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平家物語卷第三
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3. 平家物語卷第三

赦文

治承二年正月一日、院御所には拜禮行はれて、四日の日朝覲の行幸在けり。何事も例にかはりたる事は無れ共、去年の夏新大納言成親卿以下、近習の人々多く失れし事、法皇御憤未止ず、世の政も懶く思召されて、御心よからぬ事にてぞ在ける。太政入道も、多田藏人行綱が告知せて後は、君をも御後めたき事に思ひ奉て、上には事なき樣なれ共、下には用心して、苦笑てのみぞ在ける。

同正月七日彗星東方に出づ。蚩尤氣とも申す。又赤氣共申す。十八日光を増す。

去程に入道相國の御女建禮門院、其比は未中宮と聞えさせ給しが、御惱とて、雲の上、天が下の歎にてぞ在ける。諸寺に御讀經始り、諸社へ官幣使を立らる、醫家藥を盡し、陰陽術を窮め、大法秘法一つとして殘る所なう修せられけり。され共、御惱たゞにも渡せ給はず、御懷姙とぞ聞えし。主上今年十八、中宮は二十二に成せ給ふ。然共、未皇子も姫宮も出來させ給はず。若皇子にてわたらせ給はば、如何に目出度からんと、平家の人々は唯今皇子御誕生の有樣に、勇悦びあはれけり。他家の人々も、「平氏の御繁昌折を得たり、皇子御誕生疑なし。」とぞ申あはれける。御懷姙定らせ給しかば、有驗の高僧貴僧に仰せて、大法秘法を修し、星宿佛菩薩につけて、皇子御誕生と祈誓せらる。六月一日、中宮御著帶有けり。仁和寺の御室守覺法親王、御參内有て、孔雀經の法をもて、御加持あり。天台の座主覺快法親王、同う參せ給て、變成男子の法を修せられけり。

かゝりし程に、中宮は月の重るに隨て、御身を苦うせさせ給ふ。一度笑ば百の媚有けん漢の李夫人、昭陽殿の病の床もかくやと覺え、唐の楊貴妃、梨花一枝春の雨を帶び、芙蓉の風にしをれ、女郎花の露重げなるよりも猶痛しき御樣なり。かゝる御惱の折節に合せて、こはき御物怪共、取入奉る。よりまし明王の縛に掛て、靈顯れたり。殊には讃岐院の御靈、宇治惡左府の憶念、新大納言成親の死靈、西光法師が惡靈、鬼界島の流人共の生靈などぞ申ける。是によて太政入道生靈も死靈も、宥らるべしとて、其比やがて讃岐院御追號有て、崇徳天皇と號す。宇治惡左府、贈官贈位行はれて、太政大臣正一位を贈らる。勅使は少内記惟基とぞ聞えし。件の墓所は、大和國添上の郡、 河上の村、般若野の五三昧也。保元の秋掘起して捨られし後は死骸道の邊の土となて、 年々に只春の草のみ茂れり。今勅使尋來て、宣命を讀けるに、亡魂いかに嬉とおぼし けん。怨靈はかく怖ろしき事也。されば早良の廢太子をば崇道天皇と號し、井上内親 王をば、皇后の職位に復す。是皆怨靈を宥められし策也。冷泉院の御物狂う坐し、花 山の法皇十善萬乘の定位をすべらせ給しは、基方民部卿が靈とかや。三條院の御目も 御覽ぜられざりしは、寛算供奉が靈也。

門脇宰相か樣の事共傳聞いて、小松殿に申されけるは、「中宮御産の御祈樣々に候也。何と申候とも非常の赦に過たる事有るべし共覺え候はず。中にも鬼界島の流人共召還されたらん程の功徳善根、爭か候べき。」と申されければ、小松殿父の禪門の御前に坐て、「あの丹波少將が事を宰相の強ちに歎申候が不便に候。中宮御惱の御事、承及ぶ如くんば、殊更成親卿が死靈などと聞え候。大納言が死靈を宥んと思召んにつけても、生て候少將をこそ召還され候はめ。人の念ひを休させ給はば、思召す事も叶ひ、人の願を叶へさせ給はば、御願も既成就して中宮やがて、皇子御誕生有て、家門の榮花彌盛に候べし。」など被申ければ、入道相國、日來にも似ず事の外に和いで、「さて俊寛と康頼法師が事は、如何に。」「其も同う召こそ還され候はめ。若一人も留られむは、中中罪業たるべう候。」と申されたりければ、「康頼法師が事はさる事なれ共、俊寛は隨分入道が口入を以て、人と成たる者ぞかし。其に所しもこそ多けれ、我山莊鹿谷に城廓を構へて、事にふれて、奇怪の振舞共が有けんなれば、俊寛をば思もよらず。」とぞ宣ける。小松殿歸て叔父の宰相殿呼奉り、「少將は既に赦免候はんずるぞ。御心安う思召され候へ。」とのたまへば、宰相手を合てぞ悦ばれける。「下し時もなどか申請ざらんと思ひたり氣にて、教盛を見候度毎には涙を流し候しが、不便に候。」と申されければ、小松殿、「誠にさこそは思召され候らめ。子は誰とても悲ければ、能々申候はん。」とて入給ぬ。

去程に鬼界が島の流人共召還るべく定められて、入道相國許文下されけり。御使既に都をたつ。宰相餘の嬉さに、御使に私の使をそへてぞ下されける。「夜を晝にして急ぎ下れ。」とありしか共、心に任ぬ海路なれば、浪風を凌いで行程に、都をば七月下旬に出たれ共、長月廿日比にぞ、鬼界が島には著にける。

足摺

御使は丹左衞門尉基康と云者なり。船より上て「是に都より流され給し丹波少將殿平判官入道殿やおはする。」と、聲々にぞ尋ける。二人の人々は、例の熊野詣して無りけり。俊寛僧都一人殘りけるが、是を聞き、「餘に思へば夢やらん、又天魔波旬の我心を誑さんとて言やらん、現共覺ぬ物かな。」とて、周章ふためき走ともなく、倒るともなく、急ぎ御使の前に走り向ひ、「何ごとぞ、是こそ京より流されたる俊寛よ。」と名乘給へば、雜色が頸に懸させたる文袋より、入道相國の許文取出いて奉る。披いて見れば、「重科免遠流、早可成歸洛思。依中宮御産御祈被行非常赦。然間鬼界島流人少將成經、康頼法師赦免。」と計書かれて、俊寛と云文字はなし。禮紙にぞ有らんとて、禮紙を見るにも見えず。奧より端へ讀み、端より奧へ讀けれ共、二人と計書かれて、三人とはかゝれず。

さる程に少將や判官入道も出來たり、少將の取てよむにも、康頼入道が讀けるにも、 二人と計かかれて、三人とはかゝれざりけり。夢にこそかゝる事は有れ、夢かと思ひ なさんとすれば現也、現かと思へば又夢の如し。其上二人の人々の許へは、都より言 づけ文共、幾らも有けれ共、俊寛僧都の許へは、事問文一つもなし。さればわがゆか りの物どもは都のうちにあとをとゞめず成りにけりとおもひやるにもしのびがたし。「抑我等三人は罪もおなじ罪、配所も一つ所也。如何なれば赦免の時、二人は召還されて、一人爰に殘るべき。平家の思忘かや、執筆の誤か。こは如何にしつる事共ぞや。」と、天に仰ぎ地に臥して、泣悲め共かひぞなき。少將の袂にすがて、「俊寛がかく成といふも、御邊の父、故大納言殿、由なき謀反故也。されば餘所の事とおぼすべからず。赦れ無れば、都迄こそ叶はずとも、此船にのせて、九國の地へ著けて給べ。各の是に坐つる程こそ、春は燕、秋は田面の雁の音信る樣に、自ら故郷の事をも傳聞つれ。今より後、何としてかは聞べき。」とて悶え焦れ給ひけり。少將、「誠にさこそは思召され候らめ。我等が召還るゝ嬉さは、去事なれ共、御有樣を見置奉るに、行べき空も覺えず。打乘奉ても上たう候が、都の御使も叶ふまじき由申す上、赦れも無に、三人ながら島を出たりなど聞えば、中々惡う候なん。成經先罷上て、人々にも申合せ、入道相國の氣色をも窺て、迎に人を奉らん。其間は此日比坐しつる樣に思成て待給へ。何としても命は大切の事なれば、今度こそ漏させ給ふ共、終にはなどか赦免なうて候べき。」と、慰め給へども、人目も知らず泣悶えけり。既に舟出すべしとて、ひしめきあへば、僧都乘ては下つ、下ては乘つあらまし事をぞし給ひける。少將の形見には夜の衾、康頼入道が形見には、一部の法華經をぞ留ける。纜解て押出せば、僧都綱に取附き、腰に成り、脇に成り、長の立つまでは引かれて出で、長も及ばす成ければ、船に取附き「さて如何に各、俊寛をば終に捨果給ふか。是程とこそ思はざりつれ。日來の情も今は何ならず。只理を枉て乘せ給へ。責ては、九國の地迄。」と口説かれけれ共、都の御使「如何にも叶ひ候まじ。」とて、取附給へる手を引のけて、船は終に漕出す。僧都せん方なさに、渚に上り倒伏し、少き者の乳母や母などを慕ふ樣に、足摺をして、「是乘て行け、具して行け。」と、喚叫べ共、漕行船の習にて、跡は白浪ばかりなり。未遠からぬ舟なれども、涙にくれて見えざりければ、僧都高き所に走あがり、澳の方をぞ招ける。彼松浦小夜姫が、唐舟を慕つゝ、領巾ふりけんも、是には過じとぞ見えし。船も漕隱れ、日も暮れ共、怪の臥處へも歸らず、浪に足打洗せ、露に萎て、其夜は其にてぞ明されける。さり共少將は情深き人なれば、能き樣に申す事も在んずらんと憑をかけ、其瀬に身をも投ざりける心の程こそはかなけれ。昔壯里息里が、海巖山へ放たれけん悲も、今こそ思ひ知られけれ。

