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澪標 光る源氏の28歳初冬10月から29歳冬まで内大臣時代の物語
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

澪標
光る源氏の28歳初冬10月から29歳冬まで内大臣時代の物語

    1 光る源氏の物語 光る源氏の政界領導と御世替わり

  1. 故桐壷院の追善法華御八講 さやかに見えたまひし夢の後は
  2. 朱雀帝と源氏の朧月夜尚侍をめぐる確執 下りゐなむの御心づかひ近くなりぬるにも
  3. 東宮の御元服と御世替わり 明くる年の如月に、春宮の御元服のことあり

    2 明石の物語 明石の姫君誕生

  1. 宿曜の予言と姫君誕生 まことや、「かの明石に
  2. 宣旨の娘を乳母に選定 さる所に、はかばかしき人しもありがたからむ
  3. 乳母、明石へ出発 車にてぞ京のほどは行き離れける
  4. 紫の君に姫君誕生を語る 女君には、言にあらはして
  5. 姫君の五十日の祝 「五月五日にぞ、五十日には当たるらむ」と
  6. 紫の君、嫉妬を覚える うち返し見たまひつつ、「あはれ」と

    3 光る源氏の物語 新旧後宮女性の動向

  1. 花散里訪問 かく、この御心とりたまふほどに
  2. 筑紫の五節と朧月夜尚侍 かやうのついでにも、五節を思し忘れず
  3. 旧後宮の女性たちの動向 院はのどやかに思しなりて
  4. 冷泉帝後宮の入内争い 兵部卿親王、年ごろの御心ばへのつらく思はずにて

    4 明石の物語 住吉浜の邂逅

  1. 住吉詣で その秋、住吉に詣でたまふ
  2. 住吉社頭の盛儀 松原の深緑なるに、花紅葉をこき散らしたる
  3. 源氏、惟光と住吉の神徳を感ず 君は、夢にも知りたまはず
  4. 源氏、明石の君に和歌を贈る かの明石の舟、この響きに圧されて
  5. 明石の君、翌日住吉に詣でる かの人は、過ぐしきこえて、またの日ぞ

    5 光る源氏の物語 冷泉帝後宮の入内争い

  1. 斎宮と母御息所上京 まことや、かの斎宮も替はりたまひにしかば
  2. 御息所、斎宮を源氏に託す かくまでも思しとどめたりけるを
  3. 六条御息所、死去 七、八日ありて亡せたまひにけり
  4. 斎宮を養女とし、入内を計画 下りたまひしほどより
  5. 朱雀院と源氏の斎宮をめぐる確執 院にも、かの下りたまひし大極殿の
  6. 冷泉帝後宮の入内争い 入道の宮、兵部卿宮の、姫君をいつしかと

出典
校訂

  さやかに見えたまひし夢の後は、院の帝の御ことを心にかけきこえたまひて、「いかで、かの沈み

[_]
たまふらむ
罪、救ひたてまつることをせむ」と、思し嘆きけるを、かく帰りたまひては、その御急ぎしたまふ。神無月に御八講したまふ。
[_]
世の人
なびき仕うまつること、昔のやうなり。
 大后、御悩み重くおはしますうちにも、「つひにこの人をえ消たずなりなむこと」と、心病み思しけれど、帝は院の御遺言を思ひきこえたまふ。ものの報いありぬべく思しけるを、直し立てたまひて、御心地涼しくなむ思しける。時々おこり悩ませたまひし御目も、さはやぎたまひぬれど、「おほかた世にえ長くあるまじう、心細きこと」とのみ、久しからぬことを思しつつ、常に召しありて、源氏の君は参りたまふ。世の中のことなども、隔てなくのたまはせつつ、御本意のやうなれば、おほかたの世の人も、あいなく、うれしきことに喜びきこえける。

  下りゐなむの御心づかひ近くなりぬるにも、尚侍、心細げに世を思ひ嘆きたまへる、いとあはれに思されけり。
 「大臣亡せたまひ、大宮も頼もしげなくのみ篤いたまへるに、我が世残り少なき心地するになむ、いといとほしう、名残なきさまにてとまりたまはむとすらむ。昔より、人には思ひ落としたまへれど、みづからの心ざしのまたなきならひに、ただ御ことのみなむ、あはれにおぼえける。立ちまさる人、また御本意ありて見たまふとも、おろかならぬ心ざしはしも、なずらはざらむと思ふさへこそ、心苦しけれ」
 とて、うち泣きたまふ。
 女君、顔はいと赤く匂ひて、こぼるばかりの御愛敬にて、涙もこぼれぬるを、よろづの罪忘れて、あはれにらうたしと御覧ぜらる。
 「などか、

[_]
御子を
だに持たまへるまじき。口惜しうもあるかな。契り深き人のためには、今見出でたまひてむと思ふも、口惜しや。限りあれば、ただ人にてぞ見たまはむかし」
 など、行く末のことをさへのたまはするに、いと恥づかしうも悲しうもおぼえたまふ。御容貌など、なまめかしうきよらにて、限りなき御心ざしの年月に添ふやうにもてなさせたまふに、めでたき人なれど、さしも
[_]
思ひたまへら
ざりしけしき、心ばへなど、もの思ひ知られたまふままに、「などて、わが心の若くいはけなきにまかせて、さる騷ぎをさへ引き出でて、わが名をばさらにもいはず、人の御ためさへ」など思し出づるに、いと憂き御身なり。

  明くる年の如月に、春宮の御元服のことあり。十一になりたまへど、ほどよりおほきに、おとなしうきよらにて、ただ源氏の大納言の御顔を二つに写したらむやうに見えたまふ。いとまばゆきまで光りあひたまへるを、世人めでたきものに聞こゆれど、母宮は、いみじうかたはらいたきことに、あいなく御心を尽くしたまふ。
 内裏にも、めでたしと見たてまつりたまひて、世の中譲りきこえたまふべきことなど、なつかしう聞こえ知らせたまふ。
 同じ月の二十余日、御国譲りのことにはかなれば、大后思しあわてたり。
 「かひなきさまながらも、心のどかに御覧ぜらるべきことを思ふなり」
 とぞ、聞こえ慰めたまひける。
 坊には承香殿の皇子ゐたまひぬ。世の中改まりて、引き変へ今めかしきことども多かり。源氏の大納言、内大臣になりたまひぬ。数定まりて、くつろぐ所もなかりければ、加はりたまふなりけり。
 やがて世の政事を

