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早蕨 薫君の中納言時代25歳春の物語
 
 
 
 
 
 

早蕨
薫君の中納言時代25歳春の物語

    1 中の君の物語 匂宮との結婚を前にした宇治での生活

  1. 宇治の新春、山の阿闍梨から山草が届く 薮しわかねば、春の光を見たまふにつけても
  2. 中の君、阿闍梨に返事を書く 大事と思ひまはして詠み出だしつらむ、と思せば
  3. 1月下旬、薫、匂宮を訪問 内宴など、もの騒がしきころ過ぐして
  4. 匂宮、薫に中の君を京に迎えることを言う 空のけしきもまた、げにぞあはれ知り顔に霞みわたれる
  5. 中の君、姉大君の服喪が明ける かしこにも、よき若人童など求めて、人びとは
  6. 薫、中の君が宇治を出立する前日に訪問 みづからは、渡りたまはむこと明日とての
  7. 中の君と薫、紅梅を見ながら和歌を詠み交す 御前近き紅梅の、色も香もなつかしきに
  8. 薫、弁の尼と対面 弁ぞ、「かやうの御供にも、思ひかけず長き命
  9. 弁の尼、中の君と語る 思ほしのたまへるさまを語りて、弁は

    2 中の君の物語 匂宮との京での結婚生活が始まる

  1. 中の君、京へ向けて宇治を出発 皆かき払ひ、よろづとりしたためて、御車ども寄せて
  2. 中の君、京の二条院に到着 宵うち過ぎてぞおはし着きたる。見も知らぬさまに
  3. 夕霧、六の君の裳着を行い、結婚を思案す 右の大殿は、六の君を宮にたてまつりたまはむこと
  4. 薫、桜の花盛りに二条院を訪ね中の君と語る 花盛りのほど、二条の院の桜を見やりたまふに
  5. 匂宮、中の君と薫に疑心を抱く 人びとも、「世の常に、ことことしくなもてなしきこえさせたまひそ

出典
校訂

  1 中の君の物語 匂宮との結婚を前にした宇治での生活   [1-1 宇治の新春、山の阿闍梨から山草が届く]
 

[_]
薮し分かねば、春の光
を見たまふにつけても、「いかでかくながらへにける月日ならむ」と、夢のやうにのみおぼえたまふ。
 行き交ふ時々にしたがひ、
[_]
花鳥の色をも音をも
、同じ心に起き臥し見つつ、はかなきことをも、本末をとりて言ひ交はし、心細き世の憂さもつらさも、うち語らひ合はせきこえしにこそ、慰む方もありしか、をかしきこと、あはれなるふしをも、聞き知る人もなきままに、よろづかきくらし、心一つをくだきて、宮のおはしまさずなりにし悲しさよりも、ややうちまさりて恋しくわびしきに、いかにせむと、明け暮るるも知らず惑はれたまへど、世にとまるべきほどは、限りあるわざなりければ、死なれぬもあさまし。
 阿闍梨のもとより、
 「年改まりては、何ごとかおはしますらむ。御祈りは、たゆみなく仕うまつりはべり。今は、一所の御ことをなむ、安からず念じきこえさする」
 など聞こえて、蕨、つくづくし、をかしき籠に入れて、「これは、童べの供養じてはべる初穂なり」とて、たてまつれり。手は、いと悪しうて、歌は、わざとがましくひき放ちてぞ書きたる。
 「君にとてあまたの春を摘みしかば
  常をわすれぬ初蕨なり
 御前に詠み申さしめたまへ」
 とあり。

