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平家物語卷第一
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1. 平家物語卷第一

祇園精舎

祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山、是等は皆舊主先皇の政にもしたがはず、樂みをきはめ、諫をおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の愁る所をしらざりしかば、久からずして亡じし者ども也。近く本朝をうかがふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、此等はおごれる心もたけき事も皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道、前太政大臣平朝臣清盛公と申し人のありさま、傳へうけたまはるこそ心も詞も及ばれね。

其先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王九代の後胤讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の嫡男なり。彼親王の御子、高親王無官無位にして、うせ給ひぬ。其御子高望の王の時始めて平の姓を給て、上總介になり給しより、忽に王氏を出て人臣につらなる。其子鎭守府將軍義茂後には國香とあらたむ。國香より正盛に至る迄、六代は諸國の受領たりしかども、殿上の仙籍をばいまだゆるされず。

殿上闇討

しかるを忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願得長壽院を造進して三十三間の御堂をたて、一千一體の御佛をすゑ奉る。供養は天承元年三月十三日なり。勸賞には闕國を給ふべき由仰下されける。境節但馬國のあきたりけるを給にけり。上皇御感のあまりに内の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて始て昇殿す。雲の上人是を嫉み、同き年の十一月廿三日、五節豐明の節會の夜、忠盛を闇討にせむとぞ擬せられける。忠盛是を傳へ聞て、「われ右筆の身にあらず、武勇の家に生れて、今不慮の恥にあはむ事、家の爲、身の爲、こゝろうかるべし。せむずるところ、身を全して君に仕といふ本文あり。」とて、兼て用意をいたす。參内のはじめより大なる鞘卷を用意して束帶のしたにしどけなげにさし、火のほのくらき方にむかて、やはら、此刀をぬき出し、鬢にひきあてられけるが、氷などの樣にぞみえける。諸人目をすましけり。其上忠盛の郎等もとは一門たりし木工助平貞光が孫しんの三郎太夫家房が子、左兵衞尉家貞といふ者ありけり。薄青の狩衣の下に萠黄威の腹卷をき、弦袋つけたる太刀脇はさんで、殿上の小庭に畏てぞ候ける。貫首以下あやしみをなし、「うつぼ柱よりうち、鈴の綱のへんに布衣の者の候ふはなにものぞ。狼藉なり。罷出よ。」と、六位をもていはせければ、家貞申けるは「相傳の主、備前守殿今夜闇討にせられ給べき由承候あひだ、其ならむ樣を見むとて、かくて候。えこそ罷出まじけれ。」とて畏て候ければ、是等をよしなしとやおもはれけん、其夜の闇討なかりけり。

忠盛御前のめしにまはれければ、人々拍子をかへて「伊勢平氏はすがめなりけり。」とぞはやされける。此人々はかけまくもかたじけなく柏原天皇の御末とは申ながら、中比は都の住居もうと/\しく、地下にのみ振舞なて伊勢國に住國ふかかりしかば、其國の器に事よせて、伊勢平氏とぞ申ける。其うへ忠盛目のすがまれたりければ、加樣にはやされけり。いかにすべき樣もなくして、御遊もいまだをはらざるに、竊に罷出らるとて、よこたへさされたりける刀をば紫宸殿の御後にして、かたへの殿上人のみられける所にて、主殿司をめしてあづけ置てぞ出られける。家貞待うけたてまつて、「さていかゞ候つる。」と申ければ、かくともいはまほしう思はれけれども、いひつるものならば、殿上までもやがてきりのぼらんずる者にてある間、「別の事もなし。」とぞ答られける。

五節には、「白薄樣、こぜむじの紙、卷上の筆、鞆繪ゑがいたる筆の軸」なんどさま%\面白き事をのみこそうたひまはるるに、中比太宰權帥季仲卿といふ人ありけり。あまりに色のくろかりければ、見る人黒帥とぞ申ける。其人いまだ藏人頭なりし時、五節にまはれければ、それも拍子をかへて、「あなくろ/\、くろき頭かな。いかなる人のうるしぬりけむ。」とぞはやされける。又花山院前太政大臣忠雅公、いまだ十歳と申し時、父中納言忠宗卿におくれたてまつて孤にておはしけるを、故中御門藤中納言家成卿いまだ播磨守たりし時、聟に執て、聲花にもてなされければ、それも五節に「播磨米はとくさか、むくの葉か、人のきらをみがくは。」とぞはやされける。上古には加樣にありしかども事いでこず。末代いかゞあらんずらむ、おぼつかなしとぞ人申ける。

案のごとく五節はてにしかば、殿上人一同に申されけるは、「夫雄劍を帶して公宴に列し、兵仗を給て、宮中を出入するはみな格式の禮をまもる綸命よしある先規なり。しかるを忠盛朝臣或は相傳の郎從と號して布衣の兵を殿上の小庭にめしおき、或は腰の刀を横へさいて節繪の座につらなる。兩條希代いまだきかざる狼藉なり。事既に重疊せり。罪科尤ものがれがたし。早く御札をけづて闕官停任せらるべき由」おの/\訴へ申されければ、上皇大に驚きおぼしめし、忠盛をめして御尋あり。陳じ申けるは、「まづ郎從小庭に祗候の由、全く覺悟つかまつらず。但し、近日人々あひたくまるゝ旨子細ある歟の間、年來の家人、事をつたへきくかによて其恥をたすけむが爲に、忠盛にしられずして竊に參候の條力及ざる次第なり。若し猶其咎あるべくば、彼身をめし進ずべき歟。次に刀の事、主殿司に預け置をはぬ。是をめし出され刀の實否について咎の左右あるべき歟。」と申。しかるべしとて、其刀をめし出して叡覽あれば、上は鞘卷のくろくぬりたりけるが、中は木刀に銀薄をぞおしたりける。「當座の恥辱をのがれん爲に刀を帶する由あらはすといへども、後日の訴訟を存知して、木刀を帶しける用意のほどこそ神妙なれ。弓箭に携らむ者のはかりごとは尤かうこそあらまほしけれ。兼ては又郎從小庭に祗候の條且は武士の郎等のならひなり。忠盛が咎にあらず。」とて却て叡感にあづかしうへは敢て罪科の沙汰もなかりけり。

其子どもは諸衞の佐になり、昇殿せしに殿上のまじはりを人きらふに及ばず。

其比、忠盛、備前國より都へのぼりたりけるに、鳥羽院「明石浦はいかに。」と御尋ありければ、

あり明の月もあかしのうら風に、浪ばかりこそよると見えしか。

と申たりければ、御感ありけり。この歌は金葉集にぞ入られける。

忠盛又仙洞に最愛の女房をもてかよはれけるが、ある時、其女房のつぼねに、つまに月出したる扇をわすれて出られたりければ、かたへの女房たち「是はいづくよりの月影ぞや。出どころおぼつかなし。」などわらひあはれければ、彼女房、

雲井よりたゞもりきたる月なれば、おぼろげにてはいはじとぞ思ふ。

とよみたりければ、いとゞあさからずぞおもはれける。薩摩守忠度の母、是なり。にるを友とかやの風情に忠盛もすいたりければ、かの女房も優なりけり。かくて忠盛刑部卿になて、仁平三年正月十五日歳五十八にてうせにき。清盛嫡男たるによてその迹をつぐ。

保元々年七月に宇治の左府代をみだり給し時、安藝守とて御方にて勳功ありしかば、播磨守にうつて同三年太宰大貳になる。次に平治元年十二月、信頼卿が謀反の時、御方にて賊徒をうちたひらげ、勳功一にあらず、恩賞是おもかるべしとて、次の年正三位に敍せられ、うちつゞき、宰相、衞府督、檢非違使別當、中納言、大納言に歴あがて、剰へ丞相の位にいたり、左右を歴ずして内大臣より太政大臣從一位にあがる。大將にあらね共、兵仗をたまはて隨身をめし具す。牛車輦車の宣旨を蒙て、のりながら宮中を出入す。偏に執政の臣のごとし。「太政大臣は一人に師範として四海に儀刑せり。國を治め、道を論じ、陰陽をやはらげをさむ。其人にあらずば即ち闕けよ。」といへり。されば則闕の官とも名付たり。其人ならではけがすべき官ならねども、一天四海を掌の内ににぎられしうへは子細に及ばず。

平家かやうに繁昌せられけるも熊野權現の御利生とぞきこえし。其故は、古へ清盛公、いまだ安藝守たりし時、伊勢の海より船にて熊野へまゐられけるに、大きなる鱸の船にをどり入たりけるを、先達申けるは、「是は權現の御利生なり。いそぎまゐるべし。」と申ければ、清盛のたまひけるは、「昔、周の武王の船にこそ白魚は躍入たりけるなれ。是吉事なり。」とて、さばかり十戒をたもちて、精進潔齋の道なれども、調味して家の子、侍ともにくはせられけり。其故にや吉事のみうちつゞいて太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途も龍の雲に上るよりは猶すみやかなり。九代の先蹤をこえ給ふこそ目出けれ。

禿髮

角て清盛公、仁安三年十一月十一日歳五十一にて病にをかされ、存命の爲に忽に出家入道す。法名は淨海とこそなのられけれ。其しるしにや、宿病たちどころにいえて、天命を全す。人のしたがひつく事吹風の草木をなびかすがごとし。世のあまねく仰げる事ふる雨の國土をうるほすに同じ。

六波羅殿の御一家の君達といひてしかば、花族も英雄も面をむかへ肩をならぶる 人なし。されば入道相國のこしうと、平大納言時忠卿ののたまひけるは「此一門にあ らざらむ人は皆人非人なるべし。」とぞのたまひける。かゝりしかば、いかなる人も 相構へて其ゆかりにむすぼほれんとぞしける。衣文のかきやう烏帽子のため樣よりは じめて何事も六波羅樣といひてければ、一天四海の人皆是をまなぶ。