御産

去程に此人々は、鬼界が島を出て、平宰相の領肥前國鹿瀬庄に著給ふ。宰相京より人を下して、「年の内は浪風も烈しう、道の間も覺束なう候に、それにて能々身いたはて、春に成て上り給へ。」とありければ、少將鹿瀬庄にて、年を暮す。

さる程に同年十一月十二日の寅の刻より、中宮御産の氣坐すとて、京中六波羅ひしめきあへり。御産所は六波羅池殿にて有けるに法皇も御幸なる。關白殿を始め奉て、太政大臣以下の公卿殿上人、すべて世に人と數へられ、官加階に望をかけ、所帶所職を帶する程の人の、一人も漏るは無りけり。先例も、女御、后、御産の時に臨んで大赦行はるゝ事あり。大治二年九月十一日、待賢門院御産の時、大赦有りき。其例とて今度も、重科の輩多く許されける中に、俊寛僧都一人、赦免無りけるこそうたてけれ。

御産平安に在ならば、八幡、平野、大原野などへ、行啓なるべしと御立願有けり。仙源法印、是を敬白す。神社は太神宮を始奉て、二十餘箇所、佛寺は東大寺、興福寺、 已下十六箇所に御誦經あり。御誦經の御使は、宮の侍の中に、有官の輩是を勤む。平 紋の狩衣に帶劔したる者共が、色々の御誦經物、御劍御衣を持續いて、東の臺より南 庭を渡て、西の中門に出づ。目出たかりし見物なり。

小松大臣は例の善惡に噪がぬ人にて坐ければ、其後遙に程歴て、嫡子權亮少將以下公達の車共遣續させ、色々の御衣四十領、銀劔七つ、廣蓋に置せ、御馬十二匹引せて參り給。寛弘に上東門院御産の時、御堂殿御馬を參せられし其例とぞ聞えし。此大臣は中宮の御兄にて坐ける上、父子の御契なれば、御馬參せ給ふも理なり。五條の大納言國綱卿、御馬二匹進ぜらる。志の至か、徳の餘かとぞ人申ける。猶伊勢より始て、安藝の嚴島に至まで、七十餘箇所へ神馬を立らる。内裏にも寮の御馬に四手附て、數十匹引立たり。仁和寺御室は、孔雀經の法、天台座主覺快法親王は、七佛藥師の法、寺の長吏圓慶法親王は、金剛童子の法、其外五大虚空藏、六觀音、一字金輪、五壇の法、六字加輪、八字文殊、普賢延命に至るまで、殘所なう修せられけり。護摩の煙御所中にみち、鈴の音雲を響し、修法の聲身の毛堅て、如何なる御物のけなり共、面をむかふべしとも見えざりけり。猶佛所の法印に仰て、御身等身の藥師竝に五大尊の像を作り始らる。

かゝりしか共、中宮は隙なく頻らせ給ふばかりにて、御産も頓に成遣ず。入道相國、 二位殿、胸に手を置て、こはいかにせんとぞあきれ給ふ。人の物申しけれども、唯と もかくも好樣にとぞ宣ける。さり共「軍の陣ならば、是程淨海は臆せじ物を。」とぞ 後には仰られける。御驗者は、房覺性運兩僧正、春堯法印、豪禪、實專兩僧都、各僧 伽の句どもあげ、本寺本山の三寶、年來所持の本尊達、責ふせ々々々もまれけり。誠 にさこそはと覺えて尊かりける中に法皇は、折しも新熊野へ御幸なるべきにて、御精 進の次なりける間、錦帳近く御座有て、千手經を打上遊されけるにこそ、今一際事替 て、さしも躍狂ふ御よりまし共が縛も、暫打靜けれ。法皇仰なりけるは、「如何なる 御物氣なり共、此老法師がかくて候はんには、爭か近附奉るべき。就中に今現るる所 の怨靈共は、皆我朝恩によて、人と成し者共ぞかし。縱報謝の心をこそ存ぜず共、豈 障碍を成すべきや。速に罷退き候へ。」とて女人生産し難からん時に臨で、邪魔遮障 し、苦忍難からんにも、心を致して大悲呪を稱誦せば、鬼神退散して、安樂に生ぜん と遊いて、皆水精の御數珠を推揉せ給へば、御産平安のみならず、皇子にてこそ坐け れ。

頭中將重衡卿、其時は未中宮亮にておはしけるが、御簾の内よりつと出て、御産平安、皇子御誕生候ぞや。」と、高らかに申されければ、法皇を始參せて、關白殿以下の大臣、公卿、殿上人、各の助修、數輩の御驗者、陰陽頭、典藥頭、惣て堂上堂下、一同にあと悦あへる聲は、門外までどよみて、暫は靜りやらざりけり。入道餘りの嬉さに、聲をあげてぞ泣ける。悦泣とは是を云べきにや。小松殿、中宮の御方に參せ給て、金錢九十九文、皇子の御枕に置き、「天を以て父とし、地を以て母と定め給へ。御命は方士東方朔が齡を保ち、御心には天照大神入替らせ給へ。」とて、桑の弓蓬の矢を以て、天地四方を射させらる。

公卿揃

御乳には前右大將宗盛卿の北方と定められたりしが、去七月に難産をして失給しかば、御乳母平大納言時忠卿の北方、御乳に參せ給ひけり。後には帥典侍とぞ申ける。法皇軈て還御の御車を、門前に立られたり。入道相國嬉さの餘りに、砂金千兩、富士の綿二千兩、法皇へ進上せらる。然るべからずとぞ人人内々ささやきあはれける。

今度の御産に笑止數多あり。先法皇の御驗者、次に后御産の時御殿の棟より甑を轉かす事あり。皇子御誕生には南へ落し、皇女誕生には北へ落すを、是は北へ落したりければ、こは如何にと噪がれて取上て落なほしたりけれ共、惡き御事に人人申あへり。 をかしかりしは入道相國のあきれ樣、目出たかりしは小松大臣の振舞、本意なかりし は前右大將宗盛卿の、最愛の北方に後れ奉て、大納言大將兩職を辭して籠居せられし 事、兄弟共に出仕あらば、如何に目出たからん。次に七人の陰陽師を召されて、千度 の御祓仕るに、其中に、掃部頭時晴と云ふ老者有り。所從なども乏少なりけり。餘に人多く參つどひて、たかんなをこみ、稻麻竹葦の如し。「役人ぞ、あけられよ。」とて、押分々々參る程に、右の沓を踏拔れて、そこにて些立休ふが、冠をさへ突落されぬ。さばかりの砌に、束帶正しき老者が、髻放てねり出たりければ、若き殿上人こらへずして、一度にどと笑ひあへり。陰陽師など云は、返陪とて足をもあだにふまずとこそ承れ。其に懸る不思議の有けるを、其時は何共覺えざりしか共、後こそ思合する事共も多かりけれ。御産によて、六波羅へ參らせ給ふ人々、關白松殿、太政大臣妙音院、左大臣大炊御門、右大臣月輪殿、内大臣小松殿、左大將實定、源大納言定房、三條大納言實房、五條大納言國綱、藤大納言實國、按察使資方、中御門中納言宗家、花山院中納言兼雅、源中納言雅頼、權中納言實綱、藤中納言資長、池中納言頼盛、左衞門督時忠、別當忠親、左宰相中將實家、右宰相中將實宗、新宰相中將通親、平宰相教盛、六角宰相家通、堀川宰相頼定、左大辨宰相長方、右大辨三位俊經、左兵衞督重教、右兵衞督光能、皇太后宮大夫朝方、左京大夫長教、太宰大貳親宣、新三位實清、以上三十三人、右大辨の外は直衣なり。不參の人々には、花山院前太政大臣忠雅公、大宮大納言隆季卿、已下十餘人、後日に布衣著して、入道相國の西八條の邸へ向はれけるとぞ聞えし。

大塔建立

御修法の結願には、勸賞共行はる。仁和寺の御室は東寺修造せらるべし。並に後七日の御修法、大元の法、灌頂興行せらるべき由仰下さる。御弟子覺誓僧都、法印に擧せらる。座主の宮は、二品竝に牛車の宣旨を申させ給ふ。仁和寺の御室さゝへ申させ給ふによて、法眼圓良、法印に成さる。其外の勸賞共毛擧に遑あらずとぞ聞えし。中宮は日數經にければ、六波羅より内裏へ參せ給ひけり。此御娘、后に立せ給しかば、入道相國夫婦共に、「哀れ、如何にもして皇子御誕生あれかし。位に即奉て、外祖父、 外祖母と仰れん。」と願ける。我が崇奉る安藝の嚴島に申さんとて、月詣を始て、祈 り申されければ、中宮やがて、御懷姙有て、思ひのごとく皇子にて坐けるこそ目出度 けれ。