  [1-2 中の君、阿闍梨に返事を書く]
 大事と思ひまはして詠み出だしつらむ、と思せば、歌の心ばへもいとあはれにて、なほざりに、さしも思さぬなめりと見ゆる言の葉を、めでたく好ましげに書き尽くしたまへる人の御文よりは、こよなく目とまりて、涙もこぼるれば、返り事、書かせたまふ。
 「この春は誰にか見せむ亡き人の
  かたみに摘める峰の早蕨」
 使に禄取らせさせたまふ。
 いと盛りに匂ひ多くおはする人の、さまざまの御もの思ひに、すこしうち面痩せたまへる、いとあてになまめかしきけしきまさりて、昔人にもおぼえたまへり。並びたまへりし折は、とりどりにて、さらに似たまへりとも見えざりしを、うち忘れては、ふとそれかとおぼゆるまでかよひたまへるを、
 「中納言殿の、骸をだにとどめて見たてまつるものならましかばと、朝夕に恋ひきこえたまふめるに、同じくは、見えたてまつりたまふ御宿世ならざりけむよ」
 と、見たてまつる人びとは口惜しがる。
 かの御あたりの人の通ひ来るたよりに、御ありさまは絶えず聞き交はしたまひけり。尽きせず思ひほれたまひて、「新しき年ともいはず、いや目になむ、なりたまへる」と聞きたまひても、「げに、うちつけの心浅さにはものしたまはざりけり」と、いとど今ぞあはれも深く、思ひ知らるる。
 宮は、おはしますことのいと所狭くありがたければ、「京に渡しきこえむ」と思し立ちにたり。

  [1-3 1月下旬、薫、匂宮を訪問]
 内宴など、もの騒がしきころ過ぐして、中納言の君、「心にあまることをも、また誰にかは語らはむ」と思しわびて、兵部卿宮の御方に参りたまへり。
 しめやかなる夕暮なれば、宮うち眺めたまひて、端近くぞおはしましける。箏の御琴かき鳴らしつつ、例の、御心寄せなる梅の香をめでおはする、下枝を押し折りて参りたまへる、匂ひのいと艶にめでたきを、折をかしう思して、
 「折る人の心にかよふ花なれや
  色には出でず下に匂へる」
 とのたまへば、
 「見る人にかこと寄せける花の枝を
  心してこそ折るべかりけれ
 わづらはしく」
 と、戯れ交はしたまへる、いとよき御あはひなり。
 こまやかなる御物語どもになりては、かの山里の御ことをぞ、まづはいかにと、宮は聞こえたまふ。中納言も、過ぎにし方の飽かず悲しきこと、そのかみより今日まで思ひの絶えぬよし、折々につけて、あはれにもをかしくも、泣きみ笑ひみとかいふらむやうに、聞こえ出でたまふに、ましてさばかり色めかしく、涙もろなる御癖は、

[_]
人の御上にてさへ
、袖もしぼるばかりになりて、かひがひしくぞあひしらひきこえたまふめる。

  [1-4 匂宮、薫に中の君を京に迎えることを言う]
 空のけしきもまた、げにぞあはれ知り顔に霞みわたれる。夜になりて、烈しう吹き出づる風のけしき、まだ冬めきていと寒げに、大殿油も消えつつ、

[_]
闇はあやなき
たどたどしさなれど、かたみに聞きさしたまふべくもあらず、尽きせぬ御物語をえはるけやりたまはで、夜もいたう更けぬ。
 世にためしありがたかりける仲の睦びを、「いで、さりとも、いとさのみはあざりけむ」と、残りありげに問ひなしたまふぞ、わりなき御心ならひなめるかし。さりながらも、ものに心えたまひて、嘆かしき心のうちもあきらむばかり、かつは慰め、またあはれをもさまし、さまざまに語らひたまふ、御さまのをかしきにすかされたてまつりて、げに、心にあまるまで思ひ結ぼほるることども、すこしづつ語りきこえたまふぞ、こよなく胸のひまあく心地したまふ。
 宮も、かの人近く渡しきこえてむとするほどのことども、語らひきこえたまふを、
 「いとうれしきことにもはべるかな。あいなく、みづからの過ちとなむ思うたまへらるる飽かぬ昔の名残を、また尋ぬべき方もはべらねば、おほかたには、何ごとにつけても、心寄せきこゆべき人となむ思うたまふるを、もし便なくや思し召さるべき」
 とて、かの、「異人とな思ひわきそ」と、譲りたまひし心おきてをも、すこしは語りきこえたまへど、
[_]
岩瀬の森の呼子鳥
めいたりし夜のことは、
[_]
残したりけり
。心のうちには、「かく慰めがたき形見にも、げに、さてこそ、かやうにも扱ひきこゆべかりけれ」と、悔しきことやうやうまさりゆけど、今はかひなきものゆゑ、「常にかうのみ思はば、あるまじき心もこそ出で来れ。誰がためにもあぢきなく、をこがましからむ」と思ひ離る。「さても、おはしまさむにつけても、まことに思ひ後見きこえむ方は、また誰かは」と思せば、御渡りのことどもも
[_]
心まうけせさせ
たまふ。

