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鈴虫 光る源氏の准太上天皇時代50歳夏から秋までの物語
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

鈴虫
光る源氏の准太上天皇時代50歳夏から秋までの物語

    1 女三の宮の物語 持仏開眼供養

  1. 持仏開眼供養の準備 夏ごろ、蓮の花の盛りに、入道の姫宮の御持仏ども
  2. 源氏と女三の宮、和歌を詠み交わす 堂飾り果てて、講師参う上り、行道の人々
  3. 持仏開眼供養執り行われる 例の、親王たちなども、いとあまた参りたまへり
  4. 三条宮邸を整備 今しも、心苦しき御心添ひて、はかりもなくかしづき

    2 光る源氏の物語 六条院と冷泉院の中秋の宴

  1. 女三の宮の前栽に虫を放つ 秋ごろ、西の渡殿の前、中の塀の東の際を
  2. 8月15夜、秋の虫の論 十五夜の夕暮に、仏の御前に宮おはして、端近う眺め
  3. 六条院の鈴虫の宴 今宵は、例の御遊びにやあらむと推し量りて、兵部卿宮
  4. 冷泉院より招請の和歌 御土器二わたりばかり参るほどに、冷泉院より御消息
  5. 冷泉院の月の宴 人々の御車、次第のままに引き直し、御前の人々立ち混みて

    3 秋好中宮の物語 出家と母の罪を思う

  1. 秋好中宮、出家を思う 六条の院は、中宮の御方に渡りたまひて、御物語など
  2. 母御息所の罪を思う 御息所の、御身の苦しうなりたまふらむありさま
  3. 秋好中宮の仏道生活 昨夜はうち忍びてかやすかりし御歩き、今朝は表はれ

出典
校訂

  1 女三の宮の物語 持仏開眼供養   [1-1 持仏開眼供養の準備]
 夏ごろ、蓮の花の盛りに、入道の姫宮の御持仏どもあらはしたまへる、供養ぜさせたまふ。
 このたびは、大殿の君の御心ざしにて、御念誦堂の具ども、こまかに調へさせたまへるを、やがてしつらはせたまふ。幡のさまなどなつかしう、心ことなる唐の錦を選び縫はせたまへり。紫の上ぞ、急ぎせさせたまひける。
 花机の覆ひなどのをかしき目染もなつかしう、きよらなる匂ひ、染めつけられたる心ばへ、目馴れぬさまなり。夜の御帳の帷を、四面ながら上げて、後ろの方に法華の曼陀羅かけたてまつりて、銀の花瓶に、高くことことしき花の色を調へてたてまつり、名香に、唐の百歩の薫衣香を焚きたまへり。
 阿弥陀仏、脇士の菩薩、おのおの白檀して作りたてまつりたる、こまかにうつくしげなり。閼伽の具は、例の、きはやかに小さくて、青き、白き、紫の蓮を調へて、荷葉の方を合はせたる名香、蜜を隠しほほろげて、焚き匂はしたる、一つ薫りに匂ひ合ひて、いとなつかし。
 経は、六道の衆生のために六部書かせたまひて、みづからの御持経は、院ぞ御手づから書かせたまひける。これをだに、この世の結縁にて、かたみに導き交はしたまふべき心を、願文に作らせたまへり。
 さては、阿弥陀経、唐の紙はもろくて、朝夕の御手慣らしにもいかがとて、紙屋の人を召して、ことに仰せ言賜ひて、心ことにきよらに漉かせたまへるに、この春のころほひより、御心とどめて急ぎ書かせたまへるかひありて、端を見たまふ人々、目もかかやき惑ひたまふ。
 罫かけたる金の筋よりも、墨つきの上にかかやくさまなども、いとなむめづらかなりける。軸、表紙、筥のさまなど、いへば

