売色鴨南蛮
泉鏡花 (Baishoku kamonanban) | ||
七
「こっちは、びきを泣かせてやれか。」
と黄八丈が 骨牌 ( ふだ ) を 捲 ( めく ) ると、黒縮緬の坊さんが、 紅 ( あか ) い裏を 翻然 ( ひらり ) と 翻 ( かえ ) して、
「餓鬼め。」
と投げた。
「うふ、うふ、うふ。」と平四郎の忍び笑が、歯茎を 洩 ( も ) れて声に出る。
「うふふ、うふふ、うふふふふふ。」
「何じゃい。」と片手に 猪口 ( ちょく ) を取りながら、 黒天鵝絨 ( くろびろうど ) の 蒲団 ( ふとん ) の上に、萩、 菖蒲 ( あやめ ) 、桜、 牡丹 ( ぼたん ) の合戦を、どろんとした目で見据えていた、 大島揃 ( おおしまぞろい ) 、 大胡坐 ( おおあぐら ) の熊沢が、ぎょろりと平四郎を見向いて言うと、笑いの虫は 蕃椒 ( とうがらし ) を食ったように、赤くなるまで 赫 ( かっ ) と 競勢 ( きお ) って、
「うはははは、うふふ、うふふ。うふふ。えッ、いや、あ、あ、チ、あははははは、はッはッはッはッ、テ、ウ、えッ、えッ、えッ、えへへ、うふふ、あはあはあは、あは、あはははははは、あはははは。」
「馬鹿な。」
と唇を 横舐 ( よこな ) めずって、熊沢がぬっと突出した猪口に、酌をしようとして、 銅壺 ( どうこ ) から抜きかけた 銚子 ( ちょうし ) の手を留め、お千さんが、
「どうしたの。」
「おほほ、や、お尋ねでは恐入るが、あはは、テ、えッ。えへ、えへへ、う、う、ちえッ、 堪 ( たま ) らない。あッはッはッはッ。」
「魔が 魅 ( さ ) したようだ。」
甘谷が 呆 ( あき ) れて 呟 ( つぶや ) く、……と 寂然 ( しん ) となる。
寂寞 ( しん ) となると、 笑 ( わらい ) ばかりが、
「ちゃはははは、う、はは、うふ、へへ、ははは、えへへへへ、えッへ、へへ、あははは、うは、うは、うはは。どッこい、ええ、チ、ちゃはは、エ、はははは、ははははは、うッ、うッ、えへッへッへッ。」
と横のめりに平四郎、煙管の 雁首 ( がんくび ) で 脾腹 ( ひばら ) を 突 ( つつ ) いて、 身悶 ( みもだ ) えして、
「くッ、苦しい……うッ、うッ、うッふふふ、チ、うッ、うううう苦しい。ああ、切ない、あはははは、あはッはッはッ、おお、コ、こいつは、あはは、ちゃはは、テ、チ、たッたッ堪らん。ははは。」
と込上げ 揉立 ( もみた ) て、 真赤 ( まっか ) になった、七 顛 ( てん ) 八 倒 ( とう ) の 息継 ( いきつぎ ) に、つぎ 冷 ( ざま ) しの茶を取って、がぶりと遣ると、
「わッ。」と 咽 ( む ) せて、灰吹を 掴 ( つか ) んだが間に合わず、火入の灰へぷッと吐くと、むらむらと灰かぐら。
「ああ、あの 児 ( こ ) 、障子を一枚開けていな。」
と黒縮緬の袖で払って出家が言った。
宗吉は針の 筵 ( むしろ ) を飛上るように、そのもう一枚、 肘懸窓 ( ひじかけまど ) の障子を開けると、 颯 ( さっ ) と出る灰の吹雪は、すッと 蒼空 ( あおぞら ) に渡って、 遥 ( はるか ) に品川の海に消えた。が、蔵前の煙突も、十二階も、 睫毛 ( まつげ ) に 一眸 ( ひとめ ) の北の 方 ( かた ) 、目の下、 一雪崩 ( ひとなだれ ) に 崕 ( がけ ) になって、崕下の、ごみごみした屋根を隔てて、 日南 ( ひなた ) の煎餅屋の小さな店が、油障子も覗かれる。
ト 斜 ( ななめ ) に、がッくりと 窪 ( くぼ ) んで暗い、崕と石垣の間の、遠く明神の裏の石段に続くのが、 大蜈蚣 ( おおむかで ) のように 胸前 ( むなさき ) に 畝 ( うね ) って、突当りに 牙 ( きば ) を 噛合 ( かみあ ) うごとき、小さな黒塀の忍び 返 ( がえし ) の下に、 溝 ( どぶ ) から 這上 ( はいあが ) った 蛆 ( うじ ) の、醜い汚い筋をぶるぶると震わせながら、 麸 ( ふ ) を 嘗 ( な ) めるような形が、 歴然 ( ありあり ) と、 自分 ( おの ) が瞳に映った時、宗吉はもはや 蒼白 ( まっさお ) になった。
ここから 認 ( み ) られたに相違ない。
と思う平四郎は、 涎 ( よだれ ) と一所に、濡らした膝を、 手巾 ( ハンケチ ) で横撫でしつつ、
「ふ、ふ、ふ、ふ、ふ。」…… 大歎息 ( おおためいき ) とともに尻を 曳 ( ひ ) いたなごりの 笑 ( わらい ) が、更に、がらがらがらと雷の鳴返すごとく少年の耳を打つ!……
「お 煎 ( せん ) をめしあがれな。」
目の下の崕が 切立 ( きった ) てだったら、宗吉は、お千さんのその声とともに、 倒 ( さかしま ) に落ちてその場で五体を 微塵 ( みじん ) にしたろう。
産 ( うみ ) の親を 可懐 ( なつか ) しむまで、眉の 一片 ( ひとひら ) を 庇 ( かば ) ってくれた、その人ばかりに恥かしい。……
「ちょっと、 宅 ( うち ) まで。」
と息を呑んで言った――宅とは露路のその長屋で。
宗吉は、しかし、その長屋の前さえ、 遁隠 ( にげかく ) れするように素通りして、明神の境内のあなたこなた、人目の 隙 ( すき ) の隅々に立って、 飢 ( うえ ) さえ忘れて、半日を泣いて泣きくらした。
星も曇った暗き 夜 ( よ ) に、
「おかみさん――床屋へ剃刀を持って参りましょう。ついでがございますから……」
宗吉はわざと格子戸をそれて、 蚯蚓 ( みみず ) の這うように台所から、 密 ( そっ ) と妾宅へおとずれて、家主の手から剃刀を取った。
間 ( ま ) を隔てた座敷に、 艶 ( あで ) やかな影が 気勢 ( けはい ) に映って、香水の 薫 ( かおり ) は、つとはしり 下 ( もと ) にも薫った。が、 寂寞 ( ひっそり ) していた。
露路の長屋の赤い 燈 ( あかり ) に、珍しく、大入道やら、五分刈やら、中にも小皿で 禿 ( かむろ ) なる影法師が動いて、ひそひそと声の漏れるのが、目を忍び、 音 ( ね ) を 憚 ( はばか ) る出入りには、宗吉のために、むしろ 僥倖 ( さいわい ) だったのである。
売色鴨南蛮
泉鏡花 (Baishoku kamonanban) | ||