University of Virginia Library

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平家物語卷第二
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2. 平家物語卷第二

座主流

治承元年五月五日、天台座主明雲大僧正、公請を停止せらるゝ上、藏人を御使にて如意輪の御本尊を召返て、御持僧を改易せらる。既使廳の使を附て、今度神輿内裏へ振奉る衆徒の張本をめされける。加賀國に座主の御坊領あり。國司師高是を停廢の間、その宿意に依て、大衆を語らひ訴訟をいたさる。既に朝家の御大事に及ぶ由、西光法師父子が讒奏によて、法皇大に逆鱗ありけり。殊に重科に行はるべしと聞ゆ。明雲は法皇の御氣色惡かりければ、印鎰をかへし奉て、座主を辭し申さる。同十一日鳥羽院七の宮、覺快法親王、天台座主にならせ給ふ。これは青蓮院の大僧正行玄の御弟子也。同じき十二日先座主所職を停めらるゝうへ、檢非違使二人を附て、井に蓋をし、火に水をかけ、水火のせめに及ぶ。是に依て、大衆猶參洛すべき由聞えしかば、京中又噪ぎあへり。

同十八日太政大臣以下の公卿十三人參内して、陣の座につき、先の座主罪科の事議定あり。八條中納言長方卿、其時はいまだ左大辨宰相にて、末座に候はれけるが、申されけるは、「法家の勘状に任せて、死罪一等を減じて、遠流せらるべしと見えて候へ共、前座主明雲大僧正は、顯密兼學して、淨行持律の上、大乘妙經を公家に授奉り、菩薩淨戒を法皇に持せ奉る。御經の師、御戒の師、重科に行はれん事は、冥の照覽測り難し。還俗遠流を宥らるべきか。」と、憚る處もなう申されければ、當座の公卿皆長方の議に同ずと申あはれけれ共、法皇の御憤深かりしかば、猶遠流に定らる。太政入道も此事申さんとて、院參せられたりけれ共、法皇御風の氣とて、御前へも召され給はねば、本意なげにて退出せらる。僧を罪する習とて、度縁をめし返し、還俗せさせ奉り、大納言大輔、藤井松枝と俗名をぞ附られける。此明雲と申は、村上天皇第七の皇子、具平親王より六代の御末、久我大納言顯通卿の御子也。誠に無雙の碩徳、天下第一の高僧にて坐たれば、君も臣も尊み給ひて、天王寺、六勝寺の別當をもかけ給へり。されども陰陽頭安倍泰親が申けるは、「さばかりの智者の明雲と名乘給ふこそ心得ね。うへに月日の光を竝て、下に雲有。」とぞ難じける。仁安元年二月廿日、天台の座主にならせ給ふ。同三月十五日御拜堂あり。中堂の寶藏を開かれけるに、種々の重寶共の中に、方一尺の箱有り。白い布で包まれたり、一生不犯の座主、彼箱を開けて見給ふに、黄紙に書る文一卷有り。傳教大師、未來の座主の名字を兼てしるし置れたり。我が名の有所迄は見て、それより奧をば見ず、元の如く卷返して置るゝ習也。されば此僧正も、さこそ坐けめ。貴き人なれども、先世の宿業をば免れ給はず。哀なりし事ども也。

同二十一日配所伊豆國と定らる。人々樣々に申あはれけれ共、西光法師父子が讒奏に依て、加樣に行はれけり。軈て今日都の内をおひ出さるべしとて、追立の官人、白河の御坊に向ておひ奉る。僧正なく/\御坊を出て、粟田口の邊、一切經の別所へ入らせ給ふ。山門には、詮ずる所、我等が敵は、西光父子に過たる者なしとて、彼等親子が名字を書いて、根本中堂に坐ます十二神將のうち、金毘羅大將の左の御足の下に蹈せ奉り、「十二神將、七千夜叉、時刻をめぐらさず西光父子が命をめし取り給へや。」と、喚き叫で咒咀しけるこそ聞も怖しけれ。

同廿三日一切經の別所より配所へ赴き給けり。さばかりの法務の大僧正程の人を、追立の欝使が先にけたてさせ、今日を限りに都を出て、關の東へ趣かれけん心の中推量られて哀也。大津の打出の濱にもなりしかば、文殊樓の軒端の白々として見えけるを、二目共見給はず、袖を顏に推當て、涙に咽び給ひけり。山門に宿老碩徳多といへども、澄憲法印、其時はいまだ僧都にて坐けるが、餘に名殘を惜み奉り、粟津まで送り參せ、さてもあるべきならねば、それより暇申てかへられけるに、僧正志の切なる事を感じて、年來御心中に祕せられたりし、一心三觀の血脈相承をさづけらる。此法は釋尊の附屬、波羅奈國の馬鳴比丘、南天竺の龍樹菩薩より、次第に相傳し來れるを、今日の情に授けらる。さすが我朝は粟散邊地の境、濁世末代といひながら、澄憲是を附屬して、法衣の袂を絞りつゝ、都へ歸のぼられける心の中こそ尊けれ。山門には大衆起て僉議す。「抑義眞和尚より以降、天台座主始まて、五十五代に至るまで、未流罪の例を聞かず。倩事の心を案ずるに、延暦の比ほひ、皇帝は帝都を立て、大師は當山に攀上て、四明の教法を此所に弘め給しより以降、五障の女人跡絶て、三千の淨侶居を占たり。嶺には一乘讀誦年經て、麓には七社の靈驗日新なり。彼月氏の靈山は、王城の東北大聖の幽窟也。此日域の叡岳も、帝都の鬼門に峙て、護國の靈地なり。代々の賢王智臣、此所に壇場を占む。末代ならんからに、いかんが當山に瑕をばつくべき。心うし。」とて、喚き叫といふ程こそ有けれ、滿山の大衆、皆東坂本へ降下る。

一行阿闍梨之沙汰

「抑我等粟津へ行向て、貫首をうばひとゞめ奉るべし。但追立の欝使領送使有なれば、事故なう執得奉らん事有難し。山王大師の御力の外は憑方なし。「誠に別の仔細なく、取え奉るべくは、爰にて先瑞相を見せしめ給へ。」と老僧共肝膽を碎て祈念しけり。

爰に無動寺の法師乘圓律師が童、鶴丸とて生年十八歳になるが、心身を苦しめ、五體に汗を流いて、俄に狂ひ出たり。「我十憚師乘居させ給へり。末代といふ共、爭か我山の貫首をば、他國へは遷さるべき。生々世々に心憂し。さらむに取ては、我此麓に跡をとゞめても、何にかはせん。」とて、左右の袖を顏に押あてゝ、涙をはら/\と流す。大衆これをあやしみて、「誠に十禪師權現の御託宣にてあらば、我等驗を參らせん、少しもたがへず元の主に返し給へ。」とて、老僧共四五百人、手手に持たる數珠どもを、十禪師の大床の上へぞ投上たる。此物狂、走りまはて、拾ひ集め、少も違ず、一々に皆元の主にぞ賦ける。大衆神明の靈験新なる事の尊さに、皆掌を合て、隨喜の感涙をぞ催ける。「其儀ならば行向て奪留奉れ。」といふ程こそありけれ、雲霞の如くに發向す。或は志賀唐崎の濱路に歩みつゞける大衆も有り。或は山田矢ばせの湖上に舟押出す衆徒も有り。是を見て、さしも緊しげなりつる追立の欝使領送使、四方へ皆逃去りぬ。

大衆國分寺へ參向ふ。前座主大に驚いて、「勅勘の者は、月日の光にだにも當らずとこそ申せ。如何に況や、急ぎ都のうちを逐出さるべしと、院宣宣旨のなりたるに、しばしもやすらふべからず。衆徒とう/\歸り上り給へ。」とて、端近うゐ出て宣けるは、「三台槐門の家をいでて、四明幽溪の窓に入しより以降、廣く圓宗の教法を學して、顯密兩宗を學き。只吾山の興隆をのみ思へり。又國家を祈奉る事おろそかならず。衆徒を育む志も深かりき。兩所山王定て照覽し給ふらん。我身に誤つ事なし。無實の罪に依て、遠流の重科を蒙れば、世をも人をも神をも佛をも恨み奉る事なし。是まで訪ひ來給ふ衆徒の芳志こそ、報じ盡しがたけれ。」とて香染の御衣の袖絞も敢させ給はねば、大衆も皆涙をぞ流しける。御輿さしよせて、「とうとうめさるべう候。」と申ければ、「昔こそ三千の衆徒の貫首たりしが、今はかゝる流人の身と成て、如何がやごとなき修學者、智慧深き大衆達には舁捧られては上るべき。縱のぼるべきなり共、鞋などいふ物をしばりはき、同樣に歩續いてこそ上らめ。」とてのり給はず。

爰に西塔の住侶、戒淨坊の阿闇梨祐慶といふ惡僧あり。長七尺計有けるが、黒革縅の鎧の、大荒目に金まぜたるを、草摺ながに著成て、冑をば脱ぎ法師原に持せつゝ、白柄の大長刀杖につき、「あけられ候へ。」とて、大衆の中を押分々々先座主のおはしける所へつと參りたり。大の眼を見瞋し、暫にらまへ奉り、「その御心でこそ、かゝる御目にも逢せ給へ。とう/\召るべう候。」と申ければ、怖さに急ぎのり給ふ。大衆取得奉る嬉さに、賤き法師原にはあらで、止事なき修學者ども、舁捧奉り喚き叫んで上けるに、人はかはれ共祐慶はかはらず、前輿舁て、長刀の柄も輿の轅も、碎けよと取まゝに、さしも嶮しき東坂平地を行が如く也。大講堂の庭に輿舁居て、僉議しけるは、「抑我等粟津に行向て、貫首をば奪とゞめ奉りぬ。すでに勅勘を蒙りて、流罪せられ給ふ人をとりとゞめ奉て、貫首に用申さん事、如何有べからん。」と僉議す。戒淨坊阿闇梨、又先の如くに進み出て僉議しけるは、「夫當山は日本無雙の靈地、鎭護國家の道場、山王の御威光盛にして、佛法王法牛角也。されば衆徒の意趣に至るまで、雙なく、賤き法師原までも、世以て輕しめず。況や智慧高貴にして、三千の貫首たり。今は徳行おもうして一山の和尚たり。罪なくして罪を蒙る。是山上洛中の憤り、興福園城の嘲に非ずや。此時顯密の主を失て、數輩の學侶、螢雪の勤怠らむ事心うかるべし。詮ずる所、祐慶張本に稱せられ、禁獄流罪もせられ、首を刎られん事、今生の面目冥土の思出なるべし。」とて、雙眼より涙をはら/\と流す、大衆尤々とぞ同じける。其よりしてこそ、祐慶をばいかめ房とはいはれけれ。其弟子に慧慶律師をば、時の人小いかめ房とぞ申ける。

大衆先座主をば、東塔の南谷、妙光坊へ入奉る。時の横災は、權化の人ものがれ給はざるやらん。昔大唐の一行阿闍梨は、玄宗皇帝の御持僧にて坐けるが、玄宗の后楊貴妃に名をたち給へり。昔も今も、大國も小國も、人の口のさがなさは、跡形なき事なりしかども、その疑に依て、果羅國へ流されさせ給ふ。件の國へは三つ道有り。輪池道とて、御幸道、幽地道とて、雜人の通ふ道、暗穴道とて、重科の者を遣す道なり。されば彼一行阿闇梨は大犯の人なればとて、暗穴道へぞ遣しける。七日七夜が間、月日の光をみずして行道なり。冥々として人もなく、行歩に前途迷ひ、森森として山深し。唯

[_]
[1]
谷に鳥の一聲計にて、苔のぬれ衣ほしあへず、無實の罪に依て、遠流の重科を蒙むる事を、天道憐み給ひて、九曜の形を現じつゝ、一行阿闍梨を守り給ふ。時に一行右の指を噬切て、左の袂に九曜の形を寫されけり。和漢兩朝に眞言の本尊たる九曜の曼陀羅是也。

[_]
[1] The kanji in our copy-text is New Nelson 3330.