抑平家安藝の嚴島を信じ始られける事は如何にと云に、鳥羽院の御宇に清盛公未安藝守たりし時、安藝國を以て、高野の大塔を修理せよとて、渡邊遠藤六郎頼方を雜掌に附られ、六年に修理畢ぬ。修理畢て後、清盛高野へ上り、大塔拜み、奧院へ參られたりければ、何くより來る共なき老僧の、眉には霜を垂れ、額に浪を疊み、鹿杖の兩股なるにすがて、出來給へり。稍久しう御物語せさせ給ふ。「昔より今にいたる迄此れは密宗をひかへて退轉なし。天下に又も候はす。大塔既に修理終候たり。さては、安藝の嚴島、越前の氣比の宮は、兩界の垂跡で候が、氣比の宮は榮たれ共、嚴島はなきが如くに荒果て候。此次に、奏聞して修理せさせ給へ。さだにも候はば、官加階は肩を竝ぶる人、有まじきぞ。」とて立れけり。此老僧の居給へる所に異香薫じたり。人を附て見せ給へば、三町許は見給て其後は掻消すやうに失せ給ぬ。是唯人には非ず。 すなはち大師にて坐けりと、彌々尊く思召し、娑婆世界の思出にとて、高野の金堂に曼陀羅を書かれけるが、西曼陀羅をば、常明法印といふ繪師に書せらる。東曼陀羅をば、清盛書んとて、自筆にかゝれけるが、何とかおもはれけん、八葉の中尊の寶冠をば我首の血を出いて、書かれけるとぞ聞えし。

さて都へ上り、院參して、此由奏聞せられければ、君もなのめならず御感有り。猶任を延られて、嚴島を修理せらる。鳥居を立替へ、社々を造りかへ、百八十間の廻廊をぞ造られける。修理畢て、清盛嚴島へ參り、通夜せられたりける夢に、御寶殿の 内より、鬟結たる天童の出て、「是は大明神の御使なり。汝此劔を以て一天四海をし づめ、朝家の御まもりたるべし。」とて、銀の蛭卷したる小長刀を賜ると云夢を見て、 覺て後見給へば。現に枕上にぞ立たりける。大明神御託宣有て、「汝知れりや忘れり や、或聖を以て言せし事は。但惡行有らば、子孫迄は叶ふまじきぞ。」とて、大明神 あがらせ給ぬ。目出度かりし御事なり。

頼豪

白河院御在位の御時、京極大殿の御娘の后に立せ給て、賢子の中宮とて、御最愛有けり。主上此御腹に、皇子御誕生あらまほしう思召、其比、有驗の僧と聞えし三井寺の頼豪阿闍梨を召て、「汝此后の腹に、皇子御誕生祈り申せ、御願成就せば、勸賞はこふによるべし。」とぞ仰ける。「安う候」とて三井寺に歸り、百日肝膽を摧て祈申されければ、中宮軈て百日の内に御懷姙有て、承保元年十二月十六日。御産平安、皇子御誕生有けり。君なのめならず御感有て三井寺の頼豪阿闍梨を召て、「汝が所望の事は如何に。」と仰下されければ、三井寺に戒壇建立の事を奏す。主上「是こそ存の外の所望なれ。一階僧正などをも申べきかとこそ思召つれ。凡は皇子御誕生有て、皇祚を繼しめん事も、海内無爲を思ふ爲なり。今汝が所望達せば、山門憤て、世上も靜なるべからず。兩門合戰して、天台の佛法亡なんず」とて、御許されも無りけり。

頼豪口惜い事なりとて、三井寺に歸て、干死にせんとす。主上大に驚かせ給て、江帥匡房卿其比は未美作守と聞えしを召て、「汝は頼豪と師檀の契有なり。行いて拵て見よ。」と仰ければ、美作守綸言を蒙て、頼豪阿闍梨が宿坊に行向ひ、勅定の趣を仰含んとするに、以の外にふすぼたる持佛堂に立籠て、怖氣なる聲して、「天子には戯の言なし、綸言汗の如しとこそ承れ。是程の所望叶はざらんに於ては、我祈出したる皇子なれば、取奉て魔道へこそ行んずらめ。」とて、遂に對面も爲ざりけり。美作守歸り參て、此由を奏聞す。頼豪は軈て干死に死けり。君如何せんずると叡慮を驚させおはします。皇子やがて御惱附せ給て、樣々の御祈共有しかども、叶ふべし共見えさせ給はず。白髮なりける老僧の、錫杖を以て、皇子の御枕に彳み、人々の夢にも見え、幻にも立けり。怖なども愚也。

去程に承暦元年八月六日、皇子御年四歳にて遂に隱させ給ぬ。敦文の親王是也。主上斜ならず御歎有けり。山門に又西京の座主、良信大僧正、其比は圓融坊の僧都とて有驗僧と聞えしを内裏へ召て、「こは如何せんずる。」と仰ければ、「何も、吾山の力にてこそか樣の御願は成就する事で候へ。九條右丞相、慈慧大僧正に契申させ給しに依てこそ、冷泉院の皇子御誕生は候しか。安い程の御事候。」とて、比叡山に歸り上り、山王大師に、百日肝膽を摧て祈申ければ、中宮軈て百日の内に御懷姙有て、承暦三年七月九日、御産平安、皇子御誕生有けり。堀川の天皇是なり。怨靈は昔もかく怖しかりし事也。今度さしも目出度き御産に、非常の大赦行はれたりといへ共、俊寛僧都一人、赦免無りけるこそうたてけれ。

同十二月八日。皇子東宮に立せ給ふ。傅には、小松内大臣、大夫には池中納言頼盛卿とぞ聞えし。

少將都歸

明れば治承三年正月下旬に丹波少將成經、肥前國鹿瀬庄を立て、都へと急がれけれ共餘寒猶烈しく、海上も痛く荒ければ、浦傅島傅して、きさらぎ十日比にぞ、備前の兒島に著給ふ。其より父大納言殿の住給ける處を尋いりて見給ふに、竹の柱、舊たる障子なんどに書置れたる筆のすさびを見給て、「人の形見には手跡に過たる物ぞなき。 書置給はすば、爭か是を見るべき。」とて、康頼入道と二人、讀では泣き、泣いては 讀む。「安元三年七月廿日出家、同廿六日、信俊下向。」とも書かれたり。さてこそ 源左衞門尉信俊が參りたりけるも知れけれ。そばなる壁には、「三尊來迎便有り、九 品往生疑なし。」とも書かれたり。此形見を見給てこそ、「さすが欣求淨土の望も御 座けり。」と、限なき歎の中にも、聊頼しげには宣けれ。

其墓を尋て見給へば、松の一村ある中に、甲斐々々しう壇を築たる事もなし。土の少し高き所に少將袖掻合せ、生たる人に申樣に、泣々申されけるは、「遠き御守と成せ御座して候事をば、島にて幽に傳へ承しか共、心に任せぬ憂世なれば、急ぎ參る事も候はず。成經彼島へ流れて露の命の消やらずして、二年を送て、召還さるる嬉さは、さる事にて候へ共、此世に渡せ給ふを見參て候はばこそ、命の長きかひもあらめ。是までは急がれつれ共、今日より後は、急ぐべし共覺えずと、掻口説てぞ泣かれける。誠に存生の時ならば、大納言入道殿こそ、如何に共宣ふべきに、生を隔たる習程、恨めしかりける物はなし。苔の下には誰か答ふべき。唯嵐に騒ぐ松の響計也。

其後はよもすがら康頼入道と二人、墓の廻を行道して念佛申し、明ぬれば新う壇築き、釘貫せさせ、前に假屋作り、七日七夜、念佛申し經書て結願には大なる卒塔婆を立て、「過去聖靈出離生死、證大菩提」と書て、年號月日の下に、「孝子成經」と書かれたれば、賤山賤の心無も、子に過たる寶はなしとて、涙を流し、袖を絞ぬは無りけり。年去年來れ共、忘難きは撫育の昔の恩。夢の如く幻の如し。盡難きは戀慕の今の涙なり。三世十方の佛陀の聖衆も憐み給ひ、亡魂尊靈も、如何に嬉しと覺しけん。「今暫候て、念佛の功をも積べう候へ共、都に待つ人共も心元なう候らん。又こそ參候は。」とて、亡者に暇申つゝ、泣々そこをぞ立れける。草陰にても名殘惜うや思はれけん。

三月十六日少將殿鳥羽へあかうぞ著給ふ。故大納言殿の山庄、洲濱殿とて鳥羽に在り。住荒して年經にければ、築地は有共覆もなく、門は有共扉もなし。庭に立入り見給へば、人跡絶て苔深し。池の邊を見まはせば、秋の山の春風に、白浪頻に折懸て紫鴛白鴎逍遙す。興ぜし人の戀さに、盡ぬ物は涙也。家はあれ共、欄門破れ、蔀遣戸も絶てなし。「爰には大納言殿のとこそ坐しか、此妻戸をばかうこそ出入給しか、あの木をば、自らこそ植給しか。」など言ひて、言の葉に附て、父の事を戀しげにこそ宣ひけれ。彌生中の六日なれば、花は未名殘あり。楊梅桃李の梢こそ、折知顏に色々なれ。昔の主はなけれ共、春を忘れぬ花なれや。少將花の下に立寄て、

桃李不言春幾暮、煙霞無跡昔誰栖。
故郷の花の言ふ世なりせば、如何に昔の事を問まし。

此古き詩歌を口ずさみ給へば、康頼入道も折節哀に覺えて、墨染の袖をぞ濕しける。 暮る程とは待れけれ共、餘に名殘惜くて、夜更る迄こそ坐けれ。更行まゝに、荒たる 宿の習とて、古き軒の板間よりもる月影ぞ隈もなき。鷄籠の山明なんとすれ共、家路 は更に急がれず。さてしも有べき事ならねば、迎に乘物ども遣て、待らんも心なしと て、泣々洲濱殿を出つゝ、都へ歸り入給けん人々の心の中共、さこそは哀にも嬉しう も有けめ。康頼入道が迎にも乘物有けれ共其には乘らで、「今更名殘の惜に。」とて、 少將の車の尻に乘て、七條河原までは行く。其より行別れけるに、猶行もやらざりけ り。花の下の半日の客、月の前の一夜の友、旅人が一村雨の過行に、一樹の陰に立よ て、別るゝ名殘も惜きぞかし。況や是は憂かりし島の栖、船の中、浪の上、一業所感の身なれば、前世の芳縁も不淺や思ひしられけん。

