University of Virginia Library

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平家物語灌頂
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13. 平家物語灌頂

女院出家

建禮門院は、東山の麓、吉田の邊なる所にぞ、立入せ給ひける。中納言法印慶惠と申ける奈良法師の坊なりけり。住荒して年久しう成ければ庭には草深く、軒にはしのぶ茂れり。簾たえ閨露はにて、雨風たまるべうもなし。花は色々匂へども主と憑む人もなく、月は夜な/\さし入れども、詠めて明す主もなし。昔は玉の臺を磨き、錦の帳に纒れて、明し暮し給ひしが、今は有とし有人には、皆別果てて、あさましげなる朽坊に入らせ給ひける御心の中おしはかられて哀なり。魚の陸に上れるが如く、鳥の巣を離たるが如し。さるまゝには、憂りし波の上、船の中の御住ひも、今は戀しうぞ思召す。蒼波路遠し、思を西海千里の雲に寄せ、白屋苔深くして、涙東山一庭の月に落つ。悲しとも云ばかりなし。

かくて女院は文治元年五月一日、御ぐし下させ給けり。御戒の師には、長樂寺の阿證房の上人印誓とぞ聞えし。御布施には、先帝の御直衣なり。今はの時まで召されたりければ、其移り香もいまだうせず。御形見に御覽ぜんとて、西國より遙々と都迄持せ給ひたりければ、如何ならん世までも、御身をはなたじとこそ思召されけれども、御布施になりぬべき物のなき上、且は彼御菩提の爲とて、泣々取出され給ひけり。上人是を給て、何と奏する旨もなくして、墨染の袖を絞りつつ泣々罷出でられけり。此御衣をば幡に縫て、長樂寺の佛前に懸られけるとぞ聞えし。

女院は十五にて女御の宣旨を下され、十六にて后妃の位にそなはり、君王の側に候はせ給ひて、朝には朝政を勸め、夜は夜を專にし給へり。二十二にて皇子御誕生有て、皇太子に立ち、位につかせ給しかば、院號蒙らせ給ひて、建禮門院とぞ申ける。入道相國の御娘なる上、天子の國母にてましましければ世の重し奉る事斜ならず。今年は二十九にぞならせ給ふ。桃李の御粧猶濃かに、芙蓉の御容未だ衰させ給はねども、翡翠の御かざしつけても何にかはせさせ給ふべきなれば、遂に御樣をかへさせ給ひ、浮世を厭ひ、實の道に入せ給へども、御歎きは更に盡せず。人人今はかくとて海に沈し有樣、先帝、二位殿の御面影、如何ならん世までも忘がたく思食すに露の御命何しに今までながらへて、かゝる憂目を見るらんと思食めし續けて御涙せきあへさせ給はず。五月の短夜なれども明しかねさせ給ひつゝ、自打睡ませ給はねば、昔の事は夢にだにも御覽ぜず。壁に背ける殘の燈の影幽に、夜もすがら打暗き雨の音ぞさびしかりける。上陽人が上陽宮に閉られけん悲みも、是には過じとぞ見えし。昔を忍ぶ妻となれとてや、本の主の移し栽たりけん花橘の軒近く風なつかしう香りけるに、山郭公二聲三聲音信ければ、女院ふるき事なれ共、思召出でて、御硯の蓋にかうぞ遊ばされける。

郭公花橘の香をとめて、啼くは昔の人や戀しき。

女房達は、さのみたけく、二位殿、越前の三位の上の樣に、水の底にも沈み給ねば、武士の荒けなきにとらはれて、舊里に歸り、若きも老たるも樣をかへ、形をやつし、在にもあられぬ有樣にてぞ、思ひもかけぬ谷の底、岩の挾間に明し暮し給ひける。住し宿は皆烟と上りにしかば、空しき跡のみ殘りて、茂き野邊と成つゝ、見馴し人の問くるもなし。仙家より歸て、七世の孫に逢けんも、かくやと覺えて哀也。

