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夕顔 光る源氏の17歳夏から立冬の日までの物語
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

夕顔
光る源氏の17歳夏から立冬の日までの物語

    1 夕顔の物語 夏の物語

  1. 源氏、五条の大弐乳母を見舞う 六条わたりの御忍び歩きのころ
  2. 数日後、夕顔の宿の報告 惟光、日頃ありて参れり

    4 夕顔の物語(2) 仲秋の物語

  1. 源氏、夕顔の宿に忍び通う まことや、かの惟光が預かりのかいま見は
  2. 八月十五夜の逢瀬 君も、「かくうらなくたゆめてはひ隠れなば
  3. なにがしの院に移る いさよふ月に、ゆくりなくあくがれむことを
  4. 夜半、もののけ現われる 宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに
  5. 源氏、二条院に帰る からうして、惟光朝臣参れり
  6. 十七日夜、夕顔の葬送 日暮れて、惟光参れり。かかる穢らひありとのたまひて
  7. 忌み明ける 九月二十日のほどにぞ、おこたり果てたまひて

出典
校訂

  六条わたりの御忍び歩きのころ、内裏よりまかでたまふ中宿に、大弐の乳母のいたくわづらひて尼になりにける、とぶらはむとて、五条なる家尋ねておはしたり。
 御車入るべき門は鎖したりければ、人して惟光召させて、待たせたまひけるほど、むつかしげなる大路のさまを見わたしたまへるに、この家のかたはらに、桧垣といふもの新しうして、上は半蔀四五間ばかり上げわたして、簾などもいと白う涼しげなるに、をかしき額つきの透影、あまた見えて覗く。立ちさまよふらむ下つ方思ひやるに、あながちに丈高き心地ぞする。いかなる者の集へるならむと、やうかはりて思さる。
 御車もいたくやつしたまへり、前駆も追はせたまはず、誰とか知らむとうちとけたまひて、すこしさし覗きたまへれば、門は蔀のやうなる、押し上げたる、見入れのほどなく、ものはかなき住まひを、あはれに、

[_]
「何処かさして」
と思ほしなせば、
[_]
玉の台も同じこと
なり。
 切懸だつ物に、いと青やかなる葛の心地よげに這ひかかれるに、白き花ぞ、おのれひとり笑みの眉開けたる。
 
[_]
「遠方人にもの申す」

  と独りごちたまふを、御隋身ついゐて、
 「かの白く咲けるをなむ、夕顔と申しはべる。花の名は人めきて、かうあやしき垣根になむ咲きはべりける」
 と申す。げにいと小家がちに、むつかしげなるわたりの、
[_]
このもかのも、
あやしくうちよろぼひて、むねむねしからぬ軒の妻戸に這ひまつはれたるを、
 「口惜しの花の契りや。一房折りて参れ」
 とのたまへば、この押し上げたる門に入りて折る。
 さすがに、されたる遣戸口に、黄なる生絹の単袴、長く着なしたる童の、をかしげなる出で来て、うち招く。白き扇のいたうこがしたるを、
 「これに置きて参らせよ。枝も情けなげなめる花を」
 とて取らせたれば、門開けて惟光朝臣出で来たるして、奉らす。
 「鍵を置きまどはしはべりて、いと不便なるわざなりや。もののあやめ見たまへ分くべき人もはべらぬわたりなれど、
[_]
らうがはしき
大路に立ちおはしまして」とかしこまり申す。
 引き入れて、下りたまふ。惟光が兄の阿闍梨、婿の三河守、むすめなど、渡り集ひたるほどに、かくおはしましたる喜びを、またなきことにかしこまる。
 尼君も起き上がりて、
 「惜しげなき身なれど、捨てがたく思うたまへつることは、ただ、かく御前にさぶらひ、御覧ぜらるることの変りはべりなむことを口惜しく思ひたまへ、たゆたひしかど、忌むことのしるしによみがへりてなむ、かく渡りおはしますを、見たまへはべりぬれば、今なむ阿弥陀仏の御光も、心清く待たれはべるべき」
 など聞こえて、弱げに泣く。
 「日ごろ、おこたりがたくものせらるるを、安からず嘆きわたりつるに、かく、世を離るるさまにものしたまへば、いとあはれに口惜しうなむ。命長くて、なほ位高くなど見なしたまへ。さてこそ、九品の上にも、障りなく生まれたまはめ。この世にすこし恨み残るは、悪ろきわざとな  かたほなるをだに、乳母やうの思ふべき人は、あさましうまほに見なすものを、まして、いと面立たしう、なづさひ仕うまつりけむ身も、いたはしうかたじけなく思ほゆべかめれば、すずろに涙がちなり。
 子どもは、いと見苦しと思ひて、「背きぬる世の去りがたきやうに、みづからひそみ御覧ぜられたまふ」と、つきしろひ目くはす。
 君は、いとあはれと思ほして、
 「いはけなかりけるほどに、思ふべき人々のうち捨ててものしたまひにけるなごり、育む人あまたあるやうなりしかど、親しく思ひ睦ぶる筋は、またなくなむ思ほえし。人となりて後は、限りあれば、朝夕にしもえ見たてまつらず、心のままに訪らひ参づることはなけれど、なほ久しう対面せぬ時は、心細くおぼゆるを、
[_]
『さらぬ別れはなくもがな』

  となむ、こまやかに語らひたまひて、おし拭ひたまへる袖のにほひも、いと
[_]
所狭き
まで薫り満ちたるに、げに、よに思へば、おしなべたらぬ人の御宿世ぞかしと、尼君をもどかしと見つる子ども、皆うちしほたれけり。
 修法など、またまた始むべきことなど掟てのたまはせて、出でたまふとて、惟光に紙燭召して、ありつる扇御覧ずれば、もて馴らしたる移り香、いと染み深うなつかしくて、をかしうすさみ書きたり。
 「心あてにそれかとぞ見る白露の
  光そへたる夕顔の花」
 そこはかとなく書き紛らはしたるも、あてはかにゆゑづきたれば、いと思ひのほかに、をかしうおぼえたまふ。惟光に、
 「この西なる家は何人の住むぞ。問ひ聞きたりや」
 とのたまへば、例のうるさき御心とは思へども、さは申さで、
 「この五、六日ここにはべれど、病者のことを思うたまへ扱ひはべるほどに、隣のことはえ聞きはべらず」
 など、はしたなやかに聞こゆれば、
 「憎しとこそ思ひたれな。されど、この扇の、尋ぬべきゆゑありて見ゆるを。なほ、このわたりの心知れらむ者を召して問へ」
 とのたまへば、入りて、この宿守なる男を呼びて問ひ聞く。
 「揚名介なる人の家になむはべりける。男は田舎に
[_]
まかりて
、妻なむ若く事好みて、はらからなど宮仕人にて来通ふ、と申す。詳しきことは、下人のえ知りはべらぬにやあらむ」と聞こゆ。
 「さらば、その宮仕人ななり。したり顔にもの馴れて言へるかな」と、「めざましかるべき際にやあらむ」と思せど、さして聞こえかかれる心の、憎からず過ぐしがたきぞ、例の、この方には重からぬ御心なめるかし。御畳紙にいたうあらぬさまに書き変へたまひて、
 「寄りてこそそれかとも見めたそかれに
  ほのぼの見つる花の夕顔」
 ありつる御随身して遣はす。
 まだ見ぬ御さまなりけれど、いとしるく思ひあてられたまへる御側目を見過ぐさで、さしおどろかしけるを、答へたまはでほど経ければ、なまはしたなきに、かくわざとめかしければ、あまえて、「いかに聞こえむ」など言ひしろふべかめれど、めざましと思ひて、随身は参りぬ。
 御前駆の松明ほのかにて、いと忍びて出でたまふ。半蔀は下ろしてけり。隙々より見ゆる灯の光、螢よりけにほのかにあはれなり。

 御心ざしの所には、木立前栽など、なべての所に似ず、いとのどかに心にくく住みなしたまへり。うちとけぬ御ありさまなどの、気色ことなるに、ありつる垣根思ほし出でらるべくもあらずかし。
 翌朝、すこし寝過ぐしたまひて、日さし出づるほどに出でたまふ。朝明の姿は、げに人のめできこえむも、ことわりなる御さまなりけり。
 今日もこの蔀の前渡りしたまふ。来し方も過ぎたまひけむわたりなれど、ただはかなき一ふしに御心とまりて、「いかなる人の住み処ならむ」とは、往き来に御目とまりたまひけり。

