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平家物語卷第十一
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11. 平家物語卷第十一

逆櫓

元歴二年正月十日、九郎大夫判官義經院御所へ參て、大藏卿泰經朝臣を以て奏聞せられけるは、「平家は神明にも放たれ奉り、君にもすてられ參せて、帝都を出で波の上に漂ふ落人となれり。然るを此三箇年が間、責落さずして多くの國々を塞げらるゝ事口惜候へば、今度義經に於ては鬼界、高麗、天竺、震旦までも平家を責落ざらん限りは王城へ歸るべからず。」と憑し氣に申されければ、法皇大きに御感有て、「相構へて夜を日に繼いで、勝負を決すべし。」と仰下さる。判官宿所に歸て東國の軍兵どもに宣ひけるは、「義經鎌倉殿の御代官として院宣を承はて、平家を追討すべし。陸は駒の足の及ばむを限り、海は櫓櫂の屆がん程責行べし。少しもふた心あらむ人々は、とう/\これより歸らるべし。」とぞ宣ける。

さる程に八島には、隙ゆく駒の足疾くして、正月も立ち二月にも成りぬ。春の草暮て、秋の風に驚き、秋の風やんで、春の草になれり。送り迎へて、既に三年に成にけり。「都には東國より荒手の軍兵、數萬騎著て責下る。」とも聞ゆ。「鎭西より、臼杵、戸次、松浦黨同心して、押渡る。」とも申あへり。彼れを聞き是れをきくにも、唯耳を驚し、肝魂を消より外の事ぞなき。女房達は女院、二位殿をはじめまゐらせて差つどひて、「又如何なる浮目をか見んずらん。如何なる憂事をか聞かんずらん。」と歎きあひ悲みあへり。新中納言知盛卿宣ひけるは、「東國北國の者共も隨分重恩を蒙たりしかども、恩を忘れ、契を變じて、頼朝、義仲等に隨ひき。まして西國とてもさこそはあらむずらめと思ひしかば、都にて、いかんにもならんと思ひし者を。我身一つの事ならねば、心弱うあくがれ出でて、今日はかゝるうき目を見る口惜さよ。」とぞ宣ひける。誠に理と覺て哀なり。

同二月三日九郎大夫判官義經、都を立て、攝津國渡邊より舟ぞろへして、八島へ既に寄んとす。參河守範頼も同日に都を立て、攝津國神崎より兵船を汰へて、山陽道へ趣かんとす。

同十三日伊勢大神宮、石清水、賀茂、春日へ官幣使を立らる。「主上竝に三種の神器事故なう返入れさせ給へ。」と神祇官の官人、諸々の社司、本宮本社にて祈誓申すべき由仰下さる。

同十六日渡邊、神崎、兩所にて此日ごろ汰ける船ども、纜既に解んとす。折節北風木を折て烈う吹ければ、大浪に船共散々に打損ぜられて、出すに及ばず。修理の爲に、其日は留る。渡邊には大名小名寄合ひて、「抑船軍の樣は未調練せず、如何あるべき。」と評定す。梶原申けるは、「今度の合戰には船に逆櫓を立候はばや。」判官、 「逆櫓とはなんぞ。」梶原、「馬は駈んと思へば、弓手へも馬手へも廻し易し。船は きと推もどすが大事候、艫舳に櫓を立違へ、わい楫を入て、どなたへも安う推す樣に し候ばや。」と申ければ、判官宣ひけるは、「軍と云者は一引も引じと思ふだにもあ はひ惡ければ、引は常の習なり。本より逃まうけしてはなんのよかるべきぞ。先づ門出の惡さよ。逆櫓を立うとも返樣櫓を立うとも、殿原の舟には百丁千丁も立給へ。義經は本の櫓で候はん。」と宣へば、梶原申けるは、「好き大將軍と申は、駈べき所をかけ、引くべき所を引いて、身を全し敵を亡すを以て、よき大將軍とはする候。片趣なるをば、猪武者とて、好きにはせず。」と申せば、判官、「猪鹿は知らず、軍は唯平攻に攻て、勝たるぞ心ちはよき。」と宣へば、侍共梶原に恐れて高くは笑はねども、目引き鼻引きさゞめきあへり。判官と梶原と、已にどし軍あるべしとさざめきあへり。

漸々日暮れ夜に入ければ、判官宣ひけるは、「船の修理して新しうなたるに、各一種一瓶して祝給へ殿原。」とて、營む樣で船に物具いれ兵粮米積、馬共立させて、 「疾々仕れ。」と宣ひければ、水主梶取申けるは、「此風は追手にて候へども、普通 に過たる風で候。沖はさぞ吹候らん。爭か仕候べき。」と申せば、判官大に怒て宣ひ けるは、「野山の末にてし、海河のそこにおぼれてうするも皆これせんぜの宿業也。 海上にいで浮うだる時風強きとていかゞする。向ひ風に渡らんと言ばこそ、僻事なら め。順風なるが、少し過たればとて、是程の御大事に、爭か渡らじとは申ぞ。船仕ら ずば一々にしやつ原射殺せ。」と下知せらる。奧州の佐藤三郎兵衞嗣信、伊勢三郎義 盛、片手矢はげ進み出で、「何條子細を申ぞ。御定であるに、とく/\つかまつれ。 舟仕つらずば一々に射殺さんずるぞ。」といひければ、水主梶取是を聞て、「射殺れ んも同事、風強くば、只馳死に死ねや者共。」とて、二百餘艘の舟の中に、唯五艘出 てぞ走りける。殘の船は風に恐るるか梶原に怖かして、皆留まりぬ。判官宣ひけるは、 「人の出ねばとて留まるべきにあらず、唯の時は敵も用心すらむ。かゝる大風大波に思も寄らぬ時におしよせてこそ思ふ敵を討ずれ。」とぞ宣ひける。五艘の船と申すは、先づ判官の船、田代の冠者、後藤兵衞父子、金子兄弟、淀江内忠俊とて、船奉行の乘たる船なり。判官宣ひけるは、「各の船に篝な燃そ。義經が船を本船として、艫舳の篝を守れや。火數多く見えば、敵も恐れて用心してんず。」とて終夜走る程に、三日に渡る所を、唯三時計に渡りけり。二月十六日の丑刻に、渡邊福島を出て、明る卯の時に、阿波の地へこそ吹著たれ。

勝浦大坂越

夜既に明ければ、なぎさに赤旗少々閃いたり。判官、是を見て、「あはや我等が祝設けはしたりけるは。舟平付につけ、踏傾けて馬下さんとせば、敵の的に成て射られなんず。なぎさにつかぬ先に馬ども追下/\船に引つけ/\游せよ。馬の足立、鞍爪ひたるほどに成ばひたひたと乘て、駈よ者共。」とぞ下知せられける。五艘の船に、物具入、兵粮米積んだりければ、馬唯五十餘疋ぞ立たりける。なぎさ近くなりしかば、 ひた/\と打乘て、喚てかくれば、渚に百騎許有ける者共、暫もこらへず、二町計颯 と引てぞのきにける。判官汀に打立て、馬の息休めておはしけるが、伊勢三郎義盛を めして、「あの勢の中に、然るべい者やある。一人召て參れ。尋ぬべき事あり。」と 宣へば、義盛畏て承り、唯一騎かたきの中へ馳入り何とかいひたりけん、年四十計な る男の、黒皮威の鎧著たるを、甲を脱せ、弓の弦弛せて、具して參りたり。判官、「何者ぞ。」と宣へば、「當國の住人坂西の近藤六親家」と申す。「何家にてもあらばあれ、物具な脱せそ。やがて八島の案内者に具せんずるぞ。其男に目放つな。迯て行かば射殺せ、者共。」とぞ下知せられける。「爰をば何くといふぞ。」と問はれければ「かつ浦と申候。」判官笑て、「色代な。」と宣へば、「一定かつ浦候。下臈の申やすいに付て、かつらとは申候へども、文字には勝浦と書て候。」と申す。判官、「是聞給へ、殿原。軍しに向ふ義經が、勝浦に著く目出度さよ。此邊に、平家の後矢射つべい者はないか。」「阿波民部重能が弟、櫻間介能遠とて候。」「いざさらば蹴散して通らん。」とて、近藤六が勢百騎許が中より、三十騎許すぐり出いて我勢にぞ具せられける。能遠が城に押寄て見れば、三方は沼、一方は堀。堀の方より押寄て、閧をどと作る。城の中の兵共、矢先をそろへて指つめ引つめ散々に射る。源氏の兵是を事ともせず。甲の錣を傾けをめきさけんで責入りければ、櫻間介叶はじとや思ひけむ。家子郎等に防矢射させ、我身は究竟の馬を持たりければ、打乘て稀有にして落にけり。判官防矢射ける兵共二十餘人が頸切懸て軍神に祭り、悦の鬨を作り、「門出よし。」とぞ宣ひける。判官近藤六親家を召て、「八島には平家の勢如何程有ぞ。」「千騎にはよも過候はじ。」「など少いぞ。」「かくのごとく四國の浦々島々に五十騎百騎づつ指置れて候。其上阿波民部重能が嫡子、田内左衞門教能は、河野四郎が、召せども參ぬを責めんとて、三千餘騎で伊豫へ越えて候。」「さてはよい隙ごさんなれ。是より八島へはいか程の道ぞ。」「二日路で候。」「さらば敵の聞ぬ先に寄よや。」とてかけ足に成つゝ、歩せつ、馳つ、引へつ、阿波と讃岐との境なる大坂越といふ山を終夜こそ越られけれ。

夜半許に、立文持たる男に行連て物語し給。此男夜の事ではあり、敵とは夢にも知らず。御方の兵共の八島へ參ると思ひけるやらん。打解て細々と物語をぞしける。「其文はいづくぞ。」「八島の大臣殿へ參り候。」「誰かまゐらせらるゝぞ。」「京より女房の參らせられ候。」「何事なるらん。」と宣へば、「別の事はよも候はじ。源氏既に淀河尻に出向うて候へば、それをこそ告げ申され候らめ。」「げにさぞ有らん。是も八島へ參るが、いまだ案内を知らぬに、じんじよせよ。」と宣へば、「是は度々參て候間、案内は存知して候。御供つかまつらん。」と申せば判官、「其文取れ。」とて、文ばいとらせ「しやつからめよ。罪作に頸なきそ。」とて、山中の木に縛附てぞ通られける。さて文を明て見給へば、げにも女房の文とおぼしくて、「九郎はすゝどき男士にて侍ふなれば、大風大波をも嫌はず寄せ侍らんと覺えさぶらふ。御勢ども散さで用心せさせ給へ。」とぞ書かれたる。判官、「是は義經に天の與へ給ふ文也。鎌倉殿に見せ申さん。」とて深う納て置れけり。

明る十八日の寅刻に、讃岐國ひけ田と云ふ所に打下りて、人馬の息をぞ休めける。其より丹生屋、白鳥、打過/\、八島の城へ寄給ふ。又近藤六親家を召て、「八島の館の樣は、如何に。」と問ひ給へば、「知召されねばこそ候へ、無下に淺間に候。潮の干て候時は、陸と島との間は、馬の腹もつかり候はず。」と申せば、「さらばやがて寄よや。」とて、高松の在所に火を懸、八島の城へ寄せ給ふ。

八島には、阿波民部重能が嫡子、田内左衞門教能、河野四郎が、召せども參らぬを責んとて、三千餘騎で伊豫へ越えたりけるが河野をば討漏して家子郎等百五十餘人が首きて、八島の内裏へ參せたり。「内裏にて賊首の實檢せられん事然るべからず。」とて、大臣殿の宿所にて實檢せらる。百五十六人が首也。頸ども實檢しける處に、者共、「高松の方に火出來たり。」とてひしめきあへり。「晝で候へば手過ではよも候はじ。敵の寄せて火を懸たると覺候。定めて大勢でぞ候らん。取籠られては叶ふまじ。とく/\召され候へ。」とて、惣門の前のなぎさに船共つけならべたりければ、我も/\と乘給ふ。御所の御船には、女院北政所二位殿以下の女房達召されけり。大臣殿父子は、一つ船に乘給ふ。其外の人々思ひ/\に取乘て、或は一町許、或は七八段、五六段など漕出したる處に、源氏の兵共、直甲七八十騎、惣門の前のなぎさにつと出來たり。潮干がたの折節潮干る盛なれば、馬の烏頭、太腹に立つ所もあり。其より淺き所も有り。け上る潮の霞と共にしぐらうたる中より、白旗さと差上たれば、平家は運盡て、大勢とこそ見てんげれ。判官敵に小勢と見せじとて、五六騎七八騎十騎許、打群/\出來たり。