さる程に七月九日の大地震に、築地も壞れ、荒たる御所も傾き破れて、いとゞ住せ給べき御便もなし、緑衣の監使宮門を守だにもなし。心の儘に荒たる籬は、茂き野邊よりも露けく、折知がほに、何しか蟲の聲々恨るも哀也。夜も漸々長く成れば、いとゞ御寢覺がちにて、明しかねさせ給ひけり。盡せぬ御物思ひに、秋の哀さへうち添て、しのびがたくぞ思食されける。何事も變り果ぬるうきよなれば、自なさけを懸奉るべき草のゆかりも枯果てて、誰はぐくみ奉るべしとも見え給はず。

大原入

されども冷泉大納言隆房卿の北方、七條修理大夫信隆卿の北方しのびつゝやう/\に訪ひ申させ給ひけり。「あの人共のはぐくみで有るべしとこそ昔は思はざりしか。」とて女院御涙を流させ給へば、附參せたる女房達も、皆袖をぞ絞られける。

此御すまひも猶都近く、玉鉾の道行人の人目も繁くて、露の御命の風を待ん程は、憂事きかぬ深き山の奧へも入なばやとはおぼしけれども、さるべき便もましまさず。或女房の參て申けるは、「大原山の奧寂光院と申處こそ、靜かに候へ。」と申ければ。「山里は、物のさびしき事こそあるなれども、世の憂よりは住よかんなるものを。」とて、思食し立せ給ひけり。御輿などは隆房卿の北方の御沙汰有けるとかや。文治元年長月の末に、かの寂光院へ入らせ給ふ。道すがら四方の梢の色々なるを、御覽じ過させ給ふ程に、山陰なればにや、日も既に暮かゝりぬ。野寺の鐘の入相の音すごく、分る草葉の露滋み、いとど御袖濕勝、嵐烈く木の葉亂りがはし。空かき曇り、いつしか打時雨つゝ、鹿の音幽に音信て、蟲の恨も絶々なり。とにかくに取集たる御心細さ、譬へ遣べき方もなし。浦傳ひ島傳ひせし時も、さすがかくは無かりしものをと思召こそ悲けれ。岩に苔むして、寂たる處なりければ、住まほしうぞ思しめす。露結ぶ庭の萩原霜枯れて、籬の菊のかれ/\に、移ろふ色を御覽じても、御身の上とや覺しけん。

佛の御前へ參せ給ひて、「天子聖靈、成等正覺、頓證菩提。」と祈り申させ給ふにつけても先帝の御面影、ひしと御身に傍ひて、如何ならん世にか思召忘れさせ給ふべき。さて寂光院の傍に、方丈なる御庵室を結んで、一間をば御寢所に定め、一間をば佛所に定め、晝夜朝夕の御勤、長時不斷の御念佛、怠る事なくて月日を送らせ給ひけり。

かくて神無月中の五日の暮方に、庭に散敷くならの葉を蹈鳴して聞えければ、女院、「世を厭ふ處に、何者の問ひ來るやらん。あれ見よや。しのぶべき者ならば急ぎ忍ばん。」とてみせらるるに小鹿の通るにてぞ有ける。女院「如何に。」と御尋あれば大納言佐殿涙を押て、

岩根ふみたれかはとはんならの葉の、そよぐは鹿の渡るなりけり。

女院哀に思食し、窓の小障子に此歌を遊ばし留させ給ひけり。

かゝる御つれ%\の中に、思しめしなぞらふる事どもは、つらき中にも餘たあり。軒に竝べる樹をば、七重寶樹とかたどれり。岩間に積る水をば、八功徳水と思食す。無常は春の花、風に隨てちりやすく、有涯は秋の月、雲に伴て隱易し。昭陽殿に花を翫びし朝には、風來て匂を散し、長秋宮に月を詠ぜし夕には、雲掩て光を藏す。昔は玉樓金殿に錦の褥をしき、妙なりし御すまひなりしかども、今は柴引結ぶ草の庵、餘所の袂もしをれけり。