[_]
さらなり
かし。これはことに沈の花足の机に据ゑて、仏の
[_]
御同じ
帳台の上に飾らせたまへり。

  [1-2 源氏と女三の宮、和歌を詠み交わす]
 堂飾り果てて、講師参う上り、行道の人々参り集ひたまへば、院もあなたに出でたまふとて、宮のおはします西の廂にのぞきたまへれば、狭き心地する仮の御しつらひに、所狭く暑げなるまで、ことことしく装束きたる女房、五、六十人ばかり集ひたり。
 北の廂の簀子まで、童女などはさまよふ。火取りどもあまたして、煙たきまで扇ぎ散らせば、さし寄りたまひて、
 「空に焚くは、いづくの煙ぞと思ひ分かれぬこそよけれ。富士の峰よりもけに、くゆり満ち出でたるは、本意なきわざなり。講説の折は、おほかたの鳴りを静めて、のどかにものの心も聞き分くべきことなれば、憚りなき衣の音なひ、人のけはひ、静めてなむよかるべき」
 など、例の、もの深からぬ若人どもの用意教へたまふ。宮は、人気に圧されたまひて、いと小さくをかしげにて、ひれ臥したまへり。
 「若君、らうがはしからむ。抱き隠したてまつれ」
 などのたまふ。
 北の御障子も取り放ちて、御簾かけたり。

[_]
そなたに
人々は入れたまふ。静めて、宮にも、ものの心知りたまふべき下形を聞こえ知らせたまふ、いとあはれに見ゆ。御座を譲りたまへる仏の御しつらひ、見やりたまふも、さまざまに、
 「かかる方の御いとなみをも、もろともに急がむものとは思ひ寄らざりしことなり。よし、後の世にだに、かの花の中の
[_]
宿りに
、隔てなく、とを思ほせ」
 とて、うち泣きたまひぬ。
 「蓮葉を同じ台と契りおきて
  露の分かるる今日ぞ悲しき」
 と、御硯にさし濡らして、
[_]
香染めなる
御扇に書きつけたまへり。宮、
 「隔てなく蓮の宿を契りても
  君が心や住まじとすらむ」
 と書きたまへれば、
 「いふかひなくも思ほし朽たすかな」
 と、うち笑ひながら、なほあはれとものを思ほしたる御けしきなり。

  [1-3 持仏開眼供養執り行われる]
 例の、親王たちなども、いとあまた参りたまへり。御方々より、我も我もと営み出でたまへる捧物のありさま、心ことに、所狭きまで見ゆ。七僧の法服など、すべておほかたのことどもは、皆紫の上せさせたまへり。綾のよそひにて、袈裟の縫目まで、見知る人は、世になべてならずとめでけりとや。むつかしうこまかなることどもかな。
 講師のいと尊く、ことの心を申して、この世にすぐれたまへる盛りを厭ひ離れたまひて、長き世々に絶ゆまじき御契りを、法華経に結びたまふ、尊く深きさまを表はして、ただ今の世の、才もすぐれ、豊けきさきらを、いとど心して言ひ続けたる、いと尊ければ、皆人、しほたれたまふ。
 これは、ただ忍びて、御念誦堂の初めと思したることなれど、内裏にも、山の帝も聞こし召して、皆御使どもあり。御誦経の布施など、いと所狭きまで、にはかになむこと広ごりける。
 院にまうけさせたまへりけることどもも、削ぐと思ししかど、世の常ならざりけるを、まいて、今めかしきことどもの加はりたれば、夕べの寺に置き所なげなるまで、所狭き勢ひになりてなむ、僧どもは帰りける。

  [1-4 三条宮邸を整備]
 今しも、心苦しき御心添ひて、はかりもなくかしづききこえたまふ。院の帝は、この御処分の宮に住み離れたまひなむも、つひのことにて、目やすかりぬべく聞こえたまへど、
 「よそよそにては、おぼつかなかるべし。明け暮れ見たてまつり、聞こえ承らむこと怠らむに、本意違ひぬべし。げに、あり果てぬ世いくばくあるまじけれど、なほ生ける限りの心ざしをだに失ひ果てじ」
 と聞こえたまひつつ、この宮をもいとこまかにきよらに造らせたまひ、御封の物ども、国々の御荘、御牧などより奉る物ども、はかばかしきさまのは、皆かの三条の宮の