西光被斬

大衆先座主を取とゞむる由、法皇聞召て、いとゞやすからずぞおぼしめされける。西光法師申けるは、「山門の大衆、亂がはしき訴仕る事、今にはじめずと申ながら、今度は以の外に覺候。これ程の狼藉いまだ承り及候はず。能々御誡め候へ。」とぞ申ける。身のたゞ今滅びんずるをもかへりみず、山王大師の神慮にもかゝはらず、か樣に申て宸襟を惱し奉る。讒臣は國を亂ると云へり。實なる哉、「叢蘭茂からんとすれども、秋の風是を敗り、王者明ならんとすれば、讒臣是を暗す。」とも、か樣の事をや申べき。此事新大納言成親卿以下近習の人々に仰合せられ、山責らるべしと聞えしかば、山門の大衆さのみ王地に孕れて、詔命をそむくべきにあらずとて、内々院宣に隨奉る衆徒もありなど聞えしかば、前座主明雲大僧正は妙光坊に坐けるが、大衆二心有ときいて、「終に如何なる目にか逢はむずらん。」と、心細げにぞ宣ける。されども流罪の沙汰はなかりけり。

新大納言成親卿は、山門の騒動に依て、私の宿意をばしばらくおさへられけり。そも内議支度は樣々なりしかども、義勢計にては、此謀反叶ふべうも見えざりしかば、さしも憑れたりける多田藏人行綱、無益なりと思ふ心附にけり。弓袋の料に、送られたりける布共をば、直垂帷に裁縫せて、家子郎等共に著せつゝ、目うちしばたゝいて居たりけるが、倩平家の繁昌する有樣をみるに、當時輙く傾けがたし。由なき事に與してけり。若此事もれぬる物ならば、行綱まづ失はれなんず。他人の口より漏れぬ先に廻忠して、命生うと思ふ心ぞ附にける。

同五月二十九日の小夜深方に、多田藏人行綱、入道相國の西八條の亭に參て、「行綱こそ申べき事候間參て候へ。」と、いはせければ、入道「常にも參らぬ者が參じたるは何事ぞ。あれきけ。」とて、主馬判官盛國を出されたり。「人傳には申まじき事也。」といふ間、さらばとて、入道自中門の廊へ出られたり。「夜は遙に更ぬらん、唯今如何に、何事ぞや。」とのたまへば、「晝は人目の繁う候間、夜に紛れ參て候。此程に院中の人々の兵具を調へ、軍兵を召され候をば、何とか聞召されて候。」「其は山攻めらるべしとこそきけ。」といと事もなげにぞのたまひける。行綱近うより、 小聲に成て申けるは、「其儀にては候はず、一向御一家の御上とこそ承り候へ。」「さて其をば法皇も知召されたるか。」「仔細にや及び候。成親卿の軍兵催され候も、院宣とてこそ召され候へ。俊寛がと振舞て、康頼がかう申て、西光がと申て。」など云ふ事共、始よりありの儘には指過ていひ散し、暇申てとて出にけり。入道大に驚き大聲をもて、侍共よびのゝしり給ふ事聞もおびたゞし。行綱なまじひなる事申出して證人にや引れんずらんとおそろしさに、大野に火を放たる心地して、人も追はぬに執袴して、急ぎ門外へぞにげ出ける。入道、先づ貞能を召て、「當家傾うとする謀反の輩、京中に滿々たんなり。一門の人々にも觸申、侍共催せ。」と宣へば、馳廻て催す。右大將宗盛卿、三位中將知盛、頭中將重衡、左馬頭行盛以下の人々、甲冑を鎧ひ、弓箭を帶し馳集る。其外軍兵雲霞の如くに馳つどふ。其夜の中に西八條には、兵ども六七千騎も有らんとこそ見えたりけれ。明れば六月一日なり。未暗かりけるに、入道、檢非違使安倍資成をめして、「きと院の御所へ參れ。信成を招いて申さんずる樣はよな、近習の人々、此一門を亡して天下を亂らんとする企あり。一々に召取て、尋沙汰仕るべし。夫をば君も知召るまじう候と申せ。」とこそ宣けれ。資成急ぎ馳參り、大膳大夫信成喚出いて、此由申に、色を失ふ。御前へ參て、此よし奏聞しければ、法皇、「あは此等が内々計りし事の、泄にけるよ。」と思召にあさまし。さるにても、「こは何事ぞ。」とばかり仰られて、分明の御返事もなかりけり。資成急ぎ馳歸て、入道相國に此由申せば、「さればこそ。行綱は、實をいひけり。此事行綱知らせずば、淨海安穩にあるべしや。」とて、飛騨守景家、筑後守貞能に仰て、謀反の輩、搦捕べき由下知せらる。仍二百餘騎、三百餘騎、あそここゝに押寄々々搦捕る。

太政入道先雜色をもて、中御門烏丸の新大納言成親卿の許へ、「申合すべき事あり。きと立寄給へ。」とのたまひつかはされたりければ、大納言我身の上とは、露しらず、「あはれ是は法皇の山攻らるべきよし、御結構有を、申とゞめられんずるにこそ。御いきどほり深げ也。如何にもかなふまじきものを。」とて、ないきよげなる布衣たをやかに著なし、鮮なる車に乘り、侍三四人召具して、雜色牛飼に至るまで、常よりも引繕れたり。そも最後とは後にこそおもひ知れけれ。西八條近う成て見給へば、四五町に軍兵滿々たり。あな夥し。こは何事やらんと、胸打騒ぎ、車より下り、門の内に差入て見給へば、内にも、兵共隙はざまも無ぞ滿々たる。中門の口に怖げなる武士共、數多待受て、大納言の左右の手を取て引張り、「縛べう候らん。」と申、入道相國簾中より見出して、「有べうもなし。」とのたまへば、武士共前後左右に立圍み、縁の上に引のぼせて、一間なる處に押籠てけり。大納言夢の心地して、つや/\物もおぼえ給はず。供なりつる侍共、押隔られて、散々に成ぬ。雜色牛飼色を失ひ、牛車を捨て逃去ぬ。

さる程に、近江中將入道蓮淨、法勝寺執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔正綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行も、捕れて出來たり。

西光法師此事聞て、我身の上とや思ひけん、鞭を擧院の御所法住寺殿へ馳參る。平家の侍共、道にて馳向ひ、「西八條へ召るゝぞ。きと參れ。」と言ければ、「奏すべき事有て、法住寺殿へ參る。軈てこそ參らめ。」と云ければ、「惡い入道哉。何事をか奏すべかんなる。さないはせそ。」とて、馬より取て引落し、中に縛て、西八條へさげて參る。日の始より根元與力の者なりければ、殊によう縛て、坪の内にぞ引居たる。入道相國大床に立て、「入道傾うとする奴がなれる姿よ。しやつ爰へ引寄よ。」とて、縁のきはに引寄させ、物はきながら、しや頬をむずむずとぞふまれける。「本より己らが樣なる下臈の果を君の召仕はせ給ひて、なさるまじき官職をなし給び、父子ともに過分の振舞をすると見しに合せて、過たぬ天台座主流罪に申行ひ、天下の大事引出いて、剩へ此一門ほろぼすべき謀反に與してける奴なり。有のまゝに申せ。」とこそのたまひけれ。西光元より勝れたる大剛の者なりければ、ちとも色も變ぜず、惡びれたる景氣もなし。居直り、あざ笑て申けるは、「さもさうず、入道殿こそ過分の事をばのたまへ。他人の前はしらず、西光が聞ん處に左樣の事をば、えこそのたまふまじけれ。院中に召仕るる身なれば、執事の別當成親卿の院宣とてもよほされし事に與せずとは申べき樣なし。それは與したり。但し耳に留まる事をも宣ふ物かな。御邊は故刑部卿忠盛の子で坐しか共、十四五までは出仕もし給はず、故中御門藤中納言家成卿の邊に立入り給ひしをば、京童部は高平太とこそ言しか。保延の頃、大將軍承り海賊の張本三十餘人、搦進ぜられたりし賞に四品して、四位の兵衞佐と申ししをだに、過分とこそ時の人々は申合れしか。殿上の交をだに嫌はれし人の子孫にて太政大臣迄なりあがたるや過分なるらむ。侍品の者の、受領檢非違使に成る事、先例傍例なきに非ず。なじかは過分なるべき。」と、憚る所なう申ければ、入道餘にいかて、物も宣はず。斬し有て「しやつが頸左右なう切な。よく/\戒めよ。」とぞ宣ける。松浦太郎重俊承て、足手を挾み樣々に痛問ふ。本より爭がひ申さぬ上、糺問は緊かりけり。殘なうこそ申けれ。白状四五枚に記され、やがて、しやつが口をさけとて、口を裂れ、五條朱雀にて、きられにけり。嫡子前加賀守師高、尾張の井戸田へ流されたりけるを、同國の住人小胡麻の郡司維季に仰て討れぬ。次男近藤判官師經禁獄せられけるを、獄より引出され、六條河原にて誅せらる。其弟左衞門尉師平、郎等三人、同く首を刎られけり。是等は云甲斐なき者の秀て、いろふまじき事に綺ひ、あやまたぬ天台座主流罪に申行ひ、果報や盡にけん、山王大師の神罰冥罰を立處に蒙て、斯る目に逢へりけり。