少將は舅平宰相の宿所へ立入給ふ。少將の母上は、靈山に坐けるが、昨日より宰相の宿所に坐て待れけり。少將の立入給ふ姿を一目見て、「命あれば」と計ぞのたまひける。引被てぞ臥給ふ。宰相の内の女房侍共さしつどひて、皆悦び泣共しけり。増て少將の北の方、乳母の六條が心の中、さこそは嬉しかりけめ。六條は盡せぬ物思ひに黒かりし髮も皆白く成り、北の方、さしも花やかにうつくしう坐しか共、いつしか痩衰へて、其人とも見え給はず。少將の流され給し時、三歳にて別給し稚き人、長う成て髮結ふ程也。又其傍に三つ計なる少き人の坐けるを、少將「あれは如何に。」と宣へば、六條「是こそ」とばかり申て、袖を顏におし當て、涙を流しけるにこそ、「さては下りし時、心苦げなる有樣を見置しが、事故なく育けるよ。」と思出ても悲かりけり。少將は本の如く院に召仕はれて、宰相中將にあがり給ふ。

康頼入道は、東山雙林寺に、我山庄の有ければ、其に落著て、先思續けけり。

故郷の軒の板間に苔むして、思し程は洩ぬ月かな。

軈てそこに籠居して、憂かりし昔を髮思續け、寶物集と云ふ物語を書けけるとぞ聞えし。

有王

去程に鬼界島へ三人流されたりし流人二人は召還され都へ上りぬ。俊寛僧都一人、憂かりし島の島守と成にけるこそうたてけれ。僧都の、少うより不便にして召仕はれける童あり。名をば有王とぞ申ける。鬼界島の流人、今日既に京都へ入と聞えしかば、鳥羽まで行向うて見けれ共、我主は見え給はず。「如何に」と問へば、「其は猶罪深しとて、島に殘され給ぬ。」と聞て、心憂なども愚也。常は六波羅邊にたゝずみありいて聞けれども、赦免有るべし共聞出ず。僧都の御娘の忍びて坐ける所へ參て、「此せにも洩させ給て、御上りも候はず。如何にもして彼島へ渡て、御行へを尋參らせんとこそ思立て候へ。御文賜はらん。」と申ければ、泣々書て賜だりけり。暇を請共、よも赦さじとて、父にも母にも知せず。唐船の纜は、卯月五月にも解なれば、夏衣立を遲くや思けん。三月の末に都を出て、多くの波路を凌つゝ、薩摩潟へぞ下りける。薩摩より彼島へ渡る船津にて、人怪み、著たる物を剥取などしけれ共、少しも後悔せず、姫御前の御文計ぞ人に見せじとて、髻結の中に隱したり。さて商人船に乘て件の島へ渡て見に、都にて幽に傳聞しは、事の數にもあらず。田もなし。畑もなし。村もなし。里もなし。自ら人は有共、言ふ詞も聞知らず。若しか樣の者共の中に我が主の行末知たる者や在んと、「物申さう」と言ば、「何事」と答ふ。「是に都より流され給し法勝寺執行御房と申す人の、御行末や知たる。」と問に、法勝寺とも執行とも、知たらばこそ返事もせめ。唯頭を掉て「知ず」と言ふ。其中に或者が心得て、「いさとよ、左樣の人は三人是に有しが、二人は召還されて都へ上りぬ。今一人は殘されて、あそこ此に惑ひ歩けども、行方も知らず。」とぞ言ひける。山の方の覺束なさに、遙に分入り、嶺に攀、谷に下れ共、白雲跡を埋んで、往來の道もさだかならず、晴嵐夢を破て其面影も見ざりけり。山にては終に尋も逢はず、海の邊に著て尋るに、沙頭に印を刻む鴎、澳の白洲に集く濱千鳥の外は、跡問ふ者も無りけり。

或朝磯の方より、蜻蛉などの樣に痩衰たる者一人よろぼひ出來り。本は法師にて有けりと覺て、髮は虚樣へ生あがり、萬の藻屑取附て、荊を戴たるが如し。節見れて皮ゆたひ、身に著たる物は絹、布の分も見えず。片手には荒海布を拾ひ持ち、片手には網人に魚を貰て持ち、歩む樣にはしけれ共、はかも行かず、よろ/\として出來たり。 「都にて多くの乞丐人見しか共、かゝる者をば未見ず、『諸阿修羅等故在大海邊』と て、修羅の三惡四趣は深山大海の邊に有と、佛の説置給ひたれば、知らず、我餓鬼道 に尋來るか。」と思ふほどに、彼も此も次第に歩近づく「若か樣の者も、我主の御行 末知たる事や在ん。」と、「物申さう。」と言ば「何事」と答ふ。「是に都より流さ れ給し法勝寺の執行御房と申す人の御行末や知たる。」と問に、童は見忘たれ共、僧 都は何か忘べきなれば、「是こそ其よ。」と云も敢ず、手に持る物を投捨て、沙の上 に倒伏す。さてこそ我主の行末も知てけれ。軈て消入給ふを、膝の上に掻乘奉り「有 王が參て候。多くの浪路を凌て、是迄尋參りたる甲斐もなく、いかに軈て憂目をば見 せさせ給ふぞ。」と、泣々申ければ、良在て、少し人心地出來、扶起されて「誠に汝 が是まで尋來たる志の程こそ神妙なれ。明ても暮ても、都の事のみ思ひ居たれば、戀 き者共が面影は、夢に見る折も有り、幻に立つ時も有り。身も痛く疲弱て後は、夢も 現も思分かず。されば汝が來れるも唯夢とのみこそ覺れ。若この事夢ならば、覺ての 後は如何せん。」有王、「現にて候也。此有樣にて、今まで御命の延させ給て候こそ。 不思議には覺候へ。」と申せば、「さればこそ。去年少將や判官入道に棄られて後の便無さ、心の中をば只推量るべし。その瀬に身をも投げんとせしを、由なき少將の、『今一度都の音信をも待かし。』など、慰置しを、愚に若やと頼つゝ、存へんとはせしかども、此島には人の食物絶て無き所なれば、身に力の有し程は、山に上て硫黄と云ふ物をとり、九國より通ふ商人にあひ、物に換などせしかども、日に副て弱行ば、今は其態もせず。か樣に日の長閑なる時は、磯に出て網人釣人に手を摺り、膝を屈て、魚を貰ひ、汐干の時は貝を拾ひ、荒海布を取り、磯の苔に露の命を懸てこそ、今日までも存たれ。さらでは憂世を渡よすがをば、如何にしつらんとか思らん。」僧都、「是にて何事をも言ばやとは思共、いざ我家へ。」と宣へば、此御有樣にても、家を持給へる不思議さよ。」と思て行程に、松の一村ある中に、より竹を柱とし、蘆を結て、桁梁に渡し、上にも下にも松の葉をひしと取懸たれば、風雨たまるべうも無し。昔は法勝寺の寺務職にて、八十餘箇所の庄務を司りしかば、棟門平門の内に、四五百人の所從眷屬に圍繞せられてこそ坐せしか。目のあたりかゝる憂目を見給けるこそ不思議なれ。業にさま/\あり。順現、順生、順後業と云へり。僧都一期の間、身に用る所、皆大伽藍の寺物佛物にあらずと云ふ事なし。去れば彼信施無慚の罪に依て、今生にはや感ぜられけりとぞ見えたりける。

僧都死去

僧都現にて有けりと思定て、「抑去年少將や判官入道が迎にも、是等が文と云ふ事もなし。今汝が便にも、音信の無きはかう共謂ざりけるか。」有王涙に咽び俯して、暫は物も申さず。良有て起上り、涙を抑へて申けるは、「君の西八條へ出させ給しかば、やがて追捕の官人參て、御内の人々搦取り、御謀反の次第を尋て、失果て候ぬ。北方は少き人を隱しかねまゐらせ給ひて、鞍馬の奧に忍ばせ給て候しに、此童計こそ時々參て宮仕つかまつり候しが、何も御歎の愚なる事は候はざりしかども、稚き人は、餘に戀參させ給て、參り候度毎に、『有王よ、鬼界が島とかやへ我具して參れ。』とむづからせ給候しが、過候し二月に、もがさと申す事に失させ給ぬ。北方は其歎と申し是の御事と申し、一方ならぬ御思に沈ませ給ひ、日に添へて弱らせ給候しが、同三月二日の日遂にはかなく成せ給ぬ。今は姫御前ばかり、奈良の姨御前の御許に御渡り候。是に御文賜はて候。」とて取出いて奉る。開て見給へば、有王が申にたがはず書れたり。奧には、「などや三人流されたる人の、二人は召還されて候に、今迄御上り候はぬぞ。哀高きも卑きも、女の身ばかり心うかりける物はなし。男の身にて候はば、渡せ給ふ島へも、などか尋ね參らで候ふべき。此有王御伴にて、急ぎ上せ給へ。」とぞ書かれたる。「是見よ、有王。此子が文の書樣のはかなさよ。己を伴にて、急ぎ上れと書たるこそ恨しけれ。心に任せたる俊寛が身ならば、何とてか三年の春秋をば送るべき。今年は十二に成とこそ思に、是程はかなくては、人にも見え、宮仕をもして、 身をも扶くべきか。」とて泣れけるにこそ、人の親の心は闇にあらね共、子を思ふ道 に迷ふ程も知れけれ。「此島へ流されて後は、暦も無れば月日の換り行をも知らず、 唯自ら花の散り、葉の落るを見て、春秋を辨へ、蝉の聲麥秋を送れば夏と思ひ、雪の積を冬と知る。白月黒月の變行を見ては、三十日を辨へ、指を折て數れば、今年は六に成と思つる稚き者も早先立けるごさんなれ。西八條へ出し時、此子が我も行うと慕しを、軈て歸うずるぞと拵へ置しが、今の樣に覺るぞや。其を限と思はましかば、今暫もなどか見ざらん。親と成り、子と成り、夫婦の縁を結も、皆此世一に限ぬ契ぞかし。などさらば、其等が左樣に先立けるを、今迄夢幻にも知せざりけるぞ。人目も愧ず如何にもして、命生うと思しも、是等を今一度見ばやと思ふ爲也。姫が事計こそ心苦けれ共、其も生身なれば、歎ながらも過んずらん。さのみ存て、己に憂目を見せんも我身ながらも強顏かるべし。」とて、自らの食事を止め、偏に彌陀の名號を唱へて、臨終正念をぞ祈られける。有王渡て廿三日と云に、其庵の内にて遂に終り給ぬ。歳三十七とぞ聞えし。有王空き姿に取附き、天に仰ぎ地に俯し、泣悲め共かひぞなき。心の行程泣あきて、「軈て後世の御供仕るべう候へども、此世には姫御前ばかりこそ御渡候へ。後世弔ひまゐらすべき人も候はず。暫存て、弔ひ參せ候はんとて、臥戸を改めず、庵を切懸け、松の枯枝、蘆の枯葉を取掩ひ、藻鹽の煙と成し奉り、荼毘事終にければ、白骨を拾ひ、頸に懸け、又商人船の便に、九國の地へぞ著にける。