大原御幸

かゝりし程に、文治二年の春の比、法皇建禮門院大原の閑居の御住ひ御覽ぜまほしう思食されけれども、きさらぎ彌生の程は、嵐烈く餘寒も未だ盡せず。嶺の白雪消やらで、谷のつららも打解ず。春過ぎ夏來て、北祭も過しかば、法皇夜を籠めて、大原の奧へぞ御幸なる。忍びの御幸なりけれども、供奉の人々は、徳大寺、花山院、土御門以下、公卿六人、殿上人八人、北面少々候ひけり。鞍馬どほりの御幸なれば、彼清原深養父が補陀洛寺、小野の皇太后宮の舊跡を叡覽有て、其より御輿に召されけり。遠山に懸る白雲は、散にし花の形見なり。青葉に見ゆる梢には、春の名殘ぞをしまるゝ。比は卯月廿日餘の事なれば、夏草の茂みが末を分入せ給に、始めたる御幸なれば、御覽じ馴たる方もなく、人跡絶たる程も思召しられて哀なり。

西の山の麓に、一宇の御堂有り、即寂光院是なり。古う作りなせる山水木立、由ある樣の所なり。「甍破れては霧不斷の香を燒き、とぼそ落ては月常住の燈を挑ぐ。」とも、か樣の處をや申すべき。庭の夏草茂り合ひ、青柳糸を亂りつゝ、池の浮草浪に漂ひ、錦をさらすかとあやまたる。中島の松に懸れる藤波の、うら紫に咲る色、青葉交りの晩櫻、初花よりも珍しく、岸の山吹咲き亂れ、八重立雲の絶間より、山郭公の一聲も、君の御幸を待がほなり。法皇是を叡覽有て、かうぞ思召しつゞけける。

池水にみぎはの櫻散りしきて、浪の花こそ盛なりけれ。

ふりにける岩の斷間より、落くる水の音さへ、ゆゑび由ある處なり。緑蘿の垣、翠黛の山、繪にかくとも筆も及びがたし。女院の御庵室を御覽ずれば、軒には蔦槿はひかゝり、しのぶ交りの萱草、瓢箪屡空し、草顏淵之巷にしげし、藜でう深鎖せり、雨原憲之樞をうるほすとも謂つべし。杉の葺目もまばらにて、時雨も霜も置く露も、漏る月影に爭ひて、たまるべしとも見えざりけり。後は山、前は野邊、いさゝをざゝに風噪ぎ、世にたえぬ身の習ひとて、うきふし繁き竹柱、都の方の言傳は、間遠に結るませ垣や、僅に事問ふ物とては、嶺に木傳ふ猿の聲、賤士がつま木の斧の音、是等が音信ならでは、正木の葛青葛、來人稀なる所なり。