小教訓

新大納言は一間なる所に押籠られ、汗水に成りつゝ、あはれ是は日比の有まし事の洩聞えけるにこそ。誰漏しつらん。定て北面の者共が中にこそ有らむなど、思はじ事なう案じ續けて坐けるに、後の方より足音の高らかにしければ、すは唯今我命を失はむとて、武士共が參るにこそと待給に、入道自ら板敷高らかに踏鳴し、大納言の坐ける後の障子を、さとあけられたり。素絹の衣の、短らかなるに、白き大口ふみくゝみ、聖柄の刀押くつろげてさす儘に、以の外に怒れる氣色にて、大納言を暫睨まへ、「抑御邊は平治にも已に誅せらるべかりしを、内府が身にかへて申宥、頸を繼たてましは如何に。何の遺恨を以て、此一門ほろぼすべき由御結構は候けるやらん。恩を知を人とはいふぞ、恩を知ぬをば畜生とこそいへ。されども當家の運命盡ざるに依て、迎へたてまつたり。日比の御結構の次第、直に承らん。」とぞ宣ける。大納言「全くさること候はず。人の讒言にてぞ候らむ。能々御尋候へ。」と申されければ、入道言せも果ず。「人やある、人やある。」と召れければ、貞能參りたり。「西光めが白状參せよ。」と仰られければ、持て參りたり。是を取て二三返押返々々讀きかせ、「あなにくや、此上は何と陳ずべき。」とて、大納言の顏にさと投懸け、障子をちやうとたててぞ出られける。入道猶腹を居兼て、「經遠、兼康」と召せば、瀬尾太郎、難波次郎、參りたり。「あの男取て、庭へ引落せ。」と宣へば、是等は左右なうもし奉らず、「小松殿の御氣色いかゞ候はんずらん。」と申ければ、入道相國大にいかて、「よし/\、己らは内府が命をば重して、入道が仰をば輕うじけるごさんなれ。その上は力及ばず。」と宣へば、此事あしかりなんとや思けん、二人の者共立上て、大納言を庭へ引落し奉る。其時入道心地よげにて、「取て伏せて、喚かせよ。」とぞ宣ける。二人の者ども、大納言の左右の耳に口をあて、「如何樣にも御聲の出べう候。」と私語いて引伏奉れば、二聲三聲ぞ喚れける。其體、冥途にて娑婆世界の罪人を、或は業の秤にかけ、或は淨頗梨鏡に引向て、罪の輕重に任せつつ、阿防羅刹が呵責すらんも、是には過じとぞ見えし。蕭樊囚れ囚て韓彭俎醢たり。晁錯戮をうけて周儀罪せらる。たとへば、蕭何、樊?、韓信、彭越、是等は皆高祖の忠臣なりしか共、小人の讒に依て、過敗の恥をうくとも、か樣の事をや申べき。

新大納言は我身のかくなるにつけても、子息丹波の少將成經以下、をさなき人々如何なる目にか遭らむと、おもひやるにもおぼつかなし。さばかり熱き六月に裝束だにもくつろげず、熱さもたへがたければ、せき上る心地して、汗も涙も爭ひてぞ流れける。「さり共小松殿は、思召はなたじ者を。」とのたまへ共、誰して申べしと覺給はず。

小松大臣は、其後遙に程歴て、嫡子權亮少將車のしりにのせつゝ、衞府四五人、隨身二三人召具して、兵一人も召具せられず、殊に大樣げで坐したり。入道を始奉て、人々皆思はずげにぞ見給ひける。車より下給ふ處に、貞能つと參て、「など是程の御大事に、軍兵をば一人も召具せられ候はぬぞ。」と申せば、「大事とは天下の大事をこそいへ、か樣の私事を大事と云樣やある。」とのたまへば、兵仗を帶したりける者共もそゞろいてぞ見えける。そも大納言をば何くに置かれたるやらんと、此彼の障子引明け/\見給へば、ある障子の上に蜘手結たる所あり。爰やらんとて開られたれば、大納言坐けり。涙に咽びうつぶして、目も見合せ給はず。「如何にや。」と宣へば、その時見附奉り、うれしげに思はれたる氣色、地獄にて罪人共が、地藏菩薩を見奉るらんもかくやと覺えて哀なり。「何事にて候やらん、かゝる目にあひ候。さて渡らせ給へば、さり共とこそ憑まゐらせて候へ。平治にも已に誅せらるべきにて候しが、御恩を以て頸をつがれ參せ、正二位の大納言に上て、歳已に四十に餘り候。御恩こそ生々世々にも報じ盡しがたう候へ。今度も同じくは、かひなき命を助けさせ坐ませ。命だに生て候はゞ、出家入道して、高野粉川に閉籠り、後世菩提の勤を營み候はん。」とぞ被申ければ、「さ候共、御命失ひ奉るまではよも候はじ。縱さは候共、重盛かうて候へば、御命にもかはり奉るべし。」とて出られけり。父の禪門の御前に坐て、「あの成親卿失れん事、よく/\御計候べし。先祖修理大夫顯季、白河院に召仕はれてより以降、家に其例なき正二位の大納言に上て、當時君無雙の御いとほしみ也。軈て頸を刎られん事、いかがさぶらふべからん。都の外へ出されたらんに、事たり候なん。北野天神は時平大臣の讒奏にて、憂名を四海の浪に流し、西宮の大臣は、多田滿仲が讒言にて、恨を山陽の雲によす。各無實なりしか共、流罪せられ給ひにき。是皆延喜の聖代、安和の御門の御僻事とぞ申傳へたる。上古猶かくの如し。況や末代に於てをや。既に召置れぬる上は、急ぎ失はれず共、何の苦みか候べき。『刑の疑しきをば輕んぜよ。功の疑しきをば重んぜよ。』とこそ見えて候へ。事新しく候へども、重盛彼大納言が妹に相具して候。維盛又聟なり。か樣に親しく成て候へば、申とや思召され候らん。其儀では候はず。世の爲君の爲、家の爲の事を以て申候。一年故少納言入道信西が執權の時に相當て、我朝には嵯峨皇帝の御時、右兵衞督藤原仲成を誅られてより以來、保元までは、君二十五代の間、行はれざりし死罪を始て執行ひ、宇治の惡左府の死骸を掘おこいて、實檢せられたりし事などは餘なる御政とこそ覺え候しか。されば古の人々も、『死罪を行へば、海内に謀反の輩絶ずと。』こそ申傳て候へ。此詞に附て、中二年有て平治に又世亂れて、信西が埋れたりしを掘出し、首を刎て大路を渡され候にき。保元に申行ひし事、幾程もなく、身の上にむかはりにきと思へば、怖しうこそ候しか。是はさせる朝敵にもあらず。旁恐あるべし。御榮花殘る所なければ、思召す事在まじけれ共、子々孫々迄も繁昌こそあらまほしう候へ。父祖の善惡は、必子孫に及ぶと見えて候。積善家必餘慶あり積惡門には必餘殃とどまるとこそ承れ。如何樣にも、今夜首を刎られん事は、然べう候はず。」と申されければ、入道相國げにもとや思はれけん、死罪は思とゞまりぬ。

其後大臣中門に出て、侍共に宣けるは、「仰なればとて、大納言左右なう失ふ事有るべからず。入道腹のたちのまゝに、物噪き事し給ては、後に必悔しみ給ふべし。僻事してわれ恨な。」と宣へば、兵共、皆舌を振て恐慄く。「さても經遠、兼康が、けさ大納言に情なう當りける事、返返も奇怪也。重盛が還聞ん所をばなどかは憚らざるべき。片田舎の者はかゝるぞとよ。」と宣へば、難波も瀬尾も、共に恐入たりけり。大臣はか樣に宣て、小松殿へぞ歸られける。さる程に大納言のともなりつる侍ども、中御門烏丸の宿所へ走り歸て、此由申せば、北方以下の女房達、聲も惜まず泣叫ぶ。「既に武士の向ひ候。少將殿を始參らせて、君達も捕れさせ給ふべしとこそ聞え候へ。急ぎ何方へも忍ばせ給へ。」と申ければ、「今は是程の身に成て、殘り留る身とても、安穩にて何かはせん。唯同じ一夜の露とも消ん事こそ本意なれ。さても今朝を限と知らざりける悲しさよ。」とて、臥まろびてぞ泣かれける。已に武士共の近附よし聞えしかば、かくて又恥がましくうたてき目を見んもさすがなればとて、十に成給ふ女子、八歳の男子、車に取乘せ、何くを指共なくやり出す。さても有べきならねば、大宮を上りに、北山の邊雲林院へぞ坐ける。其邊なる僧坊に下置奉て、送の者ども、身の捨がたさに、暇申て歸りけり。今は幼き人々計殘居て、又事問ふ人もなくして御座けむ北方の心の中、推量られて哀なり。暮行影を見給ふにつけては、大納言の露の命、此夕を限也と、思ひやるにも消ぬべし。女房侍多かりけれ共、物をだに取したゝめず、門をだに推もたてず。馬どもは厩に竝たちたれ共、草飼ふ者一人もなし。夜明れば馬車門に立なみ、賓客座に列て、遊戯れ舞躍り、世を世とも思ひ給はず、近き傍の人は、物をだに高く言はず、怖畏てこそ昨日までも有しに、夜の間に變る有樣、盛者必衰の理は目の前にこそ顯れけれ。樂盡て哀來ると書れたる江相公の筆の跡、今こそ思しられけれ。

少將乞請

丹波少將成經は、其夜しも院の御所法住寺殿に上臥して、未出られざりけるに、大納言の侍共、急ぎ御所へ馳參て、少將殿を呼出し奉り、此由申に、「などや宰相の許より今まで告知せざるらん。」と、宣も果ねば、宰相殿よりとて使あり。此宰相と申は、入道相國の弟也、宿所は六波羅の惣門の内なれば門脇の宰相とぞ申ける。丹波少將には舅なり。「何事にて候やらん、入道相國のきと西八條へ具し奉れと候と申せ。」といはせられたりければ、少將此事心得て、近習の女房達呼出し奉り、「夜邊何となう世の物騒う候しを、例の山法師の下るかと餘所に思て候へば、早成經が身の上にて候ひけり。大納言よさり斬らるべう候なれば、成經も同罪にてこそ候はんずらめ。今一度御所へ參て、君をも見まゐらせたう候へ共、既にかゝる身に罷成て候へば、憚存候。」とぞ申されける。女房達御前へ參り、此由奏せられければ、法皇大に驚かせ給て、さればこそ今朝の入道相國が使に早御心得あり。「あは此等が内々謀し事の漏にけるよ。」と思召すにあさまし。「さるにても是へ。」と御氣色有ければ、參られたり。法皇も御涙を流させ給ひて、仰下さるゝ旨もなし。少將も涙に咽で申あぐる旨もなし。良有てさてもあるべきならねば少將袖を顏に押當てゝ、泣々罷出られけり。法皇は後を遙に御覽じ送らせ給ひて、末代こそ心憂けれ、是かぎりで又御覽ぜぬ事もやあらんずらんとて、御涙を流させ給ぞ忝き。院中の人々、少將の袖をひかへ、袂にすがて名殘ををしみ、涙を流さぬはなかりけり。

舅の宰相の許へ出られたれば、北方は近う産すべき人にて御座けるが、今朝より此歎を打添て、已に命も消入る心地ぞせられける。少將御所を罷出つるより、流るゝ涙つきせぬに、北方の有樣を見給ひてはいとゞ爲方なげにぞ見えられける。少將乳母に六條と云女房あり。「御乳に参り始候らひて、君をちの中より抱上参て、月日の重なるに隨ひて、我身の年の行をば歎ずして、君の成人しう成せ給ふ事をのみうれしう思ひ奉り、白地とは思へども、既に二十一年、片時も離れ参らせず。院内へ参らせ給ひて、遲う出させ給ふだにも、覺束なう思ひ参らするに、如何なる御目にか遭せ給はんずらん。」と泣く。少將、「痛な歎そ。宰相さて坐れば、命許はさり共乞請給はんずらん。」と、慰たまへども、人目もしらず、泣悶えけり。

