売色鴨南蛮
泉鏡花 (Baishoku kamonanban) | ||
六
……さて、やがて朝湯から三人が戻って来ると、長いこと便所に居た熊沢も一座で、また花札を 弄 ( もてあそ ) ぶ事になって、朝飯は 鮨 ( すし ) にして、湯豆腐でちょっと一杯、と言う。
この 使 ( つかい ) のついでに、明神の石坂、開化楼裏の、あの 切立 ( きったて ) の段を下りた宮本町の横小路に、 相馬 ( そうま ) 煎餅 ( せんべい ) ――塩煎餅の、焼方の、 醤油 ( したじ ) の 斑 ( ふ ) に、何となく 轡 ( くつわ ) の形の浮出して見える名物がある。――茶受にしよう、是非お千さんにも食べさしたいと、甘谷の発議。で、宗吉がこれを買いに遣られたのが事の 原因 ( おこり ) であった。
何分にも、十六七の 食盛 ( くいざか ) りが、毎日々々、三度の食事にがつがつしていた処へ、朝飯前とたとえにも言うのが、突落されるように 嶮 ( けわ ) しい石段を下りたドン底の 空腹 ( ひもじ ) さ。…… 天麩羅 ( てんぷら ) とも、 蕎麦 ( そば ) とも、焼芋とも、 芬 ( ぷん ) と塩煎餅の 香 ( こうば ) しさがコンガリと鼻を突いて、袋を持った手がガチガチと震う。 近飢 ( ちかがつ ) えに、冷い汗が 垂々 ( たらたら ) と身うちに流れる堪え難さ。
その時分の物価で、……忘れもしない七銭が煎餅の可なり 嵩 ( かさ ) のある中から……小判のごとく、数二枚。
宗吉は、 一坂 ( ひとさか ) 戻って、段々にちょっと 区劃 ( くぎり ) のある、すぐに手を立てたように石坂がまた急になる、平面な処で、 銀杏 ( いちょう ) の葉はまだ浅し、 樅 ( もみ ) 、 榎 ( えのき ) の 梢 ( こずえ ) は遠し、 楯 ( たて ) に取るべき蔭もなしに、 崕 ( がけ ) の 溝端 ( どぶばた ) に 真俯向 ( まうつむ ) けになって、生れてはじめて、許されない禁断の 果 ( このみ ) を、相馬の名に負う、轡をガリリと頬張る思いで、馬の口にかぶりついた。が、 甘 ( うま ) さと切なさと恥かしさに、堅くなった胸は、 自 ( おのず ) から 溝 ( どぶ ) の上へのめって、折れて、煎餅は口よりもかえって胃の中でボリボリと 破 ( わ ) れた。
ト 突出 ( つきだし ) た 廂 ( ひさし ) に額を打たれ、 忍返 ( しのびがえし ) の釘に眼を刺され、 赫 ( かっ ) と血とともに 総身 ( そうしん ) が熱く、たちまち、罪ある蛇になって、 攀上 ( よじのぼ ) る石段は、お七が火の見を駆上った思いがして、 頭 ( こうべ ) に 映 ( さ ) す太陽は、血の色して段に流れた。
宗吉はかくてまた明神の 御手洗 ( みたらし ) に、更に、氷に 閑 ( とじ ) らるる思いして、 悚然 ( ぞっ ) と寒気を感じたのである。
「くすくす、くすくす。」
花骨牌 ( はちはち ) の車座の、輪に身を 捲 ( ま ) かるる、 危 ( あやう ) さを感じながら、宗吉が我知らず 面 ( おもて ) を赤めて、煎餅の袋を渡したのは、甘谷の手で。
「おっと来た、めしあがれ。」
と一枚めくって合せながら、袋をお千さんの手に渡すと、これは少々疲れた風情で、なかまへは入らぬらしい。火鉢を隔てたのが請取って、膝で 覗 ( のぞ ) くようにして開けて、
「御馳走様ですね……早速お毒見。」
と言った。
これにまた胸が痛んだ。だけなら、まださほどまでの仔細はなかった。
「くすくす、くすくす。」
宗吉がこの座敷へ入りしなに、もうその忍び笑いの声が耳に附いたのであるが、この時、お千さんの一枚 撮 ( つま ) んだ煎餅を、見ないように、ちょっと 傍 ( わき ) へかわした宗吉の顔に、横から 打撞 ( ぶつか ) ったのは小皿の平四郎。……頬骨の張った菱形の 面 ( つら ) に、 窪 ( くぼ ) んだ目を細く、小鼻をしかめて、
「くすくす。」
とまた遣った。手にわるさに落ちたと見えて札は持たず、 鍍金 ( めっき ) の 銀煙管 ( ぎんぎせる ) を構えながら、めりやすの 股引 ( ももひき ) を前はだけに、片膝を立てていたのが、その膝頭に頬骨をたたき着けるようにして、
「くすくすくす。」
続けて忍び 笑 ( わらい ) をしたのである。
立続 ( たてつ ) けて、
「くッくッくッ。」
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