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「何をするんですよ、何をするんですよ、お前さん、 串戯 じょうだん ではありません。」

 社殿の裏なる、 空茶店 あきちゃみせ 葦簀 よしず の中で、一方の柱に使った片隅なる大木の 銀杏 いちょう の幹に 凭掛 よりかか って、アワヤ剃刀を 咽喉 のど に当てた時、すッと音して、 滝縞 たきじま の袖で抱いたお千さんの姿は、……宗吉の目に、高い樹の梢から さっ と下りた、美しい女の顔した不思議な鳥のように映った――

 剃刀をもぎ取られて後は、 茫然 ぼうぜん として、ほとんど夢心地である。

「まあ!  かった。」

 と、身を じて、肩を抱きつつ、 やしろ の方を片手拝みに、

「虫が知らしたんだわね。いま、お前さんが台所で、剃刀を持って くって声が聞えたでしょう、ドキリとしたのよ。……秦さん秦さんと言ったけれど、もう居ないでしょう。何だかね、こんな間違がありそうな気がしてならない、私。私、でね、すぐに後から駆出したのさ。でも、どこって あて はないんだもの、鳥居前のあすこの床屋で聞いてみたの。まあね、……まるでお見えなさらないと言うじゃあないの。しまった、と思ったわ。半分夢中で、それでも私がここへ来たのは 神仏 かみほとけ のお助けです。秦さん、私が助けるんだと思っちゃあ 不可 いけな い。 うござんすか、 いかえ、 貴方 あなた 。……親御さんが影身に添っていなさるんですよ。 よう ござんすか、分りましたか。」

 と 小児 こども のように、柔い胸に、帯も 扱帯 しごき もひったりと抱き締めて、

「御覧なさい、お月様が、あれ、 仏様 ののさん が。」

 忘れはしない、半輪の五日の月が黒雲を下りるように、荘厳なる銀杏の枝に、梢さがりに かか ったのが、 可懐 なつかし い亡き母の乳房の輪線の面影した。

「まあ、これからという、……女にしても つぼみ のいま、どうして死のうなんてしたんですよ。――私に……私……ええ、それが私に恥かしくって、――」

 その ふるえ が胸に響く。

「何の塩煎餅の二枚ぐらい、貴方が 掏賊 ちぼ でも構やしない――私はね、あの。……まあ、とにかく、内へ きましょう。 塩梅 あんばい に誰も居ないから。」

 促して、急いで脱放しの駒下駄を さぐ る時、 白脛 しらはぎ が散った。お千も あわただ しかったと見えて、宗吉の 穿物 はきもの までは心着かず、 可恐 おそろ しい処を げるばかりに、息せいて手を引いたのである。

 魔を け、死神を払う 禁厭 まじない であろう、明神の 御手洗 みたらし の水を すく って、 しずく ばかり宗吉の 頭髪 かみ を濡らしたが、

「……息災、延命、息災延命、学問、学校、心願成就。」

 と、手よりも濡れた瞳を閉じて、 えり 白く、 御堂 みどう をば伏拝み、

「一口めしあがれ、……気を静めて――私も。」

 と 柄杓 ひしゃく を重げに口にした。

動悸 どうき を御覧なさいよ、私のさ。」

 その胸の とどろ きは、今より先に知ったのである。

「秦さん、私は貴方を連れて、もうあすこへは戻らない。……身にも命にもかえてね、お手伝をしますがね、……実はね、今明神様におわびをして、貴方のお つむ を濡らしたのは――実は、あの、一度内へ帰ってね。……この剃刀で、貴方を、そりたての今道心にして、一緒に寝ようと思ったのよ。――あのね、実はね、今夜あたり紀州のあの坊さんに、私が抱かれて、そこへ、熊沢だの甘谷だのが踏込んで、不義いたずらの罪に落そうという相談に……どうでも、と言って乗せられたんです。

 ……あの坊さんは、高野山とかの、 金高 かねだか なお宝ものを売りに出て来ているんでしょう。どことかの大金持だの、何省の大臣だのに売ってやると言って、だまして、熊沢が皆質に入れて使ってしまって、催促される、苦しまぎれに、不断、何だか私にね、坊さんが 厭味 いやみ らしい目つきをするのを知っていて、まあ大それた 美人局 つつもたせ だわね。

 私が弱いもんだから、 身体 からだ も度胸もずばぬけて強そうな、あの人をたよりにして、こんな 身裁 しだら になったけれど、……そんな相談をされてからはね……その上に、この 眉毛 まみえ を見てからは……」

 と、お千は そっ と宗吉の肩を撫でた。

「つくづく、あんな人が 可厭 いや になった。――そら、どかどかと踏込むでしょう。貴方を抱いて、ちゃんと起きて、居直って、あいそづかしをきっぱり言って、夜中に直ぐに飛出して、 溜飲 りゅういん を下げてやろうと思ったけれど……どんな 発機 はずみ で、 自棄腹 やけばら の、あの人たちの乱暴に、貴方に怪我でもさせた日にゃ、取返しがつかないから、といま胸に手を置いて、分別をしたんですよ。

 さ、このままどこかへ きましょう。私に任して安心なさいよ。……貴方もきっとあの人たちに二度とつき合っては 不可 いけ ません。」

  裏崕 うらがけ の石段を降りる時、宗吉は狼の峠を越して、花やかな都を見る気がした。

「ここ……そう……」

 お千さんが 莞爾 にっこり して、塩煎餅を買うのに、昼夜帯を いたのが、安ものらしい、が、 萌黄 もえぎ 金入 かねいれ

「食べながら 歩行 あるき ましょう。」

「弱虫だね。」

  大通 おおどおり へ抜ける暗がりで、甘く、且つ かんば しく、 皓歯 しらは でこなしたのを、口移し……