西八條殿より、使しきなみに有ければ、宰相「行むかうてこそ、ともかうも成め。」とて出給へば少將も宰相の車の後に乘てぞ出られける。保元平治より以來、平家の人々、樂榮えのみ有て、愁歎はなかりしに、此宰相計こそ、由なき聟ゆゑに、かゝる歎をばせられけれ。西八條近うなて、車を停め、先案内を申入られければ、太政入道「丹波少將をば此内へは入らるべからず。」と宣ふ間、其邊近き侍の家におろし置つゝ、宰相計ぞ門の内へは入給ふ。少將をば、いつしか兵共打圍んで守護し奉る。憑れつる宰相殿には離れ給ひぬ。少將の心の中、さこそは便無りけめ。宰相中門に居給ひたれば、入道對面もし給はず。源大夫判官季貞をもて申入られけるは、「由なき者に親うなて、返々悔しう候へども、甲斐も候はず。相具せさせて候者の、此程惱む事の候なるが、今朝より此歎を打そへては既に命も絶なんず。何かはくるしう候べき。少將をば暫く教盛に預させおはしませ。教盛かうて候へば、なじかは僻事せさせ候べき。」と申されければ、季貞参て此由申す。「あはれ例の宰相が、物に心得ぬ。」とて、頓に返事もし給はず。良有て入道宣けるは、「新大納言成親、此一門を滅して天下を亂むとする企あり。此少將は既に彼大納言が嫡子也。疎うもあれ、親うもあれ、えこそ申宥むまじけれ。若此謀反とげましかば、御邊とてもおだしうや御座べきと申せ。」とこそのたまひけれ。季貞歸参て、此由宰相殿に申ければ、誠に本意なげにて、重て申されけるは、「保元平治より以降、度々の合戰にも、御命に代り参らせんとこそ存候へ。此後もあらき風をば、先防ぎ参らせ候はんずるに、縱教盛こそ年老て候とも、若き子供數多候へば、一方の御固にはなどか成で候べき。それに成經暫預らうと申を、御容れ無きは、教盛を一向二心ある者と思召にこそ。是程後めたう思はれ参らせては、世に有ても何にかはし候べき。今は只身の暇を賜て、出家入道し、片山里に籠て、一筋に後世菩提の勤を營み候はん。由なき憂世の交なり。世にあればこそ望もあれ、望の叶はねばこそ恨もあれ。しかじ憂世を厭ひ、眞の道に入なんには。」とぞ宣ける。季貞参て、「宰相殿は早思召切て候ぞ。ともかうも能樣に御計ひ候へ。」と申ければ、入道、大に驚いて、「さればとて出家入道まではあまりにけしからず。其儀ならば、少將をば暫御邊に預奉ると云べし。」とこそ宣けれ。季貞歸まゐて、宰相殿に此由申せば、「あはれ人の子をば持まじかりける物かな。我子の縁に結れざらむには、是程心をば碎じ物を。」とて出られけり。

少將待受奉て、「さていかゞ候つる、」と申されければ、「入道餘に腹をたてて、教盛には終に對面もし給はず。叶ふまじき由頻に宣ひつれ共、出家入道まで申たればにやらん、暫く宿所に置奉れとの給ひつれども、始終よかるべしとも覺えず。」少將、「さ候へばこそ成經も御恩をもて、暫の命も延候はんずるにこそ。其につき候ては、大納言が事をばいかゞ聞召され候ぞ。」「其迄は思も寄ず。」と宣へば、其時涙をはら/\と流いて、「誠に御恩を以てしばしの命もいき候はんずる事は然るべう候へども、命の惜う候も、父を今一度見ばやと思ふ爲也。大納言が斬れ候はんに於ては、成經とても、かひなき命を生て何にかはし候べき。唯一所でいかにもなる樣に、申てたばせ給ふべうや候らん。」と申されければ、宰相世にも苦げにて、「いさとよ、御邊の事をこそとかう申つれ。其までは思も寄ねども、大納言殿の御事をば、今朝内の大臣の樣々に申されければ、其も暫は心安い樣にこそ承はれ。」と宣へば、少將、泣々手を合てぞ悦れける。「子ならざらむ者は、誰か唯今我身の上をさしおいて、是程までは悦べき。實の契は親子の中にぞ有ける。子をば人の持べかりける物哉。」とやがて思ぞ返されける。さて今朝の如くに同車して歸られけり。宿所には女房達、死だる人の生かへりたる心地して、差つどひて皆悦び泣どもせられけり。

教訓状

太政入道は、か樣に人々數多縛め置ても、猶心行ずや思はれけん。既に赤地の錦の直垂に、黒絲縅の腹卷の、白金物打たる胸板せめて、先年安藝守たりし時、神拜の次に、靈夢を蒙て、嚴島の大明神より現に賜はられたりける銀の蛭卷したる小長刀、常の枕を放ず立られたりしを脇挾み、中門の廊へぞ出られける。其氣色大方ゆゝしうぞ見えし。貞能を召す。

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[2]筑後守貞能は木蘭地の直垂に
緋縅の鎧著て、御前に畏て候。やゝあて入道宣けるは、「貞能、此事如何思ふ。保元に平右馬助を始として、一門半過て、新院の御方へ参にき。一宮の御事は、故刑部卿殿の養君にて坐いしかば、旁々見放ち参らせ難かしども、故院の御遺誡に任て、御方にて先を懸たりき。是一の奉公也。次に平治元年十二月、信頼義朝が院内を取奉り、大内にたて籠り天下黒闇と成しに、入道身を捨て、凶徒を追落し、經宗惟方を召縛しに至まで、既に君の御爲に命を失んとする事度度に及ぶ。たとひ人何と申す共、七代までは此一門をば爭でか捨させ給べき。其に成親と云ふ無用の徒者、西光と云下賤の不當人めが申す事に附かせ給て、此一門を滅すべき由、法皇の御結構こそ遺恨の次第なれ。此後も讒奏する者あらば、當家追討の院宣下されつと覺るぞ。朝敵となて後は、いかに悔ゆとも益あるまじ。世を靜めん程、法皇を鳥羽の北殿へ移奉るか、然らずは、是へまれ、御幸をなし参らせんと思ふは如何に。其儀ならば、北面の輩、箭をも一つ射んずらん。侍共にその用意せよと觸べし。大方は入道院方の奉公思切たり。馬に鞍おかせよ。きせながとり出せ。」とぞ宣ける。

主馬判官盛國、急ぎ小松殿へ馳參て、「世は既にかう候。」と申ければ、大臣聞も敢ず。「あは早成親卿が首を刎られたるな。」と宣へば、「さは候はねども、入道殿御著背長召され候。侍共も皆打立て法住寺殿へ寄んと出たち候。法皇をば鳥羽殿へ押籠参らせうと候が、内々は鎭西の方へ流し参らせうと被擬候。」と申せば、大臣、爭かさる事在べきと思へ共、今朝の禪門の氣色、さる物狂しき事もあるらむとて、車を飛して、西八條へぞおはしたる。

門前にて車よりおり、門の内へ指入て見給へば、入道腹卷を著給ふ上は一門の卿相雲客數十人、各色々の直垂に、思々の鎧著て、中門の廊に二行に著座せられたり。其外諸國の受領衞府諸司などは、縁に居溢れ、庭にもひしと竝居たり。旗竿共引そばめ/\、馬の腹帶を固め、甲の緒を縮め、唯今皆打立んずる氣色共なるに、小松殿烏帽子直衣に、大文の指貫のそば取て、さやめき入給へば、事の外にぞ見えられける。

入道ふし目に成て、あはれ例の内府が、世をへうする樣に振舞、大に諫ばやとこそ思はれけめども、さすが子ながらも、内には五戒を保て慈悲を先とし、外には五常を亂らず、禮儀を正しうし給ふ人なれば、あの姿に腹卷を著て向はむ事、面はゆう辱しうや思はれけん、障子を少し引立て、素絹の衣を腹卷の上に、周章著に著給たりけるが、胸板の金物の少しはづれて見えけるを藏さうと、頻に衣の胸を引ちがへ引ちがへぞし給ひける。大臣は舎弟宗盛卿の座上につき給ふ。入道も宣ひ出さず、大臣も申しいださるゝ事もなし。

良有て入道のたまひけるは、「成親卿が謀反は事の數にもあらず。一向法皇の御結構にて在けるぞや。世をしづめん程、法皇を鳥羽の北殿へ遷奉るか、然らずば、是へまれ、御幸を成まゐらせんと思ふは如何に。」と宣へば、大臣聞も敢ず、はら/\とぞ泣れける。入道、「如何に/\。」とあきれ給ふ。大臣涙を抑て申されけるは、「此仰承候に、御運は早末に成ぬと覺候。人の運命の傾んとては、必惡事を思立候也。又御有樣、更現共覺候はず。さすが我朝は邊地粟散の境と申ながら、天照大神の御子孫、國の主として、天兒屋根命の末、朝の政を司どり給ひしより以降、太政大臣の官に至る人の、甲冑をよろふ事禮儀を背にあらずや。就中に御出家の御身なり。夫三世の諸佛解脱幢相の法衣を脱捨て、忽に甲冑を鎧ひ、弓箭を帶しましまさむ事、内には既に破戒無慙の罪を招くのみならず、外には又仁義禮智信の法にも背き候なんず。旁々恐ある申事にて候へども、心の底に旨趣を殘すべきに非ず。先世に四恩あり。天地の恩、國王の恩、父母の恩、衆生の恩是也。其中に最重きは朝恩也。普天の下王地に非ずと云ふ事なし。さればかの頴川の水に耳を洗ひ、首陽山に蕨を折し賢人も、勅命背き難き禮儀をば存知すとこそ承はれ。何に況、先祖にも未聞ざし太政大臣を極めさせ給ふ。所謂重盛が無才愚闇の身をもて、蓮府槐門の位に至る。加之國郡半過て一門の所領と成、田園悉く一家の進止たり。是希代の朝恩に非ずや。今是等の莫大の御恩を思召忘れて、猥しく法皇を傾け参らせ給はん事、天照大神、正八幡宮の神慮にも背き候ひなんず。日本は是神國也。神は非禮を受給はず。然れば君の思召立ところ、道理半無に非ず。中にも此一門は、代々の朝敵を平げて、四海の逆浪を靜る事は無雙の忠なれ共、其賞に誇る事は傍若無人共申つべし。聖徳太子十七箇條の御憲法に『人皆心有り、必各執あり、彼を是し我を非し、我を是し彼を非す。是非の理誰か能く定べき。相共に賢愚なり。環の如くして端なし。爰を以て縱人怒ると云とも、かへて我咎を懼れよ。』とこそ見えて候へ。然れ共御運盡ざるに依て、御謀反已に露ぬ。其上仰合せらるゝ成親卿を召置れぬる上は、縱君如何なる不思議を思召し立せ給ふとも、何の恐か候べき。所當の罪科行れん上は、退いて事の由を陳じ申させ給て、君の御爲には彌奉公の忠勤を盡し、民の爲には益撫育の哀憐を致させ給はば、神明の加護に預り佛陀の冥慮に背べからず。神明佛陀感應あらば、君も思召なほす事などか候はざるべき。君と臣とを比るに親疎別く方なし。道理と僻事を竝べんに、爭か道理に附ざるべき。

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[2] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 32; hereafter cited as NKBT) reads 筑後守貞能、木蘭地の直垂に.