[_]
御倉に
納めさせたまふ。またも、建て添へさせたまひて、さまざまの御宝物ども、院の御処分に数もなく賜はりたまへるなど、あなたざまの物は、皆かの宮に運び渡し、こまかにいかめしうし置かせたまふ。
 明け暮れの御かしづき、そこらの女房のことども、上下の
[_]
育み
は、おしなべてわが御扱ひにてなど、急ぎ仕うまつらせたまひける。

  2 光る源氏の物語 六条院と冷泉院の中秋の宴   [2-1 女三の宮の前栽に虫を放つ]
 秋ごろ、西の渡殿の前、中の塀の東の際を、おしなべて野に作らせたまへり。閼伽の棚などして、そのかたにしなさせたまへる御しつらひなど、いとなまめきたり。
 御弟子に従ひきこえたる尼ども、御乳母、古人どもは、さるものにて、若き盛りのも、心定まり、さる方にて世を尽くしつべき限りは選りてなむ、なさせたまひける。
 

[_]
さるきほひ
には、我も我もときしろひけれど、大殿の君聞こしめして、
 「あるまじきことなり。心ならぬ人すこしも混じりぬれば、かたへの人苦しう、あはあはしき聞こえ出で来るわざなり」
 と諌めたまひて、十余人ばかりのほどぞ、容貌異にてはさぶらふ。
 この野に虫ども放たせたまひて、風すこし涼しくなりゆく夕暮に、渡りたまひつつ、虫の音を聞きたまふやうにて、なほ思ひ離れぬさまを聞こえ悩ましたまへば、
 「例の御心はあるまじきことにこそはあなれ」
 と、ひとへにむつかしきことに思ひきこえたまへり。
 人目にこそ変はることなくもてなしたまひしか、内には憂きを知りたまふけしきしるく、こやなう変はりにし御心を、いかで見えたてまつらじの御心にて、多うは思ひなりたまひにし御世の背きなれば、今はもて離れて心やすきに、
 「なほ、かやうに」
 など聞こえたまふぞ苦しうて、「人離れたらむ御住まひにもがな」と思しなれど、およすけてえさも強ひ申したまはず。

  [2-2 8月15夜、秋の虫の論]
 十五夜の夕暮に、仏の御前に宮おはして、端近う眺めたまひつつ念誦したまふ。若き尼君たち二、三人、花奉るとて鳴らす閼伽、坏の音、水のけはひなど聞こゆる、さま変はりたるいとなみに、そそきあへる、いとあはれなるに、例の渡りたまひて、
 「虫の音いとしげう乱るる夕べかな」
 とて、われも忍びてうち誦じたまふ阿弥陀の大呪、いと尊くほのぼの聞こゆ。げに、声々聞こえたる中に、鈴虫のふり出でたるほど、はなやかにをかし。
 「秋の虫の声、いづれとなき中に、松虫なむすぐれたるとて、中宮の、はるけき野辺を分けて、いとわざと尋ね取りつつ放たせたまへる、しるく鳴き伝ふるこそ少なかなれ。名には違ひて、命のほどはかなき虫にぞあるべき。
 心にまかせて、人聞かぬ奥山、はるけき野の松原に、声惜しまぬも、いと隔て心ある虫になむありける。鈴虫は、心やすく、今めいたるこそらうたけれ」
 などのたまへば、宮、
 「おほかたの秋をば憂しと知りにしを
  ふり捨てがたき鈴虫の声」
 と忍びやかにのたまふ。いとなまめいて、あてにおほどかなり。
 「いかにとかや。いで、思ひの外なる御ことにこそ」とて、
 「心もて草の宿りを厭へども
  なほ鈴虫の声ぞふりせぬ」
 