  惟光、日頃ありて参れり。
「わづらひはべる人、なほ弱げにはべれば、とかく

[_]
見たまへ
あつかひてなむ」
など、聞こえて、近く参り寄りて聞こゆ。
「仰せられしのちなむ、隣のこと知りてはべる者、呼びて問はせはべりしかど、はかばかしくも申しはべらず。『いと忍びて、五月のころほひよりものしたまふ人なむあるべけれど、その人とは、さらに家の内の人にだに知らせず』となむ申す。時々、中垣のかいま見しはべるに、げに若き女どもの透影見えはべり。褶だつもの、
[_]
かごと
ばかり引きかけて、かしづく人はべるなめり。昨日、夕日のなごりなくさし入りてはべりしに、文書くとてゐてはべりし人の、顔こそいとよくはべりしか。もの思へるけはひして、ある人々も忍びてうち泣くさまなどなむ、しるく見えはべる」
 と聞こゆ。君うち笑みたまひて、「知らばや」と思ほしたり。
 おぼえこそ重かるべき御身のほどなれど、御よはひのほど、人のなびきめできこえたるさまなど思ふには、好きたまはざらむも、情けなくさうざうしかるべしかし、人のうけひかぬほどにてだに、なほ、さりぬべきあたりのことは、このましうおぼゆるものを、と思ひをり。
 「もし、見たまへ得ることもやはべると、はかなきついで作り出でて、消息など遣はしたりき。書き馴れたる手して、口とく返り事などしはべりき。いと口惜しうはあらぬ若人どもなむはべるめる」
 と聞こゆれば、
 「なほ言ひ寄れ。尋ね寄らでは、さうざうしかりなむ」とのたまふ。
 かの、下が下と、人の思ひ捨てし住まひなれど、その中にも、思ひのほかに口惜しからぬを見つけたらばと、めづらしく思ほすなりけり。

  さて、かの空蝉のあさましくつれなきを、この世の人には違ひて思すに、おいらかならましかば、心苦しき過ちにてもやみぬべきを、いとねたく、負けてやみなむを、心にかからぬ折なし。かやうの並々までは思ほしかからざりつるを、ありし「雨夜の品定め」の後、いぶかしく思ほしなる品々あるに、いとど隈なくなりぬる御心なめりかし。
 うらもなく待ちきこえ顔なる片つ方人を、あはれと思さぬにしもあらねど、つれなくて聞きゐたらむことの恥づかしければ、「まづ、こなたの心見果てて」と思すほどに、伊予介上りぬ。
 まづ急ぎ参れり。舟路のしわざとて、すこし黒みやつれたる旅姿、いとふつつかに心づきなし。されど、人もいやしからぬ筋に、容貌などねびたれど、きよげにて、ただならず、気色よしづきてなどぞありける。
 国の物語など申すに、「湯桁はいくつ」と、問はまほしく思せど、あいなくまばゆくて、御心のうちに思し出づることもさまざまなり。
 「ものまめやかなる大人を、かく思ふも、げにをこがましく、うしろめたきわざなりや。げに、これぞ、なのめならぬ片は

[_]
なべかり
ける」と、馬頭の諌め思し出でて、いとほしきに、「つれなき心はねたけれど、人のためは、あはれ」と思しなさる。
 「娘をばさるべき人に預けて、北の方をば率て下りぬべし」と、聞きたまふに、ひとかたならず心あわたたしくて、「今一度はえあるまじきことにや」と、小君を語らひたまへど、人の心を合せたらむことにてだに、軽らかにえしも紛れたまふまじきを、まして、似げなきことに思ひて、今さらに見苦しかるべし、と思ひ離れたり。
 さすがに、絶えて思ほし忘れなむことも、いと言ふかひなく、憂かるべきことに思ひて、さるべき折々の御答へなど、なつかしく聞こえつつ、なげの筆づかひにつけたる言の葉、あやしくらうたげに、目とまるべきふし加へなどして、あはれと思しぬべき人のけはひなれば、つれなくねたきものの、忘れがたきに思す。
 いま一方は、主強くなるとも、変らずうちとけぬべく見えしさまなるを頼みて、とかく聞きたまへど、御心も動かずぞありける。

  秋にもなりぬ。人やりならず、心づくしに思し乱るることどもありて、大殿には、絶え間置きつつ、恨めしくのみ思ひ聞こえたまへり。
 六条わたりにも、とけがたかりし御気色をおもむけ聞こえたまひて後、ひき返し、なのめならむはいとほしかし。されど、よそなりし御心惑ひのやうに、あながちなる事はなきも、いかなることにかと見えたり。
 女は、いとものをあまりなるまで、思ししめたる御心ざまにて、齢のほども似げなく、人の漏り聞かむに、いとどかくつらき御夜がれの寝覚め寝覚め、思ししをるること、いとさまざまなり。
 霧のいと深き朝、いたくそそのかされたまひて、ねぶたげなる気色に、うち嘆きつつ出でたまふを、中将のおもと、御格子一間上げて、見たてまつり送りたまへ、と思しく、御几帳引きやりたれば、御頭もたげて見出だしたまへり。
 前栽の色々乱れたるを、過ぎがてにやすらひたまへるさま、げにたぐひなし。廊の方へおはするに、中将の君、御供に参る。紫苑色の折にあひたる、羅の裳、鮮やかに引き結ひたる腰つき、たをやかになまめきたり。
 見返りたまひて、隅の間の高欄に、しばし、ひき据ゑたまへり。うちとけたらぬもてなし、髪の下がりば、めざましくも、と見たまふ。
 「咲く花に移るてふ名はつつめども
  折らで過ぎ憂き今朝の朝顔
 いかがすべき」
 とて、手をとらへたまへれば、いと馴れてとく、
 「朝霧の晴れ間も待たぬ気色にて
  花に心を止めぬとぞ見る」
 と、おほやけごとにぞ聞こえなす。
 をかしげなる侍童の、姿このましう、ことさらめきたる、

[_]
指貫の
裾、露けげに、花の中に混りて、朝顔折りて参るほどなど、絵に描かまほしげなり。
 大方に、うち見たてまつる人だに、心とめたてまつらぬはなし。物の情け知らぬ山がつも、花の蔭には、なほやすらはまほしきにや、この御光を見たてまつるあたりは、ほどほどにつけて、我がかなしと思ふ女を、仕うまつらせばやと願ひ、もしは、口惜しからずと思ふ妹など持たる人は、卑しきにても、なほ、この御あたりにさぶはせむと、思ひ寄らぬはなかりけり。
 まして、さりぬべきついでの御言の葉も、なつかしき御気色を見たてまつる人の、すこし物の心思ひ知るは、いかがはおろかに思ひきこえむ。明け暮れうちとけてしもおはせぬを、心もとなきことに思ふべかめり。

