University of Virginia Library

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 ……さて、やがて朝湯から三人が戻って来ると、長いこと便所に居た熊沢も一座で、また花札を もてあそ ぶ事になって、朝飯は すし にして、湯豆腐でちょっと一杯、と言う。

 この 使 つかい のついでに、明神の石坂、開化楼裏の、あの 切立 きったて の段を下りた宮本町の横小路に、 相馬 そうま 煎餅 せんべい ――塩煎餅の、焼方の、 醤油 したじ に、何となく くつわ の形の浮出して見える名物がある。――茶受にしよう、是非お千さんにも食べさしたいと、甘谷の発議。で、宗吉がこれを買いに遣られたのが事の 原因 おこり であった。

 何分にも、十六七の 食盛 くいざか りが、毎日々々、三度の食事にがつがつしていた処へ、朝飯前とたとえにも言うのが、突落されるように けわ しい石段を下りたドン底の 空腹 ひもじ さ。…… 天麩羅 てんぷら とも、 蕎麦 そば とも、焼芋とも、 ぷん と塩煎餅の こうば しさがコンガリと鼻を突いて、袋を持った手がガチガチと震う。 近飢 ちかがつ えに、冷い汗が 垂々 たらたら と身うちに流れる堪え難さ。

 その時分の物価で、……忘れもしない七銭が煎餅の可なり かさ のある中から……小判のごとく、数二枚。

 宗吉は、 一坂 ひとさか 戻って、段々にちょっと 区劃 くぎり のある、すぐに手を立てたように石坂がまた急になる、平面な処で、 銀杏 いちょう の葉はまだ浅し、 もみ えのき こずえ は遠し、 たて に取るべき蔭もなしに、 がけ 溝端 どぶばた 真俯向 まうつむ けになって、生れてはじめて、許されない禁断の このみ を、相馬の名に負う、轡をガリリと頬張る思いで、馬の口にかぶりついた。が、 うま さと切なさと恥かしさに、堅くなった胸は、 おのず から どぶ の上へのめって、折れて、煎餅は口よりもかえって胃の中でボリボリと れた。

 ト 突出 つきだし ひさし に額を打たれ、 忍返 しのびがえし の釘に眼を刺され、 かっ と血とともに 総身 そうしん が熱く、たちまち、罪ある蛇になって、 攀上 よじのぼ る石段は、お七が火の見を駆上った思いがして、 こうべ す太陽は、血の色して段に流れた。

 宗吉はかくてまた明神の 御手洗 みたらし に、更に、氷に とじ らるる思いして、 悚然 ぞっ と寒気を感じたのである。

「くすくす、くすくす。」

  花骨牌 はちはち の車座の、輪に身を かるる、 あやう さを感じながら、宗吉が我知らず おもて を赤めて、煎餅の袋を渡したのは、甘谷の手で。

「おっと来た、めしあがれ。」

 と一枚めくって合せながら、袋をお千さんの手に渡すと、これは少々疲れた風情で、なかまへは入らぬらしい。火鉢を隔てたのが請取って、膝で のぞ くようにして開けて、

「御馳走様ですね……早速お毒見。」

 と言った。

 これにまた胸が痛んだ。だけなら、まださほどまでの仔細はなかった。

「くすくす、くすくす。」

 宗吉がこの座敷へ入りしなに、もうその忍び笑いの声が耳に附いたのであるが、この時、お千さんの一枚 つま んだ煎餅を、見ないように、ちょっと わき へかわした宗吉の顔に、横から 打撞 ぶつか ったのは小皿の平四郎。……頬骨の張った菱形の つら に、 くぼ んだ目を細く、小鼻をしかめて、

「くすくす。」

 とまた遣った。手にわるさに落ちたと見えて札は持たず、 鍍金 めっき 銀煙管 ぎんぎせる を構えながら、めりやすの 股引 ももひき を前はだけに、片膝を立てていたのが、その膝頭に頬骨をたたき着けるようにして、

「くすくすくす。」

 続けて忍び わらい をしたのである。

  立続 たてつ けて、

「くッくッくッ。」