[_]
したまふ
べきなれど、「
[_]
さやうの事しげき職には
堪へずなむ」とて、致仕の大臣、摂政したまふべきよし、譲りきこえたまふ。
 「病によりて、位を返したてまつりてしを、いよいよ老のつもり添ひて、さかしきことはべらじ」
 と、受けひき申したまはず。「人の国にも、こと移り世の中定まらぬ折は、深き山に跡を絶えたる人だにも、治まれる世には、白髪も恥ぢず出で仕へけるをこそ、まことの聖にはしけれ。病に沈みて、返し申したまひける位を、世の中変はりてまた改めたまはむに、さらに咎あるまじう」、公、私定めらる。さる例もありければ、すまひ果てたまはで、太政大臣になりたまふ。御年も六十三にぞなりたまふ。
 世の中すさまじきにより、かつは籠もりゐたまひしを、とりかへし花やぎたまへば、御子どもなど沈むやうにものしたまへるを、皆浮かびたまふ。とりわきて、宰相中将、権中納言になりたまふ。かの四の君の御腹の姫君、十二になりたまふを、内裏に参らせむとかしづきたまふ。かの「高砂」歌ひし君も、かうぶりせさせて、いと思ふさまなり。腹々に御子どもいとあまた次々に生ひ出でつつ、にぎははしげなるを、源氏の大臣は羨みたまふ。
 大殿腹の若君、人よりことにうつくしうて、内裏、春宮の殿上したまふ。故姫君の亡せたまひにし嘆きを、宮、大臣、またさらに改めて思し嘆く。されど、おはせぬ名残も、ただこの大臣の御光に、
[_]
よろづ
もて
[_]
なされ
たまひて、年ごろ、思し沈みつる名残なきまで栄えたまふ。なほ昔に御心ばへ変はらず、折節ごとに渡りたまひなどしつつ、若君の御乳母たち、さらぬ人々も、年ごろのほどまかで散らざりけるは、皆さるべきことに触れつつ、よすがつけむことを思しおきつるに、幸ひ人多くなりぬべし。
 二条院にも、同じごと待ちきこえける人を、あはれなるものに思して、年ごろの胸あくばかりと思せば、中将、中務やうの人々には、ほどほどにつけつつ情けを見えたまふに、御いとまなくて、他歩きもしたまはず。
 二条院の東なる宮、院の御処分なりしを、二なく改め造らせたまふ。「花散里などやうの心苦しき人々住ませむ」など、思し当てて繕はせたまふ。

  まことや、「かの明石に、心苦しげなりしことはいかに」と、思し忘るる時なければ、公、私いそがしき紛れに、え思すままにも訪ひたまはざりけるを、三月朔日のほど、「このころや」と思しやるに、人知れずあはれにて、御使ありけり。とく帰り参りて、
 「十六日になむ。女にて、たひらかにものしたまふ」
 と告げきこゆ。めづらしきさまにてさへあなるを思すに、おろかならず。「などて、京に迎へて、かかることをもせさせざりけむ」と、口惜しう思さる。
 宿曜に、
 「御子三人。帝、后かならず並びて生まれ

[_]
たまふ
べし。中の劣りは、太政大臣にて位を極むべし」
 と、勘へ申したりしこと、さしてかなふなめり。おほかた、上なき位に昇り、世をまつりごちたまふべきこと、さばかりかしこかりしあまたの相人どもの聞こえ集めたるを、年ごろは世のわづらはしさにみな思し消ちつるを、当帝のかく位にかなひたまひぬることを、思ひのごとうれしと思す。みづからも、「もて離れたまへる筋は、さらにあるまじきこと」と思す。
 「あまたの皇子たちのなかに、すぐれてらうたきものに思したりしかど、ただ人に思しおきてける御心を思ふに、宿世遠かりけり。内裏のかくておはしますを、あらはに人の知ることならねど、相人の言むなしからず」
 と、御心のうちに思しけり。今、行く末のあらましごとを思すに、
 「住吉の神のしるべ、まことにかの人も世になべてならぬ宿世にて、ひがひがしき親も及びなき心をつかふにやありけむ。さるにては、かしこき筋にもなるべき人の、あやしき世界にて生まれたらむは、いとほしうかたじけなくもあるべきかな。このほど過ぐして迎へてむ」
 と思して、東の院、急ぎ造らすべきよし、もよほし迎せたまふ。

  さる所に、はかばかしき人しもありがたからむを思して、故院にさぶらひし宣旨の娘、宮内卿の宰相にて亡くなりにし人の子なりしを、母なども亡せて、かすかなる世に経けるが、はかなきさまにて子産みたりと、聞こしめしつけたるを、知る便りありて、ことのついでにまねびきこえける人召して、さるべきさまにのたまひ契る。
 まだ若く、何心もなき人にて、明け暮れ人知れぬあばらやに、眺むる心細さなれば、深うも思ひたどらず、この御あたりのことをひとへにめでたう思ひきこえて、参るべきよし申させたり。いとあはれにかつは思して、出だし立てたまふ。
 もののついでに、いみじう忍びまぎれておはしまいたり。さは聞こえながら、いかにせましと思ひ乱れけるを、いとかたじけなきに、よろづ思ひ慰めて、
 「ただ、のたまはせむままに」
 と聞こゆ。吉ろしき日なりければ、急がし立てたまひて、
 「あやしう、思ひやりなきやうなれど、思ふさま殊なることにてなむ。みづからもおぼえぬ住まひに結ぼほれたりし例を思ひよそへて、しばし念じたまへ」
 など、ことのありやう詳しう語らひたまふ。
 主上の宮仕へ時々せしかば、見たまふ折もありしを、いたう衰へにけり。家のさまも言ひ知らず荒れまどひて、さすがに、大きなる所の、木立など疎ましげに、「いかで過ぐしつらむ」と見ゆ。人のさま、若やかにをかしければ、御覧じ放たれず。とかく戯れたまひて、
 「取り返しつべき心地こそすれ。いかに」
 とのたまふにつけても、「げに、同じうは、御身近うも仕うまつり馴れば、憂き身も慰みなまし」と見たてまつる。
 「かねてより隔てぬ仲とならはねど
  別れは惜しき

