売色鴨南蛮
泉鏡花 (Baishoku kamonanban) | ||
一
はじめ、目に着いたのは――ちと申兼ねるが、――とにかく、 緋縮緬 ( ひぢりめん ) であった。その燃立つようなのに、朱で 処々 ( ところどころ ) ぼかしの入った 長襦袢 ( ながじゅばん ) で。女は 裙 ( すそ ) を 端折 ( はしょ ) っていたのではない。 褄 ( つま ) を高々と掲げて、膝で挟んだあたりから、 紅 ( くれない ) がしっとり垂れて、白い足くびを 絡 ( まと ) ったが、どうやら濡しょびれた不気味さに、そうして引上げたものらしい。素足に染まって、その 紅 ( あか ) いのが映りそうなのに、藤色の緒の重い厚ぼったい 駒下駄 ( こまげた ) 、泥まみれなのを、弱々と内輪に揃えて、 股 ( また ) を一つ 捩 ( よじ ) った姿で、 降 ( ふり ) しきる雨の待合所の片隅に、腰を掛けていたのである。
日永 ( ひなが ) の頃ゆえ、まだ 暮 ( くれ ) かかるまでもないが、やがて五時も過ぎた。場所は院線電車の 万世橋 ( まんせいばし ) の停車 場 ( じょう ) の、あの高い待合所であった。
柳はほんのりと 萌 ( も ) え、花はふっくりと 莟 ( つぼ ) んだ、昨日今日、緑、 紅 ( くれない ) 、霞の紫、春のまさに 闌 ( たけなわ ) ならんとする気を 籠 ( こ ) めて、色の濃く、力の強いほど、 五月雨 ( さみだれ ) か何ぞのような雨の 灰汁 ( あく ) に包まれては、景色も人も、神田川の小舟さえ、皆黒い中に、紅梅とも、緋桃とも言うまい、横しぶきに、血の滴るごとき 紅木瓜 ( べにぼけ ) の、濡れつつぱっと咲いた風情は、見向うものの、 面 ( おもて ) のほてるばかり目覚しい。……
この目覚しいのを見て、話の主人公となったのは、大学病院の内科に勤むる、学問と、手腕を世に知らるる、最近留学して帰朝した 秦宗吉 ( はたそうきち ) 氏である。
辺幅 ( へんぷく ) を修めない、質素な人の、 住居 ( すまい ) が芝の 高輪 ( たかなわ ) にあるので、毎日病院へ通うのに、この院線を使って、お茶の水で下車して、あれから大学の所在地まで徒歩するのが 習 ( ならい ) であったが、五日も七日もこう降り続くと、どこの道もまるで泥海のようであるから、 勤人 ( つとめにん ) が大路の 往還 ( ゆきき ) の、茶なり黒なり背広で靴は、まったく 大袈裟 ( おおげさ ) だけれど、狸が土舟という 体 ( てい ) がある。
秦氏も御多分に漏れず――もっとも色が白くて鼻筋の通った処はむしろ兎の部に属してはいるが―― 歩行 ( あるき ) 悩んで、今日は本郷どおりの電車を万世橋で下りて、例の、銅像を横に、 大 ( おおき ) な 煉瓦 ( れんが ) を 潜 ( くぐ ) って、高い石段を昇った。……これだと、ちょっと 歩行 ( ある ) いただけで甲武線は東京の大中央を突抜けて、一息に品川へ……
が、それは段取だけの事サ、時間が時間だし、雨は降る……ここも 出入 ( ではいり ) がさぞ籠むだろう、と思ったより 夥 ( おびただ ) しい混雑で、ただ停車場などと、宿場がって 済 ( すま ) してはおられぬ。 川留 ( かわどめ ) か、火事のように 湧立 ( わきた ) ち 揉合 ( もみあ ) う群集の黒山。中野行を待つ右側も、品川の左側も、二重三重に人垣を造って、線路の上まで 押覆 ( おっかぶ ) さる。
すぐに電車が来た処で、どうせ一度では乗れはしまい。
宗吉はそう 断念 ( あきら ) めて、 洋傘 ( こうもり ) の 雫 ( しずく ) を切って、軽く黒の 外套 ( がいとう ) の脇に挟みながら、薄い皮の手袋をスッと手首へ 扱 ( しご ) いて、割合に透いて見える、なぜか、 硝子囲 ( がらすがこい ) の温室のような気のする、 雨気 ( あまけ ) と人の香の、むっと 籠 ( こも ) った待合の 裡 ( うち ) へ、コツコツと――やはり泥になった―― 侘 ( わびし ) い靴の 尖 ( さき ) を刻んで入った時、ふとその目覚しい処を見たのである。
たしか、中央の台に、まだ 大 ( おおき ) な箱火鉢が出ていた……そこで、ハタと 打撞 ( ぶつか ) ったその縮緬の炎から、急に瞳を 傍 ( わき ) へ 外 ( そ ) らして、横ざまにプラットフォームへ出ようとすると、戸口の柱に、ポンと出た、も一つ赤いもの。
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