    まことや、かの惟光が預かりのかいま見は、いとよく案内見とりて申す。
 「その人とは、さらにえ思ひ

[_]
えはべらず
。人にいみじく隠れ忍ぶる気色になむ見えはべるを、つれづれなるままに、南の半蔀ある長屋にわたり来つつ、車の音すれば、若き者どもの覗きなどすべかめるに、この主とおぼしきも、はひわたる時はべかめる。容貌なむ、ほのかなれど、いとらうたげにはべる。
 一日、前駆追ひて渡る車のはべりしを、覗きて、童女の急ぎて、『右近の君こそ、まづ物見たまへ。中将殿こそ、これより渡りたまひぬれ』と言へば、また、よろしき大人出で来て、『あなかま』と、手かくものから、『いかでさは知るぞ、いで、見む』とて、はひ渡る。打橋だつものを道にてなむ通ひはべる。急ぎ来る者は、衣の裾を物に引きかけて、よろぼひ倒れて、橋よりも落ちぬべければ、『いで、この葛城の神こそ、さかしうしおきたれ』と、むつかりて、物覗きの心も冷めぬめりき。『君は、御直衣姿にて、御随身どももありし。なにがし、くれがし』と数へしは、頭中将の随身、その小舎人童をなむ、しるしに言ひはべりし」など聞こゆれば、
 「たしかにその車をぞ見まし」
 とのたまひて、「もし、かのあはれに忘れざりし人にや」と、思ほしよるも、いと知らまほしげなる御気色を見て、
 「私の懸想もいとよくしおきて、案内も残るところなく見たまへおきながら、ただ、我どちと知らせて、物など言ふ若きおもとのはべるを、そらおぼれしてなむ、隠れ
[_]
まかり
歩く。いとよく隠したりと思ひて、小さき子どもなどのはべるが、言誤りしつべきも言ひ紛らはして、また人なきさまを強ひてつくりはべる」など、語りて笑ふ。
 「尼君の訪ひにものせむついでに、かいま見せさせよ」とのたまひけり。
 かりにても、宿れる住ひのほどを思ふに、「これこそ、かの人の定め、あなづりし下の品ならめ。その中に、思ひの外にをかしきこともあらば」など、思すなりけり。
 惟光、いささかのことも御心に違はじと思ふに、おのれも隈なき好き心にて、いみじくたばかりまどひ歩きつつ、しひておはしまさせ初めてけり。このほどのこと、くだくだしければ、例のもらしつ。
 女、さしてその人と尋ね出でたまはねば、我も名のりをしたまはで、いとわりなくやつれたまひつつ、例ならず下り立ちありきたまふは、おろかに思されぬなるべし、と見れば、我が馬をばたてまつりて、御供に走りありく。
 「懸想人のいとものげなき足もとを、見つけられてはべらむ時、からくも
[_]
あるべきかな
」とわぶれど、人に知らせたまはぬままに、かの夕顔のしるべせし随身ばかり、さては、顔むげに知るまじき童一人ばかりぞ、率ておはしける。「もし思ひよる気色もや」とて、隣に中宿をだにしたまはず。
 女も、いとあやしく心得ぬ心地のみして、御使に人を添へ、暁の道をうかがはせ、御在処見せむと尋ぬれど、そこはことなくまどはしつつ、さすがに、あはれに見ではえあるまじく、この人の御心にかかりたれば、便なく軽々しきことと、思ほし返しわびつつ、いとしばしばおはします。
 かかる筋は、まめ人の乱るる折もあるを、いとめやすくしづめたまひて、人のとがめきこゆべきふるまひはしたまはざりつるを、あやしきまで、今朝のほど、昼間の隔ても、おぼつかなくなど、思ひわづらはれたまへば、かつは、いともの狂ほしく、さまで心とどむべきことのさまにもあらず、いみじく思ひさましたまふに、人のけはひ、いとあさましくやはらかにおほどきて、もの深く重き方はおくれて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。いとやむごとなきにはあるまじ、いづくにいとかうしもとまる心ぞ、と返す返す思す。
 いとことさらめきて、御装束をもやつれたる狩の御衣を
[_]
たてまつり
、さまを変へ、顔をもほの見せたまはず、夜深きほどに、人をしづめて出で入りなどしたまへば、昔ありけむものの変化めきて、うたて思ひ嘆かるれど、人の
[_]
御けはひ
、はた、手さぐりもしるべきわざなりければ、「誰ばかりにかはあらむ。なほこの好き者のし出でつるわざなめり」と、大夫を疑ひながら、せめてつれなく知らず顔にて、かけて思ひよらぬさまに、
[_]
たゆまず
あざれありけば、いかなることにかと心得がたく、女方もあやしうやう違ひたるもの思ひをなむしける。

  君も、「かくうらなくたゆめてはひ隠れなば、いづこをはかりとか、我も尋ねむ。かりそめの隠れ処と、はた見ゆめれば、いづ方にもいづ方にも、移ろひゆかむ日を、いつとも知らじ」と思すに、追ひまどはして、なのめに思ひなしつべくは、ただかばかりのすさびにても過ぎぬべきことを、さらにさて過ぐしてむ、と

[_]
思されず
。人目を思して、隔ておきたまふ夜な夜ななどは、いと忍びがたく、苦しきまでおぼえたまへば、「なほ誰となくて二条院に迎へてむ。もし聞こえありて便なかるべきことなりとも、さるべきにこそは。我が心ながら、いとかく人にしむことはなきを、いかなる契りにかはありけむ」など思ほしよる。
 「いざ、いと心安き所にて、のどかに聞こえむ」
 など、語らひたまへば、
 「なほ、あやしう。かくのたまへど、世づかぬ御もてなしなれば、もの恐ろしくこそあれ」
 と、いと若びて言へば、「げに」と、ほほ笑まれたまひて、
 「げに、いづれか狐なるらむな。ただはかられたまへかし」
 と、なつかしげにのたまへば、女もいみじくなびきて、さもありぬべく思ひたり。「世になく、かたはなることなりとも、ひたぶるに従ふ心は、いとあはれげなる人」と見たまふに、なほ、かの頭中将の「常夏」疑はしく、語りし心ざま、まづ思ひ出でられたまへど、「忍ぶるやうこそは」と、あながちにも問ひ出でたまはず。
 気色ばみて、ふと背き
[_]
隠る
べき心ざまなどはなければ、「かれがれにとだえ置かむ折こそは、さやうに思ひ変ることもあらめ、心ながらも、すこし移ろふことあらむこそあはれなるべけれ」とさへ、思しけり。

 八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋、残りなく漏りて来て、見慣らひたまはぬ住ひのさまも珍しきに、暁近くなりにけるなるべし、隣の家々、あやしき賎の男の声々、目覚まして、
 「あはれ、いと寒しや」
 「今年こそ、なりはひにも頼むところすくなく、田舎の通ひも思ひかけねば、いと心細けれ。北殿こそ、聞きたまふや」
 など、言ひ交はすも聞こゆ。
 いとあはれなるおのがじしの営みに起き出でて、そそめき騒ぐもほどなきを、女いと恥づかしく思ひたり。
 艶だち気色ばまむ人は、消えも入りぬべき住ひのさまなめりかし。されど、のどかに、つらきも憂きもかたはらいたきことも、思ひ入れたるさまならで、我がもてなしありさまは、いとあてはかにこめかしくて、またなくらうがはしき隣の用意なさを、いかなる事とも聞き知りたるさまならねば、なかなか、恥ぢかかやかむよりは、罪許されてぞ見えける。
 ごほごほと、鳴る神よりも、おどろおどろしく踏み轟かす唐臼の音も、枕上とおぼゆる。「あな耳かしかまし」と、これにぞ思さるる。何の響きとも聞き入れたまはず、いとあやしう、めざましき音なひとのみ聞きたまふ。くだくだしきことのみ多かり。
 白妙の衣うつ砧の音も、かすかにこなたかなた聞きわたされ、空飛ぶ雁の声、取り集めて、忍びがたきこと多かり。端近き御座所なりければ、遣戸を引き開けて、もろともに見出だしたまふ。ほどなき庭に、されたる

[_]
呉竹
、前栽の露は、なほかかる所も同じごときらめきたり。虫の声々乱りがはしく、
[_]
壁のなかの蟋蟀だに
間遠に聞き慣らひたまへる御耳に、さし当てたるやうに鳴き乱るるを、なかなかさまかへて思さるるも、御心ざし一つの浅からぬに、よろづの罪許さるるなめりかし。
 白き袷、薄色のなよよかなるを重ねて、はなやかならぬ姿、いとらうたげにあえかなる心地して、そこと取り立ててすぐれたることもなけれど、細やかにたをたをとして、ものうち言ひたるけはひ、「あな、心苦し」と、ただいとらうたく見ゆ。心ばみたる方をすこし添へたらば、と見たまひながら、なほうちとけて見まほしく思さるれば、
 「いざ、ただこのわたり近き所に、心安くて明かさむ。かくてのみはいと苦しかりけり」とのたまへば、
 「
[_]
いかでか
。にはかならむ」
 と、いとおいらかに言ひてゐたり。この世のみならぬ契りなどまで頼めたまふに、うちとくる心ばへなど、あやしくやうかはりて、世馴れたる人ともおぼえねば、人の思はむ所もえ憚りたまはで、右近を召し出でて、随身を召させたまひて、御車引き入れさせたまふ。このある人々も、かかる御心ざしのおろかならぬを見知れば、おぼめかしながら、頼みかけきこえたり。
 明け方も近うなりにけり。鶏の声などは聞こえで、御嶽精進にやあらむ、ただ翁びたる声にぬかづくぞ聞こゆる。起ち居のけはひ、堪へがたげに行ふ。いとあはれに、
[_]
「朝の露に異ならぬ世を、何を貧る身の祈りにか」
と、聞きたまふ。「南無当来導師」とぞ拝むなる。
 「かれ、聞きたまへ。この世とのみは思はざりけり」と、あはれがりたまひて、
 「優婆塞が行ふ道をしるべにて
  来む世も深き契り違ふな」
 
[_]
長生殿の古き例は
ゆゆしくて、
[_]
翼を交さむとは
引きかへて、弥勒の世をかねたまふ。行く先の御頼め、いとこちたし。
 「前の世の契り知らるる身の憂さに
  行く末かねて頼みがたさよ」
 かやうの筋なども、さるは、心もとなかめり。

  いさよふ月に、ゆくりなくあくがれむことを、女は思ひやすらひ、とかくのたまふほど、にはかに雲隠れて、明け行く空いとをかし。はしたなきほどにならぬ先にと、例の急ぎ出でたまひて、軽らかにうち乗せたまへれば、右近ぞ乗りぬる。
 そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗し。霧も深く、露けきに、簾をさへ上げたまへれば、御袖もいたく濡れにけり。
 「まだかやうなることを慣らはざりつるを、心尽くしなることにもありけるかな。
  いにしへもかくやは人の惑ひけむ
  我まだ知らぬしののめの道
 慣らひたまへりや」
 とのたまふ。女、恥らひて、
 「山の端の心も知らで行く月は
  うはの空にて影や絶えなむ
 心細く」
 とて、もの恐ろしうすごげに思ひたれば、「かのさし集ひたる住ひの慣らひならむ」と、をかしく思す。
 御車入れさせて、西の対に御座などよそふほど、高欄に御車ひきかけて立ちたまへり。右近、