僧都の御女の座ける處に參て、有し樣初より細々と語申す。「中々文を御覽じてこそ、いとゞ御思は勝せ給て候ひしか。硯も紙も候はねば、御返事にも及ばず。思召され候し御心の中、さながら空て止候にき。今は生々世々を送り、他生曠劫を隔つ共、爭か御聲をも聞き、御姿をも見參せ給べき。」と申ければ、伏轉び聲も惜ず泣かれけり。軈て十二の歳尼になり、奈良の法華寺に行澄て、父母の後世を弔ひ給ぞ哀なる。有王は俊寛僧都の遺骨を頸にかけ、高野へ登り、奧の院に納つゝ、蓮華谷にて法師になり、諸國七道修行して、主の後世をぞ弔ける。か樣に人の思歎の積ぬる平家の末こそ怖しけれ。

つぢかぜ

同五月十二日午刻ばかり、京中には辻風おびたゞしう吹て、人屋多く顛倒す。風は中御門京極より起て、未申の方へ吹て行に、棟門平門を吹拔きて、四五町十町吹もて行き、桁長押柱などは虚空に散在す。檜皮、葺板の類、冬の木の葉の風に亂るが如し。おひたゞしう鳴どよむ音は、彼地獄の業風なり共、是には過じとぞ見えし。唯舎屋の破損する耳ならず、命を失ふ人も多し。牛馬の類數を盡して打殺さる。是たゝ事に非ず。御占有るべしとて、神祇官にして御占有り。「今百日の中に、祿を重ずる大臣の愼、別しては天下の大事、幵に佛法王法共に傾きて、兵革相續すべし。」とぞ、神祇官陰陽寮ともに占ひ申ける。

醫師問答

小松大臣、か樣の事共を聞給て、萬心細うや思はれけん。其比熊野參詣の事有けり。 本宮證誠殿の御前にて、終夜敬白せられけるは、「親父入道相國の體を見るに、惡逆 無道にして、動すれば君を惱し奉る。重盛長子として、頻に諫をいたすと云へども、身不肖の間、彼以て服膺せず。其振舞を見るに一期の榮華猶危し。枝葉連續して、親を現し名を揚ん事難し。此時に當て、重盛苟うも思へり。憖に列して、世に浮沈せん事、敢て良臣孝子の法に非ず。しかじ、名を遁れ身を退て、今生の名望を投捨て、來世の菩提を求んには。但凡夫薄地、是非に惑るが故に、猶志を恣にせず。南無權現金剛童子、願くは子孫榮絶えずして、仕て朝廷に交はるべくば、入道の惡心を和て、天下の安全を得しめ給へ。榮耀又一期を限て、後昆耻に及ぶべくば、重盛が運命をつゞめて、來世の苦輪を助け給へ。兩箇の求願、偏に冥助を仰ぐ。」と、肝膽を摧て祈念せられけるに、燈籠の火の樣なる物の、大臣の御身より出て、はと消るが如くして失にけり。人數多見奉りけれども、恐れて是を申さず。

又下向の時、岩田河を渡られけるに、嫡子權亮少將維盛已下の公達、淨衣の下に薄色の衣を著て、夏の事なれば、何となう河の水に戯れ給ふ程に、淨衣のぬれて衣に移たるが、偏に色の如くに見ければ、筑後守貞能是を見咎て、「何と候やらん、あの御淨衣の世に忌はしきやうに見させ座し候。召替らるべうや候らん。」と申されければ、 大臣「我所願既に成就しにけり。其淨衣敢て改むべからず。」とて、別して岩田河よ り、熊野へ悦の奉幣をぞ立られける。人怪しと思ひけれ共、其心を得ず。然に此公達、 程なく、誠の色を著給けるこそ不思議なれ。

下向の後幾くの日數を經ずして、病附給ふ。權現既に御納受あるにこそとて、療治もしたまはず。祈祷をも致されず。其比宋朝より勝たる名醫渡て、本朝にやすらふ事あり。境節入道相國、福原の別業に座けるが、越中守盛俊を使で、小松殿へ仰られけるは、「所勞彌大事なる由、其聞え有り。兼ては又宋朝より勝たる名醫渡れり。境節悦とす。是を召請じて醫療を加しめ給へ。」と、宣遣はされたりければ、小松殿扶起され、盛俊を御前へ召て「先醫療の事、畏て承候ぬと申べし。但汝も承れ。延喜の御門は、さばかの賢王にて渡せまし/\けれ共、異國の相人を都の内へ入させ給たりけるをば、末代迄も賢王の御誤、本朝の耻とこそ見えたれ。況や重盛程の凡人が、異國の醫師を王城へ入ん事、國の耻に非ずや。漢高祖は、三尺の劔を提て天下を治しかども、淮南の黥布を討し時、流矢に當て疵を蒙る。后呂太后、良醫を迎て見せしむるに、醫の曰く『此疵治しつべし。但五十斤の金を與へば治せん。』と云ふ。高祖のたまはく、『我守の強かし程は、多くの鬪に逢て疵を蒙りしか共、其痛無し。運既に盡ぬ。命は則天に在り。縱ひ扁鵲といふとも、何の益か有ん。然ば又金を惜に似たり。』とて、五十斤の金を醫師に與へながら遂に治せざりき。先言耳に在り、今以て甘心す。重盛苟も九卿に列し、三台に昇る。その運命を計るに、もて天心に在り。何ぞ天心を察せずして、愚に醫療を痛はしうせむや。若定業たらば醫療を加ふ共益無からんか。又非業たらば、療治をくはへず共、助る事を得べし。彼耆婆が醫術及ばずして、大覺世尊、滅度を跋提河の邊に唱ふ。是即定業の病、いやさざる事を示さんが爲也。定業猶醫療に拘るべう候はば、釋尊豈入滅あらんや。定業又治するに堪ざる旨明し。治するは佛體也。療するは耆婆也。然れば重盛が身佛體に非ず。名醫又耆婆に及べからず。縱四部の書を鑑て、百療に長ずといふ共、爭で有待の穢身を求療せんや。縱五經の説を詳にして、衆病をいやすと云共、豈前世の業病を治せんや。若かの醫術に依て存命せば、本朝の醫道無に似たり。醫術効驗なくんば、面謁所詮なし。就中に本朝鼎臣の外相を以て、異朝浮遊の來客に見ん事、且は國の耻、且は道の陵遲也。縱重盛命は亡ずといふ共、爭か國の恥を思ふ心を存ぜざらん。此由を申せ。」とこそ宣ひけれ。

盛俊福原に歸りまゐて、此由泣々申ければ、入道相國、「是程國の恥を思ふ大臣上古にも未聞かず、増て末代に有べし共覺えず。日本に相應せぬ大臣なれば、如何樣にも今度失なんず。」とて、泣く/\急ぎ都へ上られけり。

同七月廿八日小松殿出家し給ぬ。法名は淨蓮とこそつき給へ。やがて八月一日、臨終正念に住して遂に失給ぬ。御歳四十三、世は盛とこそ見えつるに、哀なりし事共也。

入道相國の、さしも横紙をやられつるも、此人のなほし宥られつればこそ、世も穩かりつれ。此後天下に如何なる事か出來んずらむとて、京中の上下歎合へり。前右大將宗盛卿の方樣の人は、世は唯今大將殿へ參りなんずとぞ悦ける。人の親の子を思ふ習は、愚なるが先立だにも悲きぞかし。況や是は當家の棟梁當世の賢人にておはしければ、恩愛の別、家の衰微、悲でも猶餘有り。去ば世には良臣を失へる事を歎き、家には武略の廢ぬる事を悲む。凡は此大臣文章麗うして、心に忠を存し、才藝勝て、詞に徳を兼給へり。