又いかなる賢王聖主の御政も攝政關白の御成敗も世にあまされたるいたづら者な どの、人のきかぬ處にてなにとなうそしり傾け申事は常の習なれども、此禪門世ざか りの程は聊いるかせにも申者なし。其故は入道相國のはかりごとに十四五六の童部を 三百人そろへて、髮をかぶろにきりまはし、あかき直垂をきせて、めしつかはれける が、京中にみち/\て、往反しけり。自ら平家の事あしざまに申者あれば、一人きゝ 出さぬほどこそありけれ、餘黨に觸廻して、其家に亂入し資材雜具を追捕し、其奴を 搦とて、六波羅へゐてまゐる。されば目に見、心に知るといへども、詞にあらはれて 申者なし。六波羅殿の禿と云ひてしかば、道をすぐる馬車もよぎてぞ、通りける。禁 門を出入すといへども姓名を尋らるゝに及ばず、京師の長吏これが為に目を側むとみ えたり。

吾身榮花

吾身の榮花を極るのみならず、一門共に繁昌して、嫡子重盛、内大臣の左大將、次男宗盛、中納言の右大將、三男知盛、三位中將、嫡孫維盛、四位少將、すべて一門 の公卿十六人、殿上人三十餘人、諸國の受領、衞府、諸司、都合六十餘人なり。世にはまた人なくぞ見えられける。

昔奈良の御門の御時、神龜五年、朝家に中衞の大將をはじめおかれ、大同四年に 中衞を近衞と改られしよりこのかた、兄弟左右に相並事僅に三四箇度なり。文徳天皇 の御時は左に良房右大臣左大將、右に良相、大納言の右大將、是は閑院の左大臣冬嗣 の御子なり。朱雀院の御宇には左に實頼、小野宮殿、右に師輔、九條殿、貞信公の御 子なり。御冷泉院の御時は、左に教通、大二條殿、右に頼宗、堀河殿、御堂の關白の 御子なり。二條院の御宇には左に基房、松殿、右に兼實、月輪殿、法性寺殿の御子な り。是皆攝祿の臣の御子息、凡人にとりては其例なし。殿上 の交をだにきらはれし人の子孫にて禁色雜袍をゆり、綾羅錦繍を身にまとひ、大臣大 將になて、兄弟、左右に相並事、末代とはいひながら不思議なりし事どもなり。

其外御娘八人おはしき。皆とり/\に幸給へり。一人は櫻町の中納言重教卿の北 の方にておはすべかりしが、八歳の時約束ばかりにて平治の亂以後ひきちがへられ、 花山院の左大臣殿の御臺盤所にならせ給て君達あまたましましけり。

抑この重教卿を櫻町の中納言と申ける事はすぐれて心數奇給へる人にて、つねは吉野山をこひ、町に櫻をうゑならべ、其内に屋を立て、すみたまひしかば、來る年の春ごとに、みる人櫻町とぞ申ける。櫻はさいて七箇日にちるを、名殘を惜み天照御神に祈申されければ、三七日迄名殘ありけり。君も賢王にてましませば神も神徳を輝かし、花も心ありければ、二十日の齡をたもちけり。

一人は后にたゝせ給ふ。王子御誕生ありて皇太子に立ち、位につかせ給しかば、院號かうぶらせ給ひて、建禮門院とぞ申ける。入道相國の御娘なるうへ、天下の國母にてましましければとかう申におよばず。一人は六條の攝政殿の北政所にならせ給ふ。高倉院御在位の時御母代とて准三后の宣旨をかうぶり、白河殿とておもき人にてましましけり。一人は普賢寺殿の北の政所にならせ給ふ。一人は冷泉大納言隆房卿の北方。一人は七條修理大夫信隆卿に相具し給へり。又安藝國嚴島の内侍が腹に一人おはせしは、後白河の法皇へまゐらせたまひて女御のやうにてぞましましける。其外九條院の雜仕常葉が腹に一人。これは花山院殿に上臈女房にて廊の御方とぞ申ける。

日本秋津島は纔に六十六箇國、平家知行の國三十餘箇國、既に半國にこえたり。其外莊園田畠いくらといふ數をしらず。綺羅充滿して、堂上花の如し。軒騎群集して門前市をなす。楊州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七珍萬寶一として闕たる事なし。歌堂舞閣の基、魚龍爵馬の翫物、恐らくは帝闕も仙洞も是にはすぎじとぞ見えし。

祇王

入道相國、一天四海をたなごゝろのうちににぎりたまひし間、世のそしりをもはばからず、人の嘲りをもかへり見ず、不思議の事をのみし給へり。たとへば其比都に聞えたる白拍子の上手、祇王祇女とて兄弟あり、とぢといふ白拍子が娘なり。姉の祇王を入道相國最愛せられければ、是によて妹の祇女をも世の人もてなす事なのめならず。母とぢにもよき屋つくてとらせ、毎月百石百貫をおくられければ、家内富貴してたのしい事なのめならず。

抑我朝に白拍子のはじまりける事は、昔鳥羽院の御宇に島の千歳和歌の前とてこれら二人がまひいだしたりけるなり。始めは水干に立烏帽子、白鞘卷をさいて、舞ひければ、男舞とぞ申ける。然るを中比より烏帽子、刀をのけられ、水干ばかりをもちゐたり、さてこそ白拍子とは名付けれ。

京中の白拍子ども祇王が幸の目出度きやうをきいてうらやむ者もあり、そねむ者もありけり。羨む者共は「あなめでたの祇王御前が幸や。おなじあそび女とならば、誰もみなあの樣でこそありたけれ。いかさま是は祇といふ文字を名についてかくはめでたきやらん。いざ我等もついて見む。」とて或は祇一と付き、祇二と付き、或は祗福祗徳などいふ者も有けり。そねむ者どもは「なん條名により、文字にはよるべき。幸はたゞ前世の生れつきにてこそあんなれ。」とてつかぬ者もおほかりけり。

かくて三年と申に又都にきこえたる白拍子の上手一人出來たり。加賀國のものなり。名をば佛とぞ申ける。年十六とぞきこえし。「昔よりおほくの白拍子ありしかども、かかる舞は、いまだ見ず。」とて京中の上下もてなす事なのめならず。佛御前申けるは「我天下に聞えたれども、當時さしもめでたうさかえさせ給ふ平家太政の入道殿へめされぬ事こそ本意なけれ。あそびもののならひ、なにかはくるしかるべき。推參して見む。」とて、ある時西八條へぞまゐりたる。人まゐて「當時都にきこえ候佛御前こそまゐて候へ。」と申しければ、入道「なんでうさやうのあそびものは人の召に隨てこそ參れ。左右なう推參する樣やある。祇王があらん處へは神ともいへ、佛ともいへ、かなふまじきぞ。とう/\罷出よ。」とぞの給ひける。佛御前はすげなういはれたてまつて、已にいでんとしけるを、祇王、入道殿に申けるは「あそび者の推參は常の習でこそ候へ。其上、年もいまだをさなう候ふなるが、たま/\思たてまゐりて候を、すげなう仰られてかへさせ給はん事こそ不便なれ。いかばかりはづかしうかたはらいたくも候ふらむ。わがたてし道なれば、人の上ともおぼえず。たとひ舞を御覽じ、歌をきこしめさずとも、御對面ばかりさぶらうてかへさせ給ひたらば、ありがたき御情でこそ候はんずれ。たゞ理をまげて、めしかへして御對面さぶらへ。」と申ければ、入道、「いで/\、我御前があまりにいふ事なれば、見參してかへさむ。」とてつかひを立てぞめされける。佛御前はすげなういはれたてまつて車に乘て既にいでんとしけるが、めされて歸參りたり。入道出あひ對面して「今日の見參はあるまじかりつるを、祇王が何と思ふやらん、餘りに申しすゝむる間、か樣に見參しつ。見參する程にてはいかで聲をもきかであるべきぞ。今樣一つうたへかし。」とのたまへば、佛御前「承りさぶらふ。」とて今樣一つぞ歌うたる。

君をはじめて見るをりは、千代も歴ぬべし姫小松、
御前の池なる龜岡に、鶴こそ群れ居て遊ぶめれ。

とおし返し/\三返歌すましたりければ、見聞の人々みな耳目をおどろかす。入道もおもしろげに思ひ給ひて、「我御前は今樣は上手でありけるよ。此定では舞も定めてよかるらん。一番見ばや。鼓打めせ。」とてめされけり。うたせて一番舞たりけり。

佛御前は髮姿よりはじめてみめ形うつくしく聲よく節も上手でありければ、なじかは舞もそんずべき。心も及ばず舞すましたりければ、入道相國舞にめで給ひて佛に心をうつされけり。佛御前「こはされば何事さぶらふぞや。もとよりわらはは、推參の者にていだされまゐらせさぶらひしを、祇王御前の申状によてこそ召返されても候に、加樣にめしおかれなば、祇王御前の思ひ給はん心のうちはづかしうさぶらふ。はや/\暇をたうで出させおはしませ。」と申ければ、入道、「すべて其儀あるまじ。但祇王があるをはゞかるか。其儀ならば祇王をこそいださめ。」と宣ひける。佛御前「それ又いかでかさる御事候べき。諸共にめしおかれんだに心うう候べきに、まして祇王御前を出させ給ひて、わらは一人めしおかれなば、祇王御前の心のうちはづかしう候ふべし。おのづから後までわすれぬ御事ならば、めされて又は參るとも、今日は暇を給らむ。」とぞ申ける。入道「なんでう其儀あるべき。祇王とう/\罷出でよ。」と御使かさねて三度までこそ立てられけれ。祇王もとよりおもひ設けたる道なれども、さすがに昨日今日とは思よらず。いそぎ出べき由頻にのたまふ間、はき拭ひ、塵ひろはせ、見苦しき物共とりしたためて出づべきにこそ定まりけれ。一樹の陰に宿り合ひ、同じ流をむすぶだに別はかなしき習ぞかし。まして此三年が間住なれし處なれば、名殘もをしう悲しくて、かひなき涙ぞこぼれける。さてもあるべき事ならねば、祇王すでに、今はかうとて、出けるが、なからん跡の忘れ形見にもとや思ひけむ、障子になく/\一首の歌をぞかきつけける。