[_]
艶なる
心地して、来し方のことなども、人知れず思ひ出でけり。預りいみじく経営しありく気色に、この御ありさま知りはてぬ。
 ほのぼのと物見ゆるほどに、下りたまひぬめり。かりそめなれど、清げにしつらひたり。
 「御供に人もさぶらはざりけり。不便なるわざかな」とて、むつましき下家司にて、殿にも仕うまつる者なりければ、参りよりて、「さるべき人召すべきにや」など、申さすれど、
 「ことさらに人来まじき隠れ家求めたる
[_]
なり
。さらに心よりほかに漏らすな」と口がためさせたまふ。
 御粥など急ぎ参らせたれど、取り次ぐ御まかなひうち合はず。まだ知らぬことなる御旅寝に、
[_]
「息長川」
と契りたまふことよりほかのことなし。
 日たくるほどに起きたまひて、格子手づから上げたまふ。いといたく荒れて、人目もなくはるばると見渡されて、木立いとうとましくものふりたり。け近き草木などは、ことに見所なく、みな秋の
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野ら
にて、池も水草に埋もれたれば、いと
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けうとげ
になりにける所かな。別納の方にぞ、曹司などして、人住むべかめれど、こなたは離れたり。
 「
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けうとく
もなりにける所かな。さりとも、鬼なども我をば見許してむ」とのたまふ。
 顔はなほ隠したまへれど、女のいとつらしと思へれば、「げに、かばかりにて隔てあらむも、ことのさまに違ひたり」と思して、
 「夕露に紐とく花は玉鉾の
  たよりに見えし縁にこそありけれ
 露の光やいかに」
 とのたまへば、後目に見おこせて、
 「光ありと見し夕顔のうは露は
  たそかれどきのそら目なりけり」
 とほのかに言ふ。をかしと思しなす。げに、うちとけたまへるさま、世になく、所から、まいてゆゆしきまで見えたまふ。
 「尽きせず隔てたまへるつらさに、あらはさじと思ひつるものを。今だに名のりしたまへ。いとむくつけし」
 とのたまへど、
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「海人の子なれば」
とて、さすがにうちとけぬさま、いとあいだれたり。
 「よし、これも
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我からなめり
」と、怨みかつは語らひ、暮らしたまふ。
 惟光、尋ねきこえて、御くだものなど参らす。右近が言はむこと、さすがにいとほしければ、近くもえさぶらひ寄らず。「かくまでたどり歩きたまふ、をかしう、さもありぬべきありさまにこそは」と推し量るにも、「我がいとよく思ひ寄りぬべかりしことを、譲りきこえて、心ひろさよ」など、めざましう思ひをる。
 たとしへなく静かなる夕べの空を眺めたまひて、奥の方は暗うものむつかしと、女は思ひたれば、端の簾を上げて、添ひ臥したまへり。夕映えを見交はして、女も、かかるありさまを、思ひのほかにあやしき心地はしながら、よろづの嘆き忘れて、すこしうちとけゆく気色、いとらうたし。つと
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御かたはらに
添ひ暮らして、物をいと恐ろしと思ひたるさま、若う心苦し。格子とく下ろしたまひて、大殿油参らせて、「名残りなくなりにたる御ありさまにて、なほ心のうちの隔て残したまへるなむつらき」と、恨みたまふ。
 「内裏に、いかに求めさせたまふらむを。いづこに尋ぬらむ」と、思しやりて、かつは、「あやしの心や。六条わたりにも、いかに思ひ乱れたまふらむ。恨みられむに、苦しう、ことわりなり」と、いとほしき筋は、まづ思ひきこえたまふ。何心もなきさしむかひを、あはれと思すままに、「あまり心深く、見る人も苦しき御ありさまを、すこし取り捨てばや」と、思ひ比べられたまひける。

  宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上に、いとをかしげなる女ゐて、
 「己がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かく、ことなることなき人を率ておはして、時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」
 とて、この御かたはらの人をかき起こさむとす、と見たまふ。
 物に襲はるる心地して、おどろきたまへれば、火も消えにけり。うたて思さるれば、太刀を引き抜きて、うち置きたまひて、右近を起こしたまふ。これも恐ろしと思ひたるさまにて、参り寄れり。
 「渡殿なる宿直人起こして、『紙燭さして参れ』と言へ」とのたまへば、
 「いかでかまからむ。暗うて」と言へば、
 「あな、若々し」と、うち笑ひたまひて、手をたたきたまへば、山彦の答ふる声、いとうとまし。

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人え聞き
つけで参らぬに、この女君、いみじくわななきまどひて、いかさまにせむと思へり。汗もしとどになりて、我かの気色なり。
 「物怖ぢをなむわりなくせさせたまふ本性にて、いかに思さるるにか」と、右近も聞こゆ。「いとか弱くて、昼も空をのみ見つるものを、いとほし」と思して、
 「我、人を起こさむ。手たたけば、山彦の答ふる、いとうるさし。ここに、しばし、近く」
 とて、右近を引き寄せたまひて、西の妻戸に出でて、戸を押し開けたまへれば、渡殿の火も消えにけり。
 風すこしうち吹きたるに、人はすくなくて、さぶらふ限りみな寝たり。この院の預りの子、むつましく使ひたまふ若き男、また上童一人、例の随身ばかりぞありける。召せば、御答へして起きたれば、
 「紙燭さして参れ。『随身も、弦打して、絶えず声づくれ』と仰せよ。人離れたる所に、心とけて寝ぬるものか。惟光朝臣の来たりつらむは」と、問はせたまへば、
 「さぶらひつれど、仰せ言もなし。暁に御迎へに参るべきよし申してなむ、まかではべりぬる」と聞こゆ。この、かう申す者は、滝口なりければ、弓弦いとつきづきしくうち鳴らして、「火あやふし」と言ふ言ふ、預りが
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曹司
の方に去ぬなり。内裏を思しやりて、「名対面は過ぎぬらむ、滝口の宿直奏し、今こそ」と、推し量りたまふは、まだ、いたう更けぬにこそは。
 帰り入りて、探りたまへば、女君はさながら臥して、右近はかたはらにうつぶし臥したり。
 「こはなぞ。あな、もの狂ほしの物怖ぢや。荒れたる所は、狐などやうのものの、人を脅やかさむとて、け恐ろしう思はするならむ。まろあれば、さやうのものには脅されじ」とて、引き起こしたまふ。
 「いとうたて、乱り心地の悪しうはべれば、うつぶし臥してはべるや。御前にこそわりなく思さるらめ」と言へば、
 「そよ。などかうは」とて、かい探りたまふに、息もせず。引き動かしたまへど、なよなよとして、我にもあらぬさまなれば、「いといたく若びたる人にて、物にけどられぬるなめり」と、せむかたなき心地したまふ。
 紙燭持て参れり。右近も動くべきさまにもあらねば、近き御几帳を引き寄せて、
 「なほ持て参れ」
 とのたまふ。例ならぬことにて、御前近くもえ参らぬ、つつましさに、長押にもえ上らず。
 「なほ持て来や、所に従ひてこそ」
 とて、召し寄せて見たまへば、ただこの枕上に、夢に見えつる容貌したる女、面影に見えて、ふと
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消え
失せぬ。
 「昔の物語などにこそ、かかることは聞け」と、いとめづらかにむくつけけれど、まづ、「この人いかになりぬるぞ」と思ほす心騒ぎに、身の上も知られたまはず、添ひ臥して、「やや」と、おどろかしたまへど、ただ冷えに冷え入りて、息は疾く絶え果てにけり。言はむかたなし。頼もしく、いかにと言ひ触れたまふべき人もなし。法師などをこそは、かかる方の頼もしきものには思すべけれど。さこそ強がりたまへど、若き御心にて、いふかひなくなりぬるを見たまふに、やるかたなくて、つと抱きて、
 「あが君、生き出でたまへ。いといみじき目な見せたまひそ」
 とのたまへど、冷え入りにたれば、けはひものうとくなりゆく。
 右近は、ただ「あな、むつかし」と思ひける心地みな冷めて、泣き惑ふさまいといみじ。
 南殿の鬼の、なにがしの大臣脅やかしけるたとひを思し出でて、心強く、
 「さりとも、いたづらになり果てたまはじ。夜の声はおどろおどろし。あなかま」
 と諌めたまひて、いとあわたたしきに、あきれたる心地したまふ。
 この男を召して、
 「ここに、いとあやしう、物に襲はれたる人のなやましげなるを、ただ今、惟光朝臣の宿る所にまかりて、急ぎ参るべきよし言へ、と仰せよ。なにがし阿闍梨、そこにものするほどならば、ここに来べきよし、忍びて言へ。かの尼君などの聞かむに、おどろおどろしく言ふな。かかる歩き許さぬ人なり」
 など、物のたまふやうなれど、胸塞がりて、この人を空しくしなしてむことのいみじく思さるるに添へて、大方のむくむくしさ、たとへむ方なし。
 夜中も過ぎにけむかし、風のやや荒々しう吹きたるは。まして、松の響き、木深く聞こえて、気色ある鳥のから声に鳴きたるも、
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「梟」はこれにや
とおぼゆ。うち思ひめぐらすに、こなたかなた、けどほく疎ましきに、人声はせず。「などて、かくはかなき宿りは取りつるぞ」と、悔しさもやらむ方なし。
 右近は、物もおぼえず、君につと添ひたてまつりて、わななき死ぬべし。「また、これもいかならむ」と、心そらにて捉へたまへり。我一人さかしき人にて、思しやる方ぞなきや。
 火はほのかにまたたきて、母屋の際に立てたる屏風の上、ここかしこの隈々しくおぼえたまふに、物の足音、ひしひしと踏み鳴らしつつ、後ろより寄り来る心地す。「惟光、とく参らなむ」と思す。ありか定めぬ者にて、ここかしこ尋ねけるほどに、夜の明くるほどの久しさは、
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千夜を過ぐさむ心地
したまふ。
 
