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 鼻の たか いその顔が、ひたひたと横に寄って、胸に 白粉 おしろい の着くように思った。

 宗吉は、 愕然 がくぜん とするまで、再び、似た人の面影をその女に 発見 みいだ したのである。

 緋縮緬の女は、 櫛巻 くしまき に結って、黒縮緬の 紋着 もんつき の羽織を 撫肩 なでがた にぞろりと着て、 せた片手を、力のない襟に挿して、そうやって、引上げた つま おさ えるように、膝に置いた手に 萌黄色 もえぎいろ のオペラバッグを大事そうに持っている。もう三十を幾つも越した 年紀 とし ごろから思うと、 小児 こども の土産にする 玩弄品 おもちゃ らしい、粗末な 手提 てさげ を――大事そうに持っている。はきものも、 襦袢 じゅばん も、素足も、櫛巻も、紋着も、何となくちぐはぐな処へ、色白そうなのが濃い化粧、口の大きく見えるまで 濡々 ぬれぬれ べに をさして、細い えり の、真白な 咽喉 のど を長く、明神の森の遠見に、伸上るような、ぐっと仰向いて、大きな目を じっ みは

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[1]
った顔は、首だけ 活人形 いきにんぎょう いだようで、 綺麗 きれい なよりは、もの すご い。ただ、美しく優しく、しかもきりりとしたのは たぐい なきその眉である。

 眉は、宗吉の思う、忘れぬ女と寸分違わぬ。が、この似たのは、もう一人の丸髷の方が、従弟の細君に似たほど、 適格 しっくり したものでは決してない。あるいはそれが余りよく似たのに引込まれて、心に刻んだ面影が緋縮緬の方に宿ったのであろうも知れぬ。

 よし、眉の姿ただ一枚でも、秦宗吉の胸は、夢に三日月を呑んだように、きらりと尊く輝いて、時めいて躍ったのである。

 ――お千と言った、その女は、実に宗吉が十七の 年紀 とし 生命 いのち の親である。――

 しかも場所は、 面前 まのあたり 彼処 かしこ に望む、神田明神の春の の境内であった。

「ああ……もう 一呼吸 ひといき で、 剃刀 かみそり で、……」

 と、今 なが めても身の毛が 悚立 よだ つ。……森のめぐりの雨雲は、陰惨な鼠色の くま を取った 可恐 おそろし い面のようで、家々の棟は、瓦の きば を噛み、歯を重ねた、その上に 二処 ふたところ 三処 みところ 赤煉瓦 あかれんが の軒と、 亜鉛 トタン 屋根の 引剥 ひっぺがし が、高い空に、 かっ と赤い歯茎を いた、人を う鬼の口に 髣髴 ほうふつ する。……その森、その 樹立 こだち は、……春雨の けぶ るとばかり見る目には、三ツ五ツ縦に並べた薄紫の 眉刷毛 まゆばけ であろう。死のうとした身の、その時を思えば、それも さかしま に生えた 蓬々 おどろおどろ ひげ である。

 その空へ、すらすらと かりがね のように浮く、緋縮緬の女の眉よ! 瞳も すわ って、 まばた きもしないで、 恍惚 うっとり と同じ処を 凝視 みつ めているのを、宗吉はまたちらりと見た。

 ああその女?

 と波を打って とどろ く胸に、この停車場は、 おおい なる船の甲板の廻るように、 みよし を明神の森に向けた。

 手に取るばかりなお近い。

「なぞえに低くなった、あそこが明神坂だな。」

 その右側の露路の突当りの家で。……

 ――死のうとした日の朝――宗吉は、 年紀上 としうえ かれ の友達に、顔を あた ってもらった。……その 、明神の境内で、アワヤ 咽喉 のんど に擬したのはその剃刀であるが。

(ちょっと順序を つけ よう。)

 宗吉は学資もなしに、無鉄砲に国を出て、 行処 ゆきどころ のなさに、その頃、ある一団の、取留めのない不体裁なその日ぐらしの人たちの世話になって、辛うじて 雨露 うろ しの いでいた。

 その人たちというのは、主に 懶惰 らんだ 放蕩 ほうとう のため、世に見棄てられた医学生の落第なかまで、年輩も相応、 女房持 にょうぼうもち なども まじ った。中には政治家の半端もあるし、実業家の下積、山師も居たし、 真面目 まじめ に巡査になろうかというのもあった。

 そこで、宗吉が当時寝泊りをしていたのは、同じ明神坂の片側長屋の一軒で、ここには食うや食わずの医学生あがりの、松田と云うのが夫婦で居た。

 その突当りの、柳の樹に、軒燈の掛った 見晴 みはらし のいい誰かの 妾宅 しょうたく の貸間に居た、露の垂れそうな綺麗なのが……ここに緋縮緬の女が似たと思う、そのお千さんである。