無文

天性此大臣は、不思議の人にて、未來の事をも兼て悟給けるにや、去四月七日の夢に、見給ける事こそ不思議なれ。譬ば、何く共知らぬ濱路を遙々と歩行給ふ程に、道の傍に大なる鳥居有けるを、「あれは如何なる鳥居やらん。」と問給へば、「春日大明神の御鳥居なり。」と申。人多く群集したり。其中に、法師の頭を一つ指擧たり。「さてあのくびは如何に。」と問給へば、是は平家太政入道殿の御頭を惡行超過し給へるに依て、當社大明神の召取せ給て候。」と申と覺えて、夢打覺ぬ。當家は保元平治より以降、度々の朝敵を平げて、勸賞身に餘り、忝く一天の君の御外戚として、一族の昇進六十餘人。二十餘年の以降は、樂榮え申計も無りつるに、入道の惡行超過せるに依て、一門の運命既に盡んずるにこそと、こし方行末の事共思召續けて、御涙に咽ばせ給ふ。

折節妻戸をほと/\と打敲く。「誰そ。あれ聞。」と宣へば、「瀬尾太郎兼康が參て候。」と申。「如何に、何事ぞ。」とのたまへば、「只今、不思議の事候て、夜の明候はんが遲う覺え候間、申さんが爲に參て候。御前の人を除られ候へ。」と申ければ、大臣人を遙に除て對面あり。さて兼康が見たりける夢の樣を始より終まで委しう語り申けるが、大臣の御覽じたりける御夢に少しも違はず。さてこそ瀬尾太郎兼康をば、神にも通じたる者にてありけりと大臣も感じ給ひけれ。

その朝嫡子權亮少將維盛院の御所へ參んとて出させ給たりけるを、大臣呼奉て、「人の親の身としてか樣の事を申せば、きはめてをこがましけれ共、御邊の人は子共の中には勝て見え給ふ也。但此世の中の在樣いかゞあらむずらんと心細うこそ覺ゆれ。貞能は無いか、少將に酒進めよ。」と宣へば、貞能御酌に參りたり。「此盞をば先づ少將にこそ取せたけれ共、親より先にはよも飲給はじなれば、重盛まづ取擧げて少將にさゝん。」とて、三度受て、少將にぞ差されける。少將又三度うけ給ふ時、「如何に貞能引出物せよ。」と宣へば、畏て承り、錦の袋に入たる御太刀を取出す。「あはれ是は家に傳はれる小烏と云ふ太刀やらん。」など、世に嬉氣に思ひて見給ふ處に、さはなくして、大臣葬の時用る無文の太刀にてぞ有ける。其時少將氣色はとかはて世に忌はしげに見給ければ、大臣涙をはら/\と流いて、「如何に少將其は貞能が咎にも非ず。其故は如何にと云に、此太刀は大臣葬の時用る無文の太刀也。入道如何にもおはせん時、重盛が帶て供せんとて持たりつれ共、今は重盛、入道殿に先立奉んずれば、御邊に奉るなり。」とぞ宣ける。少將之を聞給てとかうの返事にも及ばず。涙に咽びうつぶして、其日は出仕もし給はず、引かづきてぞ伏渡ふ。其後大臣熊野へ詣り下向して病つき、幾程もなくして遂に失給けるにこそ、實にもと思知られけれ。

燈籠之沙汰

すべて此大臣は、滅罪生善の御志深う坐ければ、當來の浮沈を歎いて東山の麓に、六八弘誓の願になぞらへて、四十八間の精舎を建て、一間に一つづゝ、四十八間に四十八の燈籠を掛られければ、九品の臺目の前に輝き、光耀鸞鏡を琢て、淨土の砌に臨めるが如し。毎月十四日十五日を點じて、當家他家の人々の御方より、みめよく若う盛なる女房達を多く請じ聚め、一間に六人づつ、四十八間に二百八十八人、時衆に定て、彼兩日が間は、一心稱名聲斷ず、誠に來迎引攝の悲願も、此所に影向を垂れ、攝取不捨の光も、此大臣を照し給ふかとぞ見えし。十五日の日中を結願として、大念佛有しに、大臣自ら彼の行道の中に交て、西方に向ひ、「南無安養世界教主 彌陀善逝、三界六道の衆生を普く濟度し給へ。」と、迴向發願せられければ、見る人慈悲を起し、聞く者感涙を催けり。かかりしかば此大臣をば燈籠大臣とぞ人申ける。

金渡

又大臣吾朝には如何なる大善根をし置たり共、子孫相續で、弔ん事有がたし。他國に如何なる善根をもして、後世をとぶらはればやと、安元の比ほひ、鎭西より妙典と云ふ船頭をめし上せ、人を遙に除て對面有り。金を三千五百兩召寄て、「汝は大正直の者であんなれば、五百兩をば汝に給ぶ。三千兩をば宋朝へ渡し、育王山へ參せて、千兩を僧に引き、二千兩をば御門へ參せ、田代を育王山へ申寄て、我が後世弔はせよ。」とぞ宣ひける。妙典是を賜て、萬里の煙浪を凌つゝ、大宋國へぞ渡りける。育王山の方丈、佛照禪師徳光に逢奉り、此由申たりければ、隨喜感嘆して、千兩を僧に引き、二千兩をば御門へ參せ、大臣の申されける旨を具に奏聞せられたりければ、御門大に感じ思召て、五百町の田代を育王山へぞ寄られける。されば日本の大臣、平朝臣重盛公の後生善所と祈る事、今に斷ずとぞ承る。

法印問答

入道相國小松殿に後れ給て、萬心細うや思はれけん、福原へ馳下り、閉門してこそ座けれ。同十一月七日の夜戌刻許、大地おびたゞしう動て良久し。陰陽頭安倍泰親、急ぎ内裏へ馳參て、「今夜の地震、占文の指す所其愼輕からず。當道三經の中に、坤儀經の説を見候に、『年を得ては年を出ず、月を得ては月を出ず、日を得ては日を出 ず。』と見えて候。以の外に火急候。」とて、はらはらとぞ泣ける。傳奏の人も色を 失ひ、君も叡慮を驚せ坐ます。若き公卿殿上人は「怪からぬ泰親が今の泣樣や、何事 の有るべき。」とて、笑合れけり。され共此泰親は、晴明五代の苗裔を請て、天文は 淵源を窮め、推條掌を指が如し。一事も違はざりければ、指神子とぞ申ける。雷の落 懸りたりしか共、雷火の爲に、狩衣の袖は燒ながら、其身は恙も無りけり。上代にも 末代にも、有がたかりし泰親なり。

同十四日、相國禪門此日比福原におはしけるが、何とか思ひなられたりけん。數千騎の軍兵をたなびいて、都へ入給ふ由聞えしかば、京中何と聞わきたる事は無れ共、上下怖れおののく。何者の申出したりけるやらん。入道相國朝家を恨み奉べしと披露をなす。關白殿、内内聞召るゝ旨や有けん、急ぎ御參内有て、「今度相國禪門入洛の事は、ひとへに基房亡すべき結構にて候也。如何なる憂目にか逢べきやらん。」と、奏せさせ給へば、主上大に驚せ給て、「そこに如何なる目にも逢むは偏にたゞ吾逢にてこそ有んずらめ。」とて、御涙を流させ給ふぞ忝き。誠に天下の御政は主上攝の御計にてこそ有に、こは如何にしつる事共ぞや。天照大神春日大明神の神慮の程も量がたし。

同十五日、入道相國朝家を恨奉るべき事、必定と聞えしかば、法皇大に驚せ給て、故少納言信西の子息靜憲法印を御使にて、入道相國の許へ遣さる。「近年朝廷靜ならずして、人の心も調らず、世間も落居せぬ樣に成行く事、惣別に附て歎思召せ共、さてそこにあれば、萬事は頼思召てこそ有に、天下を靜る迄こそ無らめ、嗷々なる體にて、剩へ朝家を恨むべしなど聞召すは、何事ぞ。」と仰遣はさる。靜憲法印御使に西八條の邸へ向ふ。朝より夕に及ぶ迄待れけれ共、無音なりければ、去ばこそと無益に覺えて、源大夫判官季貞をもて、勅定の趣言入させ、「暇申て。」とて出られければ、其とき入道、「法印よべ。」とて出られたり。喚かへいて、「やゝ、法印の御房、淨海が申所は僻事か。先内府が身罷候ぬる事、當家の運命を計にも、入道隨分悲涙を押てこそ罷過候へ。御邊の心にも推察し給へ。保元以後は亂逆打つゞいて、君安い御心も渡せ給はざりしに、入道は唯大方を執行ふ許りでこそ候へ。内府こそ手を下し身を碎て、度々の逆鱗をば休め參せて候へ。其外臨時の御大事、朝夕の政務、内府程の功臣は有難うこそ候らめ。爰を以て古を憶ふに、唐の太宗は魏徴に後て、悲の餘に、『昔の殷宗は夢の中に良弼を得、今の朕は覺ての後賢臣を失ふ。』と云ふ碑文を自書て、廟に立てだにこそ悲給けるなれ。我朝にも、間近く見候し事ぞかし。顯頼民部卿逝去したりしをば、故院殊に御歎有て、八幡の行幸延引し、御遊無りき。惣て臣下の卒するをば、代代の御門皆御歎ある事でこそ候へ。さればこそ親よりもなつかしう、子よりもむつまじきは君と臣との中とは申事にて候らめ。され共内府が中陰に、八幡の御幸有て御遊有き。御歎の色一事も之を見ず。縱入道が悲を御憐なく共、などか内府が忠を思召し忘させ給ふべき。縱内府が忠を思召忘させ給ふ共、爭か入道が嘆きを御憐無らん。父子ともに叡慮に背候ぬる事、今に於て面目を失ふ。是一つ。次に越前國をば、子子孫孫まで、御變改有まじき由、御約束在て給はて候しを、内府に後て後、やがて召され候事は、何の過怠にて候やらむ。是一つ。次に中納言闕の候し時、二位中將の所望候しを、入道隨分執申しか共、遂に御承引なくして、關白の息を成さるゝ事は如何に。たとひ入道如何なる非據を申おこなふ共、一度はなどか聞召入れでは候べき。申候はんや、家嫡と云ひ、位階と云ひ、理運左右に及ばぬ事を、引違させ給ふは、本意なき御計とこそ存候へ。是一つ。次に新大納言成親卿已下、鹿谷に寄合て、謀反の企候し事、全く私の計略に非ず。併君御許容有に依て也。今めかしき申事にて候へども、七代迄は、此一門をば爭か捨させ給ふべき。其に入道七旬に及で、餘命幾くならぬ一期の内にだにも、動もすれば亡すべき由御計らひあり。申候はんや、子孫相ついで、朝家に召仕れん事有がたし。凡老て子を失ふは、枯木の枝無に異ならず。今は程なき浮世に、心を費ても、何かはせんなれば、いかでも有なんとこそ、思成て候へ。」とて、且は腹立し、且は落涙し給へば、法印怖うも又哀にも覺て、汗水に成り給ぬ。其時は如何なる人も、一言の返事に及がたき事ぞかし。其上我身も近習の仁也。鹿谷に寄合たりし事を正しう見聞れしかば、其人數とて、只今も召や籠られんずらんと思ふに、龍の鬚を撫で虎の尾を蹈む心地はせられけれども、法印もさる怖い人で、些もさわがず、申されけるは、「誠に度々の御奉公淺からず。一旦恨申させ坐す旨、其謂候。但官位と云ひ俸禄と云ひ、御身に取ては悉く滿足す。されば功の莫大なる事をも君御感有でこそ候へ。然に近臣事を亂り、君御許容有といふ事、謀臣の凶害にてぞ候らん。耳を信じて目を疑ふは、俗の常の弊也。小人の浮言を重うして、朝恩の他に異なるに、君を背き參させ給はん事と、冥顯につけて、其恐すくなからず候。凡天心は蒼々として測難し、叡慮定て此儀でぞ候らん。下として上に逆る事は、豈人臣の禮たらんや。能能御思惟候べし。詮ずる所、此趣をこそ披露仕候はめ。」とて出られければ、幾等も竝居たる人人、「穴怖し。入道のあれ程怒り給へるに、些も恐れず、返事うちして立るゝ事よ。」とて、法印を譽ぬ人こそ無かりけれ。