[_]
ものにぞあり
ける
 慕ひやしなまし」
 とのたまへば、うち笑ひて、
 「うちつけの別れを惜しむかことにて
  思はむ方に慕ひやはせぬ」
 馴れて聞こゆるを、いたしと思す。

  車にてぞ京のほどは行き離れける。いと親しき人さし添へたまひて、

[_]
ゆめ
漏らすまじく、口がためたまひて遣はす。御佩刀、さるべきものなど、所狭きまで思しやらぬ隈なし。乳母にも、ありがたうこまやかなる御いたはりのほど、浅からず。
 入道の思ひかしづき思ふらむありさま、思ひやるも、ほほ笑まれたまふこと
[_]
多く
、また、あはれに心苦しうも、ただこのことの御心にかかるも、浅からぬにこそは。
[_]
文にも、「おろかにもてなし思ふまじ」と、返す返すいましめたまへり。
 「いつしかも袖うちかけむ
[_]
をとめ子が

  世を経て
[_]
撫づる岩
の生ひ先」
 津の国までは舟にて、それよりあなたは馬にて、急ぎ行き着きぬ。
 入道待ちとり、喜びかしこまりきこゆること、限りなし。そなたに向きて拝みきこえて、ありがたき御心ばへを思ふに、いよいよいたはしう、恐ろしきまで思ふ。
 稚児のいとゆゆしきまでうつくしうおはすること、たぐひなし。「げに、かしこき御心に、かしづききこえむと思したるは、むべなりけり」と見たてまつるに、あやしき道に出で立ちて、夢の心地しつる嘆きもさめにけり。いとうつくしうらうたうおぼえて、扱ひきこゆ。
 子持ちの君も、月ごろものをのみ思ひ沈みて、いとど弱れる心地に、生きたらむともおぼえざりつるを、この御おきての、すこしもの思ひ慰めらるるにぞ、頭もたげて、御使にも二なきさまの心ざしを尽くす。とく参りなむと急ぎ苦しがれば、思ふことどもすこし聞こえ続けて、
 「ひとりして撫づるは袖のほどなきに
  
[_]
覆ふばかりの
蔭をしぞ待つ」
 と聞こえたり。あやしきまで御心にかかり、ゆかしう思さる。

  女君には、言にあらはしてをさをさ聞こえたまはぬを、聞きあはせたまふこともこそ、と思して、
 「さこそあなれ。あやしうねぢけたるわざ

[_]
なりや。さも
おはせなむと思ふあたりには、心もとなくて、思ひの外に、口惜しくなむ。女にてあなれば、いとこそものしけれ。尋ね知らでもありぬべきことなれど、さはえ思ひ捨つまじきわざなりけり。呼びにやりて見せたてまつらむ。憎みたまふなよ」
 と聞こえたまへば、面うち赤みて、
 「あやしう、つねにかやうなる筋のたまひつくる心のほどこそ、われながら疎ましけれ。もの憎みは、いつならふべきにか」
 と怨じまたへば、いとよくうち笑みて、
 「そよ。誰がならはしにかあらむ。思はずにぞ見えたまふや。人の心より外なる思ひやりごとして、もの怨じなどしたまふよ。思へば悲し」
 とて、果て果ては涙ぐみたまふ。年ごろ飽かず恋しと思ひきこえたまひし御心のうちども、折々の御文の通ひなど思し出づるには、「よろづのこと、すさびにこそあれ」と思ひ消たれたまふ。
 「この人を、かうまで思ひやり言問ふは、なほ思ふやうのはべるぞ。まだきに聞こえば、またひが心得たまふべければ」
 とのたまひさして、
 「人がらのをかしかりしも、所からにや、めづらしうおぼえきかし」
 など語りきこえたまふ。
 あはれなりし夕べの煙、言ひしことなど、まほならねど、その夜の容貌ほの見し、琴の音のなまめきたりしも、すべて御心とまれるさまにのたまひ出づるにも、
 「われはまたなくこそ悲しと思ひ嘆きしか、すさびにても、心を分けたまひけむよ」
 と、ただならず、思ひ続けたまひて、「われは、われ」と、うち背き眺めて、
 「あはれなりし世のありさまかな」
 と、独り言のやうにうち嘆きて、
 「思ふどちなびく方にはあらずとも
  われぞ煙に先立ちなまし」
 「何とか。心憂や。
  誰により世を海山に行きめぐり
  絶えぬ涙に浮き沈む身ぞ
 いでや、いかでか見えたてまつらむ。命こそかなひがたかべいものなめれ。はかなきことにて、人に心おかれじと思ふも、ただ一つゆゑぞや」
 とて、箏の御琴引き寄せて、掻き合せすさびたまひて、そそのかしきこえたまへど、かの、すぐれたりけむもねたきにや、手も触れたまはず。いとおほどかにうつくしう、たをやぎたまへるものから、さすがに執念きところつきて、もの怨じしたまへるが、なかなか愛敬づきて腹立ちなしたまふを、をかしう見どころありと思す。

    「五月五日にぞ、五十日には当たるらむ」と、人知れず数へたまひて、ゆかしうあはれに思しやる。「何ごとも、いかにかひあるさまにもてなし、うれしからまし。口惜しのわざや。さる所にしも、心苦しきさまにて、出で来たるよ」と思す。「男君ならましかば、かうしも御心にかけたまふまじきを、かたじけなういとほしう、わが御宿世も、この御ことにつけてぞかたほなりけり」と思さるる。
 御使出だし立てたまふ。
 「かならずその日違へずまかり着け」
 とのたまへば、