[_]
など
聞こえたまひて、琴の御琴召して、珍しく弾きたまふ。宮の御数珠引き怠りたまひて、御琴になほ心入れたまへり。
 月さし出でて、いとはなやかなるほどもあはれなるに、空をうち眺めて、世の中さまざまにつけて、はかなく移り変はるありさまも思し続けられて、例よりもあはれなる音に掻き鳴らしたまふ。

  [2-3 六条院の鈴虫の宴]
 今宵は、例の御遊びにやあらむと推し量りて、兵部卿宮渡りたまへり。大将の君、殿上人のさるべきなど

[_]
具して
参りたまへれば、こなたにおはしますと、御琴の音を尋ねて、やがて参りたまふ。
 「いとつれづれにて、わざと遊びとはなくとも、久しく絶えにたるめづらしき物の音など、聞かまほしかりつる独り琴を、いとよう尋ねたまひける」
 とて、宮も、こなたに御座よそひて入れたてまつりたまふ。内裏の御前に、今宵は月の宴あるべかりつるを、とまりてさうざうしかりつるに、この院に人々参りたまふと聞き伝へて、これかれ上達部なども参りたまへり。虫の音の定めをしたまふ。
 御琴どもの声々掻き合はせて、おもしろきほどに、
 「
[_]
月見る宵の、いつとても
ものあはれならぬ折はなきなかに、
[_]
今宵の新たなる月の色
には、げになほ、わが世の外までこそ、よろづ思ひ流さるれ。故権大納言、何の折々にも、亡きにつけていとど偲ばるること多く、公、私、ものの折節のにほひ失せたる心地こそすれ。花鳥の色にも音にも、思ひわきまへ、いふかひあるかたの、いとうるさかりしものを」
 などのたまひ出でて、みづからも掻き合はせたまふ御琴の音にも、袖濡らしたまひつ。御簾の内にも、耳とどめてや聞きたまふらむと、片つ方の御心には思しながら、かかる御遊びのほどには、まづ恋しう、内裏などにも思し出でける。
 「今宵は鈴虫の宴にて明かしてむ」
 と思しのたまふ。

  [2-4 冷泉院より招請の和歌]
 御土器二わたりばかり参るほどに、冷泉院より御消息あり。御前の

[_]
御遊び
にはかにとまりぬるを口惜しがりて、左大弁、式部大輔、また人々率ゐて、さるべき限り参りたれば、大将などは六条の院にさぶらひ
[_]
たまふ、と聞こし
召してなりけり。
 「雲の上をかけ離れたるすみかにも
  もの忘れせぬ秋の夜の月
 
[_]
同じくは

 と聞こえたまへれば、
 「何ばかり所狭き身のほどにもあらずながら、今はのどやかにおはしますに、参り馴るることもをさをさなきを、本意なきことに思しあまりて、おどろかさせたまへる、かたじけなし」
 とて、にはかなるやうなれど、参りたまはむとす。
 「月影は同じ雲居に見えながら
  わが宿からの秋ぞ変はれる」
 異なることなかめれど、ただ昔今の御ありさまの思し続けられけるままなめり。御使に盃賜ひて、禄いと二なし。

  [2-5 冷泉院の月の宴]
 人々の御車、次第のままに引き直し、御前の人々立ち混みて、静かなりつる御遊び紛れて、出でたまひぬ。院の御車に、親王たてまつり、大将、左衛門督、藤宰相など、おはしける限り皆参りたまふ。
 直衣にて、軽らかなる御よそひどもなれば、下襲ばかりたてまつり加へて、月ややさし上がり、更けぬる空おもしろきに、若き人々、笛などわざとなく吹かせたまひなどして、忍びたる御参りのさまなり。
 うるはしかるべき折節は、所狭くよだけき儀式を尽くして、かたみに御覧ぜられたまひ、また、いにしへのただ人ざまに思し返りて、今宵は軽々しきやうに、ふとかく参りたまへれば、いたう驚き、待ち喜びきこえたまふ。
 ねびととのひたまへる御容貌、いよいよ異ものならず。いみじき御盛りの世を、御心と思し捨てて、静かなる御ありさまに、あはれ少なからず。
 その夜の歌ども、唐のも大和のも、心ばへ深うおもしろくのみなむ。例の、言