  [1-5 中の君、姉大君の服喪が明ける]
 かしこにも、よき若人童など求めて、人びとは心ゆき顔にいそぎ思ひたれど、今はとてこの

[_]
伏見を荒らし
果てむも、いみじく心細ければ、嘆かれたまふこと尽きせぬを、さりとても、またせめて心ごはく、絶え籠もりてもたけかるまじく、「浅からぬ仲の契りも、絶え果てぬべき御住まひを、いかに思しえたるぞ」とのみ、怨みきこえたまふも、すこしはことわりなれば、いかがすべからむ、と思ひ乱れたまへり。
 如月の朔日ごろとあれば、ほど近くなるままに、花の木どものけしきばむも残りゆかしく、「
[_]
峰の霞の立つを見捨て
むことも、おのが常世にてだにあらぬ旅寝にて、いかにはしたなく人笑はれなることもこそ」など、よろづにつつましく、心一つに思ひ明かし暮らしたまふ。
 御服も、限りあることなれば、脱ぎ捨てたまふに、禊も浅き心地ぞする。親一所は、見たてまつらざりしかば、恋しきことは思ほえず。その御代はりにも、この度の衣を深く染めむと、心には思しのたまへど、さすがに、さるべきゆゑもなきわざなれば、飽かず悲しきこと限りなし。
 中納言殿より、御車、御前の人びと、博士などたてまつれたまへり。
 「はかなしや霞の衣裁ちしまに
  花のひもとく折も来にけり」
 げに、色々いときよらにてたてまつれたまへり。御渡りのほどの被け物どもなど、ことことしからぬものから、品々にこまやかに思しやりつつ、いと多かり。
 「折につけては、忘れぬさまなる御心寄せのありがたく、はらからなども、えいとかうまではおはせぬわざぞ」
 など、人びとは聞こえ知らす。あざやかならぬ古人どもの心には、かかる方を心にしめて聞こゆ。若き人は、時々も見たてまつりならひて、今はと異ざまになりたまはむを、さうざうしく、「いかに恋しくおぼえさせたまはむ」と聞こえあへり。

  [1-6 薫、中の君が宇治を出立する前日に訪問]
 みづからは、渡りたまはむこと明日とての、まだつとめておはしたり。例の、客人居の方におはするにつけても、今はやうやうもの馴れて、「我こそ、人より先に、かうやうにも思ひそめしか」など、ありしさま、のたまひし心ばへを思ひ出でつつ、「さすがに、かけ離れ、ことの外になどは、はしたなめたまはざりしを、わが心もて、あやしうも隔たりにしかな」と、胸いたく思ひ続けられたまふ。
 