嗣信

九郎大夫判官其日の裝束には、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧著て、金作の太刀を帶き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓の眞中取て、船の方を睨へ、大音聲を上て、「一院の御使、檢非違使五位尉源義經」と名乘る。其次に伊豆國住人田代冠者信綱、武藏國住人金子十郎家忠、同與一親範、伊勢三郎義盛とぞ名乘たる。續いて名乘るは、後藤兵衞實基、子息新兵衞基清、奧州佐藤三郎兵衞嗣信、同四郎兵衞忠信、江田源三、熊井太郎、武藏坊辨慶と聲々に名乘てはせ來る。平家の方には、「あれ射取れや。」とて、或は遠矢に射る船も有り、或は差矢に射船も有り。源氏の兵共、弓手になしては射て通り、馬手になしては射て通り、上げ置いたる船の陰を、馬休め所にして、

[_]
[1]をめき叫んて責戰ふ。

後藤兵衞實基は、古兵にて有ければ、軍をばせず、先内裏に亂入、手々に火を放て、片時の煙と燒拂ふ。大臣殿、侍どもを召て、「抑源氏が勢如何程あるぞ。」「當時僅に七八十騎こそ候らめ。」と申。「あな心憂や。髮の筋を一筋づゝ分けて取るとも、此勢には足まじかりけるものを。中に取籠討ずして、あわてゝ船に乘て、内裏を燒せつる事こそ安からね。能登殿はおはせぬか、陸へ上て一軍し給へ。」と宣へば、「承て候ぬ。」とて、越中次郎兵衞盛次を相具して小船に取乘て燒拂ひたる惣門のなぎさに陣を取る。判官八十餘騎、矢比に寄て引へたり。越中次郎兵衞盛次舟の面に立出で大音聲を揚て申けるは、「名乘れつるとは聞つれども、海上遙に隔たて其假名實名分明ならず。今日の源氏の大將軍は誰人でおはしますぞ。」伊勢三郎義盛歩ませ出て申けるは、「事も愚かや、清和天皇十代の御末、鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿ぞかし。」盛次、「さる事あり。一年平治の合戰に、父討れて孤にて有しが、鞍馬の兒にて、後には金商人の所從になり、粮料背負て奧州へ落惑ひし小冠者が事か。」とぞ申したる。義盛、「舌のやはらかなる儘に、君の御事な申そ。さいふわ人どもは、砥浪山の軍に追落されて辛き命生て、北陸道にさまよひ、乞食して泣/\京へ上りたりし者か。」とぞ申ける。盛次重て申けるは、「君の御恩に飽滿て、何んの不足にてか、乞食をばすべき。さ言ふわどのこそ、伊勢の鈴鹿山にて山だちして、妻子をも養ひ、我身も過けるとは聞しか。」といひければ、金子十郎家忠「無益の殿原の雜言かな。我も人も虚言いひつけて雜言せんには誰か劣るべき。去年の春、一谷にて、武藏相模の若殿原の手なみの程は見てん物を。」と申所に弟の與一傍に有けるが、言せも果ず、十二束二ぶせよひいてひやうと放つ。盛次が鎧の胸板に、裏掻く程にぞ立たりける。其後は互に詞戰はとまりにけり。

能登守教經「船軍はやうある物ぞ。」とて鎧直垂は著給はず、唐卷染の小袖に、唐綾威の鎧著て、いか物作の大太刀帶き、二十四差たるたかうすべうの矢負ひ、滋籐の弓を持給へり。王城一の強弓精兵にておはせしかば、矢先に廻る者、射透さずと云ふ事なし。中にも九郎大夫判官を射倒さむとねらはれけれども、源氏の方にも心得て、 奧州の佐藤三郎兵衞嗣信、同四郎兵衞忠信、伊勢三郎義盛、源八廣綱、江田源三、熊 井太郎、武藏坊辨慶など云ふ一人當千の兵共、吾も吾もと馬の首を立竝て大將軍の矢 面に塞りければ、力及び給はず。「矢面の雜人原そこのき給へ。」とて、差詰引詰 散々に射給へば、矢場に鎧武者十餘騎計射落さる。中にも眞先に進んだる奧州の佐藤 三郎兵衞が弓手の肩を馬手の脇へつと射拔れて、暫もたまらず、馬より、倒にどうと 落つ。能登殿の童に、菊王と云ふ大力の剛の者あり、萌黄威の腹卷に、三枚甲の緒をしめて、白柄の長刀の鞘を外し、三郎兵衞が首を取らんと、走りかゝる。佐藤四郎兵衞兄が頸を取せじと、よ引てひやうと射る。童が腹卷の引合せをあなたへつと射ぬかれて、犬居に倒れぬ。能登守是を見て、急て舟より飛んで下り、左の手に弓を持ながら、右の手で菊王丸を提て、船へからりと投られたれば、敵に頸は取られねども、痛手なれば死にけり。是は、本は越前の三位の童なりしが、三位討たれて後、弟の能登守に仕はれけり。生年十八歳にぞなりける。此童を討せて、餘に哀に思はれければ、其後は軍もし給はず。

判官は佐藤三郎兵衞を陣の後へ舁入れさせ、馬より下り、手をとらへて、「三郎兵衞如何覺ゆる。」と宣へば、息の下に申けるは、「今はかうと存じ候。」「思置事はなきか。」と宣へば、「何事をか思置候べき。君の御世に渡らせ給はんを見參せで、死に候はん事こそ口惜う覺候へ。さ候はでは、弓箭取ものの、敵の矢にあたり死なん事、本より期する所で候也。就中に源平の御合戰に、奧州の佐藤三郎兵衞嗣信と云ける者、讃岐國八島の磯にて、主の御命に替り奉て討れけりと、末代の物語に申さん事こそ弓矢取る身は今生の面目、冥途の思出にて候へ。」と申もあへず、唯弱りに弱りにければ、判官涙をはら/\と流し、「此邊に貴き僧やある。」とて、尋出し、「手負の唯今落入に、一日經書て弔へ。」とて、黒き馬の太う逞いに、金覆輪の鞍置て、彼僧に給にけり。判官五位尉になられし時、五位になして、大夫黒と呼れし馬也。一谷の鵯越をも此馬にてぞ落れたりける。弟の四郎兵衞を始として、是を見る兵共、皆涙をながし、「此君の御爲に命を失はん事、全く露塵程も、惜からず。」とぞ申ける。

[_]
[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) reads をめきさけんでせめたゝかふ。.

那須與一

さる程に、阿波讃岐に平家を背て、源氏を待ける者共、あそこの嶺、こゝの洞より、十四五騎廿騎、うちつれ/\參りければ、判官程なく三百餘騎にぞ成にける。「今日は日暮ぬ、勝負を決すべからず。」とて、引退く處に、沖の方より尋常に飾たる小船一艘、汀へ向ひて漕よせけり。磯へ七八段ばかりに成しかば、船を横樣になす。あれは如何にと見る程に、船の中より、年の齡十八九ばかりなる女房の誠に優に美しきが、柳の五衣に、紅の袴著て皆紅の扇の日出したるを、船のせがひに挾み立て、陸へ向てぞ招いたる。判官後藤兵衞實基を召て、「あれは如何に。」と宣へば、「射よとにこそ候めれ。但し大將軍の矢面に進んで、傾城を御覽ぜば手だれにねらうて、射落せとの計ごとと覺え候。左も候へ。扇をば射させらるべうや候らん。」と申。「射つべき仁は御方に誰かある。」と宣へば、「上手ども幾等も候中に、下野國の十人、那須太郎資高が子に與一宗高こそ、小兵で候へども、手ききて候へ。」「證據はいかに。」と宣へば、「かけ鳥などを爭うて、三に二は必射落す者で候。」「さらば召せ。」とて召されたり。與一其比は二十許の男士也。かちに赤地の錦を以て、おほくびはた袖色へたる直垂に、萌黄威の鎧著て、足白の太刀を帶き、切斑の矢の其日の軍に射て少々殘たりけるを首高に負ひ成し薄切斑に鷹の羽作交たるぬた目の鏑をぞ指副たる。滋籐の弓脇に挾み、甲をば脱ぎ高紐に懸け、判官の前に畏る。「如何に宗高、あの扇の眞中射て平家に見物せさせよかし。」與一畏て申けるは、「射おほせ候はん事不定に候。射損じ候なば、ながき御方の御瑕にて候べし。一定仕らんずる仁に仰附らるべうや候らん。」と申。判官大に怒て、「鎌倉を立て、西國へ趣かん殿原は、義經が命を背べからず。少も仔細を存ぜん人は、とう/\是より歸るべし」とぞ宣ひける。與一重て辭せば惡かりなんとや思ひけん、「外づれんは知候はず、御諚で候へば仕てこそ見候はめ。」とて、御前を罷立、黒き馬の太う逞に、小房の鞦かけ、まろほや摺たる鞍置てぞ乘たりける。弓取直し、手綱かいくり、汀へ向いて歩ませければ、御方の兵共後を遙に見送て、「此若者一定仕り候ぬと覺候。」と申ければ、判官も憑し氣にぞ見給ひける。矢比少し遠かりければ、海へ一段ばかり打入たれども、猶扇の交ひ、七段ばかりは有るらんとこそ見えたりけれ。比は二月十八日の酉の刻ばかりの事なるに、折節北風烈くて、磯打浪も高かりけり。船はゆりあげゆり居ゑたゞよへば、扇も串に定らずひらめいたり。沖には平家船を一面に竝べて見物す。陸には源氏轡を竝べて、是を見る。何れも/\晴ならずと云ふ事ぞなき。與一目を塞いで、「南無八幡大菩薩、別しては我國の神明、日光權現宇都宮、那須湯泉大明神、願は、あの扇の眞中射させて給せ給へ。是を射損ずる物ならば、弓伐折自害して、人に二度面を向ふべからず。今一度本國へむかへんと思召さば、此矢はづさせ給ふな。」と、心の中に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹弱り、扇もいよげにぞ成たりける。與一鏑を取て番ひ、よ引いてひやうと放つ。小兵と云ふぢやう十二束三伏、弓は強し、浦響く程長鳴して、あやまたず扇の要際一寸許置いて、ひふつとぞ射切たる。鏑は海へ入ければ、扇は空へぞ擧りける。暫は虚空に閃めきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさとぞ散たりける。夕日の輝いたるに皆紅の扇の日出したるが白波の上に漂ひ、浮ぬ沈ぬゆられければ、沖には平家ふなばたを扣て感じたり。陸には源氏箙を扣てどよめきけり。

弓流

餘りの面白さに、感に堪ざるにやと覺しくて船の中より、年五十許なる男の、黒革威の鎧著て白柄の長刀持たるが、扇立たりける所に立てまひすましたり。伊勢三郎義盛、與一が後へ歩せ寄て、「御諚ぞ、仕れ。」と云ひければ、今度は中差取て打くはせ、よ引いてしや頸の骨をひやうふつと射て船底へまさかさまに射倒す。平家の方には音もせず、源氏の方には又箙を扣いて、どよめきけり。「あ射たり。」といふ人も有り、又「情なし。」と云ふ者もあり。平家是を本意なしとや思ひけん、楯ついて一人、弓持て一人、長刀持て一人、武者三人なぎさにあがり、楯を衝て「敵寄せよ。」とぞ招いたる。判官、「あれ、馬強ならん若黨共、馳寄せて蹴散せ。」と宣へば、武藏國の住人、三穗屋四郎、同藤七、同十郎、上野國の住人、丹生の四郎、信濃國の住人、木曾の中次、五騎つれて、をめいて駈く。楯の影より、塗箆に、黒ほろ作だる大の矢をもて、眞先に進だる三穗屋の十郎が馬の左の懸づくしを、ひやうづばと射て筈の隱る程ぞ、射籠だる。屏風を返す樣に、馬はどうと倒るれば、主は馬手の足をこえ弓手の方へ下立て、軈て太刀をぞ拔だりける。楯の陰より、大長刀打振て懸りければ、三穗屋の十郎、小太刀大長刀に叶はじとや思けむ、かいふいて迯ければ、軈て續て追懸たり。長刀でながんずるかと見る處に、さはなくして、長刀をば左の脇にかい挾み、右の手を差延て、三穗屋十郎が甲のしころをつかまむとす。つかまれじとはしる。三度つかみはづいて、四度の度むずとつかむ。暫したまて見えし。鉢附の板より、ふつと引切てぞ迯たりける。殘四騎は、馬を惜うでかけず、見物してこそ居たりけれ。三穗屋十郎は、御方の馬の陰に逃入て、息續居たり。敵は追ても來で長刀杖につき、甲のしころを指上げ、大音聲を上て、「日比は音にも聞つらん。今は目にも見給へ。是こそ京童部の喚なる上總惡七兵衞景清よ。」と名乘棄てぞ歸りける。