[_]
五日に
行き着きぬ。思しやることも、ありがたうめでたきさまにて、まめまめしき御訪らひもあり。
 「海松や時ぞともなき蔭にゐて
  何のあやめもいかにわくらむ
 心のあくがるるまでなむ。なほ、かくてはえ過ぐすまじきを、思ひ立ちたまひね。さりとも、うしろめたきことは、よも」
 と書いたまへり。
 入道、例の、喜び泣きしてゐたり。かかる折は、生けるかひもつくり出でたる、ことわりなりと見ゆ。
 ここにも、よろづ所狭きまで思ひ設けたりけれど、この御使なくは、闇の夜にてこそ暮れぬべかりけれ。乳母も、この女君のあはれに思ふやうなるを、語らひ人にて、世の慰めにしけり。をさをさ劣らぬ人も、類に触れて迎へ取りてあらすれど、こよなく衰へたる宮仕へ人などの、巌の中尋ぬるが落ち止まれるなどこそあれ、これは、こよなうこめき思ひあがれり。
 聞きどころある世の物語などして、大臣の君の御ありさま、世にかしづかれたまへる御おぼえのほども、女心地にまかせて限りなく語り尽くせば、「
[_]
げに
、かく思し出づばかりの名残とどめたる身も、いとたけくやうやう思ひなりけり。御文ももろともに見て、心のうちに、
 「あはれ、かうこそ思ひの外に、めでたき宿世はありけれ。憂きものはわが身こそありけれ」
 と、思ひ続けらるれど、「乳母のことはいかに」など、こまやかに訪らはせたまへるも、かたじけなく、何ごとも慰めけり。
 御返りには、
 「数ならぬみ島がくれに鳴く鶴を
  今日もいかにと問ふ人ぞなき
 よろづに思うたまへ結ぼほるるありさまを、かく
[_]
たまさか
の御慰めにかけはべる命のほども、はかなくなむ。げに、後やすく思うたまへ置くわざもがな」
 とまめやかに聞こえたり。

  うち返し見たまひつつ、「あはれ」と、長やかにひとりごちたまふを、女君、しり目に見おこせて、
 「

[_]
浦よりをちに漕ぐ舟の

 と、忍びやかにひとりごち、眺めたまふを、
 「まことは、かくまでとりなしたまふよ。こは、ただ、かばかりのあはれぞや。所のさまなど、うち思ひやる時々、来し方のこと忘れがたき独り言を、ようこそ聞き
[_]
過ぐい
たまはね」
 など、恨みきこえたまひて、上包ばかりを見せたてまつらせたまふ。
[_]
などのいとゆゑづきて、やむごとなき人苦しげなるを、「かかればなめり」と、思す。

  かく、この御心とりたまふほどに、

[_]
花散里などを離れ
果てたまひぬるこそ、いとほしけれ。公事も繁く、所狭き御身に、思し憚るに添へても、めづらしく御目おどろくことのなきほど、思ひしづめたまふなめり。
 五月雨つれづれなるころ、公私もの静かなるに、思し起こして渡りたまへり。よそながらも、明け暮れにつけて、よろづに思しやり訪らひきこえたまふを頼みにて、過ぐいたまふ所なれば、今めかしう心にくきさまに、そばみ恨みたまふべきならねば、心やすげなり。年ごろに、いよいよ荒れまさり、すごげにておはす。
 女御の君に御物語聞こえたまひて、西の妻戸に夜更かして立ち寄りたまへり。月おぼろにさし入りて、いとど艶なる御ふるまひ、尽きもせず見えたまふ。いとどつつましけれど、端近ううち眺めたまひけるさまながら、のどやかにてものしたまふけはひ、いとめやすし。水鶏のいと近う鳴きたるを、
 「水鶏だにおどろかさずはいかにして
  荒れたる宿に月を入れまし」
 と、いとなつかしう、言ひ消ちたまへるぞ、
 「とりどりに捨てがたき世かな。かかるこそ、なかなか身も苦しけれ」
 と思す。
 「おしなべてたたく水鶏におどろかば
  うはの空なる月もこそ入れ
 うしろめたう」
 とは、なほ言に聞こえたまへど、あだあだしき筋など、疑はしき御心ばへにはあらず。年ごろ、待ち過ぐしきこえたまへるも、さらにおろかには思されざりけり。「空な眺めそ」と、頼めきこえたまひし折のことも、のたまひ出でて、
 「などて、たぐひあらじと、いみじうものを思ひ沈みけむ。憂き身からは、同じ嘆かしさにこそ」
 とのたまへるも、おいらかにらうたげなり。例の、いづこの御言の葉にかあらむ、尽きせずぞ語らひ慰めきこえたまふ。

  かやうのついでにも、五節を思し忘れず、「また見てしがな」と、心にかけたまへれど、いとかたきことにて、え紛れたまはず。
 女、もの思ひ絶えぬを、親はよろづに思ひ言ふこともあれど、世に経むことを思ひ

[_]
絶え
たり。
 心やすき殿造りしては、「かやうの人集へても、思ふさまにかしづきたまふべき人も出でものしたまはば、さる人の後見にも」と思す。
 かの院の造りざま、なかなか見どころ多く、
[_]
今めい
たり。よしある受領などを選りて、当て当てに催したまふ。
 尚侍の君、なほえ思ひ放ちきこえたまはず。
[_]
こりずまに
立ち返り、御心ばへもあれど、女は憂きに懲りたまひて、昔のやうにもあひしらへきこえたまはず。なかなか、所狭う、さうざうしう世の中、思さる。

  院はのどやかに思しなりて、

[_]
時々に
つけて、をかしき御遊びなど、好ましげにておはします。女御、更衣、みな例のごとさぶらひたまへど、春宮の御母女御のみぞ、とり立てて時めきたまふこともなく、尚侍の君の御おぼえにおし消たれたまへりしを、かく引き変へ、めでたき御幸ひにて、離れ出でて宮に添ひたてまつりたまへる。
 この大臣の御宿直所は、昔の淑景舎なり。梨壷に春宮はおはしませば、近隣の御心寄せに、何ごとも聞こえ通ひて、宮をも後見たてまつりたまふ。
 入道后の宮、御位をまた改めたまふべきならねば、太上天皇になずらへて、御封賜らせたまふ。院司どもなりて、さまことにいつくし。御行なひ、功徳のことを、常の御いとなみにておはします。年ごろ、世に憚りて出で入りも難く、見たてまつりたまはぬ嘆きをいぶせく思しけるに、思すさまにて、参りまかでたまふもいとめでたければ、大后は、「憂きものは世なりけり」と思し嘆く。
 大臣はことに触れて、いと恥づかしげに仕まつり、心寄せきこえたまふも、なかなかいとほしげなるを、人もやすからず、聞こえけり。

  兵部卿親王、年ごろの御心ばへのつらく思はずにて、ただ世の聞こえをのみ思し憚りたまひしことを、大臣は憂きものに思しおきて、昔のやうにもむつびきこえたまはず。
 なべての世には、あまねくめでたき御心なれど、この御あたりは、なかなか情けなき節も、うち交ぜたまふを、入道の宮は、いとほしう本意なきことに見たてまつりたまへり。
 世の中のこと、ただなかばを分けて、太政大臣、この大臣の御ままなり。
 権中納言の御女、その年の八月に参らせたまふ。祖父殿ゐたちて、儀式などいとあらまほし。
 兵部卿宮の中の君も、さやうに心ざしてかしづきたまふ名高きを、大臣は、人よりまさりたまへとしも思さずなむありける。いかがしたまはむとすらむ。