[_]
垣間見
せし障子の穴も思ひ出でらるれば、寄りて見たまへど、この中をば下ろし籠めたれば、いとかひなし。
 内にも、人びと思ひ出できこえつつうちひそみあへり。中の宮は、まして、もよほさるる御涙の川に、明日の渡りもおぼえたまはず、ほれぼれしげにてながめ臥したまへるに、
 「月ごろの積もりも、そこはかとなけれど、いぶせく思うたまへらるるを、片端もあきらめきこえさせて、慰めはべらばや。例の、はしたなくなさし放たせたまひそ。いとどあらぬ世の心地しはべり」
 と聞こえたまへれば、
 「はしたなしと思はれたてまつらむとしも思はねど、いさや、心地も例のやうにもおぼえず、かき乱りつつ、いとどはかばかしからぬひがこともやと、つつましうて」
 など、苦しげにおぼいたれど、「いとほし」など、これかれ聞こえて、中の障子の口にて対面したまへり。
 いと心恥づかしげになまめきて、また「このたびは、ねびまさりたまひにけり」と、目も驚くまで匂ひ多く、「人にも似ぬ用意など、あな、めでたの人や」とのみ見えたまへるを、姫宮は、面影さらぬ人の御ことをさへ思ひ出できこえたまふに、いとあはれと見たてまつりたまふ。
 「尽きせぬ御物語なども、今日は言忌すべくや」
 など言ひさしつつ、
 「渡らせたまふべき所近く、このころ過ぐして移ろひはべるべければ、夜中暁と、つきづきしき人の言ひはべるめる、何事の折にも、疎からず思しのたまはせば、世にはべらむ限りは、聞こえさせ承りて過ぐさまほしくなむはべるを、いかがは思し召すらむ。人の心さまざまにはべる世なれば、あいなくやなど、一方にもえこそ思ひはべらね」
 と聞こえたまへば、
 「
[_]
宿をばかれじ
と思ふ心深くはべるを、近く、などのたまはするにつけても、よろづに乱れはべりて、聞こえさせやるべき方もなく」
 など、所々言ひ消ちて、いみじくものあはれと思ひたまへるけはひなど、いとようおぼえたまへるを、「心からよそのものに見なしつる」と、いと悔しく思ひゐたまへれど、かひなければ、その夜のことかけても言はず、忘れにけるにやと見ゆるまで、けざやかにもてなしたまへり。

  [1-7 中の君と薫、紅梅を見ながら和歌を詠み交す]
 御前近き紅梅の、色も香もなつかしきに、鴬だに見過ぐしがたげにうち鳴きて渡るめれば、まして「

[_]
春や昔の
」と心を惑はしたまふどちの御物語に、折あはれなりかし。風のさと吹き入るるに、花の香も客人の御匂ひも、
[_]
橘ならねど、昔思ひ出でらるる
つまなり。「つれづれの紛らはしにも、世の憂き慰めにも、心とどめてもてあそびたまひしものを」など、心にあまりたまへば、
 「見る人も
[_]
あらしにまよふ
山里に
  昔おぼゆる花の香ぞする」
 言ふともなくほのかにて、たえだえ聞こえたるを、なつかしげにうち誦じなして、
 「袖ふれし梅は変はらぬ匂ひにて
  根ごめ移ろふ宿やことなる」
 堪へぬ涙をさまよくのごひ隠して、言多くもあらず、
 「またもなほ、かやうにてなむ、何ごとも聞こえさせよかるべき」
 など、聞こえおきて立ちたまひぬ。
 御渡りにあるべきことども、人びとにのたまひおく。この宿守に、かの鬚がちの宿直人などはさぶらふべければ、このわたりの近き御荘どもなどに、そのことどもものたまひ預けなど、こまやかなることどもをさへ定めおきたまふ。

  [1-8 薫、弁の尼と対面]
 弁ぞ、
 「かやうの御供にも、思ひかけず長き命いとつらくおぼえはべるを、人もゆゆしく見思ふべければ、今は世にあるものとも人に知られはべらじ」
 とて、容貌も変へてけるを、しひて召し出でて、いとあはれと見たまふ。例の、昔物語などせさせたまひて、
 「ここには、なほ、時々は参り来べき、いとたつきなく心細かるべきに、かくてものしたまはむは、いとあはれにうれしかるべきことになむ」
 など、えも言ひやらず泣きたまふ。
 「