萠出るも枯るゝも同じ野邊の草、何れか秋にあはではつべき。

さて車に乘て宿所に歸り、障子の内に倒れ臥し、唯泣くより外の事ぞき。母や妹是をみて「如何にやいかに。」ととひけれども、とかうの返事にも及ばず。具したる女に尋ねてぞさる事ありともしりてける。さる程に毎月に送られつる百石百貫をも今はとゞめられて、佛御前がゆかりの者共ぞ、始めて、樂み榮えける。京中の上下、「祇王こそ入道殿よりいとま給はて出でたんなれ。いざ見參して遊ばむ。」とて、或は文をつかはす人もあり、或は使を立つる者もあり。祇王さればとて今更人に對面してあそびたはぶるべきにもあらねば、文を取入るゝ事もなく、まして使にあひしらふ迄もなかりけり。是につけても悲しくていとゞ涙にのみぞしづみける。

かくて今年も暮れぬ。あくる春の比、入道相國、祇王が許へ使者を立てて、「いかに其後何事かある。佛御前があまりにつれ/\げに見ゆるに、まゐて今樣をもうたひ、舞などをも舞て佛なぐさめよ。」とぞ宣ひける。祇王とかうの御返事にも及ばず。入道「など祇王は返事はせぬぞ。參るまじいか。參るまじくば、其樣を申せ。淨海もはからふ旨あり。」とぞ宣ひける。母とぢ是を聞くにかなしくて、

[_]
[1]いかなるべしともおぼえす、
なく/\教訓しけるは、「いかに祇王御前、ともかくも御返事を申せかし、さやうにしかられ參らせんよりは。」といへば、祇王「參らんとおもふ道ならばこそやがて參るとも申さめ。參らざらんもの故に何と御返事を申すべしともおぼえず。此度めさんに參らずばはからふ旨ありと仰せらるゝは、都の外へ出さるゝか、さらずば命を召さるゝか、是二つによも過ぎじ。縱都を出さるゝとも、歎くべきにあらず。たとひ命を召さるゝとも、惜かるべき又わが身かは。一度憂きものに思はれ參らせて二度面をむかふべきにもあらず。」とて、なほ御返事をも申さゞりけるを、母とぢ重ねて教訓しけるは、「天が下に住ん程はともかうも入道殿の仰をば背くまじき事にてあるぞ。男女の縁宿世今にはじめぬ事ぞかし。千年萬年と契れども、軈て離るゝ中もあり。白地とは思へどもながらへ果る事もあり。世に定なきものは男女の習なり。それに我御前は此三年まで思はれまゐらせたれば、ありがたき御情でこそあれ。めさんに參らねばとて命をうしなはるゝまではよもあらじ。唯都の外へぞ出されんずらん。縱ひ都を出さるとも、我御前たちは年若ければ、如何ならん岩木のはざまにても過さん事安かるべし。年老い衰へたる母都の外へぞ出されんずらん。習はぬ旅の住居こそかねて思ふも悲しけれ。唯我を都の内にて住果させよ。其ぞ今生後生の孝養と思はむずる。」といへば、祇王うしと思し道なれども、親の命を背かじと、なく/\又出立ける心の中こそ無慚なれ。一人參らむはあまりにものうしとて妹の祇女をも相具しけり。其外白拍子二人、惣じて四人一車に乘て、西八條へぞ參たる。さき/\召されたる處へはいれられずして、遙に下りたる處に座敷しつらうて置かれたり。祇王「こは、されば、何事ぞや。我身に過つ事は無けれども、すてられたてまつるだにあるに、座敷をさへ下げらるゝ事の心うさよ。いかにせむ。」と思ふに、知らせじと押ふる袖のひまよりも餘りて涙ぞこぼれける。佛御前是を見て、あまりにあはれに思ければ、「あれはいかに、日頃召されぬ所にても候はばこそ。是へ召され候へかし。さらずばわらはに暇を給べ。出でて見參せん。」と申ければ、入道「すべて其儀あるまじ。」と宣ふ間、力及ばで出でざりけり。其後入道は祇王が心の内をも知たまはず、「いかに其後何事かある。さては佛御前があまりにつれ/\げに見ゆるに、今樣一つ歌へかし。」とのたまへば、祇王參る程では、ともかうも入道殿の仰をば背くまじと思ひければ、落つる涙をおさへて、今樣一つぞ歌うたる。

佛も昔は凡夫なり、我等も遂には佛なり、
何も佛性具せる身を、隔つるのみこそ悲しけれ。

と泣く/\二返歌うたりければ、其座にいくらも並居たまへる平家一門の公卿、殿上人、諸大夫、侍に至るまで皆感涙をぞ流されける。入道も面白げにおもひ給ひて「時にとては神妙に申したり。さては舞も見たけれども、今日は紛るゝ事いできたり。此後は召さずとも、常に參て今樣をも歌ひ、舞などを舞て佛なぐさめよ。」とぞ宣ひける。祇王とかくの返事にも及ばず、涙を押へて出でにけり。

「親の命を背かじとつらき道におもむいて、二度、うき目を見つる事の心うさよ。かくて此世にあるならば、又憂き目をも見むずらん。今は只身を投げんとおもふなり。」といへば妹の祇女も「姉身を投げば、われもともに身を投ん。」といふ。母とぢ、是をきくに悲しくていかなるべしともおぼえず。泣々又教訓しけるは「誠に我御前の恨むるもことわりなり。さやうの事あるべしとも知らずして教訓して參らせつる事の心うさよ。但我御前身を

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[2]投げは
、妹もともに身を投げんといふ。二人の娘共に後れなん後、年老衰へたる母命いきてもなにゝかはせむなれば、我もともに身を投げむとおもふなり。いまだ死期も來らぬ親に身を投げさせん事五逆罪にやあらんずらむ。此世は假の宿なり。慚ても慚ても何ならず。唯長き世の闇こそ心うけれ。今生でこそあらめ。後生でだに惡道へ趣かんずる事の悲しさよ。」とさめざめとかき口説ければ、祇王なみだをおさへて「げにもさやうにさぶらはゞ五逆罪疑なし。さらば自害は思ひ止まり候ひぬ。かくて都にあるならば、又うき目をも見むずらん。今は都の外へ出でん。」とて祇王二十一にて尼になり、嵯峨野の奧なる山里に柴の庵をひきむすび念佛してこそ居たりけれ。妹の祇女も「姉身を投げば、我も共に身を投げんとこそ契りしか、まして世を厭はむに誰かは劣るべき。」とて十九にて樣をかへ、姉と一所に籠居て後世を願ふぞあはれなる。母とぢ是をみて若き娘どもだに樣を替る世中に年老い衰へたる母白髮をつけても何にかはせむとて四十五にて髮を剃り、二人の娘諸共に一向專修に念佛して、ひとへに後世をぞ願ひける。

かくて春過ぎ夏闌ぬ、秋の初風吹きぬれば、星合の空をながめつゝ、天のと渡る梶の葉に思ふ事かく比なれや。夕日の影の西の山の端に隱るゝを見ても、日の入給ふ所は西方淨土にてあんなり。いつか我等も彼處に生れて物を思はですぐさんずらんと、かゝるにつけても過ぎにし方の憂き事ども思ひ續けて、たゞ盡せぬ物は涙なり。黄昏時も過ぎぬれば竹の編戸を閉じ塞ぎ、燈かすかにかきたてて、親子三人念佛して居たる處に、竹の編戸を、ほと/\と打ちたゝく者出できたり。その時尼ども膽をけし「あはれ、是はいひかひなき我等が念佛してゐたるを妨げんとて、魔縁のきたるにてぞあるらん。晝だにも人の問ひ來ぬ山里の柴の庵の内なれば、夜深て誰かは尋ぬべき。僅の竹の編戸なれば、あけずとも推破んこと安かるべし。なか/\たゞあけていれんと思ふなり。それに情をかけずして、命を失ふものならば、年比頼たてまつる彌陀の本願を強く信じて、ひまなく名號を唱へ奉るべし。聲を尋ねて迎へ給ふなる聖衆の來迎にてましませば、などか引接なかるべき。相構へて念佛怠り給ふな。」と、互に心をいましめて、竹の編戸をあけたれば、魔縁にてはなかりけり、佛御前ぞ出できたる。祇王「あれはいかに。佛御前と見奉るは夢かや、うつゝか。」といひければ、佛御前涙をおさへて、「か樣の事申せば、事あたらしう候へども、申さずば、又思ひ知らぬ身ともなりぬべければ、始よりして申すなり。もとよりわらは推參の者にて、出され參らせ候ひしを、祇王御前の申状によてこそ、召し返されても候ふに、女のかひなきこと、我身を心に任せずして、おしとゞめられまゐらせし事心うゝさぶらひしが、いつぞや又めされまゐらせていまやううたひ給ひしにも思しられてこそさぶらへ。いつか我身の上ならんと思へば、嬉しとは更におもはず。障子にまた、『いづれか秋にあはではつべき。』と書置給ひし筆の跡、げにもと思ひさぶらひしぞや。その後は在所をいづくとも知りまゐらせざりつるに、かやうにさまを替て、一處にと承はて後は、あまりに羨しくて常は暇を申しかども、入道殿さらに御用ゐましまさず。つく%\物を案ずるに、娑婆の榮花は夢の夢、樂み榮えて何かせん。人身は受け難く、佛教には遇ひ難し。此度泥梨に沈みては、多生昿劫をば隔つとも、浮み上らんこと難し。年の若きを憑むべきにあらず。老少不定のさかひ、出づる息の入るをも待つべからず。かげろふ稻妻よりも猶はかなし。一旦の樂に誇りて、後生を知らざらんことの悲しさに、今朝まぎれ出でゝ、かくなりてこそ參りたれ。」とて、かつぎたる衣を打ちのけたるを見れば、尼になてぞ出できたる。「かやうに樣をかへて參りたれば、日比の科をば許し給へ。許さんと仰せられば、諸共に念佛して、一蓮の身とならん。それに猶心行かずば、是よりいづちへも迷ひ行き、如何ならん苔の席、松が根にも倒れ臥し、命のあらんかぎり念佛して、往生の素懷を遂げんとおもふなり。」とさめざめとかきくどきければ、祇王涙をおさへて、「誠にわごぜの是ほどに思ひ給ひけるとは。夢にだに知らず、憂き世の中のさがなれば、身の憂とこそおもふべきに、ともすれば、わごぜの事のみうらめしくて往生の素懷を遂ん事かなふべしともおぼえず、今生も後生も、なまじひに仕損じたるこゝちにてありつるに、かやうにさまをかへておはしたれば、日比の咎は露塵ほども殘らず、今は往生疑ひなし。此度素懷を遂げんこそ何よりも又嬉しけれ。我等が尼になりしをこそ世にためしなきことのやうに、人もいひ我身にも又思ひしか。それは世を恨み身を恨みて成しかば、樣を替るも理なり。今