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からうして
、鶏の声はるかに聞こゆるに、「命をかけて、何の契りに、かかる目を見るらむ。我が心ながら、かかる筋に、おほけなくあるまじき心の報いに、かく、来し方行く先の例となりぬべきことはあるなめり。忍ぶとも、世にあること隠れなくて、内裏に聞こし召さむをはじめて、人の思ひ言はむこと、よからぬ童べの口ずさびになるべきなめり。ありありて、をこがましき名をとるべきかな」と、思しめぐらす。

  からうして、惟光朝臣参れり。夜中、暁といはず、御心に従へるものの、今宵しもさぶらはで、召しにさへおこたりつるを、憎しと思すものから、召し入れて、のたまひ出でむことのあへなきに、ふとも物言はれたまはず。右近、大夫のけはひ聞くに、初めよりのこと、うち思ひ出でられて泣くを、君もえ堪へたまはで、我一人さかしがり抱き持たまへりけるに、この人に息をのべたまひてぞ、悲しきことも思されける、とばかり、いといたく、えもとどめず泣きたまふ。
 ややためらひて、「ここに、いとあやしきことのあるを、あさましと言ふにもあまりてなむ

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ある
。かかるとみの事には、誦経などをこそはすなれとて、その事どももせさせむ。願なども立てさせむとて、
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阿闍梨
ものせよ、と言ひつるは」とのたまふに、
 「昨日、山へまかり上りにけり。まづ、いとめづらかなることにもはべるかな。かねて、例ならず御心地ものせさせたまふことやはべりつらむ」
 「さることもなかりつ」とて、泣きたまふさま、いとをかしげにらうたく、見たてまつる人もいと悲しくて、おのれもよよと泣きぬ。
 さいへど、年うちねび、世の中のとあることと、しほじみぬる人こそ、もののをりふしは頼もしかりけれ、いづれもいづれも若きどちにて、言はむ方もなけれど、
 「この院守などに聞かせむことは、いと便なかるべし。この人一人こそ睦しくもあらめ、おのづから物言ひ漏らしつべき眷属も立ちまじりたらむ。まづ、この院を出でおはしましね」と言ふ。
 「さて、これより人少ななる所はいかでかあらむ」とのたまふ。
 「げに、さぞはべらむ。かの故里は、女房などの、悲しびに堪へず、泣き惑ひはべらむに、隣しげく、とがむる里人多くはべらむに、おのづから聞こえはべらむを、山寺こそ、なほかやうのこと、おのづから行きまじり、物紛るることはべらめ」と、思ひまはして、「昔、見たまへし女房の、尼にてはべる東山の辺に、移したてまつらむ。惟光が父の朝臣の乳母にはべりし者の、みづはぐみて住みはべるなり。辺りは、人しげきやうにはべれど、いとかごかにはべり」
 と聞こえて、明けはなるるほどの紛れに、御車寄す。
 この人をえ抱きたまふまじければ、上蓆におしくくみて、惟光乗せたてまつる。いとささやかにて、疎ましげもなく、らうたげなり。したたかにしもえせねば、髪はこぼれ出でたるも、目くれ惑ひて、あさましう悲し、と思せば、なり果てむさまを見むと思せど、
 「はや、御馬にて、二条院へおはしまさむ。人騒がしくなりはべらぬほどに」
 とて、右近を添へて乗すれば、徒歩より、君に馬はたてまつりて、くくり引き上げなどして、かつは、いとあやしく、おぼえぬ送りなれど、御気色のいみじきを見たてまつれば、身を捨てて行くに、君は物もおぼえたまはず、我かのさまにて、おはし着きたり。
 人々、「いづこより、おはしますにか。なやましげに見えさせたまふ」など言へば、御帳の内に入りたまひて、胸をおさへて思ふに、いといみじければ、「などて、乗り添ひて行かざりつらむ。生き返りたらむ時、いかなる心地せむ。見捨てて行きあかれにけりと、つらくや思はむ」と、心惑ひのなかにも、思ほすに、御胸せきあぐる心地したまふ。御頭も痛く、身も熱き心地して、いと苦しく、惑はれたまへば、「かくはかなくて、我もいたづらになりぬるなめり」と思す。
 日高くなれど、起き上がりたまはねば、人々あやしがりて、御粥などそそのかしきこゆれど、苦しくて、いと心細く思さるるに、内裏より御使あり。昨日、え尋ね出でたてまつらざりしより、おぼつかながらせたまふ。大殿の君達参りたまへど、頭中将ばかりを、「立ちながら、こなたに入りたまへ」とのたまひて、御簾の内ながらのたまふ。
 「乳母にてはべる者の、この五月のころほひより、重くわづらひはべりしが、頭剃り忌むこと受けなどして、そのしるしにや、よみがへりたりしを、このころ、またおこりて、弱くなむなりにたる、「今一度、とぶらひ見よ」と申したりしかば。いときなきよりなづさひし者の、今はのきざみに、つらしとや思はむ、と思うたまへてまかれりしに、その家なりける下人の、病しけるが、にはかに出であへで亡くなりにけるを、怖ぢ憚りて、日を暮らしてなむ取り出ではべりけるを、聞きつけはべりしかば、神事なるころ、いと不便なること、と思うたまへかしこまりて、え参らぬなり。この暁より、しはぶき病みにやはべらむ、頭いと痛くて苦しくはべれば、いと無礼にて聞こゆること」
 などのたまふ。中将、
 「さらば、さるよしをこそ奏しはべらめ。昨夜も、御遊びに、かしこく求めたてまつらせたまひて。御気色悪しくはべりき」と聞こえたまひて、立ち返り、「いかなる行き触れにかからせたまふぞや。述べやらせたまふことこそ、まことと思うたまへられね」
 と言ふに、胸つぶれたまひて、
 「かく、こまかにはあらで、ただ、おぼえぬ穢らひに触れたるよしを、奏したまへ。いとこそたいだいしくはべれ」
 と、つれなくのたまへど、心のうちには、言ふかひなく悲しきことを思すに、御心地も悩ましければ、人に目も見合せたまはず。蔵人弁を召し寄せて、まめやかにかかるよしを奏せさせたまふ。大殿などにも、かかることありて、え参らぬ御消息など聞こえたまふ。

  日暮れて、惟光参れり。かかる穢らひありとのたまひて、参る人々も、皆立ちながらまかづれば、人しげからず。召し寄せて、
 「いかにぞ。今はと見果てつや」
 とのたまふままに、袖を御顔に押しあてて泣きたまふ。惟光も泣く泣く、
 「今は限りにこそはものしたまふめれ。長々と籠りはべらむも便なきを。明日なむ、日よろしく