烽火之沙汰

是は君の御理にて候へば、叶はざらむまでも院御所法住寺殿を守護し参らせ候べし。其故は重盛叙爵より今大臣の大將に至迄、併ら君の御恩ならずと云ふ事なし。其恩の重き事を思へば、千顆萬顆の玉にも越え、其恩の深き色を案ずれば、一入再入の紅にも過たらん。然れば院中に参り籠り候べし。其儀にて候はば、重盛が身に代り、命に代らんと契りたる侍共、少少候らん。是等を召具して、院の御所法住寺殿を守護しまゐらせ候はば、さすが以の外の御大事でこそ候はんずらめ。悲哉、君の御爲に奉公の忠を致んとすれば、迷盧八萬の頂より猶高き父の恩忽に忘れんとす。痛哉、不孝の罪を遁れんとすれば、君の御爲に已に不忠の逆臣と成ぬべし。進退惟谷れり。是非いかにも辨へ難し。申請る所詮は、唯重盛が頸を召され候へ。院中をも守護し参らすべからず。院参の御供をも仕るべからず。かの蕭何は大功かたへに越たるに依て、官大相國に至り、劔を帶し沓を履ながら殿上に昇る事を許されしか共、叡慮に背く事あれば、高祖重う警て、深う罪せられにき。か樣の先蹤を思ふにも、富貴と云ひ、榮花と云ひ、朝恩と云ひ、重職と云ひ、旁極させ給ぬれば、御運の盡ん事難かるべきに非ず。何迄か命生て、亂れん世をも見候べき。唯末代に生を受けて、かゝる憂目に逢候重盛が果報の程こそ拙う候へ。只今侍一人に仰附て、御坪の内に引出されて、重盛が首の刎られん事は、易い程の事でこそ候へ。是おの/\聞給へ。」とて直衣の袖も絞る許に涙を流し、かき口説かれければ、一門の人々、心あるも心なきも皆袖をぞ濕れける。

太政入道も、頼切たる内府はか樣に宣ふ。力もなげにて、「いや/\是迄は思も寄さうず。惡黨共が申す事につかせ給ひて、僻事などや出こむずらんと思ふ計でこそ候へ。」とのたまへば、大臣、「縱如何なる僻事出來候とも、君をば何とかし参らせ給ふべき。」とて、つい立て中門に出で侍共に仰られけるは、「唯今重盛が申しつる事をば、汝等承ずや。今朝より是に候うてか樣の事共申靜むと存じつれ共、餘にひた噪に見えつる間、歸りたりつる也。院参の御供に於ては、重盛が頸の召されむを見て仕れ。さらば人参れ。」とて、小松殿へぞ歸られける。主馬判官盛國を召て、「重盛こそ天下の大事を別して聞出したれ。我を我と思はん者共は、皆物具して馳参れと披露せよ。」と宣へば、此由披露す。「朧げにては噪がせ給はぬ人の、かゝる披露の有は別の仔細のあるにこそ。」と、皆物具して我も/\と馳参る。淀、羽束師、宇治、岡屋、日野、勸修寺、醍醐、小栗栖、梅津、桂、大原、靜原、芹生の里に溢居たる兵共或は鎧著て、未甲を著ぬもあり、或は矢負て未弓を持たぬもあり。片鐙蹈や蹈まずにて、周章噪いで馳参る。小松殿に噪ぐ事ありと聞えしかば、西八條に數千騎ありける兵共、入道にかうとも申も入ず、さざめき連て、皆小松殿へぞ馳たりける。少しも弓箭に携る程の者は一人も殘ず。其時入道大に驚き、貞能を召て、「内府は何と思ひて、是等をば呼とるやらん。是で言つる樣に、入道が許へ討手などや向んずらん。」と宣へば、貞能涙をはら/\と流いて「人も人にこそ依せ給ひ候へ。爭かさる御事候べき。これにて申させ給ひつる事共も、皆御後悔ぞ候らん。」と申ければ、入道、内府に中違うては、惡かりなんとや思はれけん。法皇仰参らせん事も、はや思とゞまり、腹卷脱おき、素絹の衣に袈裟打掛て、最心にも起らぬ念誦してこそ坐しけれ。

小松殿には、盛國承て著到附けり。馳参たる勢共、一萬餘騎とぞ註いたる。著到披見の後、大臣中門に出て侍共に宣けるは、日比の契約を違へずして参たるこそ神妙なれ。異國にさるためし有り。周の幽王、褒と云最愛の后をもち給へり。天下第一の美人なり。され共幽王の御心にかなはざりける事は、褒笑をふくまずとて、惣て此后笑ふ事をし給はず。異國の習には、天下に兵革起る時、所々に火を擧げ、大鼓を撃て、兵を召す謀有り。是を烽火と名付たり。或時天下に兵亂起て、烽火を揚たりければ、后是を見給ひて、『あな不思議、火もあれ程多かりけるな。』とて、其時始て笑給へり。此后一度笑ば百の媚有りけり。幽王嬉き事にして、其事となう、常に烽火を擧給ふ。諸候來に寇なし。寇なければ即ち去ぬ。加樣にする事度々に及べば、参る者も無りけり。或時隣國より凶賊起て、幽王の都を攻けるに、烽火をあぐれ共、例の后の火に慣て、兵も参らず。其時都傾て、幽王終に亡にき。さてこの后は野干と成て走失けるぞ怖き。か樣の事在なれば、自今以後も、是より召んには、みなかくの如くに参るべし。重盛不思議の事を聞出して召つるなり。され共此事聞直しつ、僻事にてありけり。疾う/\歸れ。」とて、皆歸されけり。實にはさせる事をも聞出されざりけれ共父を諫め被申つる詞に順ひ、我身に勢の著か、著ぬかの程をも知り、又父子軍をせんとにはあらねども、角して入道相國の謀反の志も和げ給ふとの謀也。「君雖不君、不可臣以下臣、父雖不父不可子以不子。君の爲には忠有て、父の爲には孝あれ。」と文宣王の宣けるに不違。君の此由聞召て、「今に始ぬ事なれ共、内府が心の中こそ愧しけれ。あたをば恩を以て報ぜられたり。」とぞ仰ける。「果報こそ目出たうて、大臣の大將にこそ至らめ。容儀帶佩人に勝れ、才智才學さへ世に超たるべしやは。」とぞ時の人々感じ合れける。「國に諫る臣あれば、其國心安く、家に諫る子あれば、其家必たゞし。」と云へり。上古にも末代にも有がたかりし大臣なり。

新大納言被流

同六月二日、新大納言成親卿をば、公卿の座へ出し奉て、御物参せたりけれども、胸せき塞て、御箸をだにもたてられず。御車を寄て、とう/\と申せば、大納言心ならず乘り給ふ。軍兵共前後左右に打圍みたり。我方の者は一人もなし。「今一度小松殿に見え奉らばや。」とのたまへども、其も叶はず。「縱重科を蒙て遠國へ行く者も、人一人身に順へぬ者やある。」と車の内にてかき口説かれければ、守護の武士共も皆鎧の袖をぞぬらしける。西の朱雀を南へ行ば、大内山も今は餘所にぞ見給ける。年來見馴奉りし雜色牛飼に至るまで、涙を流し袖を絞らぬはなかりけり。増て都に殘りとゞまり給ふ北方少き人々の心の中、推量れて哀也。鳥羽殿を過給ふにも、此御所へ御幸なりしには、一度も御供には外れざりし物をとて、我山庄洲濱殿とてありしをも、餘所に見てこそ通られけれ。南の門へ出て、舟遲とぞ急がせける。「こは何地へやらん、同う失はるべくば、都近き此邊にてもあれかし。」と宣けるぞ責ての事なる。

近う副たる武士を、「誰そ」と問給へば、難波次郎經遠と申す。「若此邊に我方樣の者やある。舟に乘ぬ先に言置べき事あり。尋て参せよ。」と宣ひければ、其邊をはしりまはて尋けれども、我こそ大納言殿の御方と云者一人もなし。「我世なりし時は、隨ひついたりし者共、一二千人も有つらん。今は餘所にてだにも此有樣を見送る者の無りける悲さよ。」と泣れければ、猛き武士共もみな袖をぞぬらしける。身にそふ物とてはたゞつきせぬ涙計也。熊野詣、天王寺詣などには、二瓦の三棟に造たる舟に乘り、次の船二三十艘漕つゞけてこそ有しに、今は怪かるかきすゑ屋形舟に、大幕引せ、見もなれぬ兵共に具せられて、今日を限に都を出て、浪路遙に赴れけん心の中、推量られて哀なり。其日は攝津國大物の浦に著給ふ。

新大納言、既に死罪に行はるべかりし人の、流罪に宥られける事は、小松殿のやう/\に申されけるに依てなり。此人いまだ中納言にておはしける時、美濃國を知行し給ひしに嘉應元年の冬、目代右衞門尉正友が許へ山門の領平野庄の神人が葛を賣てきたりけるに、目代酒に飮醉て葛に墨をぞ付たりける。神人惡口に及ぶ間、さないはせそとて散々に陵礫す。さる程に神人共數百人、目代が許へ亂入す。目代法に任せて防ぎければ、神人等十餘人打殺さる。是によて同年の十一月三日、山門の大衆おびたゞしう蜂起して、國司成親卿を流罪に處せられ、目代右衞門尉正友を禁獄せらるべき由奏聞す。既に成親卿備中國へ流さるべきにて西の七條迄出されたりしを、君いかゞ思召されけん、中五日在て召返さる。山門の大衆おびただしう呪咀すと聞えしか共、同二年正月五日、右衞門督を兼して、檢非違使の別當に成給ふ。其時、資方、兼雅卿越えられ給へり。資方卿はふるい人おとなにておはしき。兼雅卿は榮華の人也。家嫡にて越えられ給けるこそ遺恨なれ。是は三條殿造進の賞也。同三年四月十三日、正二位に叙せらる。其時は中御門中納言宗家卿越えられ給へり。安元元年十月二十七日、前中納言より權大納言に上り給ふ。人嘲て、「山門の大衆にはのろはるべかりけるものを。」と申ける。されども、今は其故にや、かゝる憂目に逢給へり。凡は神明の罰も人の呪咀も、疾もあり、遲きもあり、不同なる事也。

同三日、大物の浦へ、京より御使有とて犇きけり。新大納言「其にて失へとにや。」と聞給へば、さはなくして、備前の兒島へ流すべしとの御使なり。小松殿より御文有り。「如何にもして、都近き片山里にも置奉らばやと、さしも申つれども叶はぬ事こそ、世に有かひも候はね。さりながらも御命ばかりは申請て候。」とて、難波が許へも、「構てよく/\宮仕へ御心に違な。」と仰られ遣し、旅の粧細々と沙汰し送られたり。新大納言はさしも忝う思召されける君にも離れ参せ、つかの間もさりがたう思はれける北方少き人々にも別はてゝ、「こは何地へとて行やらん。再び故郷に歸て、妻子を相見んことも有がたし。一年山門の訴訟によて、流れしをば君惜ませ給ひて、西の七條より召還されぬ。是はされば君の御誡にもあらず。こは如何にしつる事ぞや。」と、天に仰ぎ地に俯て、泣悲めどもかひぞなき。明ぬれば舟おし出いて下り給ふに、道すがらも只涙に咽んで、ながらふべしとはおぼえねど、さすが露の命は消やらず。跡の白浪隔つれば、都は次第に遠ざかり、日數やう/\重なれば、遠國は近附けり。備前の兒島に漕よせて、民の家のあさましげなる柴の庵に置奉る。島のならひ、後は山、前は海、磯の松風、波の音、いづれも哀は盡せず。