平家是に心地なほして、「惡七兵衞討すな。續けや者共。」とて又二百餘人なぎさに上り、楯を雌羽につき竝べて「敵寄よ。」とぞ招いたる。判官是を見て「安からぬ事なり。」とて、後藤兵衞父子、金子兄弟を先に立て、奧州の佐藤四郎兵衞、伊勢三郎を弓手馬手に立、田代冠者を後に立てゝ、八十餘騎をめいてかけ給へば、平家の兵ども、馬には乘らず、大略歩武者にてありければ、馬に當られじと引退いて、皆船へぞ乘りにける。楯は算を散したる樣に、散散に蹴散さる。源氏の兵共勝に乘て、馬の太腹ひたる程に、打入々々責戰ふ。判官深入して戰ふ程に船の中より熊手を持て、判官の甲の錣に、からり/\と二三度迄打懸けるを、御方の兵共、太刀長刀で打のけ/\しける程に、如何したりけん、判官弓をかけ落されぬ。うつぶして鞭をもて掻寄て、取う/\とし給へば、兵共、「唯捨させ給へ。」と申けれども、終に取て、笑うてぞ歸られける。おとな共、爪彈をして、「口惜き御事候かな。縱千疋萬疋に替させ給べき御寶なりとも、爭か御命に替させ給ふべき。」と申せば、判官、「弓の惜さに取らばこそ。義經が弓といはゞ、二人しても張り、若は三人しても張り、伯父の爲朝が弓の樣ならば、態も落して取すべし。わう弱たる弓を、敵取持て、『是こそ源氏の大將九郎義經が弓よ。』とて嘲哢せんずるが口惜ければ、命に代て取るぞや。」と宣へば、皆人是をぞ感じける。

さる程に日暮ければ、平家の船は沖に浮めば源氏は陸に引退いて、むれ高松の中なる野山に、陣をぞ取たりける。源氏の兵共、此三日が間は臥ざりけり。一昨日渡邊福島を出づるとて、其夜大浪にゆられて目睡まず、昨日阿波國勝浦にて軍して終夜中山越え、今日又一日戰くらしたりければ、皆疲果てゝ或は甲を枕にし、或は鎧の袖、箙など枕にして、前後も知らず臥たりけり。其中に、判官と伊勢三郎は寢ざりけり。判官は高き所に登上て、敵や寄ると遠見し給へば、伊勢三郎はくぼき所に隱れ居て、敵寄せば、先づ馬の太腹射んとて待懸たり。平家の方には、能登守を大將にて、其勢五百餘騎夜討にせんと支度しけれども、越中次郎兵衞盛次と、海老次郎守方と先陣を爭ふ程に、其夜も空しくあけにけり。夜討にだにもしたらば源氏なじかはたまるべき。寄せざりけるこそ、責ての運の究めなれ。

志度合戰

明ければ、平家舟に取乘て當國志度浦へ漕退く。判官三百餘騎が中より馬や人をすぐて八十餘騎、追てぞかゝりける。平家是を見て、「敵は小勢なり。中に取籠て討や。」とて、又千餘人なぎさに上りをめき叫で責戰ふ。さる程に、八島に殘留たる二百餘騎の兵共、後馳に馳來る。平家是を見て、「すはや源氏の大勢の續くは。何十萬騎か有るらん。取籠られては叶ふまじ。」とて又船に取乘て潮に引かれ風に隨て、何くを指共なく、落行ぬ。四國は皆大夫判官に追落されぬ、九國へは入られず、唯中有の衆生とぞ見えし。

判官志度浦に下居て、頸共實檢しておはしけるが、伊勢三郎義盛をめして、宣ひけるは、「阿波民部重能が嫡子、田内左衞門教能は河野四郎通信が、召せども參らぬを責んとて、三千餘騎にて、伊豫へ越えたりけるが、河野をば打泄して家子郎等百五十人が頸斬て昨日八島の内裏へ參せたりけるが、今日是へ著ときく。汝行向て、ともかくもこしらへて具して參れかし。」と宣へば、畏て承り、旗一流給はてさす儘に、其勢僅に十六騎、皆白裝束にて馳向ふ。義盛教能に行合たり。白旗赤旗、二町許を隔てゝゆらへたり。伊勢三郎義盛使者を立て申けるは「是は源氏の大將軍九郎大夫判官殿の御内に、伊勢三郎義盛と申者で候が、大將に申べき事有て、是まで罷向て候。軍合戰の料でも候はねば、物具もし候はず、弓矢ももたせ候はず、あけて入させ給へ。」と申ければ、三千餘騎の兵共、中を開てぞ通しける。義盛教能に打雙て、「且聞給ても有るらん、鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿院宣を承て、平家追討の爲に、西國へ向はせ給て候が、一昨日阿波國勝浦にて、御邊の伯父櫻間介殿討たれ給ぬ。昨日八島に寄せて御所内裏皆燒拂ひ、大臣殿父子生捕にし奉り能登殿は自害し給ひぬ。その外の君達或は討死に或は海に入り給ひぬ。餘黨の僅に有つるは志度の浦にて、皆討たれぬ。御邊の父阿波民部殿は、降人に參せ給ひて候を、義盛が預り奉て候が、あはれ田内左衞門が是をば夢にも知らで、明日は軍して討れ參らせんずる無慚さよと、通夜歎き給ふが、餘に最愛て此事知らせ奉らんとて是まで罷向て候。其上は軍して討死せんとも降人に參て父を今一度見奉らんともともかうも御邊が計ぞ。」といひければ、田内左衞門、聞ゆる兵なれども運や盡にけん。「且聞く事に少も違ず。」とて、甲を脱弓の弦を弛いて、郎等にもたす。大將がか樣になる上は、三千餘騎の兵ども皆此の如し。僅に十六騎に具せられ、おめおめと降人にこそ參りけれ。「義盛が策誠にゆゝしかりけり。」と判官も感じ給ひけり。やがて田内左衞門をば物具めされて、伊勢三郎に預けらる。「さてあの勢共は如何に。」と宣へば、遠國の者共は、「誰を誰とか思ひ參せ候べき。唯世の亂れをしづめて國を知し召さんを君とせん。」と申ければ、尤然るべしとて、三千餘騎を、皆我勢にぞ具せられける。

同廿二日辰の刻ばかり渡邊に殘り留たる二百餘艘の船共、梶原を先として、八島の磯にぞ著にける。「四國は皆九郎大夫判官に攻め落されぬ。今は何の用にか逢べき。會に逢ぬ華、六日の菖蒲、いさかひ果てのちぎり哉。」とぞ笑ひける。

判官都を立給ひて後住吉の神主長盛、院の御所へ參て、大藏卿泰經朝臣を以て奏聞しけるは「去十六日の丑刻に當社第三の神殿より、鏑矢の聲出でて、西を指て罷候ぬ。」と申ければ、法皇大に御感有て、御劍已下種々の神寶を長盛して大明神へまゐらせらる。昔神功皇后、新羅を責給ひし時、伊勢大神宮より、二神のあらみさきを差副させ給ひけり。二神御船の艫舳に立て、新羅を安く被責落ぬ。歸朝の後、一神は攝津國住吉の郡に留り給ふ。住吉大明神の御事也。今一神は信濃國諏訪の郡に跡を垂る。諏訪大明神是也。昔の征罰の事を、思食忘ず今も朝の怨敵を滅し給ふべきにやと、君も臣も憑もしうぞ思食されける。

鷄合 壇浦合戰

さる程に、九郎大夫判官義經周防の地に押渡て、兄の參河守と一に成る。平家は長門國ひく島にぞつきにける。源氏阿波國勝浦に著て八島の軍に打勝ぬ。平家引島に著と聞えしかば、源氏は同國の内、追津に著こそ不思議なれ。

熊野別當湛増は、平家重恩の身なりしが、忽に其恩を忘れて「平家へや參るべき、源氏へや參るべき。」とて、田邊の新熊野にて御神樂奏して、權現に祈誓し奉る。「唯白旗につけ。」と御託宣有けるを、猶疑なして白い鷄七、赤き鷄七、是を以て權現の御前にて勝負をせさす。赤き鷄一つも勝たず皆負てけり。さてこそ源氏へ參らんと思定めけれ。一門の者共相催し、都合其勢二千餘人、二百餘艘の船に乘り連て、若王子の御正體を船に乘參せ、旗の横上には、金剛童子を書奉て、壇浦へ寄するを見て、源氏も平家も共にをがむ。されども源氏の方へ附ければ、平家興覺てぞ思はれける。又伊豫國の住人、河野四郎通信、百五十艘の兵船に乘連て漕來り、源氏と一つに成にけり。判官旁憑しう力ついてぞ思はれける。源氏の船は三千艘、平家の船は千餘艘、唐船少々相交れり。源氏の勢は重れば、平家の勢は落ぞ行く。

元歴二年三月廿四日卯刻に、豐前の國の門司赤間關にて、源平矢合とぞ定めける。其日判官と梶原と既に同志軍せんとする事あり。梶原、判官に申けるは「今日の先陣をば、景時にたび候へ。」判官、「義經がなくばこそ。」と宣へば、「大將軍にてこそ在々候へ。」と申ければ、判官、「思ひも寄らず、鎌倉殿こそ大將軍よ。義經は奉行を承たる身なれば、唯殿原と同事ぞ。」と宣へば。梶原、先陣を所望しかねて、「天性此殿は侍の主には成り難し。」とぞつぶやきける。判官、是を聞き「日本一の嗚呼の者哉。」とて、太刀の柄に手をかけ給ふ。梶原「鎌倉殿より外に主を持ぬ者を。」とて、是も太刀の柄に手を懸けり。さる程に嫡子の源太景季、次男平次景高、同三郎景家、父と一所に寄合うたり。判官の氣色を見て、奧州佐藤四郎兵衞忠信、伊勢三郎義盛、源八廣綱、江田源三、熊井太郎、武藏坊辨慶など云ふ一人當千の兵共、梶原を中に取籠て、我討とらんとぞ進ける。されども判官には三浦介取附き奉り、梶原には土肥次郎つかみつき、兩人手を摺て申けるは、「是程の大事を前にかゝへながら、同士軍候はゞ平家力附候なんず。就中、鎌倉殿の還り聞せ給はん處こそ穩便ならず候へ。」と申せば、判官靜まり給ひぬ。梶原進に及ばず。其よりして、梶原、判官を憎みそめて終に讒言して失ひけるとぞ、後には聞えし。

さる程に源平兩陣の交ひ海の面卅餘町をぞ隔たる。門司、赤間、壇の浦は、たぎりて落る潮なれば、源氏の船は潮に向うて心ならず押落さる。平家の船は潮に追てぞ出來たる。沖は潮の早ければ、汀に附て、梶原敵の船の行違處に、熊手を打懸て、親子主從十四五人、乘り移り、打物拔で艫舳に散々にないでまはり、分捕數多して、其日の高名の一の筆にぞ附にける。既に、源平兩方陣を合て閧を作る。上は梵天迄も聞え、下は海龍神も驚らんとぞ覺ける。新中納言知盛卿、船の屋形に立出で、大音聲を上て、宣ひけるは「軍は今日ぞ限る。者共少もしりぞく心あるべからず。天竺震旦にも、日本吾朝にも、雙なき名將勇士と云へども、運命盡ぬれば力及ばず。されども名こそ惜けれ。東國の者共に弱氣見ゆな。いつの爲に命をば惜むべき。唯是のみぞ思ふ事。」と宣へば、飛騨三郎左衞門景經御前に候けるが、「是承れ、侍共。」とぞ下知しける。上總惡七兵衞進出て申けるは、「坂東武者は、馬の上でこそ口はきゝ候とも、船軍にはいつ調練し候べき。縱ば魚の木に上たるでこそ候はんずれ。一々に取て海につけ候はん。」とぞ申たる。越中の次郎兵衞申けるは、「同くは大將軍の源九郎に組給へ。九郎は色白うせい小きが、向齒の殊に差出てしるかんなるぞ。但し直垂と鎧を常に著替なれば、きと見分難かん也。」とぞ申ける。上總惡七兵衞申けるは「心こそ猛とも其小冠者何程の事かあるべき。片脇に挾さんで、海へ入れなん物を。」とぞ申たる。新中納言はか樣に下知し給ひ、大臣殿の御まへに參て、「今日は侍共景色よう見え候。但阿波民部重能は、心變したると覺え候。首をはね候はばや。」と申されければ、大臣殿、見えたる事もなうて如何頸をば切るべき。指しも奉公の者であるものを。」「重能參れ。」とて召しければ木蘭地の直垂に、洗革の鎧著て、御前に畏て候。「如何に重能は心替したるか。今日こそ惡う見ゆるぞ。四國の者共に、軍好うせよと下知せよかし。臆したるな。」と宣へば、「なじかは臆し候ふべき。」とて御前を罷立つ。新中納言「あはれきやつが頸を打落さばや。」と思食し、太刀のつかも碎よと握て大臣殿の御方を頻に見給ひけれども、御許され無れば、力及ばず。