  その秋、住吉に詣でたまふ。願ども果たしたまふべければ、いかめしき御ありきにて、世の中ゆすりて、上達部、殿上人、我も我もと仕うまつりたまふ。
 折しも、かの明石の人、年ごとの例のことにて詣づるを、去年今年は障ることありて、おこたりける、かしこまり取り重ねて、思ひ立ちけり。
 舟にて詣でたり。岸にさし着くるほど、見れば、ののしりて詣でたまふ

[_]
人の
けはひ、渚に満ちて、
[_]
いつくしき
神宝を持て続けたり。楽人、
[_]
十列
など、装束をととのへ、容貌を選びたり。
 「誰が詣でたまへるぞ」
 と問ふめれば、
 「内大臣殿の御願果たしに詣でたまふを、知らぬ人もありけり」
 とて、はかなきほどの下衆だに、心地よげにうち笑ふ。
 「げに、あさましう、月日もこそあれ。なかなか、この御ありさまを遥かに見るも、身のほど口惜しうおぼゆ。さすがに、かけ離れたてまつらぬ宿世ながら、かく口惜しき際の者だに、もの思ひなげにて、仕うまつるを色節に思ひたるに、何の罪深き身にて、心にかけておぼつかなう思ひきこえつつ、かかりける御響きをも知らで、立ち出でつらむ」
 など思ひ続くるに、いと悲しうて、人知れずしほたれけり。

  松原の深緑なるに、花紅葉をこき散らしたると見ゆる表の衣の、濃き薄き、数知らず。六位のなかにも蔵人は青色しるく見えて、かの賀茂の瑞垣恨みし右近将監も靫負になりて、ことことしげなる随身具したる蔵人なり。
 良清も同じ佐にて、人よりことにもの思ひなきけしきにて、おどろおどろしき赤衣姿、いときよげなり。
 すべて見し人々、引き変へはなやかに、何ごと思ふらむと見えて、うち散りたるに、若やかなる上達部、殿上人の、

[_]
我も我も
と思ひいどみ、馬鞍などまで飾りを整へ磨きたまへるは、いみじき物に、田舎人も思へり。
 御車を遥かに見やれば、なかなか、心やましくて、恋しき御影をもえ見たてまつらず。河原大臣の御例をまねびて、童随身を賜りたまひける、いとをかしげに装束き、みづら結ひて、紫裾濃の元結なまめかしう、丈姿ととのひ、うつくしげにて十人、さまことに今めかしう見ゆ。
 大殿腹の若君、限りなくかしづき立てて、馬添ひ、童のほど、皆作りあはせて、やう変へて装束きわけたり。
 雲居遥かにめでたく見ゆるにつけても、若君の数ならぬさまにてものしたまふを、いみじと思ふ。いよいよ
[_]
御社の
方を拝みきこゆ。
 国の守参りて、御まうけ、例の大臣などの参りたまふよりは、ことに世になく仕うまつりけむかし。
 いとはしたなければ、
 「立ち交じり、数ならぬ身の、いささかのことせむに、神も見入れ、数まへたまふべきにもあらず。帰らむにも中空なり。今日は難波に舟さし止めて、祓へをだにせむ」
 とて、漕ぎ渡りぬ。

  君は、夢にも知りたまはず、夜一夜、いろいろのことをせさせたまふ。まことに、神の喜びたまふべきことを、し尽くして、来し方の御願にもうち添へ、ありがたきまで、遊びののしり明かしたまふ。
 惟光やうの人は、心のうちに神の御徳をあはれにめでたしと思ふ。あからさまに立ち出でたまへるに、さぶらひて、聞こえ出でたり。
 「住吉の松こそものは悲しけれ
  神代のことをかけて思へば」
 げに、と思し出でて、
 「荒かりし波のまよひに住吉の
  神をばかけて忘れやはする
 験ありな」
 とのたまふも、いとめでたし。

  かの明石の舟、この響きに圧されて、過ぎぬることも聞こゆれば、「知らざりけるよ」と、あはれに思す。神の御しるべを思し出づるも、おろかならねば、「いささかなる消息をだにして、心慰めばや。なかなかに思ふらむかし」と思す。
 御社立ちたまて、所々に逍遥を尽くしたまふ。難波の御祓へ、七瀬によそほしう仕まつる。堀江のわたりを御覧じて、
 「

[_]
今はた同じ難波なる

 と、御心にもあらで、うち誦じたまへるを、御車のもと近き惟光、うけたまはりやしつらむ、さる召しもやと、例にならひて懐にまうけたる柄短き筆など、御車とどむる所にてたてまつれり。「をかし」と思して、畳紙に、
 「みをつくし恋ふるしるしにここまでも
  めぐり逢ひけるえには深しな」
 とて、たまへれば、かしこの心知れる下人して遣りけり。駒並めて、うち過ぎたまふにも、心のみ動くに、露ばかりなれど、
[_]
いと
あはれにかたじけなくおぼえて、うち泣きぬ。
 「数ならで難波のこともかひなきに
  などみをつくし思ひそめけむ」
 田蓑の島に御禊仕うまつる、御祓への物につけてたてまつる。日暮れ方になりゆく。
 
[_]
夕潮満ち来て
、入江の鶴も声惜しまぬほどのあはれなる折からなればにや、人目もつつまず、あひ見まほしくさへ思さる。
 「露けさの昔に似たる旅衣
  
[_]
田蓑の島の名には隠れず

 道のままに、かひある逍遥遊びののしりたまへど、御心にはなほかかりて思しやる。遊女どもの集ひ参れる、上達部と聞こゆれど、若やかにこと好ましげなるは、皆、目とどめたまふべかめり。されど、「いでや、をかしきことも、もののあはれも、人からこそあべけれ。なのめなることをだに、すこしあはき方に寄りぬるは、心とどむるたよりもなきものを」と思すに、をのが心をやりて、よしめきあへるも疎ましう思しけり。