阿古屋松

大納言一人にもかぎらず、警を蒙る輩多かりけり。近江中將入道蓮淨佐渡國、山城守基兼伯耆國、式部大輔正綱播磨國、宗判官信房阿波國、新平判官資行は美作國とぞ聞えし。

其比入道相國、福原の別業に御座けるが、同廿日、攝津左衞門盛澄を使者として、門脇の宰相の許へ、「存ずる旨あり。丹波少將急ぎ是へたべ。」と宣ひ遣はされたりければ、宰相、「さらば、たゞ有し時ともかくも成たりせばいかがせむ。今更物を思はせんこそ悲しけれ。」とて、福原へ下給べき由宣へば、少將泣々出立給ひけり。女房達は、叶ざらん物故に、猶も唯宰相の申されよかしとぞ歎かれける。宰相、「存る程の事は申つ。世を捨るより外は、今は何事をか申べき。されども縱何くの浦に坐すとも、我命の有ん限は、訪奉るべし。」とぞ宣ける。少將は今年三つに成給ふをさなき人を持給へり。日ごろはわかき人にて君達などの事もさしも濃にも坐ざりしか共、今はの時になりしかば、さすが心にやかゝられけん。「此少き者を今一度見ばや。」とこそ宣ひけれ。乳母抱て参りたり。少將膝上に置、髮かき撫で、涙をはら/\と流て、「哀汝七歳に成ば、男に成して君へ参せんとこそ思つれ。され共今は云かひなし。もし命生て、生たちたらば、法師に成り、我後の世弔へよ。」と宣へば、いまだ幼き心に、何事をか聞わき給ふべきなれども、打點頭給へば、少將を始奉て母上乳母の女房、其座に竝居たる人々、心有も心無も、皆袖をぞ濡しける。福原の御使、やがて今夜鳥羽まで出させ給ふべき由申ければ、「幾程も延ざらん者故に、今宵許は、都の内にて明さばや。」と宣へ共、頻に申せば、其夜鳥羽へぞ出られける。宰相餘にうらめしさに、今度は乘も具し給はず。

同廿二日福原へ下著給ひたりければ、太政入道瀬尾太郎兼康に仰て、備中國へぞ流されける。兼康は宰相の還聞給はん所を恐れて、道すがらも樣々に痛り慰め奉る。され共、少將少も慰み給ふ事もなし。夜晝只佛の御名をのみ唱て父の事をぞ嘆かれける。 新大納言は、備前の兒島に御座けるを、預の武士難波次郎經遠是は猶舟津近うて惡かりなんとて、地へ渡奉り、備前備中兩國の境、庭瀬の郷有木の別所と云ふ山寺に置奉る。備中の瀬尾と、備前の有木の別所の間は、僅五十町に足ぬ所なれば、丹波少將其方の風もさすが懷うや思はれけむ、或時兼康を召て、「是より大納言殿の御渡有なる備中の有木の別所へは、如何程の道ぞ。」と問給へば、直に知せ奉ては、惡かりなんと思ひけむ、「片道十二三で候。」と申。其時少將涙をはらはらと流いて、「日本は昔三十三箇國にて有けるを、中比六十六箇國には分られたんなり。さ云ふ備前備中備後も、本は一國にて有ける也。又東に聞ゆる出羽陸奧兩國も、昔は六十六郡が一國にてありけるを、其時十二郡を割分て、出羽の國とは立られたり。されば實方中將、奧州へ流されたりける時、此國の名所阿古耶の松と云所を見ばやとて、國中を尋ありきけるが、尋かねて歸りける道に、老翁の一人行逢たりければ『やゝ御邊はふるい人とこそ見奉れ、當國の名所に阿古屋の松と云ふ所やしりたる。』と問に、『全く當國の内には候はず、出羽の國にや候らん。』と申ければ、『さては御邊も知ざりけり。世末に成て、國の名所をも早皆呼失ひけるにこそ。』とて、空しく過んとしければ、老翁中將の袖を控へて、『あはれ君は、

みちのくの阿古耶の松に木隱て、出べき月の出もやらぬか。

と云ふ歌の心を以て、當國の名所阿古耶の松とは仰られ候か。其は兩國が一國なりし時詠侍る歌なり。十二郡を割分て後は、出羽國にや候らん。』と申ければ、さらばとて、實方中將も出羽國に越てこそ阿古耶の松をば見たりけれ。筑紫の太宰府より都へ、腹赤の使の上るこそ、かた路十五日とは定たれ。既に十二三日と云は、是より殆鎭西へ下向ごさんなれ。遠しと云とも、備前備中の間、兩三日にはよもすぎじ。近きを遠う申は、大納言殿の御渡有なる所を成經に知せじとてこそ申らめ。」とて、其後は戀しけれ共問ひ給はず。

大納言死去

さる程に法勝寺の執行俊寛僧都、平判官康頼、この少將相具して薩摩潟鬼界が島へぞ流されける。彼島は、都を出て遙々と波路を凌で行く處なり。おぼろげにては船もかよはず。島には人稀なり。自ら人はあれども、此土の人にも似ず。色黒うして牛の如し。身には頻に毛生つゝ、言詞をも聞知らず。男は烏帽子もせず、女は髮もさげざりけり。衣裳なければ人にも似ず。食する物も無ければ、唯殺生をのみ先とす。賤が山田をかへさねば、米穀の類もなく、薗の桑をとらざれば、絹帛の類も無りけり。島のなかには高き山有り。鎭に火燃ゆ。硫黄と云ふ物充滿てり。かるが故に硫黄が島とも名附たり。雷常に鳴上り、鳴下り、麓には雨しげし。一日片時、人の命堪て有るべき樣もなし。

さる程に新大納言は少しくつろぐ事もやと思はれけるに、子息丹波少將成經も、はや鬼界が島へ流され給ぬときいて、今はさのみつれなく何事をか期すべきとて、出家の志の候よし、便に付て小松殿へ申されければ、此由法皇に窺ひ申て、御免ありけり。やがて出家し給ひぬ。榮花の袂を引かへて、浮世を餘所の墨染の袖にぞ窶れ給ふ。

大納言の北方は、都の北山雲林院の邊にしのびてぞ御座ける。さらぬだに、住馴ぬ處は物うきに、いとゞしのばれければ、過行く月日も明し兼ね暮し煩ふ樣なりけり。女房侍多かりけれども、或は世を恐れ、或は人目をつゝむ程に、問訪ふ者一人もなし。され共其中に、源左衞門尉信俊と云ふ侍一人、情殊に深かりければ、常に訪奉る。或時北方信俊を召て、「まことや是には備前の兒島にと聞えしが、此程聞ば有木の別所とかやに御座なり。如何にもして今一度はかなき筆の跡をも奉り、御音信をも聞ばや。」とこそ宣ひけれ。信俊涙を押へ申けるは、「幼少より、御憐を蒙て、片時も離れ参せ候はず。御下の時も、何共して御供仕らうと申候しが、六波羅より容されねば力及候はず。召され候し御聲も耳に留り、諫められ參らせし御詞も肝に銘じて片時も忘れ參らせ候はず。縱此身は如何なる目にも遇候へ。疾々御文賜はて參り候はん。」とぞ申ける。北方斜ならず悦で、やがて書てぞたうだりける。少人々も面々に御文有り。信俊此を賜はて、遙々と備前國有木の別所へ尋下る。先預の武士難波次郎經遠に案内を云ければ、志の程を感じて、やがて見參に入たりけり。大納言入道殿は、唯今も都の事をのみ宣出し、歎沈で御座ける所に、「京より信俊が參て候。」と申入たりければ、「夢かや。」とて聞もあへず、起なほり、「是へ/\。」と召されければ、信俊參て見奉るに、先御住ひの心憂さもさる事にて、墨染の御袂を見奉るにぞ、信俊目もくれ心も消て覺えける。北方の仰蒙し次第、細々と申て、御文とりいだいて奉る。是を開けて見給へば、水莖の跡は、涙にかき暮て、そことは見ね共、「少き人々の餘に戀悲み給ふ有樣、我身も盡ぬ思に堪忍べうもなし。」と書かれたれば、日來の戀しさは、事の數ならずとぞ悲み給ふ。かくて四五日過ければ、信俊「是に候て、御最後の御有樣見參せん。」と申ければ、預の武士難波次郎經遠、叶まじき由頻に申せば、力及ばで、「さらば上れ。」とこそ宣けれ。「我は近う失はれんずらむ。此世になき者と聞ば、相構て我後世とぶらへ。」とぞ宣ける。御返事かいてたうだりければ、信俊是を賜て、「又こそ參候はめ。」とて暇申て出ければ、「汝が又來ん度を待つくべしとも覺えぬぞ。あまりにしたはしくおぼゆるに、暫暫。」と宣ひて、度々呼ぞ返されける。さても有べきならねば、信俊涙を抑つゝ、都へ歸のぼりけり。北方に文參らせたりければ、是を開て御覽ずるに、早出家し給たると覺敷て、御髮の一房文の奧に有けるを、二目とも見給はず。形見こそ中々今はあたなれとて、臥まろびてぞ泣かれける。少き人々も、聲々に泣き悲み給けり。

さる程に大納言入道殿をば同八月十九日、備前備中兩國の境、庭瀬の郷、吉備の中山といふ處にて終に失ひ奉る。其最期の有樣やう/\に聞えけり。酒に毒を入てすゝめたりけれども叶はざりければ、岸の二丈許有ける下にひしを植て、上より突落し奉れば、ひしに貫かて失給ぬ。無下にうたてき事共也本少うぞ覺えける。大納言の北方は此世に無き人と聞給ひて、如何にもして今一度かはらぬ姿を見もし見えんとてこそ、今日迄樣をも變ざりつれ。今は何にかはせんとて、菩提院と云寺に御座し、樣を變へ、かたの如くの佛事を營み後世をぞ弔らひ給ひける。この北方と申は、山城守敦方の娘也。勝たる美人にて、後白河法皇の御最愛ならびなき御思人にて御座けるを、成親卿ありがたき寵愛の人にて、賜はられたりけるとぞ聞えし。をさなき人人も花を手折り、閼伽の水を掬んで、父の後世を弔ひ給ふぞ哀なる。さる程に時移り事去て、世の替行有樣は只天人の五衰に異ならず。