[_]
足らぬ
片端は、まねぶもかたはらいたくてなむ。明け方に文など講じて、とく人々まかでたまふ。

  3 秋好中宮の物語 出家と母の罪を思う   [3-1 秋好中宮、出家を思う]
 六条の院は、中宮の御方に渡りたまひて、御物語など聞こえたまふ。
 「今はかう静かなる御住まひに、しばしばも参りぬべく、何とはなけれど、過ぐる齢に添へて、忘れぬ昔の御物語など、承り聞こえまほしう思ひたまふるに、何にもつかぬ身のありさまにて、さすがにうひうひしく、所狭くもはべりてなむ。
 我より後の人々に、方々につけて後れゆく心地しはべるも、いと常なき世の心細さの、のどめがたうおぼえはべれば、世離れたる住まひにもやと、やうやう思ひ立ちぬるを、残りの人々のものはかなからむ、漂はしたまふな、と先々も

[_]
聞こえ
つけし心違へず、思しとどめてものせさせたまへ」
 など、まめやかなるさまに聞こえさせたまふ。
 例の、いと若うおほどかなる御けはひにて、
 「九重の隔て深うはべりし年ごろよりも、おぼつかなさのまさるやうに思ひたまへらるるありさまを、いと思ひの外に、むつかしうて、皆人の背きゆく世を、厭はしう思ひなることもはべりながら、その心の内を聞こえさせうけたまはらねば、何事もまづ頼もしき蔭には聞こえさせならひて、いぶせくはべる」
 と聞こえたまふ。
 「げに、公ざまにては、限りある折節の御里居も、いとよう待ちつけきこえさせしを、今は何事につけてかは、御心にまかせさせたまふ御移ろひも
[_]
はべらむ
。定めなき世と言ひながらも、さして厭はしきことなき人の、さはやかに背き離るるもありがたう、心やすかるべきほどにつけてだに、おのづから思ひかかづらふほだしのみはべるを、などか、その人まねにきほふ御道心は、かへりてひがひがしう推し量りきこえさする人もこそはべれ。かけてもいとあるまじき御ことになむ」
 と聞こえたまふを、「深うも汲みはかりたまはぬなめりかし」と、つらう思ひきこえたまふ。

  [3-2 母御息所の罪を思う]
 御息所の、御身の苦しうなりたまふらむありさま、いかなる煙の中に惑ひたまふらむ、亡き影にても、人に疎まれたてまつりたまふ御名のりなどの出で来けること、かの院にはいみじう隠したまひけるを、おのづから人の口さがなくて、伝へ聞こし召しける後、いと悲しういみじくて、なべての世の厭はしく思しなりて、仮にても、かののたまひけむありさまの詳しう聞かまほしきを、まほにはえうち出で聞こえたまはで、ただ、
 「亡き人の御ありさまの、罪軽からぬさまに、ほの聞くことのはべりしを、さるしるしあらはならでも、推し量りつべきことにはべりけれど、後れしほどのあはればかりを忘れぬことにて、もののあなた思うたまへやらざりけるがものはかなさを、いかでよう言ひ聞かせむ人の勧めをも聞きはべりて、みづからだに、かの炎をも冷ましはべりにしがなと、やうやう積もるになむ、思ひ知らるることもありける」
 など、かすめつつぞのたまふ。
 「げに、さも思しぬべきこと」と、あはれに見たてまつりたまうて、
 「その炎なむ、誰も逃るまじきことと知りながら、朝の露のかかれるほどは、思ひ捨てはべらぬになむ。木蓮が仏に近き聖の身にて、たちまちに救ひけむ例にも、え継がせたまはざらむものから、玉の