  かの人は、過ぐしきこえて、またの日ぞ吉ろしかりければ、御幣たてまつる。ほどにつけたる願どもなど、かつがつ果たしける。また、なかなかもの思ひ添はりて、明け暮れ、口惜しき身を思ひ嘆く。
 今や京におはし着くらむと思ふ日数も経ず、御使あり。このころのほどに迎へむことをぞのたまへる。
 「いと頼もしげに、数まへのたまふめれど、いさや、また、

[_]
島漕ぎ離れ
、中空に心細きことやあらむ」
 と、思ひわづらふ。
 入道も、さて出だし
[_]
放たむは
、いとうしろめたう、さりとて、かく埋もれ過ぐさむを思はむも、なかなか来し方の年ごろよりも、心尽くしなり。よろづにつつましう、思ひ立ちがたきことを聞こゆ。

  まことや、かの斎宮も替はりたまひにしかば、御息所上りたまひてのち、変はらぬさまに何ごとも訪らひきこえたまふことは、ありがたきまで、情けを尽くしたまへど、「昔だにつれなかりし御心ばへの、なかなかならむ名残は見じ」と、思ひ放ちたまへれば、渡りたまひなどすることはことになし。
 あながちに動かしきこえたまひても、わが心ながら知りがたく、とかくかかづらはむ御歩きなども、所狭う思しなりにたれば、強ひたるさまにもおはせず。
 斎宮をぞ、「いかにねびなりたまひぬらむ」と、ゆかしう思ひきこえたまふ。
 なほ、かの六条の旧宮をいとよく修理しつくろひたりければ、みやびかにて住みたまひけり。よしづきたまへること、旧りがたくて、よき女房など多く、好いたる人の集ひ所にて、ものさびしきやうなれど、心やれるさまにて経たまふほどに、にはかに重くわづらひたまひて、もののいと心細く思されければ、罪深き所ほとりに年経つるも、いみじう思して、尼になりたまひぬ。
 大臣、聞きたまひて、かけかけしき筋にはあらねど、なほさる方のものをも聞こえあはせ、人に思ひきこえつるを、かく思しなりにけるが口惜しうおぼえたまへば、おどろきながら渡りたまへり。飽かずあはれなる御訪らひ聞こえたまふ。
 近き御枕上に御座よそひて、脇息におしかかりて、御返りなど聞こえたまふも、いたう弱りたまへるけはひなれば、「絶えぬ心ざしのほどは、え見えたてまつらでや」と、口惜しうて、いみじう泣いたまふ。

  かくまでも思しとどめたりけるを、女も、よろづにあはれに思して、斎宮の御ことをぞ聞こえたまふ。
 「心細くてとまりたまはむを、かならず、ことに触れて数まへきこえたまへ。また見ゆづる人もなく、たぐひなき御ありさまになむ。かひなき身ながらも、今しばし世の中を思ひのどむるほどは、とざまかうざまにものを思し知るまで、見たてまつらむことこそ思ひたまへつれ」
 とても、消え入りつつ泣いたまふ。
 「かかる御ことなくてだに、思ひ放ちきこえさすべきにもあらぬを、まして、心の及ばむに従ひては、何ごとも後見きこえむとなむ思うたまふる。さらに、うしろめたくな思ひきこえたまひそ」
 など聞こえたまへば、
 「いとかたきこと。まことにうち頼むべき親などにて、見ゆづる人だに、女親に離れぬるは、いとあはれなることにこそはべるめれ。まして、思ほし人めかさむにつけても、あぢきなき方やうち交り、人に心も置かれたまはむ。うたてある思ひやりごとなれど、かけてさやうの世づいたる筋に思し寄るな。憂き身を抓みはべるにも、女は、思ひの外にてもの思ひを添ふるものになむはべりければ、いかでさる方をもて離れて、見たてまつらむと思うたまふる」
 など聞こえたまへば、「あいなくものたまふかな」と思せど、
 「年ごろに、よろづ思うたまへ知りにたるものを、昔の好き心の名残あり顔にのたまひなすも本意なくなむ。よし、おのづから」
 とて、外は暗うなり、内は大殿油のほのかにものより通りて見ゆるを、「もしや」と思して、やをら御几帳のほころびより見たまへば、心もとなきほどの火影に、御髪いとをかしげにはなやかにそぎて、寄りゐたまへる、絵に描きたらむさまして、いみじうあはれなり。帳の東面に添ひ臥したまへるぞ、宮ならむかし。御几帳のしどけなく引きやられたるより、御目とどめて見通したまへれば、頬杖つきて、いともの悲しと思いたるさまなり。はつかなれど、いとうつくしげならむと見ゆ。
 御髪のかかりたるほど、頭つき、けはひ、あてに気高きものから、ひぢぢかに愛敬づきたまへるけはひ、しるく見えたまへば、心もとなくゆかしきにも、「さばかりのたまふものを」と、思し返す。

 「いと苦しさまさりはべる。かたじけなきを、はや渡らせたまひね」
 とて、人にかき臥せられたまふ。
 「近く参り来たるしるしに、よろしう思さればうれしかるべきを、心苦しきわざかな。いかに思さるるぞ」
 とて、覗きたまふけしきなれば、
 「いと恐ろしげにはべるや。乱り心地のいとかく限りなる折しも渡らせたまへるは、まことに浅からずなむ。思ひはべることを、すこしも聞こえさせつれば、さりともと、頼もしくなむ」
 と聞こえさせたまふ。
 「かかる御遺言の列に思しけるも、いとどあはれになむ。故院の御子たち、あまたものしたまへど、親しくむつび思ほすも、をさをさなきを、上の同じ御子たちのうちに数まへきこえ

[_]
たまひ
しかば、さこそは頼みきこえはべらめ。すこしおとなしきほどになりぬる齢ながら、あつかふ人もなければ、さうざうしきを」
 など聞こえて、帰りたまひぬ。御訪らひ、今すこしたちまさりて、しばしば聞こえたまふ。

  七、八日ありて亡せたまひにけり。あへなう思さるるに、世もいとはかなくて、もの心細く思されて、内裏へも参りたまはず、とかくの御ことなど掟てさせたまふ。また頼もしき人もことにおはせざりけり。