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わこぜ
の出家にくらぶれば事の數にもあらざりけり。わごぜは恨もなし歎もなし。今年は纔に十七にこそなる人の、かやうに穢土を厭ひ、淨土を願はんと、深く思ひいれ給ふこそ、まことの大道心とはおぼえたれ。嬉しかりける善知識かな。いざ諸共に願はん。」とて、四人一所に籠り居て、朝夕佛前に花香を供へ、餘念なく願ひければ、遲速こそありけれ、四人の尼共皆往生の素懷を遂けるとぞ聞えし。されば、後白河の法皇の、長講堂の過去帳にも、祇王、祇女、佛、とぢ等が尊靈と四人一所に入れられけり。あはれなりし事どもなり。

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[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 32; hereafter cited as NKBT) reads いかなるべしともおぼえず。.
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[2] NKBT reads なげば.
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[3] NKBT reads わごぜ.

二代后

昔より今に至るまで、源平兩氏朝家に召しつかはれて、王化に隨はず、自朝權を輕んずる者には、互に誡を加しかば、代の亂れもなかりしに、保元に爲義きられ、平治に義朝誅せられて後は、末々の源氏ども、或は流され、或は失はれ、今は平家の一類のみ繁昌して、頭をさし出す者なし。如何ならん末の代までも、何事かあらむとぞ見えし。されども鳥羽院、御晏駕の後は、兵革打ち續き、死罪、流刑、闕官、停任、常に行はれて、海内も靜かならず。世間も末落居せず。就中に永暦應保の比よりして、院の近習者をば、内より御誡あり、内の近習者をば、院より誡めらるゝ間、上下おそれをのゝいて、安い心もなし。只深淵にのぞんで薄氷をふむに同じ、主上上皇、父子の御間には何事の御隔かあるべきなれども、思の外の事どもありけり。是も世澆季に及んで、人梟惡を先とする故なり。主上院の仰を常に申かへさせおはしましける中にも、人耳目を驚し、世以て大きに傾け申すことありけり。

故近衞院の后、太皇太后宮と申しは大炊御門右大臣公能公の御娘なり。先帝に後れ奉らせ給ひて後は、九重の外、近衞川原の御所にぞ移り住ませ給ひける。前の后の宮にて、幽なる御在樣にて渡らせ給ひしが、永歴のころほひは、御年二十二三にもやならせたまひけん、御盛りも少し過させおはしますほどなり。されども、天下第一の美人の聞えまし/\ければ、主上色にのみ染める御心にて、竊に高力士に詔して、外宮に引き求めしむるに及んで、この大宮へ御艶書あり。大宮敢て聞食しもいれず。されば、ひたすらはやほに現はれて、后御入内あるべきよし、右大臣家に宣旨を下さる。此事天下に於て、異なる勝事なれば、公卿僉議あり、各意見をいふ。「先づ異朝の先蹤をとぶらふに、震旦の則天皇后は、唐の太宗の后、高宗皇帝の繼母なり。太宗崩御の後、高宗の后に立ち給へることあり。それは異朝の先規たる上、別段の事なり。然れども我朝には、神武天皇より以降、人皇七十餘代に及まで、いまだ二代の后に立たせ給へる例を聞かず。」と、諸卿一同に申されけり。上皇も然るべからざるよし、こしらへ申させ給へば、主上仰なりけるは、「天子に父母なし、我十善の戒功によて、萬乘の寶位をたもつ、是程のこと、などか叡慮に任せざるべき。」とて、やがて御入内の日、宣下せられける上は、力及ばせ給はず。

大宮かくと聞しめされけるより、御涙に沈ませおはします。先帝に後させ參らせにし久壽の秋のはじめ、同じ野原の露と消え、家をも出、世をも遁れたりせば、かゝる憂き耳をば聞かざらましとぞ、御歎ありける。父の大臣、こしらへ申させ給ひけるは、「世に從はざるを以て、狂人とすと見えたり。既に詔命を下さる。仔細を申すにところなし。只速に參らせ給ふべきなり。もし皇子御誕生ありて、君も國母といはれ、愚老も外祖と仰がるべき瑞相にてもや候ふらむ。是偏に愚老をたすけさせおはします御孝行の御至なるべし。」と、申させ給へども、御返事もなかりけり。大宮その比、なにとなき御手習の次に、

うきふしにしづみもやらで河竹の、世にためしなき名をやながさん。

世にはいかにして漏れけるやらん、哀にやさしきためしにぞ人々申しあへりける。

既に御入内の日になりしかば、父の大臣供奉の上達部、出車の儀式など、心ことにだしたて參らせ給ひけり。大宮ものうき御出立なれば、とみにもたてまつらず。遙に夜も深け、小夜も半になて後、御車に抜け乘せられ給ひけり。御入内の後は、麗景殿にぞまし/\ける。ひたすら、朝政をすゝめ申させ給ふ御在樣なり。彼紫宸殿の皇居には、賢聖の障子を立てられたり。伊尹、第伍倫、虞世南、太公望、ろく里先生、李勣、司馬、手長、足長、馬形の障子、鬼の間、李將軍が姿をさながら寫せる障子もあり。尾張守小野道風が、七囘賢聖の障子と書けるも、理とぞ見えし。かの清凉殿の畫圖の御障子には、昔金岡が書きたりし遠山の在明の月もありとかや。故院の未幼主にてましましけるそのかみ、何となき御手まさぐりの次に、かきくもらかさせ給ひしが、ありしながらに少しもたがはぬを御覽じて、先帝の昔もや御戀しくおぼし召されけん。

思ひきや憂き身ながらにめぐり來て、おなじ雲井の月を見むとは。

その間の御なからへ、いひしらず哀にやさしかりし御事なり。

さる程に、永萬元年の春の比より、主上御不豫の御事と聞えさせ給ひしが、夏の初になりしかば、事の外に重らせ給ふ。是によて、大藏の大輔伊吉兼盛が娘の腹に、今上の一の宮の二歳にならせ給ふがまし/\けるを、太子にたてまゐらせ給ふべしと聞えし程に、同六月二十五日、俄に親王の宣旨下されて、やがてその夜受禪ありしかば、天下何となうあわてたるさま也。その時の有職の人々申しあはれけるは、本朝に、童帝の例を尋ぬれば、清和天皇九歳にして、文徳天皇の御禪を受けさせ給ふ。それは彼周公旦の成王に代り、南面にして、一日萬機の政を治め給ひしに准へて、外祖忠仁公、幼主を扶持し給へり。是ぞ攝政のはじめなる。鳥羽院五歳、近衞院三歳にて踐祚あり。かれをこそいつしかなりと申しに、是は二歳にならせ給ふ。先例なし。物さわがしともおろかなり。

額打論

さる程に、同七月廿七日、上皇竟に崩御なりぬ。御歳二十三。蕾める花の散れるが如し。玉の簾、錦の帳のうち、皆御涙に咽ばせ給ふ。やがて、その夜、香隆寺の艮、蓮臺野の奧、船岡山にをさめ奉る。御葬送の時、延暦寺、興福寺の大衆、額打論といふ事しいだして、互に狼藉に及ぶ。一天の君崩御なて後、御墓所へわたし奉る時の作法は、南北二京の大衆悉く供奉して、御墓所の廻に、わが寺々の額をうつことあり。先づ聖武天皇の御願、爭ふべき寺なければ、東大寺の額をうつ。次に淡海公の御願とて、興福寺の額をうつ。北京には、興福寺に向へて延暦寺の額をうつ。次に天武天皇の御願、教待和尚、智證大師の草創とて、園城寺の額をうつ。然るを山門の大衆、いかがおもひけん、先例を背て、東大寺の次ぎ、興福寺のうへに、延暦寺の額を打つ間、南都の大衆、とやせましかやうせましと僉議するところに、興福寺の西金堂の衆、觀音房、勢至房とて聞えたる大惡僧二人ありけり。觀音房は黒絲威の腹卷に、白柄の長刀くきみじかに取り、勢至房は、萠黄威の腹卷に、黒漆の大太刀もて、二人つと走出で、延暦寺の額をきて落し、散々に打わり、「うれしや水、なるは瀧の水、日はてるとも、絶えずとうたへ。」とはやしつゝ、南都の衆徒の中へぞ入りにける。