徳大寺殿之沙汰

爰に徳大寺の大納言實定卿は、平家の次男宗盛卿に大將を越られて、暫籠居し給へり。出家せんと宣へば、諸大夫侍共、いかがせんと歎合り。其中に藤藏人重兼と云ふ諸大夫あり。諸事に心得たる人にて、或月の夜、實定卿南面の御格子上させ、只獨月に嘯て御座ける處に、慰さめまゐらせんとや思ひけん、藤藏人參りたり。「誰そ。」「重兼候。」「如何になに事ぞ。」と宣へば、「今夜は特に月さえて萬心のすみ候まゝに、參て候。」とぞ申ける。大納言、「神妙に參たり。餘りに何とやらん心細うて徒然なるに。」とぞ仰られける。其後何と無い事共申て慰め奉る。大納言宣けるは、「倩此世の中の有樣を見るに、平家の世は彌盛なり。入道相國の嫡子、次男、左右の大將にてあり。やがて三男知盛、嫡孫維盛もあるぞかし。彼も是も次第にならば、他家の人々、大將をいつ當附べしともおぼえず。されば終の事なり。出家せん。」とぞ宣ける。重兼涙をはら/\と流いて申けるは、「君の御出家候なば、御内の上下皆惑者に成候ひなんず。重兼、珍い事をこそ案出して候へ。譬ば安藝の嚴島をば、平家斜ならず崇敬はれ候に、何かは苦しう候べき、彼宮へ御參あり、御祈誓候へかし。七日計御參籠候はゞ、彼社には内侍とて、優なる舞姫共おほく候。珍しう思參せて、持成參せ候はんずらん。何事の御祈誓に御參籠候やらんと申候はば、有の儘に仰候へ。さて御上の時御名殘惜みまゐらせ候はんずらん。むねとの内侍共召具して都迄御上候へ。都へ上なば、西八條へぞ參候はんずらん。『徳大寺殿は何事の御祈誓に嚴島へは參らせ給ひたりけるやらん。』と尋られ候はゞ内侍共有の儘に申候はむずらん。入道相國はことに物めでし給ふ人にて、我崇め給ふ御神へ參て、祈申されけるこそ嬉しけれとて、好き樣なる計ひもあんぬと覺え候。」と申ければ徳大寺殿、「是こそ思ひも寄ざりつれ。ありがたき策かな。軈て參む。」とて、俄に精進始めつゝ、嚴島へぞ參られける。

誠に彼宮には内侍とて優なる女共多かりけり。七日參籠せられけるに、夜晝著副奉りもてなす事限りなし。七日七夜の間に舞樂も三度までありけり。琵琶、琴ひき、神樂、舞歌ひなど遊ければ、實定卿も面白き事におぼしめし、神明法樂の爲に今樣、朗詠歌ひ、風俗、催馬樂などありがたき郢曲どもありけり。内侍共「當社へは、平家の公達こそ御參候ふに、この御まゐりこそ珍しう候へ。何事の御祈誓、御參籠さぶらふやらん。」と申ければ、「大將を人に越えられたる間、其祈の爲也。」とぞ被仰ける。さて七日參籠畢て、大明神に暇申て都へ上らせ給ふに、名殘を惜み奉り、むねとの若き内侍十餘人、船押立て一日路を送り奉る。暇申けれども、さりとては餘に名殘の惜きに、今一日路、今二日路と仰られて都までこそ具せられけれ。徳大寺の邸へ入させ給ひて、樣々にもてなし、樣々の御引出物共たうでかへされけり。

内侍共これまで上る程では、我等が主の太政入道殿へいかで參らであるべきとて、西八條へぞ參じたる。入道相國急ぎ出合給ひて、「如何に内侍共は何事の列參ぞ。」「徳大寺殿の御參候うて七日こもらせ給ひて御上り候を一日路送り參せて候へば、さりとては餘りに、名殘の惜きに、今一日路二日路と仰られて、是まで召具せられて候ふ。」「徳大寺は何事の祈誓に、嚴島までは參られたりけるやらん。」との給へば、「大將の御祈の爲とこそ仰られ候ひしか。」其時入道打うなづいて、「あないとほし、王城にさしも尊き靈佛靈社の幾も御座を指置て、我が崇め奉る御神へ參て祈申されけるこそありがたけれ。是程志切ならむ上は。」とて、嫡子小松殿内大臣の左大將にてましましけるを辭せさせ奉り、次男宗盛大納言の右大將にて御座けるを超させて、徳大寺を左大將にぞ成されける。あはれ目出度かりける策かな。新大納言も、か樣に賢き計らひをばし給はで、由なき謀反おこいて、我身も滅び、子息所從に至るまで、かゝる憂目を見せ給ふこそうたてかりけれ。

堂衆合戰

さる程に、法皇は三井寺の公顯僧正を御師範として、眞言の祕法を傳受せさせましけるが、大日經、金剛頂經、蘇悉地經、此三部の祕法を受させ給ひて、九月四日、三井寺にて御灌頂有るべしとぞ聞えける。山門の大衆憤申、「昔より御灌頂御受戒、皆當山にして遂させまします事先規也。就中に山王の化導は、受戒灌頂の爲なり。然るを今三井寺にて遂させましまさば、寺を一向燒拂ふべし。」とぞ申ける。是無益なりとて、御加行を結願しておぼしめし留らせ給ひぬ。さりながらも猶本意なればとて、三井寺の公顯僧正を召具して、天王寺へ御幸なて、御智光院を建て、龜井の水を五瓶の智水として、佛法最初の靈地にてぞ、傳法灌頂は遂させましましける。

山門の騒動を靜られんが爲に、三井寺にて御灌頂は無りしか共、山上には堂衆學生、不快の事出來て、合戰度々に及ぶ。毎度に學侶打落されて山門の滅亡、朝家の御大事とぞ見えし。堂衆と申は、學生の所從なりける童部が法師に成たるや、若は中間法師原にてありけるが、金剛壽院の座主、覺尋權僧正治山の時より、三塔に結番して、夏衆と號して、佛に花進せし者共也。近年行人とて、大衆をも事共せざりしが、かく度々の軍に打勝ぬ。堂衆等師主の命を背いて、合戰を企つ、速に誅罰せらるべき由、大衆公家に奏聞し、武家へ觸訴ふ。これに依て太政入道院宣を承り、紀伊國の住人、湯淺權守宗重以下、畿内の兵二千餘騎、大衆に指添て、堂衆を攻らる。堂衆日來は東陽坊にありしが、近江の國三箇の庄に下向して、數多の勢を率し、又登山して、早尾坂に城をして立籠る。

同九月廿日、辰の一點に大衆三千人、官軍二千餘騎、都合其勢五千餘人、早尾坂に押よせたり。今度はさり共と思ひけるに、大衆は官軍を先立てんとし、官軍は又大衆を先立てんと爭ふ程に心心にて、はか%\しうも戰はず。城の内より石弓弛懸たりければ、大衆官軍數を盡て討れにけり。堂衆に語ふ惡黨と云は、諸國の竊盗、強盗、山賊、海賊等也。欲心熾盛にして、死生不知の奴原なれば、我一人と思切て戰ふ程に、今度も又學生軍に負にけり。

山門滅亡

其後は山門彌荒はてゝ、十二禪衆の外は、止住の僧侶も稀なり、谷々の講演磨滅して、堂堂の行法も退轉す。修學の窓を閉ぢ、坐禪の床を空うせり。四教五時の春の花も香はず、三諦即是の秋の月も曇れり。三百餘歳の法燈を挑る人もなく、六時不斷の香の煙も、絶やしぬらん。堂舎高く聳えて、三重の構を青漢の内に挿み、棟梁遙に秀て、四面の椽を白霧の間に懸たりき。され共今は供佛を嶺の嵐に任せ、金容を紅瀝に濡す。夜の月燈を挑て檐の隙より漏り、曉の露珠を垂れて蓮座の粧を添とかや。夫末代の俗に至ては、三國の佛法も次第に衰微せり。遠く天竺に佛跡を弔へば、昔佛の法を説給ひし竹林精舎、給孤獨園も此比は狐狼野干の栖と成て、礎のみや殘るらん。白鷺池には水絶て、草のみ深くしげれり。退梵下乘の卒都婆も苔のみむして傾きぬ。震旦にも天台山、五臺山、白馬寺、玉泉寺も、今は住侶なく樣々に荒果て、大小乘の法門も、箱の底にや朽ぬらん。我朝にも南都七大寺荒果て、八宗九宗も跡絶え、愛宕高雄も昔は堂塔軒を竝たりしか共、一夜の中に荒にしかば、天狗の栖と成り果てぬ。さればにや、さしも止事無りつる天台の佛法も、治承の今に及で、亡果ぬるにやと、心有る人歎悲まずと云事なし。離山しける僧の坊の柱に、歌をぞ一首書いたりける。

祈りこし我立杣のひきかへて、人なき嶺となりや果なん。

是は傳教大師、當山草創の昔、阿耨多羅三藐三菩提の佛たちに、祈申されける事を、思ひ出て詠たりけるにや。いと優うぞ聞えし。八日は藥師の日なれども、南無と唱る聲もせず。卯月は垂跡の月なれ共幣帛を捧る人もなし。朱の玉垣神さびて、しめ繩のみや殘るらん。

善光寺炎上

其比善光寺炎上の由其聞あり。彼如來と申は昔天竺舎衞國に、五種の惡病起て、人多く滅しに月蓋長者が致請に依て、龍宮城より閻浮檀金を得て、釋尊、目連、長者心を一にして、鑄現し給へる一ちやく手半の彌陀の三尊、閻浮提第一の靈像なり。佛滅度の後、天竺に留らせ給ふ事、五百餘歳、佛法東漸の理にて、百濟國に移らせ給ひて、一千歳の後、百濟の帝齊明王、我朝の帝欽明天皇の御宇に及で、彼國より此國へ移らせ給ひて、攝津國難波の浦にして、星霜を送らせ給ひけり。常は金色の光を放たせましましければ、是に依て年號を、金光と號す。同三年三月上旬に信濃國の住人、麻績の本太善光と云者都へ上りたりけるに、彼如來に逢奉りたりけるに、軈ていざなひ參せて、晝は善光、如來を負奉り、夜は善光、如來に負はれ奉て、信濃國へ下り、水内郡に安置し奉しよりこのかた、星霜既に五百八十餘歳、炎上の例は是始とぞ承る。「王法盡んとては、佛法先亡ず。」といへり。さればにや、さしも止事なかりつる靈山の多く滅失ぬるは、王法の末に成ぬる先表やらんとぞ申ける。

康頼祝言

さる程に鬼界が島の流人共、露の命草葉の末に懸て、惜むべきとには有ね共、丹波少將の舅平宰相教盛の領、肥前國鹿瀬の庄より、衣食を常に送られければ、其にてぞ俊寛僧都も康頼も命を生て過しける。康頼は、流されける時、周防の室つみにて出家してけり。法名は性照とこそ附たりけれ。出家は本よりの望なりければ、

つひにかくそむきはてける世の中を、とくすてざりし事ぞくやしき。

丹波少將、康頼入道は、本より熊野信心の人なれば、如何にもして此島の内に熊野三所權現を勸請し奉て歸洛の事を祈申さばやと云に、僧都は天性不信第一の人にて是を用ゐず。二人は同じ心に、若熊野に似たる所やあると、島の内を尋廻るに、或は林塘の妙なる有り、紅錦繍の粧品々に、或は雲嶺の恠あり、碧羅綾の色一つに非ず。山の景色樹の木立に至る迄、外よりも猶勝れたり。南を望めば、海漫々として、雲の波煙の浪深く、北を顧れば、又山岳の峨々たるより、百尺の瀧水漲落たり。瀧の音殊に凄じく、松風神さびたる栖、飛瀧權現の御座す那智の御山にもさも似たりけり。さてこそ、やがてそこをば那智の御山とは名附けれ。此嶺は本宮、彼は新宮、是はそんぢやう其王子、彼王子など、王子々々の名を申て、康頼入道先達にて、丹波少將相具しつゝ、日ごとに熊野詣の眞似をして、歸洛の事をぞ祈ける。「南無權現金剛童子、願は憐を垂させ御座して、故郷へかへし入させ給へ、妻子共をも今一度見せ給へ。」とぞ祈ける。日數積りて、裁更べき淨衣も無ければ、麻の衣を身に纏ひ、澤邊の水をこりにかいては、岩田川の清き流と思やり、高所に上ては、發心門とぞ觀じける。參る度毎には康頼入道、祝言を申に、御幣紙も無ければ、花を手折て捧つつ、