大臣流罪

法印御所へ參て、此由奏聞せられければ、法皇も道理至極して、仰下るゝ方もなし。 同十六日入道相國、此日來思立給へる事なれば、關白殿を始奉て、太政大臣以下の公 卿、殿上人、四十三人が官職を停て、追籠らる。關白殿をば、太宰帥に遷て、鎭西へ 流し奉る。かゝらん世には、とてもかくても有なんとて、鳥羽の邊、古川と云ふ所に て、御出家有り。御歳三十五。禮儀能く知めし、曇なき鏡にて渡せ給ひつる者をとて、世の惜奉る事斜ならず、遠流の人の道にて出家したるをば、約束の國へは遣ぬ事である間、初は日向國と定られたりしか共、御出家の間、備前の國府の邊、井ばさまと云ふ所に留め奉る。

大臣流罪の例は、左大臣蘇我赤兄、右大臣豐成、左大臣魚名、右大臣菅原、左大臣高明公、右大臣藤原伊周公に至る迄、既に六人。され共攝政關白流罪の例は、是始めとぞ承る。

故中殿の御子二位の中將基通は入道の婿にておはしければ、大臣關白になし奉らる。 圓融院の御宇、天禄三年十一月一日、一條攝政謙徳公失給しかば、御弟堀川の關白忠 義公、其時は未從二位中納言にてましましけり。其御弟法興院の大入道殿其比は大納 言の右大將にておはしける間、忠義公は、御弟に越られ給しか共、今又越返し奉り、 内大臣正二位にあがて、内覽の宣旨蒙らせ給ひたりしをこそ、人皆耳目を驚したる御 昇進とは申しに、是は其には猶超過せり、非參議二位中將より大中納言を經ずして、 大臣關白になり給ふ事いまだ承り及ばず。普賢寺殿の御事也。上卿の宰相、大外記、 大夫史に至る迄、皆あきれたる樣にぞ見えたりける。

太政大臣師長は、つかさを停て、東の方へ流され給ふ。去ぬる保元に父惡左大臣殿の縁座に依て、兄弟四人流罪せられ給しが、御兄右大將兼長、御弟左中將隆長、範長禪師三人は歸洛を待ず、配所にてうせ給ぬ。是は土佐の畑にて、九囘の春秋を送り迎へ、長寛二年八月に召還されて、本位に復し、次の年正月正二位して、仁安元年十月に、前中納言より權大納言に上り給ふ。折節大納言明ざりければ、員の外にぞ加はられける。大納言六人になる事是始也。又前中納言より權大納言に成る事も、後山階大臣躬守公、宇治大納言隆國卿の外は、未承及ばず。管絃の道に達し、才藝勝れてましましければ、次第の昇進滯らず、太政大臣迄極させ給て、又如何なる罪の報にや、重て流され給ふらん。保元の昔は、南海土佐へ遷され、治承の今は、又東關尾張國とかや。本より罪無して、配所の月を見んと云ふ事は、心有際の人の願ふ事なれば、大臣敢て事共し給はず。彼唐太子賓客白樂天、潯陽の江の邊にやすらひ給けん其古を思やり、鳴海潟汐路遙に遠見して、常は朗月を望み、浦風に嘯き、琵琶を彈じ、和歌を詠じて、等閑がてらに月日を送らせ給けり。或時當國第三の宮熱田明神に參詣あり。其夜神明法樂の爲に、琵琶ひき朗詠し給ふに、所本より無智の境なれば、情を知れる者なし。邑老、村女、漁人、野叟、頭を低れ、耳をそばだつと云ども、更に清濁を分て、呂律を知る事なし。され共胡巴琴を彈ぜしかば、魚鱗躍迸り、虞公歌を發せしかば、梁塵動き搖く。物の妙を極る時には、自然に感を催す理なれば、諸人身の毛よだて、滿座奇異の思をなす。漸漸深更に及で、風香調の中には、花芬馥の氣を含み、流泉の曲の間には、月清明の光を爭ふ。願くは今生世俗文字の業、狂言綺語の謬をもてと云ふ朗詠をして、秘曲を彈給へば、神明感應に堪ずして、寶殿大に震動す。平家の惡行無りせば、今此瑞相を、爭か拜むべきとて、大臣感涙をぞ流されける。

按察大納言資方卿の子息右近衞少將兼讚岐守源資時、二つの官を停らる。參議皇太后宮權大夫兼右兵衞督藤原光能、大藏卿右京大夫兼伊豫守高階康經、藏人左少辨兼中宮權大進藤原基親、三官共に停めらる。按察大納言資方卿、子息右近衞少將、孫の右少將雅方、是三人をやがて都の中を追出さるべしとて、上卿には藤大納言實國、博士判官中原範貞に仰せて、やがて其日都の中を追出さる。大納言宣けるは、「三界廣しといへ共、五尺の身置き所なし。一生程なしといへ共、一日暮難し。」とて、夜中に九重のうちを紛出て、八重立つ雲の外へぞ赴かれける。彼大江山、生野の道にかゝりつゝ、丹波國村雲と云ふ所にぞ、暫はやすらひ給けるが、其より終には尋出されて、 信濃國とぞ聞えし。

行隆之沙汰

前關白松殿の侍に、江大夫判官遠成と云ふ者有り。是も平家心よからざりければ、既に六波羅より押寄て搦捕るべしと聞えし間、子息江左衞門尉家成打具して、いづちともなく落行きけるが、稻荷山に打上り、馬より下て、父子言合けるは、「是より東國の方へ落くだり、伊豆國の流罪人前兵衞佐頼朝を憑ばやとは思へ共、其も當時は勅勘の人で、身一つだにも叶難う坐也。日本國に、平家の庄園ならぬ所や有る。とても遁ざらん物故に、年來住馴たる所を人に見せんも恥がましかるべし。只是より歸て、六波羅より召使有らば、腹掻切て死なんにはしかじ。」とて、河原坂の宿所へとて取て返す。案の如く、六波羅より源大夫判官季定、攝津判官盛澄、ひた甲三百餘騎、河原坂の宿所へ押寄て、鬨をどとぞ作ける。江大夫判官縁に立出で、「是御覽ぜよ、おの/\、六波羅では此樣を申させ給へ。」とて、館に火をかけ、父子共に腹かき切り、ほのほの中にて燒死ぬ。

抑か樣に上下多の人の亡び損ずる事を以何と云に、當時關白に成せ給へる二位中將殿と前の殿の御子三位中將殿と、中納言御相論の故と申す。さらば關白殿御一所こそ、如何なる御目にも逢せ給はめ、四十餘人迄の人々の、事に逢べしやは。去年讃岐院の御追號と、宇治惡左府贈官贈位在しか共、世間は猶も靜かならず。凡是にも限まじかんなり。入道相國の心に天魔入かはて腹を居かね給へりと聞えしかば、又天下に如何なる事か出でこんとて京中上下怖れおのゝく。

其比前左少辨行高と聞えしは、故中山中納言顯時卿の長男也。二條院の御代には、辨官に加てゆゆしかりしか共、此十餘年は官を停められて、夏冬の衣がへにも及ばず、 朝暮のざんも心に任せず、有か無かの體にて坐けるを、太政入道、「申べき事有り。きと立より給へ。」と宣遣はされたりければ、行高此十餘年は、何事にも交はらざりつる物を、人の讒言したる者あるにこそとて、大に恐れ騒がれけり。北方、君達も「如何なる目にか逢はんずらん。」と泣悲しみ給ふに、西八條より、使布竝に有ければ、力及ばで、人に車借て西八條へ出られたり。思には似ず、入道やがて出向うて對面あり。「御邊の父の卿は、大小事申合せし人なれば、愚に思ひ奉らず。年來籠居の事も、いとほしう思たてまつりしか共、法皇御政務の上は力及ばず。今は出仕し給へ。官途の事も申沙汰仕るべし。さらば疾歸られよ。」とて入給ぬ。被歸たれば、宿所には女房達死だる人の生返りたる心地して、指つどひて、皆悦泣共せられけり。