[_]
はべれば
、とかくの事、いと尊き老僧の、あひ知りてはべるに、言ひ語らひつけはべりぬる」と聞こゆ。
 「添ひたりつる女はいかに」とのたまへば、
 「それなむ、また、え生くまじくはべるめる。我も後れじと惑ひはべりて、今朝は谷に落ち入りぬとなむ見たまへつる。『かの故里人に告げやらむ』と申せど、『しばし、思ひしづめよ、と。ことのさま思ひめぐらして』となむ、こしらへおきはべりつる」
 と、語りきこゆるままに、いといみじと思して、
 「我も、いと心地悩ましく、いかなるべきにかとなむおぼゆる」とのたまふ。
 「何か、さらに思ほしものせさせたまふ。さるべきにこそ、よろづのこと、はべらめ。人にも漏らさじと思うたまふれば、惟光おり立ちて、よろづはものしはべる」など申す。
 「さかし。さ皆思ひなせど、浮かびたる心のすさびに、人をいたづらになしつるかごと負ひぬべきが、いとからきなり。少将の命婦などにも聞かすな。尼君ましてかやうのことなど、諌めらるるを、心恥づかしくなむおぼゆべき」と、口かためたまふ。
 「さらぬ法師ばらなどにも、皆、言ひなすさま異にはべる」
 と聞こゆるにぞ、かかりたまへる。
 ほの聞く女房など、「あやしく、何ごとならむ、穢らひのよしのたまひて、内裏にも参りたまはず、また、かくささめき嘆きたまふ」と、ほのぼのあやしがる。
 「さらに事なくしなせ」と、そのほどの作法のたまへど、
 「何か、ことことしくすべきにもはべらず」
 とて立つが、いと悲しく思さるれば、
 「便なしと思ふべけれど、今一度、かの亡骸を見ざらむが、いといぶせかるべきを、
[_]
にてものせむ」
 とのたまふを、いとたいだいしきこととは思へど、
 「さ思されむは、いかがせむ。はや、おはしまして、夜更けぬ先に帰らせおはしませ」
 と申せば、このころの御やつれにまうけたまへる、狩の御装束着替へなどして出でたまふ。
 御心地かきくらし、いみじく堪へがたければ、かくあやしき道に出で立ちても、危かりし物懲りに、いかにせむと思しわづらへど、なほ悲しさのやる方なく、「ただ今の骸を見では、またいつの世にかありし容貌をも見む」と、思し念じて、例の大夫、随身を具して出でたまふ。
 道遠くおぼゆ。十七日の月さし出でて、河原のほど、御前駆の火もほのかなるに、鳥辺野の方など見やりたるほどなど、ものむつかしきも、何ともおぼえたまはず、かき乱る心地したまひて、おはし着きぬ。
 辺りさへすごきに、板屋のかたはらに堂建てて行へる尼の住まひ、いとあはれなり。御燈明の影、ほのかに透きて見ゆ。その屋には、女一人泣く声のみして、外の方に、法師ばら二、三人物語しつつ、わざとの声立てぬ念仏ぞする。寺々の初夜も、みな行ひ果てて、いとしめやかなり。清水の方ぞ、光多く見え、人のけはひもしげかりける。この尼君の子なる大徳の声尊くて、経うち誦みたるに、涙の残りなく思さる。
 入りたまへれば、火取り背けて、右近は屏風隔てて臥したり。いかにわびしからむと、見たまふ。恐ろしきけもおぼえず、いとらうたげなるさまして、まだいささか変りたるところなし。手をとらへて、
 「我に、今一度、声をだに聞かせたまへ。いかなる昔の契りにかありけむ、しばしのほどに、心を尽くしてあはれに思ほえしを、うち捨てて、惑はしたまふが、いみじきこと」
 と、声も惜しまず、泣きたまふこと、限りなし。
 大徳たちも、誰とは知らぬに、あやしと思ひて、皆、涙落としけり。
 右近を、「いざ、二条へ」とのたまへど、
 「年ごろ、幼くはべりしより、片時たち離れたてまつらず、馴れきこえつる人に、にはかに別れたてまつりて、いづこにか帰りはべらむ。いかになりたまひにきとか、人にも言ひはべらむ。悲しきことをばさるものにて、人に言ひ騒がれはべらむが、いみじきこと」と言ひて、泣き惑ひて、「煙にたぐひて、慕ひ参りなむ」と言ふ。
 「道理なれど、さなむ世の中はある。別れと言ふもの、悲しからぬはなし。とあるもかかるも、同じ命の限りあるものになむある。思ひ慰めて、我を頼め」と、のたまひこしらへて、「かく言ふ我が身こそは、生きとまるまじき心地すれ」
 とのたまふも、頼もしげなしや。
 惟光、「夜は、明け方になりはべりぬらむ。はや帰らせたまひなむ」
 と聞こゆれば、返りみのみせられて、胸もつと塞がりて出でたまふ。
 道いと露けきに、いとどしき朝霧に、いづこともなく惑ふ心地したまふ。ありしながらうち臥したりつるさま、うち交はしたまへりしが、我が御紅の御衣の着られたりつるなど、いかなりけむ契りにかと道すがら思さる。御馬にも、はかばかしく乗りたまふまじき御さまなれば、また、惟光添ひ助けておはしまさするに、堤のほどにて、御馬よりすべり下りて、いみじく御心地惑ひければ、
 「かかる道の空にて、はふれぬべきにやあらむ。さらに、え行き着くまじき心地なむする」
 とのたまふに、惟光心地惑ひて、「我がはかばかしくは、さのたまふとも、かかる道に率て出でたてまつるべきかは」と思ふに、いと心あわたたしければ、
[_]
の水に手を洗ひて、清水の観音を念じたてまつりても、すべなく思ひ惑ふ。
 君も、しひて御心を起こして、心のうちに仏を念じたまひて、また、とかく助けられたまひてなむ、二条院へ帰りたまひける。
 あやしう夜深き御歩きを、人々、「見苦しきわざかな。このころ、例よりも静心なき御忍び歩きの、しきるなかにも、昨日の御気色の、いと悩ましう思したりしに。いかでかく、たどり歩きたまふらむ」と、嘆きあへり。
 まことに、臥したまひぬるままに、いといたく苦しがりたまひて、二、三日になりぬるに、むげに弱るやうにしたまふ。内裏にも、聞こしめし、嘆くこと限りなし。御祈り、方々に隙なくののしる。祭、祓、修法など、言ひ尽くすべくもあらず。世にたぐひなくゆゆしき御ありさまなれば、世に長くおはしますまじきにやと、天の下の人の騷ぎなり。
 苦しき御心地にも、かの右近を召し寄せて、局など近くたまひて、さぶらはせたまふ。惟光、心地も騒ぎ惑へど、思ひのどめて、この人のたづきなしと思ひたるを、もてなし助けつつさぶらはす。
 君は、いささか隙ありて思さるる時は、召し出でて使ひなどすれば、ほどなく交じらひつきたり。服、いと黒くして、容貌などよからねど、かたはに見苦しからぬ若人なり。
 「あやしう短かかりける御契りにひかされて、我も世にえあるまじき
[_]
なめり
。年ごろの頼み失ひて、心細く思ふらむ慰めにも、もしながらへば、よろづに育まむとこそ思ひしか、ほどなくまたたち添ひぬべきが、口惜しくもあるべきかな」
 と、忍びやかにのたまひて、弱げに泣きたまへば、言ふかひなきことをばおきて、「いみじく惜し」と思ひきこゆ。
 殿のうちの人、足を空にて思ひ惑ふ。内裏より、御使、雨の脚よりもけにしげし。思し嘆きおはしますを聞きたまふに、いとかたじけなくて、せめて強く思しなる。大殿も経営したまひて、大臣、日々に渡りたまひつつ、さまざまのことをせさせたまふ、しるしにや、二十余日、いと重くわづらひたまひつれど、ことなる名残のこらず、おこたるさまに見えたまふ。
 穢らひ忌みたまひしも、
[_]
一つに
満ちぬる夜なれば、おぼつかながらせたまふ御心、わりなくて、内裏の御宿直所に参りたまひなどす。大殿、我が御車にて迎へたてまつりたまひて、御物忌なにやと、むつかしう慎ませたてまつりたまふ。我にもあらず、あらぬ世によみがへりたるやうに、しばしはおぼえたまふ。