[_]
厭ふにはえて
延びはべる命のつらく、またいかにせよとて、うち捨てさせたまひけむ、と恨めしく、
[_]
なべての世を思ひたまへ沈む
に、罪もいかに深くはべらむ」
 と、思ひけることどもを愁へかけきこゆるも、かたくなしげなれど、いとよく言ひ慰めたまふ。
 いたくねびにたれど、昔、きよげなりける名残を削ぎ捨てたれば、額のほど、様変はれるに、すこし若くなりて、さる方に雅びかなり。
 「思ひわびては、などかかる様にもなしたてまつらざりけむ。それに延ぶるやうもやあらまし。さても、いかに心深く語らひきこえてあらまし」
 など、一方ならずおぼえたまふに、この人さへうらやましければ、隠ろへたる几帳をすこし引きやりて、こまかにぞ語らひたまふ。げに、むげに思ひほけたるさまながら、ものうち言ひたるけしき、用意、口惜しからず、ゆゑありける人の名残と見えたり。
 「さきに立つ涙の川に身を投げば
  人におくれぬ命ならまし」
 と、うちひそみ聞こゆ。
 「それもいと
[_]
罪深かなる
ことにこそ。かの岸に到ること、などか。さしもあるまじきことにてさへ、深き底に沈み過ぐさむもあいなし。すべて、なべてむなしく思ひとるべき世になむ」
 などのたまふ。
 「身を投げむ
[_]
涙の川に沈み
ても
  恋しき瀬々に忘れしもせじ
 いかならむ世に、すこしも思ひ慰むることありなむ」
 と、
[_]
果てもなき心地
したまふ。
 帰らむ方もなく眺められて、日も暮れにけれど、すずろに
[_]
旅寝せむも
、人のとがむることやと、あいなければ、帰りたまひぬ。

  [1-9 弁の尼、中の君と語る]
 思ほしのたまへるさまを語りて、弁は、いとど慰めがたくくれ惑ひたり。皆人は心ゆきたるけしきにて、もの縫ひいとなみつつ、老いゆがめる容貌も知らず、つくろひさまよふに、いよいよやつして、
 「人はみないそぎたつめる袖の浦に
  一人藻塩を垂るる海人かな」
 と愁へきこゆれば、
 「塩垂るる海人の衣に異なれや
  

[_]
浮きたる波に濡るる
わが袖
 世に住みつかむことも、いとありがたかるべきわざとおぼゆれば、さまに従ひて、ここをば荒れ果てじとなむ思ふを、さらば対面もありぬべけれど、しばしのほども、心細くて立ちとまりたまふを見おくに、いとど心もゆかずなむ。かかる容貌なる人も、かならずひたぶるにしも絶え籠もらぬわざなめるを、なほ世の常に思ひなして、時々も見えたまへ」
 など、いとなつかしく語らひたまふ。昔の人のもてつかひたまひしさるべき御調度どもなどは、皆この人にとどめおきたまひて、
 「かく、人より深く思ひ沈みたまへるを見れば、前の世も、取り分きたる契りもや、ものしたまひけむと思ふさへ、睦ましくあはれになむ」
 とのたまふに、いよいよ童べの恋ひて泣くやうに、心をさめむ方なくおぼほれゐたり。

  2 中の君の物語 匂宮との京での結婚生活が始まる   [2-1 中の君、京へ向けて宇治を出発]
 皆かき払ひ、よろづとりしたためて、御車ども寄せて、御前の人びと、四位五位いと多かり。御みづからも、いみじうおはしまさまほしけれど、ことことしくなりて、なかなか悪しかるべければ、ただ忍びたるさまにもてなして、心もとなく思さる。
 中納言殿よりも、御前の人、数多くたてまつれたまへり。おほかたのことをこそ、宮よりは思しおきつめれ、こまやかなるうちうちの御扱ひは、ただこの殿より、思ひ寄らぬことなく訪らひきこえたまふ。
 日暮れぬべしと、内にも外にも、もよほしきこゆるに、心あわたたしく、いづちならむと思ふにも、いとはかなく悲しとのみ思ほえたまふに、御車に乗る大輔の君といふ人の言ふ、
 「ありふればうれしき瀬にも逢ひけるを
  

