いに、ぼんやりと、宗吉が妾宅へ入ると、食う物どころか、いきなり跡始末の掃除をさせられた。

「済まないことね、学生さんに働かしちゃあ。」

 とお千さんは、伊達巻一つの えん 蹴出 けだ しで、お召の 重衣 かさね すそ をぞろりと引いて、 黒天鵝絨 くろびろうど 座蒲団 ざぶとん を持って、火鉢の前を げながらそう言った。

「何、目下は あっし たちの小僧です。」

 と、 甘谷 あまや という 横肥 よこぶと り、でぶでぶと脊の低い、ばらりと髪を長くした、太鼓腹に角帯を巻いて、 前掛 まえかけ 真田 さなだ をちょきんと結んだ、これも医学の落第生。追って大実業家たらんとする準備中のが、笑いながら言ったのである。

 二人が、この妾宅の貸ぬしのお めかけ ――が、もういい加減な中婆さん――と兼帯に使う、次の へ立った に、宗吉が、ひょろひょろして、時々浅ましく下腹をぐっと泣かせながら、とにかく、きれいに掃出すと、

「御苦労々々。」

 と、調子づいて、

「さあ、 貴女 あなた 。」

 と、甘谷が座蒲団を 引攫 ひっさら って、もとの処へ。…… 身体 からだ に似ない腰の軽い男。……もっとも甘谷も、つい十日ばかり前までは、宗吉と同じ長屋に貸蒲団の一ツ 夜着 よぎ で、芋虫ごろごろしていた処――事業の運動に 外出 そとで がちの熊沢旦那が、お千さんの見張兼番人かたがた妾宅の方へ引取って置くのであるから、日蔭ものでもお千は御主人。このくらいな事は当然で。

  つい の蒲団を、とんとんと小形の長火鉢の内側へ直して、

「さ、さ、貴女。」

 と自分は 退 いて、

「いざまず……これへ。」と口も気もともに軽い、が、 起居 たちい 石臼 いしうす 引摺 ひきず るように、どしどしする。――ああ、無理はない、 脚気 かっけ がある。夜あかしはしても、朝湯には行けないのである。

可厭 いや ですことねえ。」

 と、婀娜な目で、 襖際 ふすまぎわ から のぞ くように、友染の すそ いた櫛巻の立姿。