平家は千餘艘を三手に作る。山賀の兵藤次秀遠五百餘艘で先陣に漕向ふ。松浦黨三百餘艘で二陣に續く。平家の君達二百餘艘にて三陣に續き給ふ。兵藤次秀遠は、九國一番の精兵にて有けるが我程こそなけれ共、普通ざまの精兵共五百人をすぐて、舟々の艫舳に立て、肩を一面に比て、五百の矢を一度に放つ。源氏は三千餘艘の船なれば勢の數、さこそ多かりけめども、處々より射ければ何くに精兵有とも見えず。大將軍九郎大夫判官眞先に進で戰ふ。楯も鎧もこらへずして、散散に射しらまさる。平家御方勝ぬとて、頻に攻皷打て悦の鬨をぞ作りける。

遠矢

源氏の方にも和田小太郎義盛、船には乘らず、馬に打乘てなぎさに引へ、甲をば脱いで人にもたせ、鐙の鼻蹈そらし、よ引て射ければ、三町が内との物は外さずつよう射けり。其中に殊に遠う射たると覺しきを、「其矢給はらん。」とぞ招いたる。新中納言是を召寄せて見給へば、白篦に鶴の本白、こうの羽を破合せて作だる矢の十三束二伏有に、沓卷より一束計おいて、和田小太郎平義盛と、漆にてぞ書附たる。平家の方に精兵多しといへども、さすが遠矢射る者は少かりけるやらん、稍久しう有て、伊豫國の住人仁井紀四郎親清召出され、此矢を給はて射返す。是も沖よりなぎさへ三町餘をつと射渡して、和田小太郎が、後一段餘に引へたる三浦の石田左近太郎が弓手のかひなにしたたかにこそ立たりけれ。三浦の人共是を見て、「和田小太郎が、我に過て遠矢射る者なしと思ひて恥かいたるをかしさよ。あれを見よ。」とぞ笑ひける。和田小太郎是を聞き、「やすからぬ事也。」とて小舟に乘て漕出させ、平家の勢の中を差詰め引詰め散々にいければ多の者共射殺れ手負にけり。又判官の乘給る船に、沖より白篦の大矢を一つ射立てゝ、和田が樣に「こまたへ給はらん。」とぞ招いたる。判官此を拔せて見給へば、白篦に山鳥の尾を以て作だりける矢の、十四束三伏あるに、伊豫國の住人仁井紀四郎親清とぞ書附たる。判官後藤兵衞實基を召て、「此矢射つべき者の御方に誰かある。」と宣へば「甲斐源氏に安佐里與一殿こそ、精兵にてましまし候へ。」「さらば呼べ。」とて呼れければ、安佐里の與一出來たり。判官宣ひけるは、「沖より此矢を射て候が、射返せと招き候。御邊あそばし候なんや。」「給はて見候はん。」とて、爪よて、「これは篦が少し弱う候。矢束もちと短う候。同じうは義成が具足にて仕り候はん。」とて、塗籠籐の弓の九尺計あるに、塗篦に黒ほろはいだる矢の、我大手に押握て十五束有けるをうちくはせ、よ引てひやうと放つ。四町餘をつと射渡して、大船の舳に立たる仁井紀四郎親清が眞正中をひやうづばと射て、船底へ逆樣に射倒す。死生をばしらず。安佐里與一は、本より精兵の手きゝ也。二町に走る鹿をば、外さず射けるとぞ聞えし。其後源平、戰に命を惜まずをめき叫んで攻戰ふ。何れ劣れりとも見えず。されども、平家の方には、十善帝王三種の神器を帶して渡らせ給へば、源氏如何あらんずらんとあぶなう思ひけるに、暫は白雲かと覺しくて、虚空に漂ひけるが、雲にては無りけり、主もなき白旗一流舞下て、源氏の船の舳に、竿附の緒のさはる程にぞ見えたりける。判官、「是は八幡大菩薩の現じ給へるにこそ。」と悦で、手水鵜飼をして、是を拜し奉る。兵共皆此のごとし。又源氏の方より江豚といふ魚、一二千這うて、平家の方へぞ向ひける。大臣殿是を御覽じて小博士晴信を召て、「江豚は常に多けれども、未だか樣の事なし。いかゞあるべきと勘へ申せ。」と仰られければ「此江豚見かへり候はば、源氏滅び候べし。はうて通候はば、御方の御軍危う候。」と申も果ねば、平家の船の下を、直にはうて通りけり。「世の中は今はかう。」とぞ申たる。

阿波民部重能は、此三箇年が間、平家に能々忠を盡し、度々の合戰に命を惜まず防ぎ戰ひけるが、子息田内左衞門を生捕にせられて、いかにも叶はじとや思ひけん、忽に心替りして、源氏に同心してんげり。平家の方にははかりごとに、好き人をば兵船に乘せ、雜人共を唐船に乘せて、源氏心にくさに唐船を攻めば、中に取籠て討んと支度せられたりけれども、阿波民部が囘忠の上は、唐船には目も懸けず、大將軍のやつし乘給へる兵船をぞ攻たりける。新中納言「やすからぬ、重能めを切て棄べかりつるものを。」と千たび後悔せられけれども叶はず。さる程に四國鎭西の兵共、皆平家を背いて、源氏に附く。今まで從ひ著たりし者共も君に向て弓を引き、主に對して太刀を拔く。彼岸につかんとすれば、波高して叶ひ難し。此の汀に寄らんとすれば、敵箭鋒を汰て待懸たり。源平の國爭、今日を限とぞ見えたりける。

先帝身投

源氏の兵共既に平家の船に乘移りければ、水主梶取共、射殺され、切殺されて船を直すに及ばず、船底に倒伏しにけり。新中納言知盛卿、小船に乘て、御所の御船に參り、「世の中はいまはかうと見えて候。見苦しからん物共皆海へ入させ給へ。」とて艫舳に走り廻り、掃いたり拭うたり、塵拾ひ、手づから掃除せられけり。女房達、「中納言殿、軍は如何に。」と口々に問ひ給へば、「めづらしき東男をこそ御覽ぜられ候はんずらめ。」とて、から/\と笑ひ給へば、「何條の只今の戲れぞや。」とて、 聲々にをめき叫給ひけり。二位殿は此有樣を御覽じて日比思食設けたる事なれば、に ぶ色の二衣打覆き、練袴の傍高く挾み、伸璽を脇に挾み、寶劔を腰にさし、主上を抱 奉て、「我身は女なりとも、敵の手にはかゝるまじ。君の御供に參る也。御志思ひ參 せ給はん人々は、急ぎ續き給へ。」とて舟端へ歩み出られけり。主上は今年は八歳に 成せ給へども御年の程より遙にねびさせ給ひて、御容美しくあたりも照り輝くばかり 也。御ぐし黒う優々として御せなかすぎさせ給へり。あきれたる御樣にて、「尼ぜ、 我をばいづちへ具してゆかんとするぞ。」と仰ければ、幼き君に向奉り涙を押へて申 されけるは、「君は未知し召れさぶらはずや。先世の十善戒行の御力に依て、今萬乘 の主と生させ給へども、惡縁に引かれて、御運既に盡させ給ひぬ。先づ東に向はせ給 ひて、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西方淨土の來迎に預らむと思食し、西に向はせ給ひて御念佛候ふべし。此國は粟散邊地とて、心憂き境にてさぶらへば、極樂淨土とてめでたき處へ具し參せさぶらふぞ。」と泣々申させ給へば、山鳩色の御衣にびんづら結せ給ひて、御涙におぼれ、小さく美しき御手を合せて先東を伏し拜み、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西に向はせ給ひて、御念佛有しかば、二位殿やがて抱き奉り、「浪のしたにも、都のさぶらふぞ。」と慰奉て千尋の底へぞ入給ふ。悲き哉、無常の春の風、忽に華の御容を散し、無情哉、分段の荒き浪、玉體を沈め奉る。殿をば長生と名附けて長き棲かと定め、門をば不老と號して、老せぬとざしとかきたれども、未だ十歳の内にして、底の水くづとならせ給ふ。十善帝位の御果報、申すも中々愚なり。雲上の龍降て、海底の魚となり給ふ。大梵高臺の閣の上、釋提喜見の宮の内、古は槐門棘路の間に九族を靡かし、今は舟の中波の下に、御命を一時に亡し給ふこそ悲しけれ。

能登殿最期

女院は此御有樣を御覽じて、御燒石、御硯左右の御懷に入て、海へ入せ給ひたりけるを、渡邊黨に源五馬允眤誰とは知り奉らねども、御髮を熊手に懸て、引上奉る。女房達、「あな淺まし、あれは女院にて渡らせ給ぞ。」と聲々口々に申されければ、判官に申て急ぎ御所の御舟へわたし奉る。大納言佐殿は、内侍所の御唐櫃をもて、海へ入らんとし給ひけるが、袴の裾を舟端にいつけられ、蹴纒ひて倒れ給たりけるを、兵ども取留め奉る。さて武士共内侍所の御唐櫃の鎖をねぢ切て、既に御蓋を開かんとすれば忽に目くれ鼻血垂る。平大納言、生捕にせられておはしけるが、「あれは内侍所の渡らせ給ふぞ。凡夫は見奉らぬ事ぞ。」と宣へば、兵共みなのきにけり。其後判官平大納言に申合せて、本の如く緘げ納め奉る。

さる程に門脇平中納言教盛卿、修理大夫經盛、兄弟鎧の上に碇を負ひ、手に手を取組んで海へぞ入給ひける。小松の新三位中將資盛、同少將有盛、從弟左馬頭行盛、手に手を取組んで一所に沈み給ひけり。人々はか樣にし給へども、大臣殿父子は海に入んずる氣色もおはせず、舟端に立出でて四方見回し、あきれたる樣にておはしけるを、侍共あまりの心憂さに、そばを通る樣にて、大臣殿を海へつき入奉る。右衞門督是を見てやがて飛入給けり。皆人は、重き鎧の上に重き物を負うたり抱いたりして入ればこそ沈め。此人親子はさもし給はぬ上憖に究竟の水練にておはしければ、しづみもやり給はず。大臣殿は、「右衞門督沈まば我も沈まむ、助かり給はゞ我も助らむ。」と思ひ給ふ。右衞門督も「父しづみ給はゞ吾もしづまむ、助かり給はば我もたすからむ。」と思ひて、互に目を見かはし游ぎありき給ふ程に、伊勢三郎義盛、小船をつと漕寄せ、先づ右衞門督を、熊手に懸て引上げ奉る。大臣殿、是を見ていよ/\沈みもやり給はねば同う取奉てけり。

大臣殿の御乳母飛騨三郎左衞門景經、小船に乘て、義盛が船に乘移り、「吾君取奉るは何者ぞ。」とて太刀を拔で走りかゝる。義盛既にあぶなう見えけるを、義盛が童、主を討せじと中に隔たり、景經に打てかゝる。景經が打つ太刀に、義盛が童、甲の眞甲打破れて、二の太刀に頸打落されぬ。義盛猶あぶなう見えけるを、並の船より、堀彌太郎親經、よ引いて兵と射る。景經内甲を射させてひるむ處を、堀彌太郎、義盛が船に乘移て、三郎左衞門に組で伏す。堀が郎等主に續いて乘移り、景經が鎧の草摺引上て、二刀刺す。飛騨三郎左衞門景經聞ゆる大力の剛の者なれども運や盡にけん。痛手は負つ、敵はあまたあり、そこにて終に討たれにけり。大臣殿は生ながら取りあげられ目の前で乳子がうたるるを見給ふに、いかなる心ちかせられけん。