[_]
身を宇治川に
投げてましかば」
 うち笑みたるを、「弁の尼の心ばへに、こよなうもあるかな」と、心づきなうも見たまふ。いま一人、
 「過ぎにしが恋しきことも忘れねど
  今日はたまづもゆく心かな」
 いづれも年経たる人びとにて、皆かの御方をば、
[_]
心寄せまほしく
きこえためりしを、今はかく思ひ改めて言忌するも、「心憂の世や」とおぼえたまへば、ものも言はれたまはず。
 道のほどの、遥けくはげしき山路のありさまを
[_]
見たまふにぞ
、つらきにのみ思ひなされし人の御中の通ひを、「ことわりの絶え間なりけり」と、すこし思し知られける。七日の月のさやかにさし出でたる影、をかしく霞みたるを見たまひつつ、いと遠きに、ならはず苦しければ、うち眺められて、
 「眺むれば
[_]
山より出でて行く月

  世に住みわびて山にそ入れ」
 様変はりて、つひにいかならむとのみ、あやふく、行く末うしろめたきに、年ごろ何ごとをか思ひけむとぞ、取り返さまほしきや。

  [2-2 中の君、京の二条院に到着]
 宵うち過ぎてぞおはし着きたる。見も知らぬさまに、目もかかやくやうなる

[_]
殿造りの、三つば四つば
なる中にひき入れて、宮、いつしかと待ちおはしましければ、御車のもとに、みづから寄らせたまひて下ろしたてまつりたまふ。
 御しつらひなど、あるべき限りして、女房の局々まで、御心とどめさせたまひけるほどしるく見えて、いとあらまほしげなり。いかばかりのことにかと見えたまへる御ありさまの、にはかにかく定まりたまへば、「おぼろけならず思さるることなめり」と、世人も心にくく思ひおどろきけり。
 中納言は、三条の宮に、この二十余日のほどに渡りたまはむとて、このころは日々におはしつつ見たまふに、この院近きほどなれば、けはひも聞かむとて、夜更くるまでおはしけるに、たてまつれたまへる御前の人びと帰り参りて、ありさまなど語りきこゆ。
 いみじう御心に入りてもてなしたまふなるを聞きたまふにも、かつはうれしきものから、さすがに、わが心ながらをこがましく、胸うちつぶれて、「
[_]
ものにもがなや
」と、返す返す独りごたれて、
 「
[_]
しなてるや鳰の海に漕ぐ舟

  まほならねどもあひ見しものを」
 とぞ言ひくたさまほしき。

  [2-3 夕霧、六の君の裳着を行い、結婚を思案す]
 右の大殿は、六の君を宮にたてまつりたまはむこと、この月にと思し定めたりけるに、かく思ひの外の人を、このほどより先にと思し顔にかしづき据ゑたまひて、離れおはすれば、「いとものしげに思したり」と聞きたまふも、いとほしければ、御文は時々たてまつりたまふ。
 御裳着のこと、世に響きていそぎたまへるを、延べたまはむも人笑へなるべければ、二十日あまりに着せたてまつりたまふ。
 同じゆかりにめづらしげなくとも、この中納言をよそ人に譲らむが口惜しきに、
 「さもやなしてまし。年ごろ人知れぬものに思ひけむ人をも亡くなして、もの心細くながめゐたまふなるを」
 など思し寄りて、さるべき人してけしきとらせたまひけれど、
 「世のはかなさを目に近く見しに、いと心憂く、身もゆゆしうおぼゆれば、いかにもいかにも、さやうのありさまはもの憂くなむ」
 と、すさまじげなるよし聞きたまひて、
 「いかでか、この君さへ、おほなおほな言出づることを、もの憂くはもてなすべきぞ」
 と恨みたまひけれど、親しき御仲らひながらも、人ざまのいと心恥づかしげにものしたまへば、えしひてしも聞こえ動かしたまはざりけり。