法皇「人や在る。」と召されけれども、御いらへ申者もなし。遙に有て、老衰へたる尼一人參りたり。「女院はいづくへ御幸成ぬるぞ。」と仰ければ、「此上の山へ花摘に入せ給ひて候。」と申。「左樣の事に仕へ奉るべき人も無きにや。さこそ世を捨る御身といひながら、御痛しうこそ。」と仰ければ、此尼申けるは、「五戒十善の御果報盡させ給ふに依て、今かゝる御目を御覽ずるにこそ候へ。捨身の行に、なじかは御身を惜ませ給ふべき。因果經には『欲知過去因、見其現在果、欲知未來果、見其現在因。』と説かれたり。過去未來の因果を、悟らせ給ひなば、つや/\御歎あるべからず。悉達太子は十九にて、伽耶城を出で、檀特山の麓にて、木葉を連ねては肌をかくし、嶺に上て薪を採り、谷に下て水を結ぶ。難行苦行の功に依て、遂に成等正覺し給ひき。」とぞ申ける。此尼の有樣を御覽ずれば、絹布のわきも見えぬ物を結び集めてぞ著たりける。「あの有樣にても、か樣の事申す不思議さよ。」と思食して「抑汝は如何なる者ぞ。」と仰ければ、さめ/\と泣いて、暫しは御返事にも及ばず。稍有て、涙を押て、申けるは、「申に付けても憚おぼえ候へ共、故少納言入道信西が娘、阿波の内侍と申し者にて候ふなり。母は紀伊の二位、さしも御いとほしみ深うこそ候ひしに、御覽じ忘させ給ふにつけて身の衰へぬる程も思ひしられて今更せんかたなうこそおぼえ候へ。」とて袖を顏に押當て、忍びあへぬ樣、目もあてられず。法皇も「されば汝は阿波内侍にこそあんなれ。今更御覽じ忘れける、唯夢とのみこそ思食せ。」とて御涙せきあへさせ給はず。供奉の公卿殿上人も、「不思議の尼哉と思ひたれば、理にて有けるぞ。」とぞ各申あはれける。

あなたこなたを叡覽あれば、庭の千草露おもく、籬に倒れかゝりつゝ、そともの小田も水越えて、鴫立隙も見え分かず。御庵室に入せ給ひて、障子を引明て御覽ずれば、一間には來迎の三尊おはします。中尊の御手には、五色の絲をかけられたり。左には普賢の畫像、右には善導和尚、竝に先帝の御影を掛け、八軸の妙文、九帖の御書も置かれたり。蘭麝の匂に引かへて、香の煙ぞ立上る。彼淨名居士の方丈の室の中には、三萬二千の床を竝べ、十方の諸佛を請じ奉り給ひけんもかくやとぞおぼえける。障子には諸經の要文ども、色紙にかいて所々におされたり。其中に大江定基法師が、清凉山にして詠じたりけん、「笙歌遙に聞ゆ、孤雲の上、聖衆來迎す、落日の前。」とも書れたり。少し引のけて、女院の御製とおぼしくて、

思ひきや深山の奧にすまひして、雲井の月をよそに見んとは。

さて側を御覽ずれば御寢所とおぼしくて、竹の御竿に、麻の御衣、紙の御衾など懸られたり。さしも本朝漢土の妙なる類ひ數を盡して綾羅錦繍のよそほひも、さながら夢に成にけり。法皇御涙をを流させ給へば、供奉の公卿殿上人も各見參らせし事なれば、今の樣に覺えて、皆袖をぞしぼられける。

さる程に上の山より、濃墨染の衣著たる尼二人、岩のかけぢを傳ひつゝ、おり煩ひ給ひけり。法皇是を御覽じて「あれは何ものぞ。」と御尋あれば、老尼涙を押へて、申けるは「花がたみ肱にかけ、岩躑躅取具して持せ給ひたるは、女院にて渡らせ給ひ候也。爪木に蕨折具して候ふは、鳥飼中納言維實の娘、五條大納言國綱の養子、先帝の御乳人、大納言佐。」と申もあへず泣けり。法皇も世に哀氣に思食して御涙せきあへさせ給はず。女院は「さこそ世を捨つる御身といひながら今かゝる御有樣を見え參せんずらん慚しさよ、消も失ばや。」と思しめせどもかひぞなき。宵々毎の閼伽の水、むすぶ袂もしをるるに、曉起の袖の上、山路の露も滋して、絞りやかねさせ給ひけん、山へも歸らせ給はず、御庵室へも入せ給はず、御涙に咽ばせ給ひ、あきれて立せまし/\たるところに、内侍の尼參りつゝ、花がたみをば給はりけり。