凡そ能登守教經の矢先に廻る者こそ無りけれ。矢種の有る程射盡して今日を最後とや思はれけん、赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧著て、いか物作りの大太刀拔、白柄の大長刀の鞘をはづし、左右に持て、なぎ廻り給ふに面を合する者ぞなき、多の者ども討たれにけり。新中納言使者を立てゝ、「能登殿、痛う罪な作り給ひそ。さりとて好き敵か。」と宣ひければ、「さては大將軍に組めごさんなれ。」と心得て、打物莖短に取て、源氏の船に乘り移り、をめき叫んで責戰ふ。されども判官を見知給はねば、物具の好き武者をば「判官か」と目を懸て、馳囘り給ふ。判官も先に心得て面に立つ樣にしけれども、兎かく違ひて、能登殿には組れず。されども如何したりけん。判官の船に乘當て「あはや」と目を懸て飛でかゝるに、判官叶はじとや思はれけん、長刀脇にかい挾み、御方の船の二丈ばかりのいたりけるに、ゆらりと飛乘り給ひぬ。能登殿は疾態や劣られけん。やがて續いても飛び給はず。今はかうと思はれければ太刀長刀海へ投入れ、甲も脱で棄られけり。鎧の草摺かなぐり棄て、胴ばかり著て、大童になり、大手を廣げて立たれたり。凡當を撥てぞ見えたりける。怖しなども愚也。能登殿大音聲を上て、「我と思はん者共は寄て教經に組で生捕にせよ。鎌倉へ下て頼朝に逢て物一言云はんと思ふぞ。よれやよれ。」と宣へども寄る者一人も無りけり。こゝに土佐國の住人、安藝の郷を知行しける安藝大領實康が子に、安藝太郎實光とて、三十人が力持たる大力の剛の者あり。我にちとも劣らぬ郎等一人、弟の次郎も、普通にはすぐれたるしたゝか者也。安藝太郎能登殿を見奉て申けるは、「如何に心猛くましますとも我等三人取付たらんに縱長十丈の鬼なりとも、などか從へざるべき。」とて主從三人小船に乘て、能登殿の船に押竝べ、えいといひて乘移り甲のしころを傾け太刀を拔て一面に打て懸る。能登殿ちとも噪ぎ給はず、眞先に進だる安藝太郎が郎等をすそを合せて、海へどうと蹴入給ふ。續いてよる安藝太郎を、弓手の脇に取て挾み、弟の次郎をば、馬手の脇にかい挾み、一しめしめて、「いざうれ、さらば己等死出の山の供せよ。」とて、生年廿六にて、海へつとぞ入給ふ。

内侍所都入

新中納言、「見べき程の事は見つ、今は自害せん。」とて、乳人子の伊賀平内左衞門家長を召て「いかに日比の約束は違まじきか。」と宣へば、「子細にや及候。」と申。中納言に、鎧二領著せ奉り、我身も鎧二領著て、手を取組で海へぞ入にける。是を見て侍共廿餘人後たてまつらじと手に手を取組で一所に沈みけり。其中に、越中次郎兵衞、上總五郎兵衞、惡七兵衞、飛騨四郎兵衞は、何としてか逃れたりけん、そこをも又落にけり。海上には赤旗赤幟共、投捨かなぐり捨たりければ、龍田川の紅葉葉を、嵐の吹散したるがごとし。汀に寄る白浪も、薄紅にぞ成にける。主もなき虚しき船は、潮に引かれ風に從て、いづくを指ともなくゆられゆくこそ悲しけれ。生捕には、前内大臣宗盛公、平大納言時忠、右衞門督清宗、内藏頭信基、讃岐中將時實、兵部少輔雅明、大臣殿の八歳になり給ふ若公、僧には二位僧都專親、法勝寺執行能圓、中納言律師仲快、經誦坊阿闍梨融圓、侍には源大夫判官季貞、攝津判官盛澄、橘内左衞門季康、藤内左衞門信康、阿波民部重能父子、以上三十八人也。菊池次郎高直、原田大夫種直は、軍以前より郎等共相具して降人に參る。女房達には、女院、北の政所、廊御方、大納言佐殿、帥佐殿、治部卿局以下、四十三人とぞ聞えし

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元歴二年の春の暮、如何なる年月にて一人海底に沈み、百官波上に浮らん。國母官女は、東夷西戎の手に從ひ、臣下卿相は數萬の軍旅にとらはれて、舊里に歸り給ひしに、或は朱買臣が錦をきざる事を歎き、或は王昭君が胡國に赴きし恨も、かくやとぞ悲み給ひける。

同四月三日、九郎大夫判官義經、源八廣綱を以て、院の御所へ奏聞せられけるは、去三月二十四日、豐前國田浦門司關、長門國壇浦赤間關にて、平家を責め落し三種神器事故なう返し入れ奉るの由、申されたりければ、院中の上下騒動す。廣綱を御坪の内へ召し、合戰の次第を委しう御尋ありて、御感のあまり左兵衞尉に成されけり。「一定内侍所返り入らせ給ふか、見て參れ。」とて、五日、北面に候ける藤判官信盛を西國へ差遣はさる。宿所へも歸らず、やがて院の御馬を給はて鞭を擧げ、西をさしてぞ馳下る。

同十四日、九郎大夫判官義經、平氏男女の生捕共相具して上りけるが、播磨國明石浦にぞ著にける。名を得たる浦なれば、深行くまゝに月すみ上り、秋の空にもおとらず。女房達差つどひて、「一年是を通りしには、かゝるべしとは思はざりき。」などいひて、忍音に泣合れけり。帥佐殿つくづく月を詠め給ひ、いと思ひ殘す事もおはせざりければ、涙に床も浮くばかりにて、かうぞ思ひ續け給ふ。

ながむればぬるゝ袂にやどりけり、月よ雲井の物語せよ。

治部卿局

雲のうへに見しにかはらぬ月影の、すみにつけても物ぞかなしき。

大納言佐局

我身こそ明石浦に旅寢せめ、同じ浪にもやどる月哉。

「さこそ物悲しう昔戀しうもおはしけめ。」と判官猛き武士なれども、情ある男士なれば、身に染て哀にぞ思はれける。

同二十五日、内侍所、璽の御箱、鳥羽に著せ給ふと聞えしかば、内裏より御迎に參らせ給ふ人々、勘解由小路中納言經房卿、高倉宰相中將泰通、權右中辨兼忠、左衞門權佐親雅、榎並中將公時、但馬少將教能、武士には伊豆藏人大夫頼兼、石河判官代能兼、左衞門尉有綱とぞ聞えし。其夜の子刻に、内侍所、璽の御箱、太政官の廳に入せ給。寶劔は失にけり。神璽は海上に浮びたりけるを、片岡太郎經春が、取上奉たりけるとぞきこえし。

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[2] NKBT has 。 at this point.

吾朝には神代より傳はれる靈劍三あり。十握劍、天の早切劍、草薙劍是也。十握劍は大和國磯上布留社に納めらる。天早切の劍は尾張國熱田宮にありとかや。草薙劍は内裏にあり。今の寶劍是也。此劍の由來を申せば、昔、素盞烏尊出雲國曾我里に宮造りし給ひしに其處に八色の雲常に立ちければ、尊是を御覽じてかくぞ詠じ給ひける。

八雲たつ出雲やへがきつまごめに、やへ垣つくる其のやへ垣を。

是を三十一文字の始とす。國を出雲と名付る事も即ちこの故とぞ承る。

昔、尊、出雲國ひの河上に下り給ひし時國津の神に足なつち、手なつちとて夫神婦神おはします。其子に端正の娘あり。稻田姫と號す。親子三人泣居たり。尊「如何に」と問ひ給へば答へ申ていはく、「我に娘八人ありき。皆大蛇の爲にのまれぬ。今一人殘るところの少女又呑れんとす。件の大蛇、尾首共に八つあり。各八の峯八の谷に這はびこれり。靈樹異草背に生ひたり。幾千年を歴たりといふ事を知らず。眼は日月の光の如し。年々に人を呑む。親呑まるるものは子悲み、子呑まるゝものは親悲み、村南村北に哭する聲絶えずとぞ申ける。尊哀に思食し、此少女をゆつのつまぐしに取なし、御ぐしに差藏させ給ひ、八の舟に酒を入れ、美女の姿を造て高き岡に立つ。其影酒にうつれり。大蛇人と思ひて其影を飽まで飮で醉臥たりけるを尊帶給へる十握の劍をぬいて大蛇をづた/\に切り給ふ。其中に一の尾の至て切れず。尊恠しと思食し、堅樣に破て御覽ずれば一の靈劍あり。是を取て天照大神に奉り給ふ。「是は昔高間の原にてわがおとしたりし劍也。」とぞ宣ひける。大蛇の尾のなかに在ける時は村雲常に掩ければ天の村雲劍とぞ申ける。大神是をえて、天の御門の御寶とし給ふ。其後豐葦原中津國の主として天孫を下し奉り給ひし時、此劍をも御鏡に副てたてまつらせ給ひけり。第九代の帝開化天皇の御時までは一殿におはしましけるを、第十代の帝崇神天皇の御宇に及で、靈威に怖れて天照大神を大和國笠縫里磯垣の廣きに移し奉り給ひし時、此劍をも天照大神の社壇に籠め奉らせ給ひけり。その時劍を造りかへて御守とし給ふ。靈威本の劍に相劣らず。

天の村雲劍は崇神天皇より景行天皇まで三代は天照大神の社壇に崇め置かれたりけるを、景行天皇の御宇四十年六月に東夷反逆の間、御子日本武尊、御心も剛に御力も人に勝れておはしければ、清撰に當てあづまへ下り給ひし時、天照大神へ詣て御暇申させ給ひけるに、御妹いつきの尊を以て謹而怠事なかれとて靈劍を尊にさづけ申給ふ。さて駿河國に下り給ひたりしかば、其處の賊徒等「この國には鹿多う候。狩して遊ばせ給へ。」とてたばかり出し奉り、野に火をはなて既に燒き殺し奉らんとしけるに、尊はき給へる靈劍を拔て草を薙ぎ給へば、はむけ一里が中は草皆薙れぬ。尊又火を出されたりければ、風たちまちに異賊の方へ吹掩ひ、凶徒悉く燒け死にぬ。其よりしてこそ天の村雲の劍をば草薙劍とも名付られけれ。尊、猶奧へせめ入て、三箇年が間處々の賊徒を討平らげ、國々の凶黨をせめしたがへて上らせ給ひけるが、道より御惱著せ給ひて、御歳三十と申七月に尾張國熱田の邊にて終に隱れさせ給ひぬ。その魂は白き鳥と成て、天に上けるこそ不思議なれ。生捕の夷共をば御子武彦尊を以て御門へたてまつらせ給ふ。草薙劍をば熱田の社に納めらる。あめの御門の御宇七年に新羅の沙門道行此劍を竊で吾國の寶とせんと思て、竊に舟に藏して行程に波風震動して忽に海底に沈まんとす。即靈劍のたゝりなりと知て、罪を謝して先途を遂ず。元の如く返し納め奉る。然るを天武天皇朱鳥元年に是を召て内裏に置かる。今の寶劍是也。御靈威いちはやうまします。陽成院狂病にをかされましまして靈劍を拔せ給ひければ、夜るのおとど閃々として電光にことならず。恐怖の餘に投棄させ給ひければ、自はたと鳴て鞘に差されにけり。上古にはかうこそ目出かりしか。縱ひ二位殿脇に差て海に沈み給ふともたやすううすべからずとて、勝れたる海士人共を召てかづきもとめられける上、靈佛靈社に貴き僧を籠め種々の神寶を捧げて祈り申されけれども、終に失せにけり。其時の有職の人々申合はれけるは「昔天照大神百王を守らんと御誓ひ有ける其誓未だ改らずして石清水の御流れ未だ盡せざるゆゑ、日輪の光未地に落させ給はず、末代澆季なりとも帝運の究まる程の事はあらじかし。」と申されければ、其中に、ある博士の勘へ申けるは「昔出雲國ひの河上にて素盞烏尊に切り殺され奉し大蛇、靈劍を惜む志深くして八の首八の尾を表事として人王八十代の後、八歳の帝と成て靈劍を取り返して海底に沈み給ふにこそ。」と申す。千尋の海の底、神龍の寶と成りしかば二度人間に返らざるも理とこそ覺えけれ。