  [2-4 薫、桜の花盛りに二条院を訪ね中の君と語る]
 花盛りのほど、二条の院の桜を見やりたまふに、

[_]
主なき宿
のまづ思ひやられたまへば、「心やすくや」など、独りごちあまりて、宮の御もとに参りたまへり。
 ここがちにおはしましつきて、いとよう住み馴れたまひにたれば、「めやすのわざや」と見たてまつるものから、例の、いかにぞやおぼゆる心の添ひたるぞ、あやしきや。されど、実の御心ばへは、いとあはれにうしろやすくぞ思ひきこえたまひける。
 何くれと御物語聞こえ交はしたまひて、夕つ方、宮は内裏へ参りたまはむとて、御車の装束して、人びと多く参り集まりなどすれば、立ち出でたまひて、対の御方へ参りたまへり。
 山里のけはひ、ひきかへて、御簾のうち心にくく住みなして、をかしげなる童の、透影ほの見ゆるして、御消息聞こえたまへれば、御茵さし出でて、昔の心知れる人なるべし、出で来て御返り聞こゆ。
 「朝夕の隔てもあるまじう思うたまへらるるほどながら、そのこととなくて聞こえさせむも、なかなかなれなれしきとがめやと、つつみはべるほどに、世の中変はりにたる心地のみぞしはべるや。御前の梢も霞隔てて見えはべるに、あはれなること多くもはべるかな」
 と聞こえて、うち眺めてものしたまふけしき、心苦しげなるを、
 「げに、おはせましかば、おぼつかなからず行き返り、かたみに花の色、鳥の声をも、折につけつつ、すこし心ゆきて過ぐしつべかりける世を」
 など、思し出づるにつけては、ひたぶるに絶え籠もりたまへりし住まひの心細さよりも、飽かず悲しう、口惜しきことぞ、いとどまさりける。

  [2-5 匂宮、中の君と薫に疑心を抱く]
 人びとも、
 「世の常に、ことことしくなもてなしきこえさせたまひそ。限りなき御心のほどをば、今しもこそ、見たてまつり知らせたまふさまをも、見えたてまつらせたまふべけれ」
 など聞こゆれど、人伝てならず、ふとさし出で聞こえむことの、なほつつましきを、やすらひたまふほどに、宮、出でたまはむとて、御まかり申しに渡りたまへり。いときよらにひきつくろひ化粧じたまひて、見るかひある御さまなり。
 中納言はこなたになりけり、と見たまひて、
 「などか、むげにさし放ちては、出だし据ゑたまへる。御あたりには、あまりあやしと思ふまで、うしろやすかりし心寄せを。わがためはをこがましきこともや、とおぼゆれど、さすがにむげに隔て多からむは、罪もこそ得れ。近やかにて、昔物語もうち語らひたまへかし」
 など、聞こえたまふものから、
 「さはありとも、あまり心ゆるびせむも、またいかにぞや。疑はしき下の心にぞあるや」
 と、うち返しのたまへば、一方ならずわづらはしけれど、わが御心にも、あはれ深く思ひ知られにし人の御心を、今しもおろかなるべきならねば、「かの人も思ひのたまふめるやうに、いにしへの御代はりとなずらへきこえて、かう思ひ知りけりと、見えたてまつるふしもあらばや」とは思せど、さすがに、とかくやと、かたがたにやすからず聞こえなしたまへば、苦しう思されけり。