清水寺炎上

山門の大衆、狼藉をいたさば、手向へすべき處に、心深うねらふ方もやありけん。一詞も出さず。御門かくれさせ給ひては、心なき草木までも、愁へたる色にてこそあるべきに、この騒動のあさましさに、高きも賤きも、肝魂を失て四方へ皆退散す。同二十九日の午の刻ばかり、山門の大衆おびたゞしう下洛すと聞えしかば、武士、非違使、西坂本に馳向て、防ぎけれども、事ともせずおしやぶて亂入す。何者の申出したりけるやらむ、一院、山門の大衆に仰せて、平家を追討せらるべしと聞えし程に、軍兵内裏に參じて、四方の陣頭を警固す。平氏の一類、皆六波羅へ馳集る。一院も、急ぎ六波羅へ御幸なる。清盛公其比、いまだ大納言にておはしけるが、大に恐れさわがれけり。小松殿「何によてか、唯今さる事あるべき。」と、しづめられけれども、上下ののしりさわぐことおびたゞし。山門の大衆、六波羅へは寄せずして、すずろなる清水寺におしよせて、佛閣僧房一宇も殘さず燒はらふ。是はさんぬる御葬送の夜の會稽の耻を雪めんがためとぞ聞えし。清水寺は、興福寺の末寺たるによてなり。清水寺燒けたりける朝、何者の態にや在けん、「觀音火坑變成池はいかに」と札に書て、大門の前にたてたりければ、次の日、又「歴劫不思議力不及」と、返しの札をぞ打たりける。

衆徒返り上りければ、一院六波羅より還御なる。重盛卿ばかりぞ、御ともには參られける。父の卿は參られず。猶用心のためかとぞ聞えし。重盛卿、御送よりかへられたりければ、父の大納言の給ひけるは、「一院の御幸こそ大きに恐れおぼゆれ。かねても思しめしより、仰せらるゝ旨のあればこそかうは聞ゆらめ、それにも打解給ふまじ。」とのたまへば、重盛卿申されけるは、「此事ゆめ/\御けしきにも、御詞にも出させ給ふべからず、人に心附けがほに、中々惡しき御事なり。それにつけても叡慮に背き給はで、人のために御なさけを施させましまさば、神明三寶加護あるべし。さらんにとては、御身の恐れ候ふまじ。」とて、立たれければ「重盛卿は、ゆゝしく大樣なるものかな。」とぞ父の卿ものたまひける。

一院還御の後、御前にうとからぬ近習者達あまた候はれけるに、「さても不思議の事を申し出したるものかな。露もおぼし召よらぬものを。」と仰ければ、院中の切者に西光法師といふ者あり。境節御前近う候ひけるが、「天に口なし、人を以ていはせよと申す。平家以外に過分に候間、天の御計らひにや。」とぞ申しける。人々「この事よしなし。壁に耳あり、おそろしおそろし。」とぞ申あはれける。

東宮立

さる程に、その年は諒闇なりければ、御禊大甞會も行はれず。同十二月二十四日、建春門院その比はいまだ東の御方と申しける御腹に、一院の宮まし/\けるが、親王の宣旨下され給ふ。

明くれば、改元ありて仁安と號す。同年の十月八日、去年親王の宣旨蒙らせ給し皇子、東三條にて春宮に立たせ給ふ。春宮は御伯父六歳、主上は御甥三歳、何れも昭穆に相叶はず。但し寛和二年、一條院七歳にて御即位。三條院十一歳にて東宮に立せ給ふ。先例なきにしもあらず。主上は二歳にて御禪を受けさせ給ひ、纔に五歳と申二月十九日、東宮踐祚ありしかば、位をすべらせ給て、新院とぞ申ける。いまだ御元服もなくして、太上天皇の尊號あり。漢家本朝是やはじめならむ。

仁安三年三月二十日、新帝大極殿にして御即位あり。此君の位につかせ給ぬるは、いよ/\平家の榮花とぞ見えし。御母儀建春門院と申すは、平家の一門にてましますうへ、とりわき入道相國の北の方、二位殿の御妹なり。又平大納言時忠卿と申も、女院の御兄なれば、内の御外戚なり。内外につけたる執權の臣とぞ見えし。叙位除目と申すも、偏にこの時忠卿のまゝなり。楊貴妃が幸ひし時、楊國忠が盛えし如し。世のおぼえ、時のきら、めでたかりき。入道相國天下の大小事をのたまひあはせられければ、時の人平關白とぞ申しける。

殿下乘合

さる程に、嘉應元年七月十六日、一院御出家あり。御出家の後も、萬機の政をきこめしされし間、院内わく方なし。院中にちかくめしつかはるゝ公卿殿上人、上下の北面に至るまで、官位俸禄、皆身に餘るばかりなり。されども人の心の習なれば、猶飽きたらで、「あはれその人の亡びたらば、その國はあきなむ、その人失せたらば、その官にはなりなん。」など、疎からぬどちは、寄り合ひ寄り合ひさゝやきあへり。法皇も内々仰なりけるは、「昔より代々の朝敵を平ぐるもの多しといへども、いまだ加樣の事なし。貞盛、秀郷が、將門を討ち、頼義が貞任、宗任を亡し、義家が武平、家平を攻めたりしも、勸賞行はれしこと、受領には過ぎざりき。清盛がかく心のまゝにふるまふこそ然るべからね。これも世末になりて、王法の盡きぬる故なり。」と仰なりけれども、次でなければ御いましめもなし。平家も又別して、朝家を恨み奉ることもなかりしほどに、世の亂れそめける根本は、去じ嘉應二年十月十六日に、小松殿の次男新三位中將資盛卿、その時はいまだ越前守とて十三になられけるが、雪ははだれに降たりけり。枯野の景色まことに面白かりければ、わかき侍ども三十騎ばかりめし具して、蓮臺野や、紫野、右近馬場に打出でて、鷹どもあまたすゑさせ、鶉、雲雀をおたて/\、終日にかり暮し、薄暮に及んで六波羅へこそ歸られけれ。その時の御攝祿は、松殿にてましましけるが、中御門東洞院の御所より御參内ありけり。郁芳門より入御あるべきにて、東洞院を南へ、大炊御門を西へ御出なる。資盛朝臣、大炊御門猪熊にて、殿下の御出に鼻突に參りあふ。御供の人々「何者ぞ、狼藉なり。御出なるに、乘物より下り候へ/\。」と、云てけれども、餘に誇り勇み、世を世ともせざりける上、めし具したる侍ども、皆二十より内の若物共なり、禮義骨法辨へたる者一人もなし。殿下の御出ともいはず、一切下馬の禮義にも及ばず、驅け破て通らむとする間、暗さはくらし、つや/\入道の孫とも知らず。又少々は知たれども、空しらずして、資盛朝臣を始として、侍共皆馬より取て引落し、頗る耻辱に及びけり。資盛朝臣、はふ/\六波羅へおはして、祖父の相國禪門に、此由訴へ申されければ、入道大きに怒て、「縱ひ殿下なりとも、淨海があたりをば憚り給ふべきに、少者に左右なく、耻辱を與へられけるこそ遺恨の次第なれ。かゝる事よりして、人にはあざむかるゝぞ。此事思ひ知らせ奉らでは、えこそあるまじけれ。殿下を恨奉らばや。」とのたまへば、重盛卿申されけるは「是は少しも苦しう候まじ。頼政、光基など申源氏共にあざむかれて候はんには、誠に一門の耻辱でも候ふべし。重盛が子どもとて候はんずるものの、殿下の御出に參りあひて、乘物より下候はぬこそ尾籠に候へ。」とて、その時事にあうたる侍共めしよせ、「自今以後も、汝等よく/\心得べし、誤て、殿下へ無禮の由を申さばやとこそ思へ。」とて歸られけり。

その後、入道相國小松殿には仰られもあはせず、片田舎の侍どものこはらかにて、入道殿の仰より外は、又恐しき事なしと思ふ者ども、難波妹尾を始として、都合六十餘人召し寄せ、「來二十一日、主上御元服の御定めの爲に殿下御出あるべかんなり。いづくにても待かけ奉り、前驅御隨身共が髻きて、資盛が耻雪げ。」とぞのたまひける。殿下、是をば夢にもしろしめさず、主上、明年御元服、御加冠、拜官の御定のために、御直盧に暫く御座あるべきにて、常の御出よりも引き繕はせ給ひ、今度は待賢門より入御あるべきにて、中御門を西へ御出なる。猪熊堀川の邊に、六波羅の兵ども、直冑三百餘騎待ち受け奉り、殿下を中に取りこめ參らせて、前後より一度に、鬨をどとぞつくりける。前驅御隨身共が今日を晴としやうぞいたるを、あそこに追かけ、こゝに追つめ、馬よりとて引落し、散々に陵礫して、一々に髻をきる。隨身十人が中、右の府生武基が髻もきられにけり。その中に、藤藏人大夫隆教が髻をきるとて、「是は汝が髻と思ふべからず、主の髻と思ふべし。」と、言ひ含めてきてけり。其後に御車の内へも、弓の筈つき入れなどして、簾かなぐり落し、御牛の鞦、懸切りはなち散々にし散して、悦のときをつくり、六波羅へこそ參りけれ。入道「神妙なり。」とぞのたまひける。御車副には、因幡のさい使、鳥羽の國久丸といふをのこ、下臈なれども、なさけある者にて、泣々御車つかまつて、中御門の御所へ還御なし奉る。束帶の御袖にて、御涙をおさへつゝ、還御の儀式あさましさ、申すもなか/\おろかなり。大織冠、淡海公の御事は、擧げて申すに及ばず、忠仁公、昭宣公より以降、攝政關白の、かゝる御目にあはせ給ふ事、未だ承り及ばず。是こそ平家の惡行の始なれ。