一門大路渡

さる程に、二の宮歸り入らせ給ふとて法皇より御迎へに御車を參らせらる。御心ならず、平家に取られさせ給て、西海の波の上に漂はせ給ひ三年を過させ給ひしかば、御母儀も御乳母持明院の宰相も、御心苦しき事に思はれけるに、別の御事なく返り上らせ給ひたりしかば、差つどひて皆悦泣どもせられたる。

同廿六日、平氏の生捕共京へ入る。皆小八葉の車にてぞ有ける。前後の簾を上げ、左右の物見を開く。大臣殿は淨衣を著給へり。右衞門督は、白き直垂にて、父の車の後にぞ乘られたる。平大納言時忠卿の車も、同くやり續く。子息讃岐中將時實も同車にて渡さるべかりしが現所勞とて渡れず。内藏頭信基は、疵を蒙たりしかば閑道より入にけり。大臣殿さしも花やかに清氣におはせし人のあらぬ樣に痩衰へ給へり。されども四方見廻して最思ひ沈める氣色もおはせず、右衞門督はうつぶして目も見上給はず、思ひ入たる氣色也。土肥次郎實平木蘭地の直垂に小具足計して隨兵三十餘騎車の先後に打圍で守護し奉る。見る人都の中にも限らず、凡遠國近國山々寺々よりも、老たるも若きも、來り集れり。鳥羽の南の門、作道、四塚迄、ひしと續いて、幾千萬と云ふ數を知らず。人は顧る事を得ず、車は輪を廻す事能はず。治承養和の飢饉、東國西國の軍に、人種ほろびうせたりといへども、猶殘りは多かりけりとぞ見えし。都を出て中一年、無下に間近き程なれば、めでたかりし事も忘れず。さしも恐をのゝきし人の今日の有樣、夢現とも分かねたり。心なき怪の賤男賤女に至るまで、涙を流し、袖を絞らぬは無りけり。増て馴れ近附ける人々のいかばかりの事をか思ひけん。年比恩を蒙り、父祖の時より祗候したりし輩の有繋身のすてがたさに、多くは源氏についたりしかども、昔の好み忽にわするべきにもあらねば、さこそ悲しう思ひけめ。されば袖を顏に押あてゝ、目を見上げぬ者も多かりけり。

大臣殿の御牛飼は、木曾が院參の時、車遣損じて切られにける次郎丸が弟、三郎丸也。西國にては、かり男に成たりしが、いま一度大臣殿の御車をつかまつらんと思ふ志ふかゝりければ、鳥羽にて判官に申けるは、「舎人牛飼など申者は、いふかひなき下臈の果にて候へば、心有るべきでは候はねども年來めしつかはれまゐらせて候御志淺からず。然るべう候はゞ御ゆるされを蒙て、大臣殿の最後の御車を仕り候はばや。」とあながちに申ければ、判官「仔細あるまじ、とう/\。」とてゆるされけり。斜ならず悦で、尋常にしやうぞき、懷より遣繩取出しつけかへ、涙に暮て行先も見えねども、袖を顏に押あてゝ牛の行に任せつゝ、泣々遣てぞ罷りける。法皇は六條東洞院に御車を立て叡覽あり。公卿殿上人の車ども同じう立竝べたり。さしも御身近う召仕はれしかば、法皇もさすが御心弱う、哀にぞ思食されける。供奉の人人は只夢とのみこそ思はれけれ。「日比は如何にもして、あの人々に目をもかけられ、詞の末にも懸らばやとこそ思ひしかば、かゝるべしとは誰か思ひし。」とて、上下涙を流しけり。一年宗盛公内大臣に成て、悦び申し給ひし時は公卿には花山院大納言を始として、十二人扈從して遣り續け給へり。殿上人には藏人頭親宗以下十六人前驅す。公卿も殿上人も、今日を晴ときらめいてこそ有しか、中納言四人、三位中將も三人迄おはしき。軈て此平大納言もその時は左衞門督にておはしき。御前へ召され參せて御引出物給はて持成され給ひし有樣目出たかりし儀式ぞかし。今日は月卿雲客一人もしたがはず、同じく壇浦にて生捕にせられたりし侍共廿餘人白き直垂著て、馬の上にしめつけてぞ渡されける。六條を東へ河原までわたされて、歸て、大臣殿父子は九郎判官の宿所、六條堀河にぞおはしける。御物参らせたりしかどもせき塞て、御箸をだにも立てられず。互に物は宣はねども目を見合せて隙なく涙をぞ流されける。夜になれども、裝束もくつろげ給はず、袖を片敷て臥給ひたりけるが、御子右衞門督に、御袖を打著せ給ふを、まぼり奉る源八兵衞、江田源三、熊井太郎是を見て、「哀高も賤きも恩愛の道程悲しかりける事はなし。御袖を著せ奉りたらばいく程の事か有るべきぞ。せめての御志の深さかな。」とて、武きものゝふども皆涙をぞ流しける。

同二十八日鎌倉の前兵衞佐頼朝朝臣從二位し給ふ。越階とて二階をするこそ有がたき朝恩なるに是は既に三階なり。三位をこそし給ふべかりしかども、平家のし給ひたりしを忌うて也。其夜の子刻に内侍所太政官の廳より温明殿へ入らせ給ふ。主上行幸成て三箇夜臨時の御神樂あり。右近將監小家能方別勅を承はて家に傳れる弓立宮人といふ神樂の秘曲を仕て勸賞蒙りけるこそ目出たけれ。此歌は、祖父八條判官資忠と云し伶人の外は知れる者なし。餘り秘して子の親方には教へずして堀川天皇御在位の時傳へ參て死去したりしを、君親方に教へさせ給ひけり。道を失はじと思食す御志感涙抑へがたし。

抑内侍所と申は、昔、天照大神天の岩戸に閉籠らんとせさせ給ひし時、如何にもして我容をうつし置きて御子孫に見て奉らんとて御鏡を鑄給へり。是猶御心に合はずとて又鑄替させ給ひけり。先の御鏡は紀伊國日前國懸の社是也。後の御鏡は御子あまの忍ほみみの尊に授け參せさせ給ひて、殿を同うして住み給へ。」とぞ仰ける。さて天照大神天の岩戸に閉ぢ籠らせ給ひて天下暗やみと成たりしに、八百萬の神達神集に集て岩戸の口にて御神樂を奏し給ひければ、天照大神感に堪させ給はず、岩戸を細目に開き見給ふに、互に顏の白く見えけるより面白といふ詞は始まりけるとぞ承はる。其時こやねたぢからをといふ大力の神よてえいといひてあけ給ひしよりしてたてられずといへり。さて内侍所は第九代の御門開化天皇の御時までは一つ殿におはしましけるを、第十代の帝崇神天皇の御宇に及て靈威に怖れて別の殿へ移し奉らせ給ふ。近き比は温明殿におはします。遷都遷幸の後、百六十年を經て、村上天皇の御宇天徳四年九月廿三日の子刻に内裡なかのへに始めて燒亡ありき。火は左衞門の陣より出きたりければ内侍所のおはします温明殿も程近し。如法夜半の事なれば内侍も女官も參り合はせずして、かしこ所を出し奉るにも及ばず。小野宮殿急ぎ參らせ給て内侍所既に燒させ給ひぬ。世はいまはかうごさんなれとて御涙を流させ給ふほどに、内侍所は自炎の中を飛び出でさせ給ひ、南殿の櫻の梢に懸らせおはしまし光明赫奕として朝の日の山の端を出るに異ならず。其時小野宮殿世は末失せざりけりと思食すに悦の御涙せきあへさせ給はず。右の御膝をつき左の御袖を廣げてなく/\申させ給ひけるは「昔天照大神百王を守らんと御誓有ける其御誓いまだ改らずんば神鏡實頼が袖に宿らせ給へ。」と申させ給ふ御詞の未をはらざる先に飛移らせ給ひけり。即御袖に裹で太政官の朝所へ渡し奉らせ給ふ。近頃は温明殿におはします。此世には請取奉らんと思ひ寄る人も誰かはあるべき。神鏡も又宿らせ給べからず。上代こそ猶目出かりけれ。

文之沙汰

平大納言時忠卿父子も、九郎判官の宿所近うぞおはしける。世の中かくなりぬる上は、とてもかうてもとこそ思はるべきに、大納言猶命惜うや思はれけん、子息讃岐中將を招いて、「散すまじき文を一合判官に取られてあるぞとよ。是を鎌倉の源二位に見えなば、人も多く損じ我身も命生らるまじ、如何せんずる。」と宣へば、中將申されけるは、「判官は大かたも情ある者にて候なる上女房などの打たへ歎く事をば、如何なる大事をももてはなれぬと承り候。何か苦しう候べき。姫君達數多ましまし候へば、一人見せさせ給ひ、親うならせおはしまして後、仰らるべうや候らん。」大納言涙をはら/\と流いて、「我世にありし時は、娘共をば女御后とこそ思ひしか。なみ/\の人に見せんとはかけても思はざりしものを。」とて泣かれければ、中將、「今はその事努々思食寄せ給ふべからず。當腹の姫君の十八に成り給ふを。」と申されけれども、大納言それをば猶悲しき事に覺して、先の腹の姫君の十八に成り給ふを。」と申されけれども、大納言それをば猶悲しき事に覺して、先の腹の姫君の二十三になり給ふをぞ、判官には見られける。是も年こそすこし長しうおはしけれど眉目容美しう、心ざま優におはしければ、判官ありがたう思ひ奉て、もとの上河越太郎重頼が娘も有しかども、是をば別の方に尋常にしつらうてもてなしけり。さて女房件の文の事を宣ひ出されたりければ、判官剩へ封をも解かず、急ぎ時忠卿の許へ送られけり。大納言斜ならず悦で、やがて燒ぞ棄てられける。如何なる文共にてありけん、覺束なうぞ聞えし。

平家滅びて、いつしか國々靜まり、人のかよふも煩なし。都も穩しかりければ、「唯九郎判官程の人はなし。鎌倉の源二位は何事をか爲出したる。世は一向判官の儘にてあらばや。」などいふ事を源二位漏聞いて、「こは如何に、頼朝がよく計ひて、兵を指上すればこそ平家はたやすう滅びたれ。九郎ばかりしては、爭か世をばしづむべき。人のかくいふに奢て何しか世を我儘にしたるにこそ。人こそ多けれ、平大納言の聟になて、大納言を扱ふなるも受けられず。又世にもはゞからず、大納言の聟取いはれなし。是へ下ても定て過分の振舞せんずらん。」とぞ宣ひける。

副將被斬

同五月七日、九郎大夫判官平氏の生捕共相具して關東へ下向と聞えしかば、大臣殿判官の許へ使者を立てゝ、「明日關東へ下向と承候。恩愛の道は思切られぬ事にて候也。生捕の中に、八歳の童と附られて候ひしものは、未だ此世に候やらん。今一度見候ばや。」と宣ひ遣されたりければ、判官の返事には、「誰も恩愛の道は思切られぬ事にて候へば、誠にさこそ思食され候らめ。」とて、河越小太郎重房がもとに預り奉たりけるを大臣殿の許へわか君入れ奉るべき由、宣ひければ、人に車借て、乘せ奉り、女房二人著奉たりしも一つ車に乘り具して大臣殿へぞ參られける。若君は遙に父を見奉り給て、世に嬉氣におぼしたり。大臣殿、「如何に是へ。」と宣へば、やがて御膝の上に參り給ふ。大臣殿若君の御ぐしを掻撫で、涙をはら/\と流いて、守護の武士共に宣ひけるは、「是は、各聞き給へ、母も無き者にてあるぞとよ。此子が母は、是を産とて、産をば平かにしたりしかども、やがてうちふして惱みしが、終に空く成ぞとよ。『此後如何なる人の腹に公達を設け給ふとも、思ひかへずして、生立て我形見に御覽ぜよ。さしはなて乳母などの許へ遣すな。』と云ひし事の不便さに、『あの右衞門督をば朝敵を平げん時は、大將軍をせさせ、是をば副將軍をせさせんずれば。』とて、名を副將と附たりしかば、斜ならず嬉氣に思ひて既に限りの時迄も、名を呼などして愛せしが、七日といふに、墓なく成りて有ぞとよ。此子を見る度ごとには、其事が忘れがたくおぼゆる也。」とて涙もせきあへ給はねば守護の武士共も、皆袖をぞ絞りける。右衞門督も