維當れる歳次、治承元年丁酉、月のならび十月二月、日の數三百五十餘箇日、吉日良辰を擇で、掛卷も忝なく、日本第一大靈驗、熊野三所權現、飛瀧大薩の教令、宇豆の廣前にして、信心の大施主、羽林藤原成經、並に沙彌性照、一心清淨の誠を致し三業相應の志を抽て、謹で以て敬白す。夫證誠大菩薩は、濟度苦海の教主、三身圓滿の覺王なり。或は東方淨瑠璃醫王の主、衆病悉除の如來なり。或は南方補陀落能化の主、入重玄門の大士、若王子は娑婆世界の本主、施無畏者の大士。頂上の佛面を現じて、衆生の所願をみて給へり。これによて上一人より下萬民に至るまで、或は現世安穩のため、或は後生善所のために朝には淨水を掬で、煩惱の垢を濯ぎ、夕には深山に向て寶號を唱ふるに、感應怠ることなし。峨々たる峯の高をば、神徳の高きにたとへ、嶮々たる谷の深をば、弘誓の深きに准へて、雲を分て上り、露を凌でくだる。爰に利益の地をたのまずんば、いかんが歩を險難の道に運ばん。權現の徳を仰かずんば、何ぞ必ずしも幽遠の境にましまさむ。仍て證誠大權現、飛瀧大薩、青蓮慈悲の眸を相並べ、小鹿の御耳を振り立てゝ、我等が無二の丹誠を知見して、一々の懇志を納受し給へ。然れば則ち、結早玉の兩所權現、各機に隨て、有縁の衆生を導き、無縁の群類を救はんがために、七寶莊嚴の栖を捨てゝ、八萬四千の光を和げ、六道三有の塵に同じ給へり。かるがゆゑに定業亦能轉、求長壽得長壽の禮拜、袖を連ね、幣帛禮奠を捧ぐること隙なし。忍辱の衣を重ね、覺道の花を捧げて、神殿の床を動し、信心の水をすまして、利生の池を湛へたり。神明納受し給はゞ、所願何ぞ成就せざらん。仰ぎ願はくは、十二所權現、利生の翼を並て、遙に苦海の空にかけり、左遷の愁を息めて、歸洛の本懷を遂げしめ給へ。再拜

とぞ康頼祝言をば申ける。

卒都婆流

丹波少將、康頼入道、常は三所權現の御前に參て、通夜する折も有けり。或時二人通夜して、夜もすがら今樣をぞ歌ひける。曉方に康頼入道、ちと目睡たる夢に、沖より白い帆掛たる小舟を一艘漕寄て、舟の中より紅の袴きたる女房、二三十人あがり、皷を打ち聲を調て、

萬の佛の願よりも、千手の誓ぞたのもしき、
枯れたる草木も忽に、花さき實なるとこそきけ。

と三辺歌澄して、掻けす樣にぞ失にける。夢覺て後、奇異の思をなし、康頼入道申けるは、「是は龍神の化現と覺えたり。三所權現のうちに、西の御前と申は、本地千手觀音にておはします。龍神は則千手の廿八部衆の其一なれば、もて御納受こそ頼敷けれ。」又或夜二人通夜して同じう目睡たりける夢に、沖より吹くる風の、二人が袂に木の葉を二つ吹懸たりけるを、何となう取て見ければ、御熊野の南木の葉にてぞ有ける。かの二の南木の葉に一首の歌を蟲くひにこそしたりけれ。

ちはやぶる神にいのりの繁ければ、などか都へ歸らざるべき。

康頼入道、故郷の戀しきまゝに、せめてのはかりごとに、千本の卒都婆を作り、字の梵字、年號月日、假名、實名、二首の歌をぞ書たりける。

薩摩潟沖の小島に我ありと、親には告よ八重の汐風。
思ひやれしばしと思ふ旅だにも、猶ふるさとはこひしき物を。

是を浦に持て出て、「南無歸命頂禮、梵天帝釋、四大天王、けんろう地神、王城の鎭守諸大明神、殊には熊野權現、嚴島大明神、せめては一本なり共、都へ傳てたべ。」とて、沖つ白波の、よせては歸る度毎に、卒都婆を海にぞ浮べける。卒都婆を造出すに隨て、海に入れければ、日數の積れば、卒都婆の數もつもりけり。その思ふ心や便の風とも成たりけむ。又神明佛陀もや送らせ給ひけむ。千本の卒都婆のなかに、一本、安藝國嚴島の大明神の御前の渚に打あげたり。

こゝに康頼入道がゆかりありける僧、然るべき便もあらば、如何にもして彼島へ渡て、其行へを聞むとて、西國修行に出たりけるが、先嚴島へぞ參りたりける。爰に宮人とおぼしくて、狩衣裝束なる俗、一人出來たり。此僧何となき物語しけるに、「夫和光同塵の利生、樣々なりと申せども、如何なりける因縁を以て、此御神は海漫の鱗に縁をば結ばせ給ふらん。」と問奉る。宮人答けるは、「是はよな、娑竭羅龍王の第三の姫宮、胎藏界の垂跡也。」此島へ御影向有し始より濟度利生の今に至るまで、甚深奇特の事共をぞ語ける。さればにや、八社の御殿甍を竝べ、社はわたつみの邊なれば、汐の滿乾に月ぞすむ。汐滿くれば、大鳥居緋の玉垣瑠璃の如し。汐引ぬれば夏の夜なれど、御前の白洲に霜ぞおく。いよ/\尊く覺て、法施參せて居たりけるに、漸々日暮月指いでて、汐の滿けるが、そこはかとなき、藻くづ共のゆられける中に、卒都婆の形の見えけるを、何となう取て見ければ、沖の小島に我ありと、書流せる言葉也。文字をば彫入刻附たりければ、波にも洗はれず、あざあざとしてぞ見えける。「あな、不思議。」とて、是を笈のかたにさし、都へ上り、康頼が老婆の尼公妻子共が、一條の北、紫野と云處に忍つゝ住けるに、見せたりければ、「さらば此卒都婆が唐の方へもゆられ行かで、なにしに是迄傳ひ來て、今更物を思はすらん。」とぞ悲みける。遙の叡聞に及で、法皇之を御覽じて、「あな無慚や、さればいまだこの者共は命の生て有にこそ。」と、御涙を流させ給ふぞ忝き。小松の大臣の許へ送らせ給ひたりければ、是を父の入道相國に見せ奉り給ふ。柿本人丸は、島がくれ行舟を思ひ、山邊赤人は、蘆邊の田鶴をながめ給ふ。住吉明神は、かたそぎの思をなし、三輪明神は、杉立る門をさす。昔素盞嗚尊、三十一字の和歌を始めおき給しより以來、諸の神明佛陀も、彼詠吟を以て、百千萬端の思を述給ふ。入道も岩木ならねば、さすが哀げにぞ宣ひける。

蘇武

入道相國の憐み給ふ上は、京中の上下、老たるも若きも、鬼界が島の流人の歌とて、口ずさまぬは無りけり。さても千本迄造り出せる卒都婆なれば、さこそは小さうも有けめ。薩摩潟より遙々と、都まで傳はりけるこそ不思議なれ。餘に思ふ事はかく驗有にや。

古漢王胡國を攻られけるに、始は李少卿を大將軍にて、三十萬騎むけられたりけるが、漢王の軍弱く、胡國の戰強して、官軍皆討ち滅さる。剩へ大將軍李少卿、胡王のために生擒らる。次に蘇武を大將軍にて、五十萬騎を向けらる。猶漢の軍弱く夷の戰強して官軍皆滅にけり。兵六千餘人生擒らる。其中に大將軍蘇武を始として、宗との兵六百三十餘人、勝出し一々に片足を切て、追放つ。即死する者もあり、程へて死ぬる者もあり。其中にされ共蘇武は死ざりけり。片足なき身となて、山に上ては木の實を拾ひ、春は澤の根芹をつみ、秋は田面の落穗を拾ひなどして露の命を過しけり。田にいくらもありける鴈ども、蘇武に見馴て恐ざりければ、是等は皆我故郷へ通ふ者ぞかしと懷しさに、思ふ事を一筆書て、「相構て是漢王に上れ。」と云含め、鴈の翅に結つけてぞ放ける。かひ%\しくも田面の鴈、秋は必ずこしぢより都へ通ふものなるに、漢の昭帝上林苑に御遊ありしに、夕されの空うす曇り、なにとなう物哀なりけるをりふし、一行の鴈飛渡る。其中より鴈一つ飛さがて、己が翅に結附たる玉章をくひ切てぞ落しける。官人これを取て、御門に上る。披て叡覽あれば、「昔は巖窟の洞に籠られて、三春の愁歎を送り、今は昿田の畝に捨られて、胡狄の一足となれり。縱骸は胡の地に散すと云とも、魂は二度君邊に仕へん。」とぞ書たりける。其よりしてぞ文をば鴈書ともいひ、鴈札とも名付たる。「あな無慚や蘇武が譽の跡なりけり。未胡國にあるにこそ。」とて、今度は李廣と云將軍に仰て、百萬騎を差遣す。今度は漢の戰強くして、胡國の軍破れにけり。御方戰勝ぬと聞えしかば、蘇武は昿野の中より這出て、「是こそ古の蘇武よ。」と名乘る。十九年の星霜を送て、片足は切れながら、輿に舁れて、故郷へぞ歸りける。蘇武十六の歳より胡國へ向けられけるに、御門より賜りたりける旗をば何としてかかくしたりけん、身を放たず持たりけり。今取出して御門の見參に入たりければ、君も臣も感嘆斜ならず。君の爲大功雙無りしかば、大國數多賜り、其上典屬國と云司を下されけるとぞ聞えし。

李少卿は、胡國に留て、終に歸らず。如何にもして漢朝へ歸らんとのみ歎けども、胡王許さねば叶はず。漢王是をば知り給はず、君の爲に不忠の者なりとて、はかなくなれる二親の骸を掘起いて打せらる。其外六親を皆罪せらる。李少卿此由を傳聞いて、恨深うぞ成にける。さりながら猶故郷を戀つゝ、君に不忠なき樣を一卷の書に作て參らせたりければ、「さては不愍の事ごさんなれ。」とて、父母が骸を掘いだいて打せられたる事をぞ、悔しみ給ひける。漢家の蘇武は、書を鴈の翅に附て舊里へ送り、本朝の康頼は、浪の便に歌を故郷に傳ふ。彼は一筆のすさみ、是は二首の歌、彼は上代、是は末代、胡國、鬼界が島、境を隔て、世々は替れども、風情は同じ風情。ありがたかりし事ども也。

平家物語卷第二