小松殿こそ大に噪がれけれ。行向ひたる侍共、皆勘當せらる。「たとひ入道如何なる不思議を下知し給とも、など重盛に夢をば見せざりけるぞ。凡は資盛奇怪なり、旃檀は二葉よりかうばしとこそ見えたれ。已に十二三歳にならむずる者が、今は禮義を存知してこそ振舞ふべきに、かやうに尾籠を現じて、入道の惡名を立つ、不孝のいたり、汝一人にありけり。」とて、暫く伊勢の國に追ひ下さる。さればこの大將をば、君も臣も御感ありけるとぞ聞えし。

鹿谷

是によて主上御元服の御定め、その日は延させ給ぬ。同廿五日、院の殿上にてぞ、御元服の定めはありける。攝政殿さても渡らせ給ふべきならねば、同十二月九日、兼宣旨をかうぶり、十四日太政大臣にあがらせ給ふ。やがて同十七日慶申しありしかども、世の中はにが/\しうぞ見えし。

さる程に今歳も暮ぬ。明れば嘉應三年正月五日、主上御元服あり。同十三日朝覲の行幸ありけり。法皇、女院、待ち受け參らせさせ給て、初冠の御粧いかばかりらうたく思しめされけん。入道相國の御娘、女御に參らせ給ひけり。御歳十五歳。法皇御猶子の儀なり。

其比妙音院の太政のおほいとの、其時は未内大臣の左大將にてましましけるが、大將を辭し申させ給ふことありけり。時に徳大寺の大納言實定卿、その仁に當り給ふ由聞ゆ。又花山院の中納言兼雅卿も所望あり。その外、故中御門の藤中納言家成卿の三男、新大納言成親卿もひらに申されけり。院の御氣色よかりければ、樣樣の祈をぞ始められける。先づ八幡に百人の僧を籠て、眞讀の大般若を七日讀ませられける最中に、甲良の大明神の御前なる橘の木に、男山の方より山鳩三つ飛來て、食ひ合ひてぞ死にける。鳩は八幡大菩薩の第一の仕者なり。宮寺にかゝる不思議なしとて、時の檢校匡清法印奏聞す。神祗官にして御占あり。天下の噪ぎと占申。「但し君の愼みにあらず、臣下のつゝしみ。」とぞ申ける。新大納言是に恐れをも致されず、晝は人目の滋ければ、夜な/\歩行にて、中御門烏丸の宿所より、賀茂の上の社へ七夜續けて參られけり。七夜に滿ずる夜、宿所に下向して、苦しさに、うちふし、ちと目睡給へる夢に、賀茂の上の社へ參りたると思しくて、御寶殿の御戸推開き、ゆゝしくけだかげなる御聲にて

櫻花賀茂の川かぜうらむなよ、散るをばえこそとゞめざりけれ。

新大納言猶恐れをも致されず、賀茂の上の社に、ある聖を籠て、御寶殿の御後なる杉の洞に壇を立てて、拏吉尼の法を百日行はせられけるほどに、彼の大杉に雷落ち かゝり、雷火おびただしく燃え上て、宮中已に危く見えけるを、宮人ども多く走り集て、これを打消つ。かの外法行ひける聖を、追出せんとしければ、「我當社に百日參籠の大願あり、今日は七十五日になる。全く出まじ。」とてはたらかず。此の由を社家より内裏へ奏聞しければ「唯法に任せて追出せよ。」と宣旨を下さる。その時神人白杖を以て、彼聖がうなじをしらけ、一條の大路より南へ追ひ出してけり。神は非禮をうけ給はずと申すに、この大納言、非分の大將を祈り申されければにや、かゝる不思議も出で來にけり。

其比の叙位除目と申は、院内の御はからひにもあらず、攝政關白の御成敗にも及ばず、唯一向平家のまゝにてありしかば、徳大寺、花山院もなり給はず、入道相國の嫡男小松殿、右大將にておはしけるが、左に移りて、次男宗盛、中納言におはせしが、數輩の上臈を超越して、右に加はられけるこそ、申すばかりもなかりしか。中にも徳大寺殿は、一の大納言にて華族、英雄、才覺雄長、家嫡にてまし/\けるが、越えられ給けるこそ遺恨なれ。定めて御出家などやあらむずらむと、人々内々は申あへりしかども、暫く世のならむ樣を見んとて、大納言を辭し申て、籠居とぞ聞えし。

新大納言成親卿宣ひけるは、「徳大寺、花山院に越えられたらむは、いかゞせん。平家の次男に越えらるゝこそ安からね。是も萬づ思ふさまなるがいたす所也。いかにもして平家を亡し本望を遂げむ。」とのたまひけるこそ怖しけれ。父の卿は中納言までこそ至られしか。その末子にて、位正二位、官大納言にあがり、大國あまた給はて、子息所從朝恩に誇れり。何の不足に、かゝる心つかれけん。是偏に天魔の所爲とぞ見えし。平治にも、越後中將とて、信頼卿に同心の間、既に誅せらるべかりしを、小松殿やう/\に申て、首をつぎ給へり。然るにその恩を忘れて、外人もなき所に兵具をとゝのへ、軍兵を語らひおき、其營みの外は他事なし。

東山の麓鹿の谷といふ所は、後は三井寺に續いて、ゆゝしき城郭にてぞありける。俊寛僧都の山庄あり。かれに常は寄りあひ/\、平家滅さむずる謀をぞ囘しける。或時法皇も御幸なる。故少納言入道信西が子息、淨憲法印御供仕る。その夜の酒宴に、此由を淨憲法印に仰あはせられければ、「あなあさましや、人あまた承候ぬ。唯今漏きこえて、天下の大事に及び候ひなんず。」と大に噪ぎ申ければ、新大納言氣色かはりて、さと立たれけるが、御前に候ける瓶子を、狩衣の袖にかけて引きたふされたりけるを、法皇「あれはいかに。」と仰せければ大納言立かへて、「平氏たふれ候ひぬ。」と申されける。法皇ゑつぼに入らせおはしまして、「物ども參て猿樂つかまつれ。」と仰ければ、平判官康頼參りて、「あゝ餘にへいじの多う候に、もて醉て候。」と申す。俊寛僧都「さてそれをいかゞ仕らむずる。」と申されければ、西光法師「頸を取るにはしかじ。」とて、瓶子の首を取てぞ入にける。淨憲法印餘りのあさましさに、つや/\物も申されず。返す/\も恐しかりしことどもなり。與力の輩誰々ぞ。近江中將入道蓮淨俗名成正、法勝寺の執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔雅綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行、攝津國源氏多田藏人行綱を始として北面の輩多く與力したりけり。

鵜川軍

此法勝寺の執行と申すは、京極の源大納言雅俊の卿の孫、木寺の法印寛雅には子なりけり。祖父大納言させる弓箭を取る家にはあらねども、あまりに腹あしき人にて、三條坊門京極の宿所の前をば、人をもやすく通さず、つねは中門にたゝずみ、齒をくひしばり、怒てぞおはしける。かゝる人の孫なればにや、この俊寛も僧なれども、心も猛くおごれる人にて、よしなき謀反にも與しけるにこそ。新大納言成親卿は、多田の藏人行綱を呼て、「御邊をば、一方の大將に憑むなり。此事しおほせつるものならば、國をも庄をも所望によるべし。先づ弓袋の料に。」とて、白布五十端送られたり。

安元三年三月五日、妙音院殿、太政大臣に轉じ給へるかはりに、大納言定房卿を越えて、小松殿、内大臣になり給ふ。大臣の大將めでたかりき。やがて大饗行はる。尊者には、大炊御門左大臣經宗公とぞ聞えし。一のかみこそ先途なれども、父宇治の惡左府の御例憚あり。

北面は上古にはなかりけり。白河院の御時、始め置かれてより以降、衞府ども數多候けり。爲俊、盛重、童より千手丸、、今犬丸とて、是等は左右なき切者にてぞありける。鳥羽院の御時も、季教、季頼父子、共に朝家に召仕はれ傳奏する折もありなど聞えしかども、皆身の程をばふるまうてこそありしに、此時の北面の輩は、以外に過分にて、公卿殿上人をも物ともせず、禮儀禮節もなし。下北面より上北面にあがり、上北面より殿上の交を許さるゝ者もあり。かくのみ行はるゝ間、おごれる心どもも出きて、よしなき謀反にも與しけるにこそ。中にも故少納言入道信西が許に召使ける師光成景といふものあり。師光は阿波の國の在廰、成景は京の者、熟根賤しき下臈なり。健兒童、もしは恪勤者などにて被召仕けるが、賢々しかりしによりて、師光は左衞門尉、成景は右衞門尉とて、二人一度に靱負尉になりぬ。信西が事にあひし時、二人と もに出家して、左衞門入道西光、右衞門入道西敬とて、此等は出家の後も、院の御倉預にてぞ在ける。