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[3]なき給へは
乳母も袖を絞けり。やゝ久しく有て大臣殿、「さらば副將、とく歸れ。嬉しう見つる。」と宣へども、若君歸り給はず。右衞門督是を見て涙を押へて宣ひけるは、「やゝ副將御前、今夜は疾々歸れ。唯今客人のこうずるぞ。朝は急ぎ參れ。」と宣へども、父の御淨衣の袖にひしと取附て、「いなや歸じ。」とこそ泣給へ。かくて遙に程歴れば、日も漸暮れにけり。さてしもあるべき事ならねば、乳母の女房抱取て、御車に乘せ奉り、二人の女房共も袖を顏に推當てゝ、泣々暇申つゝ共に乘てぞ出にける。大臣殿は後を遙に御覽じ送て、日來の戀しさは事の數ならずとぞ悲み給ふ。「此子は母の遺言が無慚なれば。」とて乳母の許へも遣さず、朝夕御前にてそだて給ふ。三歳にて始冠して、義宗とぞ名乘せける。やう/\生立給ふまゝに、みめ容美しく、心樣優におはしければ、大臣殿もかなしういとほしき事におぼして、西海の旅の空、浪の上、船の中の住にも片時も離れ給はず。然るを軍破れて後は、今日ぞ互に見給ひける。

河越小太郎判官の御前に參ていひけるは「さて若君の御事をば何と御計ひ候やらん。」と申ければ、鎌倉まで具し奉るに及ばず。汝ともかうも是であひはからへ。」とぞ宣ひける。河越小太郎宿所に歸て、二人の女房共に申けるは、「大臣殿は鎌倉へ御下り候が、若君は京に御留あるべきにて候。重房も罷り下候間、緒方三郎惟義が手へ渡し奉るべきにて候。とう/\召され候へ。」とて、御車寄せたりければ、若君何心もなう乘り給ひぬ。「又昨日の樣に父御前の御許へか。」とて悦ばれけるこそはかなけれ。六條を東へやて行く。此の女房共「あはやあやしき物哉。」と、肝魂を消して思ひける程に、少し引下て兵五六十騎が程河原へ打出たり。やがて車を遣とゞめて、敷皮しき、「下させ給へ。」と申ければ若君車よりおり給ひぬ。世にあやしげにおぼして、「我をばいづちへ具してゆかむとするぞ。」と問ひ給へば、二人の女房共、とかうの御返事にも及ばず。重房が郎等、太刀をひきそばめて、左の方より御後に立囘り、既に斬奉らんとしけるを、若君見つけ給ひて、幾程遁るべき事の樣に、急ぎ乳母の懷の中へぞ逃入給ふ。さすが心強う取出し奉るにも及ばねば、若君をかゝへ奉り人の聞くをも憚らず、天に仰ぎ地に伏してをめき叫みける心の中推量られて哀也。かくて時刻遙に推し移りければ河越小太郎重房涙をおさへて、「今はいかに思食され候とも叶はせ給ひ候まじ。とう/\。」と申ければ其時乳母の懷の中より、引出し奉り、腰の刀にて押伏て終に頸をぞ掻いてける。猛き武士共もさすが岩木ならねば、皆涙を流しけり。頸をば「判官の見參にいれん。」とて取て行く。乳母の女房、徒跣にて追著て、「何かくるしう候べき。御頸ばかりをば給はて後世を弔ひまゐらせん。」と申せば、判官も世に哀氣に思ひ涙をはら/\と流いて「誠にさこそは思ひ給らめ。最もさあるべし。とう/\。」とてたびにけり。是を取て懷に入れて泣々京の方へ歸るとぞ見えし。其後五六日して、桂川に女房二人身をなげたる事ありけり。一人少なき人の頸をふところに入沈みたりけるは、此若君の乳母の女房にてぞ有ける。今一人屍を抱いて有けるは、介錯の女房なり。乳母が思きるは、せめて如何せん、介錯の女房さへ、身を投けるこそ有がたけれ。

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[3] NKBT reads 泣給へば.

腰越

さる程に大臣殿父子は九郎大夫判官に具せられて七日の曉關東へ下給ふ。粟田口を過ぎ給へば、大内山も雲井の餘所に隔りぬ。逢阪にもなりしかば關の清水を見給ひて、大臣殿なくなくかうぞ詠じ給ける。

都をば今日を限りの關水に、又あふ坂の影やうつさむ。

道すがらも餘りに心細げにおはしければ、判官情ある人にて、樣々に慰め奉る。大臣殿、判官に向て「相構、今度親子の命を助けて給へ。」と宣ば、「遠き國、遙の島へも遷しぞ參せ候はんずらん。御命失ひ奉るまではよも候はじ。縱さ候とも、義經が勳功の賞に申かへて、御命計は助參せ候べし。御心安う思食され候へ。」と憑もしげに申されければ「たとひ夷が千島なりともかひなき命だにあらば。」と宣ひけるこそ口惜けれ。日數歴れば、同廿四日、鎌倉へ下り著き給ふ。

梶原判官に一日先立て鎌倉殿に申けるは、「日本國は今は殘る所なう隨ひ奉り候。但し御弟九郎大夫判官殿こそ、終の御敵とは見えさせ給候へ。その故は『一谷を上の山より義經が落さずば、東西の木戸口破れ難し。生捕も死捕も義經にこそ見すべきに、 物の用にもあひ給はぬ蒲殿の方へ見參に入べき樣やある。本三位中將殿こなたへたば ずば參て給はるべし。』とて既に軍出來候はんとし候しを、景時が土肥に心を合せて、 三位中將殿を土肥次郎に預けて後こそ靜まり給て候しか。」と語り申ければ、鎌倉殿 打頷いて、「今日九郎が鎌倉へ入なるに、各用意し給へ。」と仰られければ大名小名 馳集て、程なく數千騎に成にけり。

金洗澤に關居ゑて、大臣殿父子請取奉て判官をば腰越へ追返さる。鎌倉殿は隨兵七重八重に居ゑ置いて我身は其中におはしながら「九郎はすゝどきをのこなれば此疊の下よりも這出んずる者也。但し頼朝はせらるまじ。」とぞ宣ひける。判官、思はれけるは「去年の正月木曾義仲を追討せしよりこのかた一谷壇浦に至るまで命を棄てゝ平家を責め落し、内侍所、璽の御箱事故なく返入奉り、大將軍父子生捕にして、具して是迄下りたらんには、縱如何なる不思議ありとも、一度はなどか對面なかるべき。凡は九國の惣追捕使にも成され、山陰山陽南海道、いづれにても預け、一方の固めともなされんずるとこそ思ひつるに、わづかに伊豫の國ばかりを知行すべき由仰せられて、あまさへ鎌倉へだにも入られぬこそ本意なけれ。さればこは何事ぞ。日本國を靜むる事、義仲義經が爲態にあらずや。譬へば同じ父が子で、先に生るるを兄とし、後に生るるを弟とする計なり。誰か天下を知らんに知らざるべき。剩今度見參をだにも遂げずして逐ひ上らるゝこそ遺恨の次第なれ。謝する所を知らず。」とつぶやかれけれども力なし。全く不忠なきよし度々起請文を以て申されけれども、景時が讒言によて鎌倉殿用ゐ給はねば、判官泣々一通の状を書て廣元の許へ遣す。其状に云く、

源義經恐ながら申上候意趣は、御代官の其一に選ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、會稽の耻辱を雪ぐ。勳賞行はるべき處に思外虎口讒言によて莫大の勳功をもだせられ、義經をかし無うしてとがをかうむり、功あて誤なしと云へ共、御勘氣を蒙る間空く紅涙に沈む。讒者の實否をただされず、鎌倉中へ入られざる間、素意をのぶるにあたはず。徒に數日を送る。此時にあたて永く恩顏を拜し奉らず。骨肉同胞の義既に絶え、宿運究めて虚しきにたるか。將又先世の業因の感ずる歟。悲哉。此條故亡父尊靈再誕し給はずば誰の人か愚意の悲歎を申開ん。何れの人か哀怜をたれられん哉。事新き申状、述懷に似たりといへども、義經身體髮膚を父母に受て、幾の時節をへず、故頭殿御他界之間孤と成り、母の懷の中に抱かれて、大和國宇多郡に趣しより以降、未だ一日片時安堵之思に住せず。甲斐なき命をば存すといへども、京都の經廻難治の間、身を在々所々に藏し、邊土遠國を栖として、土民百姓等に服仕せらる。然れども交契忽に純熟して、平家の一族追討の爲に上洛せしむる手合に、木曾義仲を誅戮の後、平氏をかたむけんが爲に、或時は峨々たる巖石に駿馬に鞭うち、敵の爲に命をほろぼさん事を顧みず、或時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、海底に沈まん事を痛まずして、屍を鯨鯢の鰓にかく。しかのみならず甲冑を枕とし、弓箭を業とする本意、併亡魂の憤りを息め奉り、年來の宿望を遂んと欲する外他事なし。剩さへ義經五位の尉に補任之條、當家の重職何事かこれにしかん。然りといへども、愁深く歎切也。佛神の御助けにあらずより外は爭か愁訴を達ん。これによて、諸寺諸社の牛王寶印の裏をもて、野心を挿まざる旨、日本國中の大小の神祇冥道を請じ驚し奉て、數通の起請文を書進すといへども、猶以御宥免なし。夫吾國は神國なり、神は非禮を享給べからず。憑むところ他にあらず。偏に貴殿廣大の慈悲を仰ぐ。便宜を伺ひ高聞に達せしめ、秘計をめぐらし誤なき由をゆうせられ、赦免に預らば、積善の餘慶家門に及び、榮華を永く子孫に傳へん。仍て年來の愁眉を開き、一期の安寧を得ん。書紙に盡さず。併令省略候畢ぬ。義經恐惶謹言。 元歴二年六月五日   源義經 進上因幡守殿へ

とぞ書かれたる。

大臣殿被斬

さる程に、鎌倉殿大臣殿に對面有り。おはしける所に庭を一つ隔てゝ、向なる屋に居奉り、簾の中より見出し、比氣藤四郎義員を使者で申されけるは「平家の人々に別の意趣思奉る事努努候はず。其故は池殿尼御前如何に申給とも故入道殿の御許され候はずば、頼朝爭か扶り候べき。流罪に宥められし事偏に入道殿の御恩也。されば廿餘年迄、さてこそ罷過候しかども朝敵となり給て追討すべき由院宣を給はる間、さのみ王地に孕まれて、詔命を背くべきにもあらねば、力不及、加樣に見參に入給ぬるこそ、本意に候へ。」と申されければ義員此由申さんとて、御前に參りたりければ、居なほり畏り給ひけるこそうたてけれ。國々の大名小名竝居たる其中に、京の者共幾らも有り、皆爪彈をして申しけるは「居なほり畏り給ひたらば御命の助り給べきか。西國で如何にも成給べき人の、生ながらとらはれて、是までくだり給こそ理なれ。」とぞ申ける。或は涙を流す人もあり。其中に或人の申けるは、「猛虎深山に在る時は百獸震ひ怖づ。檻穽の中に在るに及て尾を搖して食を求むとて、猛い虎の深い山に在る時は、百の獸恐怖ると云へ共檻の中に籠られぬる時は、尾を掉て人に向ふらんやうに、如何に猛き大將軍なれども、かやうに成て後は、心かはる事なれば、大臣殿も、かくおはするにこそ。」と申ける人も有りけるとかや。

去程に九郎大夫判官樣々に陳じ申されけれども、景時が讒言に依て、鎌倉殿更に分明の御返事もなし。「急ぎのぼらるべし。」と仰られければ、同六月九日、大臣殿父子具し奉て、都へぞ返り上られける。大臣殿は今少しも日數の延を嬉き事に思はれける。道すがらも、「こゝにてや/\」とおぼしけれども、國々宿々、打過々々通りぬ。尾張國内海と云ふ所あり。こゝは故左馬頭義朝

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[4]か
誅せられし所なれば、これにてぞ一定と思はれけれども、それをも過しかば、大臣殿少し憑もしき心出來て、「さては命のいきんずるやらん。」と宣ひけるこそはかなけれ。右衞門督は、「なじかは命をいくべき、か樣に熱き比
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[5]なれは
、頸の損せぬ樣にはからひて京近うなて切らんずるにこそ。」と思はれけれども、大臣殿のいたく心細氣におぼしたるが心苦しさにさは申されず。偏に念佛をのみぞ申給ふ。日數ふれば、都も近著て近江國篠原の宿に著給ひぬ。