[_]
古き
斎宮の宮司など、仕うまつり馴れたるぞ、わづかにことども定めける。
 御みづからも渡りたまへり。宮に御消息聞こえたまふ。
 「何ごともおぼえはべらでなむ」
 と、女別当して、聞こえたまへり。
 「聞こえさせ、のたまひ置きしこともはべしを、今は、隔てなきさまに思されば、うれしくなむ」
 と聞こえたまひて、人々召し出でて、あるべきことども仰せたまふ。いと頼もしげに、年ごろの御心ばへ、取り返しつべう見ゆ。いといかめしう、殿の人々、数もなう仕うまつらせたまへり。あはれにうち眺めつつ、御精進にて、御簾下ろしこめて行はせたまふ。
 宮には、常に訪らひきこえたまふ。やうやう御心静まりたまひては、みづから御返りなど聞こえたまふ。つつましう思したれど、御乳母など、「かたじけなし」と、そそのかしきこゆるなりけり。
 雪、霙、かき乱れ荒るる日、「いかに、宮のありさま、かすかに眺めたまふらむ」と思ひやりきこえたまひて、御使たてまつれたまへり。
 「ただ今の空を、いかに御覧ずらむ。
  降り乱れひまなき空に亡き人の
  天翔るらむ宿ぞ悲しき」
 空色の紙の、曇らはしきに書いたまへり。若き人の御目にとどまるばかりと、心してつくろひたまへる、いと目もあやなり。
 宮は、いと聞こえにくくしたまへど、これかれ、
 「人づてには、いと便なきこと」
 と責めきこゆれば、鈍色の紙の、いと香ばしう艶なるに、墨つきなど紛らはして、
 「消えがてにふるぞ悲しきかきくらし
  わが身それとも思ほえぬ世に」
 つつましげなる書きざま、いとおほどかに、御手すぐれてはあらねど、らうたげにあてはかなる筋に見ゆ。

  下りたまひしほどより、なほあらず思したりしを、「今は心にかけて、ともかくも聞こえ寄りぬべきぞかし」と思すには、例の、引き返し、
 「いとほしくこそ。故御息所の、いとうしろめたげに心おきたまひしを。ことわりなれど、世の中の人も、さやうに思ひ寄りぬべきことなるを、引き違へ、心清くてあつかひきこえむ。主上の今すこしもの思し知る齢にならせたまひなば、内裏住みせさせたてまつりて、さうざうしきに、かしづきぐさにこそ」と思しなる。
 いとまめやかにねむごろに聞こえたまひて、さるべき折々は渡りなどしたまふ。
 「かたじけなくとも、昔の御名残に思しなずらへて、気遠からずもてなさせたまはばなむ、本意なる心地すべき」
 など聞こえたまへど、わりなくもの恥ぢをしたまふ奥まりたる人ざまにて、ほのかにも御声など聞かせたてまつらむは、いと

[_]
世に
なくめづらかなることと思したれば、人々も聞こえわづらひて、かかる
[_]
御心ざまを
愁へきこえあへり。
 「女別当、内侍などいふ人々、あるは、離れたてまつらぬわかむどほりなどにて、心ばせある人々多かるべし。この、人知れず思ふ方のまじらひをさせさたてまつらむに、人に劣りたまふまじかめり。いかでさやかに、御容貌を見てしがな」
 と思すも、うちとくべき御親心にはあらずやありけむ。
 わが御心も定めがたければ、かく思ふといふことも、人にも漏らしたまはず。御わざなどの御ことをも取り分きてせさせたまへば、ありがたき御心を、宮人もよろこびあへり。

 はかなく過ぐる月日に添へて、いとどさびしく、心細きことのみまさるに、さぶらふ人々も、やうやう

[_]
あかれ
行きなどして、下つ方の京極わたりなれば、人気遠く、山寺の入相の声々に添へても、音泣きがちにてぞ、過ぐしたまふ。同じき御親と聞こえしなかにも、片時の間も立ち離れたてまつりたまはで、ならはしたてまつりたまひて、斎宮にも親添ひて下りたまふことは、例なきことなるを、あながちに誘ひきこえたまひし御心に、限りある道にては、たぐひきこえたまはずなりにしを、干る世なう思し嘆きたり。
 さぶらふ人々、貴きも賤しきもあまたあり。されど、大臣の、
 「御乳母たちだに、心にまかせたること、引き出だし
[_]
仕う
まつるな」
 など、親がり申したまへば、「いと恥づかしき御ありさまに、便なきこと聞こし召しつけられじ」と言ひ思ひつつ、はかなきことの情けも、さらにつくらず。

  院にも、かの下りたまひし大極殿のいつかしかりし儀式に、ゆゆしきまで見えたまひし御容貌を、忘れがたう思しおきければ、
 「参りたまひて、斎院など、御はらからの宮々おはしますたぐひにて、さぶらひたまへ」
 と、御息所にも聞こえたまひき。されど、「やむごとなき人々さぶらひたまふに、数々なる御後見もなくてや」と思しつつみ、「主上は、いとあつしうおはしますも恐ろしう、またもの思ひや加へたまはむ」と、憚り過ぐしたまひしを、今は、まして誰かは仕うまつらむと、人々思ひたるを、ねむごろに院には思しのたまはせけり。
 大臣、聞きたまひて、「院より御けしきあらむを、引き違へ、横取りたまはむを、かたじけなきこと」と思すに、人の御ありさまのいとらうたげに、見放たむはまた口惜しうて、入道の宮にぞ聞こえたまひける。
 「かうかうのことをなむ、思うまへわづらふに、母御息所、いと重々しく心深きさまにものしはべりしを、あぢきなき好き心にまかせて、さるまじき名をも流し、憂きものに思ひ置かれはべりにしをなむ、世にいとほしく思ひたまふる。この世にて、その恨みの心とけず過ぎはべりにしを、今はとなりての際に、この斎宮の御ことをなむ、ものせられしかば、さも聞き置き、心にも残すまじうこそは、さすがに見おきたまひけめ、と思ひたまふるにも、忍びがたう。おほかたの世につけてだに、心苦しきことは見聞き過ぐされぬわざにはべるを、いかで、なき蔭にても、かの恨み忘るばかり、と思ひたまふるを、内裏にも、さこそおとなびさせたまへど、いときなき御齢におはしますを、すこし物の心知る人はさぶらはれてもよくやと思ひたまふるを、