  九月二十日のほどにぞ、おこたり果てたまひて、いといたく面痩せたまへれど、なかなか、

[_]
いみじく
なまめかしくて、ながめがちに、ねをのみ泣きたまふ。見たてまつりとがむる人もありて、「御物の怪なめり」など言ふもあり。
 右近を召し出でて、のどやかなる夕暮に、物語などしたまひて、
 「なほ、いとなむあやしき。などてその人と知られじとは、隠いたまへりしぞ。まことに海人の子なりとも、さばかりに思ふを知らで、隔てたまひしかばなむ、つらかりし」とのたまへば、
 「などてか、深く隠しきこえたまふことははべらむ。いつのほどにてかは、何ならぬ御名のりを聞こえたまはむ。初めより、あやしうおぼえぬさまなりし御ことなれば、『現ともおぼえずなむある』とのたまひて、『御名隠しも、さばかりにこそは』と聞こえたまひながら、『なほざりにこそ紛らはしたまふらめ』となむ、憂きことに思したり」と聞こゆれば、
 「あいなかりける心比べどもかな。我は、しか隔つる心もなかりき。ただ、かやうに人に許されぬ振る舞ひをなむ、まだ慣らはぬことなる。内裏に諌めのたまはするをはじめ、つつむこと多かる
[_]
にて、はかなく人にたはぶれごとを言ふも、所狭う、取りなしうるさき身のありさまになむあるを、はかなかりし夕べより、あやしう心にかかりて、あながちに見たてまつりしも、かかるべき契りこそはものしたまひけめと思ふも、あはれになむ。またうち
[_]
返し
、つらうおぼゆる。かう長かるまじきにては、など、さしも心に染みて、あはれとおぼえたまひけむ。なほ詳しく語れ。今は、何ごとを隠すべきぞ。七日七日に仏描かせても、誰が為とか、心のうちにも思はむ」とのたまへば、
 「何か、隔てきこえさせはべらむ。自ら、忍び過ぐしたまひしことを、亡き御うしろに、口さがなくやは、と思うたまふばかりになむ。
 親たちは、はや亡せたまひにき。三位中将となむ聞こえし。いとらうたきものに思ひきこえたまへりしかど、我が身のほどの心もとなさを思すめりしに、命さへ堪へたまはずなりにしのち、はかなきもののたよりにて、頭中将なむ、まだ少将にものしたまひし時、見初めたてまつらせたまひて、三年ばかりは、志あるさまに通ひたまひしを、去年の秋ごろ、かの右の大殿より、いと恐ろしきことの聞こえ参で来しに、物怖ぢをわりなくしたまひし御心に、せむかたなく思し怖ぢて、西の京に、御乳母住みはべる所になむ、はひ隠れたまへりし。それもいと見苦しきに、住みわびたまひて、山里にうつろひなむと思したりしを、今年よりは塞がりける方にはべりければ、違ふとて、あやしき所にものしたまひしを、見あらはされたてまつりぬることと、思し嘆くめりし。世の人に似ず、ものづつみをしたまひて人に物思ふ気色を見えむを、恥づかしきものにしたまひて、つれなくのみもてなして、御覧ぜられたてまつりたまふめりしか」
 と、語り出づるに、「さればよ」と、思しあはせて、いよいよあはれまさりぬ。
 「幼き人惑はしたりと、中将の愁へしは、さる人や」と問ひたまふ。
 「しか。一昨年の春ぞ、ものしたまへりし。女にて、いとらうたげになむ」と語る。
 「さて、いづこにぞ。人にさとは知らせで、我に得させよ。あとはかなく、いみじと思ふ御形見に、いとうれしかるべくなむ」とのたまふ。「かの中将にも伝ふべけれど、言ふかひなきかこと負ひなむ。とざまかうざまにつけて、育まむに咎あるまじきを。そのあらむ乳母などにも、ことざまに言ひなして、ものせよかし」など語らひたまふ。
 「さらば、いとうれしくなむはべるべき。かの西の京にて生ひ出でたまはむは、心苦しくなむ。はかばかしく扱ふ人なしとて、かしこに」など聞こゆ。
 夕暮の静かなるに、空の気色いとあはれに、御前の前栽枯れ枯れに、虫の音も鳴きかれて、紅葉のやうやう色づくほど、絵に描きたるやうにおもしろきを見わたして、心よりほかにをかしき交じらひかなと、かの夕顔の宿りを思ひ出づるも恥づかし。竹の中に家鳩といふ鳥の、ふつつかに鳴くを聞きたまひて、かのありし院にこの鳥の鳴きしを、いと恐ろしと思ひたりしさまの、面影にらうたく思し出でらるれば、
 「年はいくつにかものしたまひし。あやしく世の人に似ず、あえかに見えたまひしも、かく長かるまじくてなりけり」とのたまふ。
 「十九にやなりたまひけむ。右近は、亡くなりにける御乳母の捨て置きてはべりければ、三位の君のらうたがりたまひて、かの御あたり去らず、生ほしたてたまひしを思ひたまへ出づれば、いかでか世にはべらむとすらむ。
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いとしも人にと、
悔しくなむ。ものはかなげにものしたまひし人の御心を、頼もしき人にて、年ごろならひはべりけること」と聞こゆ。
 「はかなびたるこそは、らうたけれ。かしこく人になびかぬ、いと心づきなきわざなり。自らはかばかしくすくよかならぬ心ならひに、女はただやはらかに、とりはづして人に欺かれぬべきが、さすがにものづつみし、見む人の心には従はむなむ、あはれにて、我が心のままにとり直して見むに、なつかしくおぼゆべき」などのたまへば、
 「この方の御好みには、もて離れたまはざりけり、と思ひたまふるにも、口惜しくはべるわざかな」とて泣く。
 空のうち曇りて、風冷やかなるに、いといたく眺めたまひて、
 「見し人の煙を雲と眺むれば
  夕べの空もむつましきかな」
 
[_]
独りごちたまへど、えさし答へも聞こえず。かやうにて、おはせましかば、と思ふにも、胸塞がりておぼゆ。耳かしかましかりし砧の音を、思し出づるさへ恋しくて、
[_]
「まさに長き夜」
とうち誦じて、臥したまへり。

  かの、伊予の家の小君、参る折あれど、ことにありしやうなる言伝てもしたまはねば、憂しと思し果てにけるを、いとほしと思ふに、かくわづらひたまふを聞きて、さすがにうち嘆きけり。遠く下りなどするを、さすがに心細ければ、思し忘れぬるかと、試みに、
 「

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承り
、悩むを、言に出でては、えこそ、
 問はぬをもなどかと問はでほどふるに
 いかばかりかは思ひ乱るる
 
[_]
『益田』はまことに
なむ」
 と聞こえたり。めづらしきに、これもあはれ忘れたまはず。
 「生けるかひなきや、誰が言はましことにか。
 空蝉の世は憂きものと知りにしを
 
[_]
また
言の葉にかかる命よ
 はかなしや」
 と、御手もうちわななかるるに、乱れ書きたまへる、いとどうつくしげなり。なほ、かのもぬけを忘れたまはぬを、いとほしうもをかしうも思ひけり。
 かやうに憎からずは、聞こえ交はせど、け近くとは思ひよらず、さすがに、言ふかひなからずは見えたてまつりてやみなむ、と思ふなりけり。
 かの片つ方は、蔵人少将をなむ通はす、と聞きたまふ。「あやしや。いかに思ふらむ」と、少将の心のうちもいとほしく、また、かの人の気色もゆかしければ、小君して、「死に返り思ふ心は、知りたまへりや」と言ひ遣はす。
 「ほのかにも軒端の荻を結ばずは
  露のかことを何にかけまし」
 高やかなる荻に付けて、「忍びて」と
[_]
のたまへれど
、「取り過ちて、少将も見つけて、我なりけりと思ひあはせば。さりとも、罪ゆるしてむ」と思ふ、御心おごりぞ、あいなかりける。
 少将のなき
[_]
に見すれば、心憂しと思へど、かく思し出でたるも、さすがにて、御返り、口ときばかりをかことにて取らす。
 「ほのめかす風につけても下荻の
  半ばは霜にむすぼほれつつ」
 手は悪しげなるを、紛らはしさればみて書いたるさま、品なし。火影に見し顔、思し出でらる。「うちとけで向ひゐたる人は、え疎み果つまじきさまもしたりしかな。何の心ばせありげもなく、さうどき誇りたりしよ」と思し出づるに、憎からず。なほ
[_]
「こりずまに、またもあだ名立ちぬべき」
御心のすさびなめり。

  かの人の四十九日、忍びて比叡の法華堂にて、事そがず、装束よりはじめて、さるべきものども、こまかに、誦経などせさせたまひぬ。経、仏の飾りまでおろかならず、惟光が兄の阿闍梨、いと尊き人にて、二なうしけり。
 御書の師にて、睦しく思す文章博士召して、願文作らせたまふ。その人となくて、あはれと思ひし人のはかなきさまになりにたるを、阿弥陀仏に譲りきこゆるよし、あはれげに書き出でたまへれば、
 「ただかくながら、加ふべきことはべらざめり」と申す。
 忍びたまへど、御涙もこぼれて、いみじく思したれば、
 「何人ならむ。その人と聞こえもなくて、かう思し嘆かすばかりなりけむ宿世の高さ」
 と言ひけり。忍びて調ぜさせたまへりける装束の袴を取り寄せさせたまひて、
 「泣く泣くも今日は我が結ふ下紐を
  いづれの世にかとけて見るべき」
 「このほどまでは漂ふなるを、いづれの道に定まりて