かの西光が子に、師高といふ者あり。是も切者にて、檢非違使五位尉に歴上て、安元元年十二月廿九日、追儺の除目に加賀守にぞなされける。國務を行ふ間、非法非禮を張行し、神社佛寺、權門勢家の庄領を沒倒し、散々の事共にてぞありける。假令せう公が跡を隔つといふとも、穩便の政を行ふべかりしに、かく心のまゝにふるまひし程に、同二年夏の比、國司師高が弟、近藤判官師經、加賀の目代に補せらる。目代下著のはじめ、國府の邊に鵜川といふ山寺あり。寺僧どもが境節湯をわかいて浴びけるを、亂入しておひあげ、我身あび、雜人共おろし、馬洗はせなどしけり。寺僧怒をなして、「昔より此處は國方の者入部することなし。速に先例に任せて、入部の押妨をとゞめよ。」とぞ申ける。「先先の目代は、不覺でこそいやしまれたれ。當目代はその儀あるまじ。唯法に任せよ。」といふ程こそありけれ、寺僧どもは、國方の者を追出せむとす。國方の者共は次を以て、亂入せんとす。うちあひ張合ひしける程に、目代師經が秘藏しける馬の足をぞ打折りける。その後は互に弓箭兵仗をたいして、射合ひ截合ひ數刻戰ふ。目代かなはじとや思ひけむ、夜に入て引退く。其後當國の在廳ども催し集め、其勢一千餘騎鵜川に押寄せて、坊舎一宇も殘さず燒拂ふ。鵜川といふは、白山の末寺なり。この事訴へんとて進む老僧誰々ぞ。智釋、學明、寶臺房、正智、學音、土佐阿闍梨ぞ進みける。白山三社、八院の大衆、悉く起りあひ、都合その勢二千餘人、同七月九日の暮方に、目代師經が館近うこそ押寄せたれ。今日は日暮れぬ。明日の軍と定めて、その日はよせでゆらへたり。露ふき結ぶ秋風は、射向の袖を飜し、雲井を照す稻妻は冑の星を耀す。目代かなはじとや思ひけん、夜逃にして京へのぼる。明くる卯刻に押寄て、閧をどとつくる。城の中には音もせず。人を入れて見せければ、皆落て候と申す。大衆力及ばで引退く。然らば山門へ訴へんとて、白山中宮の神輿をかざり奉り、比叡山へふりあげ奉る。同八月十二日の午刻許、白山の神輿、既に比叡山東坂本につかせ給ふと云程こそありけれ。北國の方より雷おびたゞしく鳴て、都をさして鳴りのぼる。白雪くだりて地を埋み、山上洛中おしなべて、常葉の山の梢まで皆白妙になりけり。

願立

神輿をば、客人の宮へ入れ奉る。客人と申は、白山妙理權現にておはします。申せば父子の御中なり。先沙汰の成否は知らず、生前の御悦、只この事にあり。浦島が子の七世の孫に遭へりしにも過ぎ、胎内の者の靈山の父を見しにも超えたり。三千の衆徒踵をつぎ、七社の神人袖を列ね、時々刻々の法施、祈念、言語道斷の事ども也。

山門の大衆、國司加賀の守師高を流罪に處せられ、目代近藤判官師經を禁獄せらるべき由奏聞す。御裁斷遲かりければ、さも可然公卿殿上人は、「あはれとく御裁許あるべきものを、昔より山門の訴訟は他に異なり、大藏卿爲房、太宰の權帥季仲は、さしも朝家の重臣たりしかども、山門の訴訟によて、流罪せられにき。況や師高などは、事の數にやはあるべきに、子細にや及ぶべき。」と申あはれけれども、「大臣は祿を重んじて諫めず、小臣は罪に恐れて申さず。」といふ事なれば、各口を閉ぢたまへり。「賀茂川の水、雙六の賽、山法師、これぞ我心にかなはぬもの。」と白河院も仰なりけるとかや。鳥羽院の御時、越前の平泉寺を、山門へつけられけるには、當山を御歸依淺からざるによて、「非を以て理とす。」とこそ、宣下せられて、院宣をば下されけれ。江帥匡房卿の申されし樣に、「神輿を陣頭へ振奉て、訴申さんには、君はいかゞ御計ひ候ふべき。」と申されければ、「げにも山門の訴訟はもだしがたし。」とぞ仰せける。

去じ嘉保二年三月二日、美濃守源義綱朝臣、當國新立の庄を倒す間、山の久住者圓應を殺害す。是によて日吉の社司、延暦寺の寺官、都合三十餘人、申文をささげて陣頭へ參じけるを後二條關白殿、大和源氏中務權少輔頼春に仰せてふせがせらる。頼春が郎等矢を放つ。矢庭に射殺さるゝ者八人、疵を被むる者十餘人、社司諸司四方へちりぬ。山門の上綱等、仔細を奏聞のために下洛すと聞えしかば、武士、檢非違使、西坂本に馳向て、皆おかへす。

山門には、御裁斷遲々の間、七社の神輿を根本中堂に振上げ奉り、その御前にて、眞讀の大般若を七日讀で、關白殿を呪咀し奉る。結願の導師には、仲胤法印、その比はいまだ仲胤供奉と申しが、高座に上り、かね打ならし、表白の詞にいはく、「我等なたねの二葉よりおふし立て給ふ神達、後二條の關白殿に、鏑矢一つ放ち當て給へ、大八王子權現。」と高らかにぞ祈誓したりける。やがてその夜不思議の事あり。八王子の御殿より、鏑矢の聲いでて、王城をさしてなん行くとぞ、人の夢には見たりける。そのあした、關白殿の御所の御格子をあげけるに、只今山よりとてきたるやうに、露にぬれたる樒、一枝たたりけるこそ怖しけれ。やがて山王の御咎めとて、後二條の關白殿、重き御病をうけさせ給ひしかば、母上、大殿の北の政所大に歎かせ給つゝ、御樣をやつし、賤しき下臈のまねをして、日吉の社に御參籠あて、七日七夜が間祈申させ給けり。あらはれての御祈には、百番の芝田樂、百番の一物、競馬、流鏑馬、相撲各百番、百座の仁王講、百座の藥師講、一ちやく手半の藥師百體、等身の藥師一體並に釋迦、阿彌陀の像、各造立供養せられけり。又御心中に、三つの御立願あり。御心のうちの事なれば、人いかで知り奉るべき。それに不思議なりし事は、七日に滿ずる夜、八王子の御社にいくらもありける參人どもの中に、陸奧より遙々と上りたりける童神子、夜半ばかりに俄にたえ入けり。遙にかき出して祈りければ、程なくいき出て、やがて立て舞ひかなづ。人奇特の思をなして是を見る。半時ばかり舞て後、山王おりさせ給て、やう/\の御託宣こそ恐しけれ。「衆生等確に承れ。大殿の北の政所、今日七日我が御前に籠らせ給たり。御立願三つあり。一つには今度殿下の壽命を助けてたべ、さも候はゞ、下殿に候ふ諸のかたはうどに交て、一千日が間、朝夕宮仕申さんとなり。大殿の北の政所にて、世を世とも思し召さで、すごさせ給ふ御心に、子を思ふ道にまよひぬれば、いぶせきことも忘れて、あさましげなるかたはうどに交はて、一千日が間、朝夕宮仕申さむと仰せらるゝこそ、誠に哀に思しめせ。二つには、大宮の波止土濃より八王子の御社まで、囘廊作て參らせむとなり。三千人の大衆、降にも照にも、社參の時いたはしうおぼゆるに、囘廊作られたらば、いかにめでたからん。三つには今度の殿下の壽命を助させ給はゞ、八王子の御社にて、法花問答講毎日退轉なく行べしとなり。何れもおろかならねども、かみ二つはさなくともありなむ。毎日法花問答講は、誠にあらまほしうこそ思召せ。但今度の訴訟は、むげに安かりぬべき事にてありつるを、御裁許なくして、神人宮仕射殺され、疵を被り、泣く泣く參て訴申す事の餘に心憂て、如何ならむ世までも忘るべしともおほえず。その上かれらに當る處の矢は、しかしながら和光垂跡の御膚に立たるなり。誠か虚言か是を見よ。」とて、肩ぬいだるを見れば、左の脇の下、大なるかはらけの口ばかりうげのいてぞ見えたりける。「是が餘に心憂ければ、如何に申とも、始終のことは叶ふまじ。法花問答講一定あるべくば、三年が命を延べて奉らむ。それを不足に思し召さば、力及ばず。」とて山王あがらせ給ひけり。母上は御立願の事、人にも語らせ給はねば誰漏しつらむと、少しも疑ふ方もましまさず。御心の内の事どもを、ありのまゝに御託宣ありければ、心肝にそうて、ことに貴くおぼしめし、泣々申させ給けるは「縱ひ一日片時にて候ふとも、ありがたうこそ候ふべきに、まして三年が命を延べて給らむ事しかるべう候ふ。」とて、泣々御下向あり。急ぎ都へ入せ給て、殿下の御領紀伊國に、田中庄といふ所を、八王子の御社へ永代寄進せらる。それよりして法花問答講、今の世に至るまで毎日退轉なしとぞ承る。

かゝりし程に、後二條關白殿、御病かろませ給て、もとの如くにならせ給ふ。上下喜びあはれし程に、三年の過ぐるは夢なれや、永長二年になりにけり。六月二十一日、又後二條の關白殿、御髮の際に惡しき御瘡出きさせ給て、打ち臥させ給ひしが、同二十七日、御年三十八にて終にかくれさせ給ぬ。御心の猛さ、理の強さ、さしもゆゝしき人にてましましけれ共、まめやかに事の急になりしかば、御命を惜ませ給ひける也。誠に惜しかるべし。四十にだにも滿たせ給はで、大殿に先立まゐらせ給こそ悲しけれ。必ずしも父を先立つべしといふことはなけれども、生死のおきてに順ふならひ、萬徳圓滿の世尊、十地究竟の大士達も、力及び給はぬ事どもなり、慈悲具足の山王、利物の方便にてましませば、御咎めなかるべしとも覺えず。