[_]
御定め
に」
 など聞こえたまへば、
 「いとよう思し寄りけるを、院にも、思さむことは、げにかたじけなう、いとほしかるべけれど、かの御遺言をかこちて、知らず顔に参らせたてまつりたまへかし。今はた、さやうのこと、わざとも思しとどめず、御行なひがちになりたまひて、かう聞こえたまふを、深うしも思しとがめじと思ひたまふる」
 「
[_]
さらば
、御けしきありて、数まへさせたまはば、もよほしばかりの言を、添ふるになしはべらむ。とざまかうざまに、思ひたまへ残すことなきに、かくまでさばかりの心構へも、まねびはべるに、世人やいかにとこそ、憚りはべれ」
 など聞こえたまて、後には、「げに、知らぬやうにて、ここに渡したてまつりてむ」と思す。
 女君にも、しかなむ思ひ語らひきこえて、
 「過ぐいたまはむに、いとよきほどなるあはひならむ」
 と、聞こえ知らせたまへば、うれしきことに思して、
[_]
御渡り
のことをいそぎたまふ。

  入道の宮、兵部卿宮の、姫君をいつしかとかしづき騷ぎたまふめるを、「大臣の隙ある仲にて、いかがもてなしたまはむ」と、心苦しく思す。
 権中納言の御女は、弘徽殿の女御と聞こゆ。大殿の御子にて、いとよそほしうもてかしづきたまふ。主上もよき御遊びがたきに思いたり。
 「宮の中の君も同じほどにおはすれば、うたて雛遊びの心地すべきを、おとなしき御後見は、いと

[_]
うれしかべい
こと」
 と思しのたまひて、さる御けしき聞こえたまひつつ、大臣のよろづに思し至らぬことなく、公方の御後見はさらにもいはず、明け暮れにつけて、こまかなる御心ばへの、いとあはれに見えたまふを、頼もしきものに思ひきこえたまひて、いとあつしくのみおはしませば、参りなどしたまひても、心やすくさぶらひたまふこともかたきを、すこしおとなびて、添ひさぶらはむ御後見は、かならずあるべきことなりけり。

  出典

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[出典1]  君が世は天の羽衣まれに着て撫づとも尽きぬ巌ならなむ(拾遺集賀-299 読人しらず)戻る
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[出典2]  大空を覆ふばかりの袖もがな春咲く花を風にまかせじ(後撰集春中-64 読人しらず)戻る
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[出典3]  み熊野の浦よりをちに漕ぐ舟の我をばよそに隔てつるかな(新古今集恋一-1048 伊勢)戻る
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[出典4]  こりずまにまたもなき名は立ちぬべし人憎からぬ世にしすまへば(古今集恋三-631 読人しらず)戻る
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[出典5]  侘ぬれば今はた同じ難波なる身を尽くしても逢はむとぞ思ふ(後撰集恋五-960 元良親王)戻る
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[出典6]  難波潟潮満ち来らし海人衣田蓑の島に鶴鳴き渡る(古今集雑上-913 読人しらず)戻る
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[出典7]  雨により田蓑の島を今日行けど名には隠れぬものにぞありける(古今集雑上-918 紀貫之)戻る
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[出典8]  今はとて島漕ぎ離れ行く舟にひれ振る袖を見るぞ悲しき(落窪物語72)ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ(古今集羈旅-409 読人しらず)戻る

  校訂
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--?

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[校訂1]  たまふらむ--*たまえむ(戻)
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[校訂2]  世の人--世の人の(の/$<朱>)(戻)
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[校訂3]  御子を--みこ(こ/+を)(戻)
[_]
[校訂4]  思ひたまへら--おも(も/+ひ)給つ(つ/#へ)ら(戻)
[_]
[校訂5]  したまふ--した(た/+ま<朱>)ふ(戻)
[_]
[校訂6]  さやうの事しげき職には--さやう(/う+の)事は(こと/+しけきそくには<朱>、は/$<朱>)(戻)
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[校訂7]  よろづ--よろつに(に/$)(戻)
[_]
[校訂8]  なされ--なされて(て/#<朱>)(戻)
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[校訂9]  たまふ--たま(ま/+ふ<朱>)(戻)
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[校訂10]  ものにぞあり--物にさ(さ/#、+そあ)り(戻)
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[校訂11]  ゆめ--夢に(に/#)(戻)
[_]
[校訂12]  多く--おほゝ(ゝ/$く<朱>)(戻)
[_]
[校訂13]  御--(/+御)(戻)
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[校訂14]  をとめ子が--おとめこの(の/$か)(戻)
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[校訂15]  なりや。さも--なりさ(さ/#)や(や/+さ)も(戻)
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[校訂16]  五日に--五日(日/+に)(戻)
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[校訂17]  げに--よ(よ/$け)に(戻)
[_]
[校訂18]  たまさか--給ま(給ま/$たまさ<朱>)か(戻)
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[校訂19]  過ぐい--すん(ん/#く)い(戻)
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[校訂20]  筆--ふん(ん/#て)(戻)
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[校訂21]  花散里などを離れ--花散里(里/+なと<朱>)あ(あ/#か<朱>)れ(戻)
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[校訂22]  絶え--たへ(へ/$え<朱>)(戻)
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[校訂23]  今めい--いま(いま/#<朱>)いまめひ(戻)
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[校訂24]  時々に--時々(々/+に)(戻)
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[校訂25]  人の--人(人/+の)(戻)
[_]
[校訂26]  いつくしき--いつく?(?/#)しき(戻)
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[校訂27]  十列--とをつゝ(ゝ/#ら<朱>)(戻)
[_]
[校訂28]  我も我も--我も/\も(も/#<朱>)(戻)
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[校訂29]  御社の--みやしろ(ろ/+の)(戻)
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[校訂30]  いと--(/+いと)(戻)
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[校訂31]  放たむは--はなたむと(と/$は)(戻)
[_]
[校訂32]  たまひ--(/+給)(戻)
[_]
[校訂33]  古き--ふか(か/る<朱>)き(戻)
[_]
[校訂34]  世に--(/+よ)に(戻)
[_]
[校訂35]  御心ざまを--御心さま(ま/+を)(戻)
[_]
[校訂36]  あかれ--あ(あ/+か)れ(戻)
[_]
[校訂37]  仕う--つ(つ/+かう)(戻)
[_]
[校訂38]  御定め--御(御/+さ)ため(戻)
[_]
[校訂39]  さらば--さえ(え/$ら<朱>)は(戻)
[_]
[校訂40]  御渡り--御(御/#)御わたり(戻)
[_]
[校訂41]  うれしかべい--うれしかる(る/$)へい(戻)