[_]
赴く
らむ」と思ほしやりつつ、念誦をいとあはれにしたまふ。頭中将を見たまふにも、あいなく胸騒ぎて、かの撫子の生ひ立つありさま、聞かせまほしけれど、かことに怖ぢて、うち出でたまはず。
 
[_]
かの
夕顔の宿りには、いづ方にと思ひ惑へど、そのままにえ尋ねきこえず。右近だに訪れねば、あやしと思ひ嘆きあへり。確かならねど、けはひをさばかりにやと、ささめきしかば、惟光をかこちけれど、いとかけ離れ、気色なく言ひなして、なほ同じごと好き歩きければ、いとど夢の心地して、「もし、受預の子どもの好き好きしきが、頭の君に怖ぢきこえて、やがて、率て下りにけるにや」とぞ、思ひ寄りける。
 この家主人ぞ、西の京の乳母の女なりける。三人その子はありて、右近は他人なりければ、「思ひ隔てて、御ありさまを聞かせぬなりけり」と、泣き恋ひけり。右近
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はた
、かしかましく言ひ騒がむを思ひて、君も今さらに漏らさじと忍びたまへば、若君の上をだにえ聞かず、あさましく行方なくて過ぎ
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ゆく

 君は、「夢をだに見ばや」と、思しわたるに、この法事したまひて、またの夜、ほのかに、かのありし院ながら、添ひたりし女のさまも同じやうにて見えければ、「荒れたりし所に住みけむ物の、我に見入れけむたよりに、かくなりぬること」と、思し出づるにもゆゆしくなむ。

  伊予介、神無月の朔日ごろに下る。女房の下らむにとて、たむけ心ことにせさせたまふ。また、内々にもわざとしたまひて、こまやかにをかしきさまなる櫛、扇多くして、幣などわざとがましくて、かの小袿も遣はす。
 「逢ふまでの形見ばかりと見しほどに
  ひたすら袖の朽ちにけるかな」
 こまかなることどもあれど、うるさければ書かず。
 御使、帰りにけれど、小君して、小袿の御返りばかりは聞こえさせたり。
 「蝉の羽もたちかへてける夏衣
  かへすを見てもねは泣かれけり」
 「思へど、あやしう人に似ぬ心強さにても、ふり離れぬるかな」と思ひ続けたまふ。今日ぞ冬立つ日なりけるも、しるく、うちしぐれて、空の気色いとあはれなり。眺め暮したまひて、
 「過ぎにしも今日別るるも二道に
  行く方知らぬ秋の暮かな」
 なほ、かく人知れぬことは苦しかりけりと、思し知りぬらむかし。かやうのくだくだしきことは、あながちに隠ろへ忍びたまひしもいとほしくて、みな漏らしとどめたるを、「など、帝の御子ならむからに、見む人さへ、かたほならずものほめがちなる」と、作りごとめきてとりなす人ものしたまひければなむ。

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あまり
もの言ひさがなき罪、さりどころなく。

  出典

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[出典1]  世の中はいづれかさして我がならむ行きとまるをぞ宿と定むる(古今集雑下-987 読人しらず)戻る
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[出典2]  何せむに玉の台も八重葎はへらむ宿に二人こそ寝む(古今六帖六-3874)戻る
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[出典3]  うち渡す遠方人に物申す我そのそこに白く咲けるは何の花ぞも(古今集旋頭歌-1007 読人しらず)戻る
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[出典4]  筑波嶺のこのもかのもに影はあれど君が御影に増す影はなし(古今集東歌-1095 常陸歌)戻る
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[出典5]  老いぬれば去らぬ別れもなくもがないよいよ見まくほしき君かな(古今集雑上-900 在原業平の母)
 世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もと嘆く人の子のため(古今集雑下-901 在原業平)戻る
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[出典6]  季夏之月---蟋蟀居壁(礼記-月令)戻る
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[出典7]  朝露貪名利 夕陽憂子孫(白氏文集2-79 不致仕)戻る
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[出典8]  七月七日長生殿 夜半無人私語時(白氏文集12-596 長恨歌)戻る
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[出典9]  在天願作比翼鳥 在地願為連理枝(白氏文集12-596 長恨歌)戻る
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[出典10]  鳰鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむこと尽きめやも(万葉集20-4458 馬史国人)戻る
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[出典11]  白波の寄する渚に世を過ぐす海人の子なれば宿も定めず(和漢朗詠下-722 海人詠)戻る
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[出典12]  海人の刈る藻に棲む虫の我からとねをこそ泣かめ世をば恨みじ(古今集恋五-807 藤原直子)戻る
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[出典13]  梟鳴松桂枝 狐蔵蘭菊叢(白氏文集1-4 凶宅詩)戻る
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[出典14]  暮るる間の千歳を過ぐす心地して待つはまことに久しかりけり(後撰集恋二-667 藤原隆方)戻る
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[出典15]  思ふとていとこそ人になれざらめしかならひてぞ見ねば恋しき(拾遺集恋四-900 読人しらず)戻る
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[出典16]  八月九月正長夜 千声万声無了時(白氏文集19-1287 聞夜砧)戻る
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[出典17]  ねぬなはの苦しかるらむ人よりぞ我ぞ益田の生けるかひなき(拾遺集恋四-894 読人しらず)戻る
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[出典18]  こりずまに又もなき名は立ちぬべし人憎からぬ世にしすまへば(古今集恋三-601 読人しらず)戻る

  校訂
備考--(/) ミセケチ--$ 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱>

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[校訂1]  らうがはしき--らうる(る/$か<朱>)はしき戻る
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[校訂2]  所狭き--(+所<朱>)せき戻る
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[校訂3]  まかりて--さ(さ/$ま<朱>)かりて戻る
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[校訂4]  見たまへ--*見たまひ戻る
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[校訂5]  かごと--かう(う/$こ<朱>)と戻る
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[校訂6]  なべかり--(+な)へかり戻る
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[校訂7]  指貫の--指貫(貫/+の<朱>)戻る
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[校訂8]  えはべらず--み(み/$え<朱>)侍らす戻る
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[校訂9]  まかり--(+ま<朱>)かり戻る
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[校訂10]  あるべきかな--*あるへかな戻る
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[校訂11]  たてまつり--*たてまつる戻る
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[校訂12]  御けはひ--さ(さ/$御<朱>)けはひ戻る
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[校訂13]  たゆまず--たゆま(ま/$ま<朱>)す戻る
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[校訂14]  思されず--おほされすと(と/$<朱>)戻る
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[校訂15]  隠る--かへ(へ/$く<朱>)る戻る
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[校訂16]  呉竹--くれ(れ/+竹<朱>)戻る
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[校訂17]  いかでか--いかて(て/+か<朱>)戻る
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[校訂18]  艶なる--*ゑんある戻る
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[校訂19]  なり--なる(る/$り<朱>)戻る
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[校訂20]  野ら--ゝ(ゝ/+ら<朱>)戻る
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[校訂21]  けうとげ--けゝ(ゝ/$う<朱>)とけ戻る
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[校訂22]  けうとく--けうそ(そ/$と<朱>)く戻る
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[校訂23]  御かたはらに--御かたはらに(に/$に)く戻る
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[校訂24]  人え聞き--人は(は/$え<朱>)きゝ戻る
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[校訂25]  曹司--さこ(こ/$う<朱>)戻る
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[校訂26]  消え--きこ(こ/$<朱>)え戻る
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[校訂27]  からうして--から(ら/+う)して戻る
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[校訂28]  ある--*あり戻る
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[校訂29]  阿闍梨--あま(ま/$さ<朱>)り戻る
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[校訂30]  はべれば--*侍らは戻る
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[校訂31]  馬--あ(あ/$む<朱>)ま戻る
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[校訂32]  川--か(か/+わ<朱>)戻る
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[校訂33]  なめり--なめ(め/+り<朱>)戻る
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[校訂34]  一つに--*ひとへに戻る
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[校訂35]  いみじく--いみ(み/+しく<朱>)戻る
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[校訂36]  身--*事戻る
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[校訂37]  返し--かへ(へ/$へ<朱>)し戻る
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[校訂38]  と--(+と<朱>)戻る
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[校訂39]  承り--*うけ給戻る
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[校訂40]  また--たま(たま/$また<朱>)戻る
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[校訂41]  のたまへれど--の給つ(つ/$へ)れと戻る
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[校訂42]  折--かほ(かほ/$おり<朱>)戻る
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[校訂43]  赴く--を(を/+も)むく戻る
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[校訂44]  かの--かれ(かれ/$)かの戻る
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[校訂45]  はた--い(い/$は<朱>)た戻る
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[校訂46]  ゆく--(+ゆく<朱>)戻る
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[校訂47]  あまり--あま(ま/$ま<朱>)り戻る