[_]
捨てさせたまはむも、この世には恨み残るやうなるわざなり。
 やうやうさる御心ざしをしめたまひて、かの御煙晴るべきことをせさせたまへ。しか思ひたまふることはべりながら、もの騒がしきやうに、静かなる本意もなきやうなるありさまに明け暮らしはべりつつ、みづからの勤めに添へて、今静かにと思ひたまふるも、げにこそ、心幼きことなれ」
 など、世の中なべてはかなく、厭ひ捨てまほしきことを聞こえ交はしたまへど、なほ、やつしにくき御身のありさまどもなり。

  [3-3 秋好中宮の仏道生活]
 昨夜はうち忍びてかやすかりし御歩き、今朝は表はれたまひて、上達部ども、参りたまへる限りは皆御送り仕うまつりたまふ。
 春宮の女御の御ありさま、並びなく、いつきたてたまへるかひがひしさも、大将のまたいと人に異なる御さまをも、いづれとなくめやすしと思すに、なほ、この冷泉院を思ひきこえたまふ

[_]
御心ざしは、すぐれて深くあはれにぞおぼえたまふ
。院も常にいぶかしう思ひきこえたまひしに、御対面のまれにいぶせうのみ思されけるに、急がされたまひて、かく心安きさまにと思しなりけるになむ。
 中宮ぞ、なかなかまかでたまふこともいと難うなりて、ただ人の仲のやうに並びおはしますに、今めかしう、なかなか昔よりもはなやかに、御遊びをもしたまふ。何ごとも御心やれるありさまながら、ただかの御息所の御事を思しやりつつ、行なひの御心進みにたるを、人の許しきこえたまふまじきことなれば、功徳のことを立てて思しいとなみ、いとど心深う、世の中を思し取れるさまになりまさりたまふ。

  出典

[_]
[出典1]  いつとても月見ぬ秋はなきものをわきて今宵の珍しきかな(後撰集秋中-325 藤原雅正)(戻)
[_]
[出典2]  三五夜中新月色 二千里外故人心(白氏文集巻14-724)(戻)
[_]
[出典3]  あたら夜の月と花とを同じくはあはれ知れらむ人に見せばや(後撰集春下-103 源信明)(戻)

  校訂
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△

[_]
[校訂1]  さらなり--さゝ(ゝ/$ら<朱>)なり(戻)
[_]
[校訂2]  御同じ--御(御/+お)なを(を/#)し(戻)
[_]
[校訂3]  そなたに--それ(れ/#な)たに(戻)
[_]
[校訂4]  宿りに--やとり(り/+に)(戻)
[_]
[校訂5]  香染めなる--かうそめの(の/$なる)(戻)
[_]
[校訂6]  御倉に--みく(く/+ら<朱>)にも(も/$<朱>)(戻)
[_]
[校訂7]  育み--はゝ(ゝ/$)くみ(戻)
[_]
[校訂8]  さるきほひ--さか(か/$る<朱>)きほひ(戻)
[_]
[校訂9]  など--なえ(え/$と<朱>)(戻)
[_]
[校訂10]  具して--ゝ(ゝ/$く<朱>)して(戻)
[_]
[校訂11]  御遊び--(/+御<朱>)あそひ(戻)
[_]
[校訂12]  たまふ、と聞こし--給(給/+ふ<朱>)時(時/とき<朱>)こし(戻)
[_]
[校訂13]  足らぬ--たゝ(ゝ/$ら<朱>)ぬ(戻)
[_]
[校訂14]  聞こえ--き(き/+こえ<朱>)(戻)
[_]
[校訂15]  はべらむ--あ(あ/$侍<朱>)らむ(戻)
[_]
[校訂16]  釵--かんか(か/$さ<朱>)し(戻)
[_]
[校訂17]  御心ざしは、すぐれて深くあはれにぞおぼえたまふ--(/+御心さしはすくれてふかく哀にそおほえ給<朱>)(戻)