六道の沙汰

「世を厭ふ習ひ、何かは苦しう候ふべき。疾疾御對面候うて還御なし參らさせ給へ。」と申ければ、女院御庵室に入らせ給ふ。「一念のの前には、攝取の光明を期し、十念の柴のとぼそには、聖衆の來迎をこそ待つるに、思の外に御幸なりける不思議さよ。」とて、御見參有けり。法皇此御有樣を見參らせ給て「悲想之八萬劫、猶必滅の愁に逢ひ、欲界の六天、未だ五衰の悲をまぬかれず。善見城の勝妙の樂、中間禪の高臺の閣、又夢の裏の果報幻の間の樂、既に流轉無窮也。車輪の廻るが如し。天人の五衰の悲みは人間にも候ひける物かな。」とぞ仰ける。「さるにても、誰か事問ひ參せ候。何事に附ても、さこそ古思しめし出候らめ。」と仰ければ「何方よりも音信る事も候はず。隆房、信隆の北の方より、絶々申送る事こそさぶらへ。その昔、あの人どものはぐくみにて有るべしとは、露も思ひ寄候はず。」とて、御涙を流させ給へば、附參せたる女房たちも、袖をぞぬらされける。女院御涙を押て申させ給ひけるは、「かかる身になる事は、一旦の歎き申すに及び候はねども、後生菩提の爲には、悦とおぼえさぶらふ也。忽に釋迦の遺弟に列なり、忝なく彌陀の本願に乘じて、五障三從の苦みを遁れ、三時に六根をきよめ、一筋に九品の淨刹を願ふ。專一門の菩提を祈り、常は三尊の來迎を期す。何の世にも忘がたきは先帝の御面影、忘れんとすれどもわすられず、しのばんとすれどもしのばれず。唯恩愛の道程、悲かりける事はなし。されば彼菩提の爲に、朝夕の勤め怠る事候はず。是も然べき善知識とこそ覺え候へ。」と申させ給ひければ、法皇仰せなりけるは、「此國は粟散邊土なりといへども、忝くも十善の餘薫に答へて萬乘の主となり、隨分一として心にかなはずといふ事なし。就中佛法流布の世に生て佛道修行の志あれば、後生善處疑あるべからず。人間のあだなる習は今更驚くべきにはあらねど、御有樣見奉るに、餘に爲方なうこそ候へ。」と仰ければ、女院重て申させ給ひけるは、「我平相國の娘として、天子の國母となりしかば、一天四海皆掌のまゝなりき。拜禮の春の始より、色々の衣がへ、佛名の年の暮、攝以下の大臣公卿にもてなされし有樣、六欲四禪の雲の上にて、八萬の諸天に圍繞せられ候ふらむ樣に、百官悉く仰ぬ者や候ひし。清凉紫宸の床の上、玉の簾の中にて持成され、春は南殿の櫻に心をとめて日を暮し、九夏三伏のあつき日は、泉をむすびて心を慰み、秋は雲の上の月を獨見ん事許されず、玄冬素雪の寒き夜は、つまを重ねて暖にす。長生不老の術を願ひ、蓬莱不死の藥を尋ねても、唯久しからん事をのみ思へり。明ても、暮れても、樂しみ榮えし事、天上の果報も、是には過じとこそ覺え候ひしか。それに壽永の秋の初、木曾義仲とかやに恐れて、一門の人々住馴し都をば雲井の餘所に顧みて、故郷を燒野の原と打詠め、古は名のみ聞し須磨より明石の浦傳ひ、さすが哀れに覺えて、晝は漫々たる浪路を分て袖をぬらし、夜は洲崎の千鳥と共に泣明し、浦々島々由ある所を見しかども、故郷の事はわすられず。かくて寄る方無りしは、五衰必滅の悲とこそおぼえ候しか。人間の事は、愛別離苦、怨憎會苦、共に、吾身に知られて候ふ。四苦八苦一として殘る所候はず。さても筑前國太宰府と云處にて、維義とかやに九國の内をも追出され、山野廣といへども立寄休むべき處なし。同じ秋の末にもなりしかば、昔は九重の雲の上にて見し月を、今は八重の鹽路に詠めつゝ、明し暮し候ひし程に、神無月の比ほひ、清經の中將が、都のうちをば源氏が爲に責落され、鎭西をば維義が爲に追出さる。