  出典

[_]
[出典1]  日の光薮し分かねば石の上古りにし里に花も咲きけり(古今集雑上-870 布留今道)(戻)
[_]
[出典2]  花鳥の色をも音をもいたづらにもの憂かる身は過ぐすのみなり(後撰集夏-212 藤原雅正)(戻)
[_]
[出典3]  わが身から憂き世の中と名付けつつ人のためさへ悲しかるらむ(古今集雑下-960 読人しらず)(戻)
[_]
[出典4]  春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる(古今集春上-41 凡河内躬恒)(戻)
[_]
[出典5]  恋しくは来てもみよかし人づてに岩瀬の森の呼子鳥かな(玄々集-93)(戻)
[_]
[出典6]  いざここにわが世は経なむ菅原や伏見の里の荒れまくも惜し(古今集雑下-981 読人しらず)(戻)
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[出典7]  春霞立つを見捨てて行く雁は花なき里に住みやならへる(古今集春上-31 伊勢)(戻)
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[出典8]  今ぞ知る苦しきものと人待たむ里をば離れず訪ふべかりけり(古今集雑下-969 在原業平)(戻)
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[出典9]  月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして(古今集恋五-747 在原業平)(戻)
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[出典10]  五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする(古今集夏-139 読人しらず)(戻)
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[出典11]  逢ふことのあらしにまよふ小舟ゆゑとまる我さへこがれぬるかな(九条右大臣集-35)(戻)
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[出典12]  憎さのみ益田の池のねぬなはは厭ふにはふるものにぞありける(源氏釈所引- 出典未詳)あやしくも厭ふにはゆる心かないかにしてかは思ひやむべき(後撰集恋二-608 読人しらず)(戻)
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[出典13]  大方の我が身一つの憂きからになべての世をも恨みつるかな(拾遺集恋五-953 紀貫之)(戻)
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[出典14]  涙河底の水屑となりはてて恋しき瀬々に流れこそすれ(拾遺集恋四-877 源順)(戻)
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[出典15]  我が恋は行方も知らず果てもなし逢ふを限りと思ふばかりぞ(古今集恋二-611 凡河内躬恒)(戻)
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[出典16]  心から浮きたる舟に乗りそめて一日も波に濡れぬ日ぞなき(後撰集恋三-779 小野小町)(戻)
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[出典17]  かかる瀬もありけるものをとまりゐて身を宇治川と思ひけるかな(九条右大臣集-58)(戻)
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[出典18]  都にて山の端に見し月なれど波より出でて波にこそ入れ(土佐日記-26)(戻)
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[出典19]  この殿は むべも むべも富みけり さきくさの あはれ さきくさの はれ さきくさの 三つ葉四つ葉の中に 殿づくりせりや 殿づくりせりや(催馬楽-この殿は)(戻)
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[出典20]  取り返すものにもがなや世の中をありしながらの我が身と思はむ(源氏釈所引-出典未詳)(戻)
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[出典21]  しなてるや鳰の海に漕ぐ舟のまほにも妹に逢ひ見てしがな(河海抄所引-出典未詳)(戻)
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[出典22]  浅茅原主なき宿の桜花心やすくや風に散るらむ(拾遺集春-62 恵慶法師)植ゑて見し主なき宿の梅の花色ばかりこそ昔なりけれ(源氏釈所引-出典未詳)(戻)

  校訂
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△

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[校訂1]  残したりけり--のこし(し/+たり)けり(戻)
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[校訂2]  心まうけせさせ--心まうけ(け/+せ<朱>)させ(戻)
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[校訂3]  垣間見--かいは(は/#ま<朱>)み(戻)
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[校訂4]  罪深かなる--*つみふかくなる(戻)
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[校訂5]  旅寝せむも--たひねせん(ん/+も<朱>)(戻)
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[校訂6]  心寄せまほしく--心よせま(ま/+ほ<朱>)し(し/+く<朱>)(戻)
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[校訂7]  見たまふにぞ--見給ふに(に/+そ)(戻)