太政入道源大夫判官季貞を以て、知行し給べき庄園状共數多遣はす。先さこそ有らめとて、百疋百兩に米を積でぞ贈られける。出仕の料にとて、雜色牛飼牛車迄、沙汰し遣はさる。行高手の舞足の踏どころも覺えず、こはされば夢かや夢かとぞ驚かれける。同十七日五位の侍中に補せられて、左少辨に成かへり給ふ。今年五十一、今更若やぎ給ひけり。唯片時の榮花とぞ見えし。

法皇被流

同廿日、院御所法住寺殿には、軍兵四面を打圍む。平治に信頼が、仕たりし樣に、火をかけて、人をば皆燒殺さるべしと聞えし間、上下の女房女童、物をだに打被かず、 遽て噪で走出づ。法皇も大に驚かせおはします。前右大將宗盛卿、御車を寄て、「と う/\めさるべう候。」と奏せられければ、法皇「こはされば何事ぞや。御とがある べし共思召さず。成親俊寛が樣に遠き國遙の島へも、遷遣んずるにこそ。主上さて渡 せ給へば、政務の口入する計也。其もさるべからずば、自今以後さらでこそ有め。」 と仰ければ、宗盛卿「其儀では候はず。世を靜ん程、鳥羽殿へ御幸成參せんと、父入 道申候。」「さらば宗盛やがて御供に參れ。」と仰けれ共、父の禪門の氣色に畏を成 て、參られず。「哀れ是に附ても、兄の内府には事外に劣たる者かな。一念もかゝる 御目に逢べかりしを内府が身に代て制し停てこそ今日迄も心安かりつれ。諫むる者無しとて、か樣にするにこそ。行末とても憑しからず。」とて御涙を流させ給ふぞ忝けなき。

さて御車に召されけり。公卿殿上人、一人も供奉せられず。只北面の下臈、さては金行といふ御力者許ぞ參りける。御車の尻には、尼前一人參られたり。此尼前と申は、 法皇の御乳の人、紀伊二位の事也。七條を西へ、朱雀を南へ御幸成る。恠しの賤の男 賤の女に至るまで「あはれ法皇の流されさせましますぞや。」とて、涙を流し袖を絞 らぬは無けり。「去七日の夜の大地震も、かゝるべかりける前表にて、十六洛叉の底 迄も答へ、堅牢地神の驚きさわぎ給ひけんも理哉。」とぞ人申ける。

さて鳥羽殿へ入せ給たるに大膳大夫信成が、何として紛れ參りたりけるやらむ、御前近う候けるをめして「如何樣にも、今夜失はれなんずと思召すぞ。御行水を召さばやと思召すは如何せんずる。」と仰ければ、さらぬだに信成、今朝より肝魂も身に添はず、あきれたる樣にて有けるが、此仰承る忝さに、狩衣に玉だすきあげ、小柴墻壞、 大床のつか柱破などして、水汲入かたのごとく御湯しだいて參せたり。

又靜憲法印、入道相國の西八條の邸に行て、「夕法皇の鳥羽殿へ御幸成て候なるに、 御前に人一人も候はぬ由承るが餘に淺ましう覺え候。何か苦う候べき、靜憲ばかりは 御ゆるされ候へかし。參り給はん。」と申されければ、「とう/\、御房は事あやま つまじき人なれば。」とて許されけり。法印鳥羽殿へ參て、門前にて車よりおり、門 の内へさし入給へば、折しも法皇、御經を打上々々遊されける御聲も、殊にすごう聞えさせ給ける。法印のつと參られたれば、遊ばされける御經に、御涙のはら/\とかゝらせ給を見參せて、法印餘の悲さに、裘代の袖を顏に押當て、泣々御前へぞ參られける。御前には尼前ばかり候はれけり。「如何にや法印御房、君は昨日の朝、法住寺殿にて、供御聞召されて後は、よべも今朝も聞召も入ず。長夜すがら御寢も成らず。御命も既に危くこそ見えさせ御座ませ。」とのたまへば、法印涙を押て申されけるは、「何事も限有る事にて候へば、平家樂みさかえて二十餘年。され共惡行法に過て既に亡び候なんず。天照大神、正八幡宮爭か捨まゐらせさせ給ふべき。中にも君の御頼ある日吉山王七社、一乘守護の御誓あらたまらずば、彼法華八軸に立翔てこそ、君をば守參させ給ふらめ。しかれば政務は君の御代となり、凶徒は水の泡と消失候べし。」など申されければ、此詞に少し慰せ坐ます。

主上は關白の流され給ひ、臣下の多く亡びぬる事をこそ御歎有けるに、剩へ法皇鳥羽殿に押籠られさせ給ふと聞召されて後は、つや/\供御も聞召れず。御惱とて常は夜のおとどにのみぞ入せ給ける。きさいの宮をはじめしまゐらせて御前の女房たちいかなるべし共覺え給はず。

法皇鳥羽殿へ押籠られさせ給て後は、内裏には臨時の御神事とて、主上夜ごとに清凉殿の石灰の壇にて、伊勢太神宮をぞ御拜有ける。是は唯一向法皇の御祈也。二條院は、賢王にて渡せ給しか共、天子に父母なしとて、常は法皇の仰をも申替させましける故にや、繼體の君にてもましまさず。されば御讓を受させ給ひたりし六條院も、安元二年七月十四日御年十三にて崩御成りぬ。淺ましかりし御事也。

城南離宮

「百行の中には、孝行を以て先とす。明王は孝を以て天下を治む。」と云へり。されば唐堯は老衰へたる母を貴ひ、虞舜はかたくななる父を敬ふと見えたり。彼賢王聖主の先規を追せ坐しけむ叡慮の程こそ目出たけれ。其比内裏よりひそかに鳥羽殿へ御書あり。「かゝらむ世には雲井に跡を留めても何にかはし候べき。寛平の昔をも訪ひ、 花山の古をも尋て、家をいで世をのがれ山林流浪の行者とも成ぬべうこそ候へ。」と 遊されたりければ、法皇の御返事には、「さな思召され候そ。さて渡せ給ふこそ一つ の頼にても候へ。跡なく思召し成せ給ひなん後は、何の頼か候べき。唯愚老がともか うもならむ樣を聞召果させ給ふべし。」と遊されたりければ、主上此返事を龍顏に押 當て、いとゞ御涙に沈ませ給ふ。君は船、臣は水、水能く船を浮べ、水又船を覆す。 臣能く君を保ち、臣又君を覆す。保元平治の比は、入道相國君を保ち奉ると云共、安 元治承の今は、又君をなみし奉る。史書の文に違はず。大宮大相國、三條内大臣、葉 室大納言、中山中納言も失せられぬ。今は古き人とては成頼、親範ばかり也。此人々 も、かゝらむ世には、朝に仕へ身を立て、大中納言を經ても何かはせんとて、いまだ 盛んなし人々の、家を出で世を遁れ、民部卿入道親範は、大原の霜に伴ひ、宰相入道 成頼は、高野の霧に交り、一向後世菩提の營みの外は他事なしとぞ聞えし。昔も商山の雲にかくれ、潁川の月に心を澄す人も有ければ、是豈博覽清潔にして、世を遁たるに非や。中にも高野に坐ける宰相入道成頼、か樣の事共を傳へ聞いて、「あはれ心疾も世を遁たる物かな。かくて、聞も同事成共、親り立交て見ましかば、如何に心憂らん。保元平治の亂をこそ、淺ましと思しに、世末に成ば、かゝる事も有けり。此後、猶いか許の事か出來むずらむ、雲を分ても上り、山を隔ても入なばや。」とぞ宣ける。實心有ん程の人の跡を留むべき世共みえず。

同廿三日。天台座主覺快法親王、頻に御辭退有るに依て、前座主明雲大僧正、還著せらる。入道相國は、かく散々にし散されたれ共、御娘中宮にてまします。關白殿と申も聟也。萬心安うや思はれけん。「政務は只一向主上の御計たるべし。」とて、福原へぞ下られける。前右大將宗盛卿、急ぎ參内して、此由奏聞せられければ、主上は 「法皇の讓坐したる世ならばこそ。唯とう/\執柄に言合て、宗盛ともかうも計へ。」 とて、聞召もいれざりけり。

法皇は城南の離宮にして、冬も半過させ給へば、野山の嵐の音のみ烈くて、寒庭の月の光ぞさやけき。庭には雪のみ降積れ共、跡蹈つくる人も無く、池にはつらゝ閉重て、むれ居し鳥も見えざりけり。大寺の鐘の聲、遺愛寺の聞を驚し、西山の雪の色、香爐峯の望を催す。夜霜に寒き砧の響、幽に御枕に傳ひ、曉氷を輾る車の跡、遙に門前に横はれり。巷を過る行人、征馬のいそがはしげなる氣色、浮世を渡る有樣も、思召し知られて哀也。宮門を守る蠻夷の夜晝警衞を勤るも、先の世のいかなる契にて、今縁を結ぶらんと仰なりけるぞ忝き。凡物に觸れ事に隨て、御心を傷しめずと云ふ事なし。さるまゝには彼折々の御遊覽、處々の御參詣、御賀の目出たかりし事共、思召續けて、懷舊の御涙抑へ難し。年去り年來て、治承も四年に成りけり。

平家物語卷第三