網にかゝれる魚の如く、何くへ行かば遁るべきかは。存へ果べき身にもあらずとて、海に沈み候ひしぞ心憂き事の始めにて候ひし。波の上にて日を暮し、船の中にて夜を明し、御つぎ物もなかりしかば、供御を具ふる人もなし。適供御は備へんとすれども水なければ參らず。大海に浮ぶといへども、潮なれば呑事もなし。是又餓鬼道の苦とこそおぼえ候ひしか。かくて室山水島所々の戰ひに勝しかば、人々、少色なほて見え候ひし程に一谷といふ處にて一門多く滅びし後は直衣束帶を引替て、鐵をのべて身に纒ひ、明ても暮ても、軍よばひの聲斷ざりし事修羅の鬪諍、帝釋の爭ひも、かくやとこそおぼえ候ひしか。一谷を攻落されて後、親は子におくれ、妻は夫に別れ、沖に釣する船をば、敵の船かと肝を消し、遠き松に、群居鷺をば、源氏の旗かと心を盡す。さても門司赤間の關にて軍は今日を限と見えしかば、二位の尼申おく事候ひき。『男の生殘らん事は、千萬が一も有難し。縱又遠きゆかりは自生殘たりといふとも吾等が後世を弔はん事も有りがたし。昔より女は殺さぬ習ひなれば如何にもしてながらへて主上の後世をも弔ひまゐらせ、吾等が後世をも助け給へ。』と掻口説き申候ひしが、夢の心地しておぼえ候ひし程に風俄に吹き、浮雲厚くたなびいて、兵心を惑し、天運盡て、人の力に及びがたし。既に今はかうと見えしかば、二位の尼先帝を抱き奉て船端へ出し時、あきれたる御樣にて『尼ぜ我をばいづちへ具して行んとするぞ。』と仰さぶらひしに、幼き君に向ひ奉り涙を押へて申さぶらひしは、『君は未だ知し召され候はずや。先世の十善戒行の御力に依て、今萬乘の主とは生れさせ給へども、惡縁に引かれて御運既に盡給ひぬ。先づ東に向はせ給て、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西方淨土の來迎に預らんと思食し、西に向はせ給ひて御念佛候ふべし。此國は粟散邊土とて心憂き堺にてさぶらへば、極樂淨土とて、めでたき所へ具し參せ候ふぞ。』と、泣々申候ひしかば、山鳩色の御衣に鬟結せ給ひて、御涙に溺れ、小う美くしい御手を合せ、先づ東を伏拜み、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西に向はせ給ひて御念佛ありしかば、二位尼やがて抱き奉て海に沈みし御面影目もくれ、心も消果てて、忘んとすれ共忘られず、忍ばんとすれ共忍ばれず。殘留まる人々のをめき叫びし聲、叫喚大叫喚のほのほの底の罪人も、是れには過じとこそ覺候ひしか。さて武士共にとらはれて上り候ひし時に、播磨國明石の浦について、ちと打目睡て候ひし夢に、昔の内裏には遙に勝りたる所に、先帝を始奉て一門の公卿殿上人、皆ゆゆしげなる禮儀にて候ひしを、都を出て後、かゝる所は未だ見ざりつるに『是はいづくぞ。』と問ひ候ひしかば、二位の尼と覺えて『龍宮城』と答へ候ひし時『目出度かりける所かな。是には苦は無きか。』と問候ひしかば、『龍畜經の中に見えて候ふ、能々後世を弔ひ給へ。』と申すと覺えて夢覺ぬ。其後はいよ/\經を讀念佛して、かの御菩提を弔奉る。是皆六道にたがはじとこそ覺え候へ。」と申させ給へば、法皇仰なりけるは、「異國の玄弉三藏は、悟りの前に六道を見、吾朝の日藏上人は、藏王權現の御力にて、六道を見たりとこそ承はれ。是程まのあたりに御覽ぜられける御事誠に有難うこそ候へ。」とて御涙に咽ばせ給へば、供奉の公卿殿上人も皆袖をぞ絞られける。女院も御涙を流させ給へば、つき參せたる女房達も又袖をぞぬらされける。