判官情深き人なれば、三日路より人を先立てゝ、善知識の爲に、大原の本性房湛豪といふ聖請じ下されたり。昨日までは親子一所におはしけるを今朝より引放て、別の所に居奉りければ、「さては今日を最後にてあるやらん。」といとゞ心細うぞ思はれける。大臣殿涙をはら/\と流いて、「抑右衞門督はいづくに候やらん。縱ひ頸は落とも、體は一つ席に臥さんとこそ思ひつるに、生ながら別ぬる事こそ悲けれ。十七年が間一日片時も離るゝ事なし。西國にて海底に沈までうき名を流すもあれ故なり。」とて泣れければ、聖哀れに思ひけれども、我さへ心弱くては不叶と思ひて、涙を拭ひ、さらぬ體にもてないて申けるは「今はとかく思食すべからず。最後の御有樣を御覽ぜむにつけても互の御心の中悲かるべし。生を受させ給てよりこのかた、樂み榮え昔も類ひ少し。御門の外戚にて、丞相の位に至らせ給へり。今生の御榮華一事も殘る所なし。今又かゝる御目にあはせ給ふも、先世の宿業なり。世をも人をも恨み思食すべからず。大梵王宮の深禪定の樂み思へば程なし。況や電光朝露の下界の命に於てをや。たう利天の億千歳、唯夢の如し。三十九年を過させ給ひけむも、僅に一時の間なり。誰れか嘗たりし、不老不死の藥。誰か保たりし、東父西母が命。秦の始皇の奢を極めしも、遂には驪山の墓に埋もれ、漢の武帝の命を惜み給ひしも、空く杜陵の苔に朽にき。生ある者は必ず滅す、釋尊未だ栴檀の煙を免れ給はず。樂盡て悲來る、天人尚五衰の日に逢へりとこそ承はれ。されば佛は、『我心自空、罪福無主、觀心無心、法不住法』とて、善も惡も空なりと觀ずるが、正しく佛の御心に相叶事にて候也。如何なれば、彌陀如來は、五劫が間思惟して發しがたき願を發しましますに、如何なる我等なれば、億々萬劫が間、生死に輪廻して、寶の山に入て、手を空せん事、恨の中の恨み、愚なるが中の口惜い事に候はずや。努努餘年を思食すべからず。」とて、戒持せ奉り、念佛勸め申。大臣殿然るべき善知識哉と思食し、忽に妄念を飜へして西に向ひ手を合せ、高聲に念佛し給ふ處に、橘右馬允公長、太刀を引そばめて左の方より御後に立廻り、既に斬奉らんとしければ、大臣殿念佛を停めて、「右衞門督も既にか。」と宣ひけるこそ哀なれ。公長後へ囘るかと見えしかば、頸は前にぞ落にける。善知識の聖も、涙に咽び給ひけり。猛き武士も爭かあはれと思はざるべき。増て彼公長は、平家重代の家人新中納言の許に、朝夕祗候の侍也。さこそ世を諂ふならひといひながら、無下に情なかりける者かなとぞ、人皆慚愧しける。其後右衞門督をも、聖前の如くに戒持せ奉り、念佛勸め申。「大臣殿の最後如何おはしましつる。」と問はれけるこそ最愛けれ。「目出たうまし/\候つる也、御心安う思召れ候へ。」と申されければ、涙を流し悦で、「今は思ふ事なし。さらばとう。」とぞ宣ひける。今度は堀彌太郎斬てけり。頸をば判官持せて都へ入る。屍をば公長が沙汰として、親子一つ穴にぞ埋ける。さしも罪ふかく離れがたく宣ひければ、加樣にしてんげり。

同廿三日大臣殿父子の頭都へ入る。檢非違使ども三條河原にいで向て、是を請取り、大路を渡して、獄門の左の樗の木にぞ懸たりける。三位以上の人の頸、大路を渡して獄門に懸けらるゝ事異國には其例もやあるらん。我朝に於は未だ其先蹤を聞かず。されば平治に信頼は惡人たりしかば、頸をばはねられたりしかども獄門には懸けられず。平家にとてぞ懸られける。西國より上ては、生て六條を東へ渡され、東國より歸ては、死んで三條を西へ渡され給ふ。生ての恥、死での恥、何れも劣らざりけり。

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[4] NKBT reads が.
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[5] NKBT reads なれば.

重衡被斬

本三位中將重衡卿は、狩野介宗茂に預られて、去年より伊豆國におはしけるを、南都の大衆頻に申ければ、「さらば渡せ。」とて、源三位入道頼政の孫、伊豆藏人大夫頼兼に仰せて、終に奈良へぞ遣しける。都へは入られずして、大津より山科通りに、醍醐路を經て行けば、日野は近かりけり。此重衡卿の北方と申は鳥飼中納言惟實の女、五條大納言國綱の養子、先帝の御乳母、大納言佐殿とぞ申ける。三位中將一谷で生捕にせられ給ひし後も、先帝に附まゐらせておはせしが、壇浦にて海にいらせ給ひしかば、武士の荒氣なきにとらはれて、舊里に歸り姉の大夫三位に同宿して、日野と云所におはしけり。中將の露の命、草葉の末にかゝて、消やらぬときゝ給へば、夢ならずして今一度見もし見えもする事もやと思れけれども、其も叶はねば、泣より外の慰めなくて明し暮し給ひけり。三位中將、守護の武士に宣ひけるは、「此程事に觸て情ふかう芳心おはしつるこそ、あり難う嬉しけれ。同くは最後に今一度芳恩蒙りたき事あり。我は一人の子なければ、此世に思ひおく事なし。年頃相具したりし女房の、日野と云ふ所に有りと聞く。今一度對面して、後生の事をも申置ばやと思ふ也。」とて片時のいとまをこはれけり。武士共さすが岩木ならねば、各涙を流しつゝ、「何かは苦う候べき。」とて許し奉る。中將斜ならず悦で、「大納言佐殿の御局は是に渡せ給候やらん。本三位中將殿の唯今奈良へ御通り候が、立ながら見參に入らばやと仰候。」と、人を入て言はせければ、北方聞もあへず、「いづらやいづら。」とて、走出て見給へば、藍摺の直垂に、折烏帽子著たる男の、痩黒みたるが、縁に依り居たるぞ、そなりける。北方御簾の際近くよて「如何に夢かや現か、是へ入せ給へ。」と宣ける御聲を聞き給ふに、いつしか、先立つ物は涙也。大納言佐殿は、目もくれ心も消果てしばしは物ものたまはず。三位中將、御簾打かついで、泣々宣ひけるは、「去年の春一谷で如何にも成べかりし身の、責ての罪の報いにや生ながら捕られて大路を渡され、京鎌倉に恥をさらすだに口惜きに、果は奈良の大衆の手に渡されて、斬るべしとて罷り候。如何にもして、今一度御姿を見奉らばやと思ひつるに、今は露ばかりも思置事なし。出家して形見に髮をもたてまつらばやと思へども、許されなければ力及ばず。」とて、額の髮を少し引きわけて口の及ぶ所をくひ切て、「是を形見に御覽ぜよ。」とてたてまつり給へば、北の方は日頃覺束なくおはしけるより今一入悲の色をぞ増し給ふ。「誠に別れ奉りし後は越前三位のうへの樣に、水の底にも沈むべかりしが、正しうこの世におはせぬ人とも聞ざりしかば、もし不思議にて今一度かはらぬ姿を見もし見えもやすると思ひてこそ、憂ながら今迄もながらへて在りつるに、今日を限りにておはせんずらん悲さよ。いまゝで延つるはもしやと思ふ憑みもありつる物を。」とて、昔今の事ども宣ひかはすにつけても、唯盡せぬ物は涙也。「餘りの御姿のしをれてさぶらふに、たてまつりかへよ。」とて袷の小袖に淨衣をそへて出されたりければ、三位中將是を著かへて、元著給へる物どもをば、「形見に御覽ぜよ。」とて置かれけり、北の方、「それもさる事にてさぶらへども、はかなき筆の跡こそ、永き世の形見にてさぶらへ。」とて、御硯を出されたりければ中將泣々一首の歌をぞ書かれける。

せきかねて涙のかゝる唐衣、のちのかたみにぬぎぞ替ぬる。

北の方きゝもあへず。

ぬぎかふる衣も今は何かせん。けふを限りの形見と思へば。

「契あらば、後世にては必ず生あひ奉らん。一つ蓮にといのり給へ。日も闌ぬ。。奈良へも遠う候、武士の待つも心なし。」とて、出給へば、北方袖にすがりて、「如何にや如何に、暫し。」とて、引留め給ふに、中將「心のうちをば唯推量給ふべし。されども終には遁れ果べき身にもあらず。又來ん世にてこそ見奉らめ。」とて出で給へども、誠に此世にてあひ見ん事は、是ぞ限りと思はれければ、今一度立歸り度おぼしけれども、心弱くては叶はじと思ひきてぞ出られける。北方御簾の際ちかく伏まろびをめき叫給ふ御聲の、門の外まで遙に聞えければ、駒をば更に疾め給はず、涙にくれて行先も見えねば、中々なりける見參かなと、今は悔しうぞ思はれける。大納言佐殿やがてはしりついても、おはしぬべくはおぼしけれども、それもさすがなれば、引覆いてぞ臥給ふ。

さる程に三位中將をば南都の大衆、請取て、僉議す。「抑此重衡卿は、大犯の惡人たる上、三千五刑の中に洩れ、修因感果の道理極定せり。佛敵法敵の逆臣なれば、東大寺興福寺の大垣を廻して鋸にてや斬べき堀首にやすべき。」と僉議す。老僧どもの申されけるは、「それも僧徒の法に穩便ならず。唯守護の武士に給うで、木津の邊にて切らすべし。」とて、武士の手へぞかへしける。武士是を請取て、木津河の端にて切らんとするに、數千人の大衆、見る人幾等と云數を知らず。三位中將の年比召仕はれける侍に、木工右馬允知時といふ者あり。八條女院に候けるが、最後を見奉らんとて、鞭を打てぞ馳たりける。既に只今斬奉らんとする處に馳著て、千萬立圍うだる人の中を掻き分け三位中將のおはしける御傍近う參りたり。「知時こそ唯今最後の御有樣見參せ候はんとて、是まで參りて候へ。」と泣々申ければ、中將「誠に志の程神妙なり。如何に知時佛を拜み奉て、きらればやと思ふは如何せんずる。あまりに罪深う覺ゆるに。」と宣へば、知時「安い御事候也。」とて、守護の武士に申あはせ、其邊におはしける佛を一體迎へ奉て出きたり。幸に阿彌陀にてぞまし/\ける。河原の沙の上に立參らせ、やがて知時が狩衣の袖のくゝりを解て、佛の御手にかけ、中將に引へさせ奉る。中將是を引へつゝ、佛に向ひ奉て申されけるは、「傳聞く、調達が三逆を作り、八萬藏の聖教を燒滅したりしも、終には天王如來の記べつに預り、所作の罪業誠に深しといへども、聖教に値遇せし逆縁朽ずして却て得道の因となる。今重衡が逆罪を犯す事、全く愚意の發起に在らず、唯世に隨ふ理を存ずる計也。命をたもつ者誰か王命を蔑如する。生を受くる者誰か父の命を背かん。彼といひ是といひ、辭するに所なし。理非佛陀の照覽にあり。抑罪報たち所に報い、運命唯今を限りとす。後悔千萬悲しんでも餘りあり。但し三寶の境界は、慈悲を心として、濟度の良縁區也。唯縁樂意、逆即是順、此文肝に銘ず。一念彌陀佛、即滅無量罪、願くは逆縁を以て順縁とし、唯今最後の念佛に依て、九品託生を遂べし。」とて高聲に十念唱へつつ頸を延てぞ切らせられける。日來の惡行はさる事なれども、唯今の有樣を見奉に、數千人の大衆も、守護の武士も、皆涙をぞ流しける。其頸般若寺の大鳥井の前に釘附にこそかけられけれ。治承の合戰の時、爰に打立て、伽藍を滅し給へる故也。

北方大納言佐殿首をはねられたりとも屍をば取寄せて孝養せんとて、輿を迎へに遣す。げにも棄置たりければ取て輿に入れ、日野へ舁てぞ歸ける。これをまちうけ見給ひける北方の心の中、推量られて哀也。昨日まではゆゝしげにおはせしかども、あつき比なれば、何しかあらぬ樣に成り給ひぬ。さても有るべきならねば、其邊に法界寺と云ふ處にてさるべき僧どもあまた語ひて孝養あり。頸をば大佛の聖俊乘房にとかく宣へば大衆に乞て日野へぞ遣しける。頸も屍も煙になし、骨をば高野へ送り、墓をば日野にぞせられける。北方も樣をかへ、後世菩提を弔らはれけるこそ哀なれ。

平家物語卷第十一