御輿振

さる程に山門の大衆、國司加賀守師高を流罪に處せられ、目代近藤判官師經を禁獄せらるべき由、奏聞度々に及ぶといへども、御裁許なかりければ、日吉の祭禮を打ち留めて、安元三年四月十三日辰の一點に、十禪師、客人、八王子三社の神輿かざり奉りて、陣頭へ振奉る。下松、きれ堤、賀茂の川原、糺、梅たゞ、柳原、東北院の邊に、しら大衆、神人、宮仕、専當みち/\て、幾らといふ數を知らず、神輿は一條を西へいらせ給ふ。御神寶天にかゞやいて、日月地に落給かと驚かる。是によて、源平兩家の大將軍、四方の陣頭を固めて、大衆防ぐべきよし仰下さる。平家には、小松の内大臣の左大將重盛公、其勢三千餘騎にて、大宮面の陽明、待賢、郁芳、三つの門をかため給ふ。弟宗盛、知盛、重衡、伯父頼盛、教盛、經盛などは、西南の陣を固められけり。源氏には、大内守護の源三位頼政卿、渡邊の省授をむねとして、その勢僅に三百餘騎、北の門、縫殿の陣を固め給ふ。處は廣し、勢は少し、まばらにこそ見えたりけれ。

大衆無勢たるによて、北の門、縫殿の陣より、神輿を入れ奉らんとす。頼政卿さる人にて、馬よりおり冑をぬいで、神輿を拜し奉る。兵ども皆かくの如し。衆徒の中へ使者を立てゝ、申送る旨あり。その使は、渡邊の長七唱と云者なり。唱その日は、きちんの直垂に、小櫻を黄にかへいたる鎧著て、赤銅作の太刀を帶き、白羽の箭負ひ、滋籐の弓脇にはさみ、冑をばぬぎ高紐に掛け、神輿の御前に畏て申けるは、「衆徒の御中へ源三位殿の申せと候。今度山門の御訴訟、理運の條勿論に候。御成敗遲々こそよそにても遺恨に覺え候へ。さては神輿入れ奉らむこと仔細に及び候はず。但頼政無勢に候ふ。その上明けて入れ奉る陣より入せ給て候はば、山門の大衆は目たりがほしけりなど、京童の申候はむこと、後日の難にや候はんずらむ。神輿を入れ奉らば、宣旨を背くに似たり。又防ぎ奉らば年來醫王、山王に首を傾け奉て候ふ身が、今日より後、弓箭の道に分れ候ひなむず。彼と云ひ、此といひ、旁難治のやうに候。東の陣は、小松殿大勢で固められて候。其陣より入らせ給ふべうもや候ふらむ。」と、いひ送たりければ、唱がかくいふに防がれて、神人、宮仕暫くゆらへたり。

若大衆共は、「何でうその義あるべき、只此陣より神輿を入れ奉れ。」といふ族多かりけれども、老僧のなかに、三塔一の僉議者と聞えし、攝津の堅者豪雲進み出て申けるは、「尤もさいはれたり。神輿を先立て參らせて、訴訟をいたさば、大勢の中をうち破てこそ、後代の聞えもあらむずれ。就中にこの頼政の卿は、六孫王より以降、源氏嫡々の正統、弓矢を取て未だ其不覺を聞かず。凡武藝にも限らず、歌道にも勝れたり。近衞院御在位の時、當座の御會ありしに、『深山花』といふ題を出されたりけるに、人々讀煩ひしに、此頼政卿、

深山木のその梢とも見えざりし、櫻ははなにあらはれにけり。

といふ名歌仕て、御感に預る程のやさしき男に、時に臨んで、いかがなさけなう耻辱をば與ふべき。此神輿かき返し奉れや。」と僉議しければ、數千人の大衆、先陣より後陣まで、皆尤々とぞ同じける。さて神輿を先立てまゐらせて、東の陣頭待賢門より入れ奉らむとしければ、狼藉忽に出來て、武士ども散々に射奉る。十禪師の御輿にも、矢どもあまた射立たり。神人宮仕射殺され、衆徒多く疵を被る。をめき叫ぶ聲梵天までも聞え、堅牢地神も驚くらんとぞ覺えける。大衆神輿をば、陣頭に振り棄て奉り、泣く/\本山へ歸り上る。

内裏炎上

藏人の左少辨兼光に仰せて、殿上にて、俄に公卿僉議あり。保安四年七月に、神輿入洛の時は座主に仰せて、赤山の社へ入れ奉る。又保延四年四月に、神輿入洛の時は、祇園の別當に仰せて、祇園の社へ入れ奉る。今度は保延の例たるべしとて、祇園の別當權大僧都澄兼に仰て、秉燭に及で、祇園の社へ入奉る。神輿に立つ所の箭をば、神人してこれを拔かせらる。山門の大衆、日吉の神輿を陣頭へ振奉ること、永久より以降、治承までは六箇度なり。毎度に武士を召てこそ防がれけれども神輿射奉ること、是始とぞ奉る。「靈神怒をなせば、災害岐に滿つといへり。怖し怖し。」とぞ人々申合はれける。

同十四日夜半ばかり、山門の大衆、又下洛すと聞えしかば、夜中に主上腰輿に召して、院の御所法住寺殿へ行幸なる。中宮は御車に奉て、行啓あり。小松の大臣、直衣に箭負て供奉せらる。嫡子權亮少將維盛、束帶に平胡録負て參られけり。關白殿を始め奉て、太政大臣以下の公卿、殿上人、我も/\と馳せ參る。凡京中の貴賤、禁中の上下、噪ぎのゝしること夥し。山門には神輿に箭立ち、神人宮仕射殺され、衆徒多く疵を被りしかば、大宮、二宮以下、講堂、中堂、すべて諸堂一宇も殘さず皆燒拂て、山野にまじはるべきよし、三千一同に僉議しけり。是によて大衆の申す所、御はからひあるべしと聞えしかば、山門の上綱等、子細を衆徒に觸れむとて、登山したりけるを、大衆おこて西坂本より皆おかへす。

平大納言時忠卿、その時はいまだ左衞門督にておはしけるが、上卿に立つ。大講堂の庭に三塔會合して、上卿を取てひはらんとす。「しや冠打ち落せ、その身を搦めて、湖に沈めよ。」などぞ僉議しける。既にかうと見えけるに、時忠卿、「暫くしづまられ候へ。衆徒の御中へ申すべきこと有り。」とて、懷より小硯疊紙を取出し、一筆書いて大衆の中へ遣す。是を披いて見れば、「衆徒の濫惡を致すは魔縁の所行なり。明王の制止を加ふるは、善逝の加護なり。」とこそ書かれたれ。是を見て、ひはるに及ばず、皆尤々と同じて、谷々へおり、坊々へぞ入にける。一紙一句をもて、三塔三千の憤をやすめ、公私の耻を逃れ給へる時忠卿こそゆゝしけれ。人々も山門の大衆は、發向のかまびすしきばかりかと思たれば、理も存知したりけりとぞ、感ぜられける。

同廿日、花山院權中納言忠親卿を上卿にて、國司加賀守師高つひに闕官せられて、尾張の井戸田へ流されけり。目代近藤判官師經禁獄せらる。又去る十三日神輿射奉し武士六人獄定せらる。左衞門尉藤原正純、右衞門尉正季、左衞門尉大江家兼、右衞門尉同家國、左兵衞尉清原康家、右兵衞尉同康友、是等は皆小松殿の侍なり。

同四月二十八日亥刻ばかりに、樋口富小路より火出來て、辰巳の風烈しう吹きければ、京中多く燒にけり。大なる車輪の如くなるほむらが、三町五町を隔てゝ、戌亥の方へすぢかへに、飛び越え/\燒け行けば、怖しなどもおろかなり。或は具平親王の千種殿、或は北野の天神の紅梅殿、橘逸勢のはひ松殿、鬼殿、高松殿、鴨居殿、東三條、冬嗣の大臣の閑院殿、昭宣公の堀川殿、これを始めて、昔今の名所三十餘箇所、公卿の家だにも、十六箇所まで燒にけり。その外殿上人、諸大夫の家々は注すに及ばず。はては大内に吹きつけて、朱雀門より始めて、應天門、會昌門、大極殿、豐樂院、諸司、八省、朝所、一時がうちに灰燼の地とぞなりにける。家々の日記、代々の文書、 七珍萬寶さながら塵灰となりぬ。その間の費如何ばかりぞ。人の燒け死ぬること數百人、牛馬の類は數を知らず。これ徒事にあらず、山王の御咎とて、比叡山より大なる 猿共が、二三千おりくだり、手に手に松火をともいて、京中を燒くとぞ、人の夢には見えたりける。大極殿は清和天皇の御宇、貞觀十八年に始めて燒けたりければ、同十九年正月三日、陽成院の御即位は、豐樂院にてぞありける。元慶元年四月九日事始ありて同二年十月八日にぞ造り出されたりける。後冷泉院の御宇、天喜五年二月二十六日、又やけにけり。治歴四年八月十四日事始ありしかども、造りいだされずして、後冷泉院崩御なりぬ。後三條院の御宇、延久四年四月十五日造り出して、文人詩を作り奉り、伶人樂を奏して遷幸なし奉る。今は世末になて、國の力も皆衰たれば、その後 はつひに造られず。

平家物語卷第一