女院御往生

さる程に寂光院の鐘の聲、今日も暮ぬと打しられ、夕陽西に傾けば、御名殘惜うはおぼしけれども、御涙を押て還御ならせ給ひけり。女院は今更古を思食し出させ給ひて、忍あへぬ御涙に、袖の柵塞あへさせ給はず。遙に御覽じ送らせ給ひて、還御もやう/\延させ給ひければ、御本尊に向ひ奉り、「先帝聖靈、一門亡魂、成等正覺、頓證菩提。」と泣々祈らせ給ひけり。昔は東に向はせ給ひて「伊勢大神宮、正八幡大菩薩、天子寶算、千秋萬歳。」と申させ給ひしに、今は引かへて、西に向ひ手を合せ「過去聖靈、一佛淨土へ。」と祈らせ給ふこそ悲しけれ。御寢所の障子にかうぞ遊されける。

このごろはいつ習ひてかわが心、大宮人の戀しかるらん。
いにしへも夢になりにし事なれば、柴の編戸もひさしからじな。

御幸の御供に候はれける徳大寺左大臣實定公、御庵室の柱に書附られけるとかや。

いにしへは月にたとへし君なれど、其の光なき深山邊の里。

こし方行末の事共覺しめし續けて、御涙に咽ばせ給ふ折しも、山郭公音信ければ、女院

いざさらば涙くらべん郭公、我も憂世にねをのみぞ泣く。

抑壇の浦にて生ながら捕られし人々は大路を渡して頭をはねられ、妻子に離れて遠流せらる。池大納言の外は一人も命を生けられず、都に置かれず。されども四十餘人の女房達の御事は、沙汰にも

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[1]及ばさりしかば
、親類に從ひ縁に就いてぞおはしける。上は玉の簾の中までも、風靜なる家もなく、下は柴のとぼそのもとまでも塵收れる宿もなし。枕を雙べし妹背も、雲井の餘所にぞ成果る。養ひ立し親子も、行方知らず別れけり。忍ぶ思ひは盡せねども、嘆ながらもさてこそ過されけれ。是は只入道相國、一天四海を掌に握て上は一人をも恐れず、下は萬民をも顧みず、死罪流刑、思ふ樣に行ひ、世をも人をも憚かられざりしが致す所なり。父祖の罪業は子孫に報ふと云ふ事疑なしとぞ見えたりける。

かくて年月を過させ給ふ程に、女院御心地例ならず渡らせ給ひしかば、中尊の御手の五色の絲を引へつゝ、「南無西方極樂世界教主彌陀如來必ず引攝し給へ。」とて御念佛有しかば、大納言佐局阿波内侍左右に候て、今を限りの悲しさに聲を惜まず泣き叫ぶ。御念佛の聲やうやうよわらせましましければ西に紫雲靉靆き、異香室にみち、音樂空に聞ゆ。限ある事なれば、建久二年きさらぎの中旬に一期遂に終らせ給ひぬ。きさいの宮の御位より片時も離れまゐらせずして候はれ給しかば、御臨終の御時、別路に迷ひしも遣方なくぞおぼえける。此女房達は、昔の草のゆかりも枯果て、よる方もなき身なれども、折々の御佛事營み給ふぞ哀なる。終に彼人々は、龍女が正覺の跡をおひ、韋提希夫人の如に、皆往生の素懷を遂けるとぞ聞えし。

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[1] Nihon Koten Bungaku Taikei (Tokyo: Iwanami Shoten, 1957, vol. 33; hereafter cited as NKBT) reads をよばざりしかば.
平家物語灌頂