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「随分遠いね。 元来 がんらい どこから登るのだ」

一人 ひとり 手巾 ハンケチ ひたい を拭きながら立ち どま った。

「どこか おれ にも判然せんがね。どこから登ったって、同じ事だ。山はあすこに見えているんだから」

と顔も 体躯 からだ も四角に出来上った男が 無雑作 むぞうさ に答えた。

  そり を打った中折れの茶の ひさし の下から、深き まゆ を動かしながら、見上げる頭の上には、 微茫 かすか なる春の空の、底までも あい を漂わして、吹けば うご くかと怪しまるるほど柔らかき中に 屹然 きつぜん として、どうする気かと わぬばかりに 叡山 えいざん そび えている。

「恐ろしい 頑固 がんこ な山だなあ」と四角な胸を突き出して、ちょっと桜の つえ に身を たせていたが、

「あんなに見えるんだから、 わけ はない」と今度は 叡山 えいざん 軽蔑 けいべつ したような事を云う。

「あんなに見えるって、見えるのは 今朝 けさ 宿を立つ時から見えている。京都へ来て叡山が見えなくなっちゃ大変だ」

「だから見えてるから、好いじゃないか。余計な事を云わずに 歩行 ある いていれば自然と山の上へ出るさ」

 細長い男は返事もせずに、帽子を脱いで、胸のあたりを あお いでいる。 日頃 ひごろ からなる ひさし さえ ぎられて、菜の花を染め出す春の強き日を受けぬ広き ひたい だけは目立って 蒼白 あおしろ い。

「おい、今から休息しちゃ大変だ、さあ早く行こう」

 相手は汗ばんだ額を、思うまま春風に さら して、 ねば り着いた黒髪の、 さか に飛ばぬを うら むごとくに、 手巾 ハンケチ を片手に握って、額とも云わず、顔とも云わず、 頸窩 ぼんのくぼ の尽くるあたりまで、くちゃくちゃに き廻した。 うな がされた事には 頓着 とんじゃく する 気色 けしき もなく、

「君はあの山を 頑固 がんこ だと云ったね」と聞く。

「うむ、動かばこそと云ったような 按排 あんばい じゃないか。こう云う風に」と四角な肩をいとど四角にして、 いた方の手に 栄螺 さざえ の親類をつくりながら、いささか我も動かばこその姿勢を見せる。

「動かばこそと云うのは、動けるのに動かない時の事を云うのだろう」と細長い眼の かど から なな めに相手を 見下 みおろ した。

「そうさ」

「あの山は動けるかい」

「アハハハまた始まった。君は余計な事を云いに生れて来た男だ。さあ行くぜ」と太い桜の 洋杖 ステッキ を、ひゅうと鳴らさぬばかりに、肩の上まで上げるや いな や、 歩行 ある き出した。 せた男も 手巾 ハンケチ たもと に収めて歩行き出す。

「今日は 山端 やまばな 平八茶屋 へいはちぢゃや 一日 いちんち 遊んだ方がよかった。今から登ったって中途 半端 はんぱ になるばかりだ。 元来 がんらい 頂上まで何里あるのかい」

「頂上まで一里半だ」

「どこから」

「どこからか分るものか、たかの知れた京都の山だ」

  せた男は何にも云わずににやにやと笑った。四角な男は威勢よく 喋舌 しゃべ り続ける。

「君のように計画ばかりしていっこう実行しない男と旅行すると、どこもかしこも 見損 みそこな ってしまう。 つれ こそいい迷惑だ」

「君のようにむちゃに飛び出されても相手は迷惑だ。第一、人を連れ出して置きながら、どこから登って、どこを見て、どこへ下りるのか 見当 けんとう がつかんじゃないか」

「なんの、これしきの事に計画も何もいったものか、たかがあの山じゃないか」

「あの山でもいいが、あの山は高さ何千尺だか知っているかい」

「知るものかね。そんな下らん事を。――君知ってるのか」

「僕も知らんがね」

「それ見るがいい」

「何もそんなに威張らなくてもいい。君だって知らんのだから。山の高さは御互に知らんとしても、山の上で何を見物して何時間かかるぐらいは多少確めて来なくっちゃ、予定通りに日程は進行するものじゃない」

「進行しなければやり直すだけだ。君のように余計な事を考えてるうちには何遍でもやり直しが出来るよ」となおさっさと行く。 せた男は無言のままあとに おく れてしまう。

 春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横に つら ぬいて、 けぶ る柳の間から、 ぬく き水打つ白き ぬの を、 高野川 たかのがわ かわら に数え尽くして、長々と北にうねる みち を、おおかたは二里余りも来たら、山は おのず から左右に せま って、脚下に はし 潺湲 せんかん の響も、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春は けたるを、山を きわ めたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰の すそ うて、暗き陰に走る 一条 ひとすじ の路に、 爪上 つまあが りなる向うから 大原女 おはらめ が来る。牛が来る。京の春は牛の 尿 いばり の尽きざるほどに、長くかつ静かである。

「おおい」と後れた男は立ち どま りながら、 きなる友を呼んだ。おおいと云う声が白く光る路を、春風に送られながら、のそり かん と行き尽して、 かや ばかりなる突き当りの山にぶつかった時、一丁先きに動いていた四角な影ははたと留った。瘠せた男は、長い手を肩より高く して、返れ返れと二度ほど ゆす って見せる。桜の つえ が暖かき日を受けて、またぴかりと肩の先に光ったと思う もなく、彼は帰って来た。

「何だい」

「何だいじゃない。ここから登るんだ」

「こんな所から登るのか。少し妙だぜ。こんな 丸木橋 まるきばし を渡るのは妙だぜ」

「君見たようにむやみに 歩行 ある いていると 若狭 わかさ の国へ出てしまうよ」

「若狭へ出ても構わんが、いったい君は地理を心得ているのか」

「今大原女に いて見た。この橋を渡って、あの細い道を むこう へ一里上がると出るそうだ」

「出るとはどこへ出るのだい」

叡山 えいざん の上へさ」

「叡山の上のどこへ出るだろう」

「そりゃ知らない。登って見なければ分らないさ」

「ハハハハ君のような計画好きでもそこまでは聞かなかったと見えるね。千慮の一失か。それじゃ、 おお せに従って渡るとするかな。君いよいよ登りだぜ。どうだ、 歩行 ある けるか」

「歩行けないたって、仕方がない」

「なるほど哲学者だけあらあ。それで、もう少し判然すると 一人前 いちにんまえ だがな」

「何でも好いから、先へ行くが好い」

「あとから いて来るかい」

「いいから行くが好い」

「尾いて来る気なら行くさ」

  渓川 たにがわ に危うく渡せる一本橋を前後して横切った二人の影は、草山の草繁き中を、 かろ うじて 一縷 いちる の細き力に いただ きへ抜ける 小径 こみち のなかに隠れた。草は もと より去年の しも を持ち越したまま 立枯 たちがれ の姿であるが、薄く溶けた雲を とお して真上から射し込む日影に し返されて、 両頬 りょうきょう のほてるばかりに暖かい。

「おい、君、 甲野 こうの さん」と振り返る。甲野さんは細い山道に適当した細い 体躯 からだ 真直 まっすぐ に立てたまま、下を向いて

「うん」と答えた。

「そろそろ降参しかけたな。弱い男だ。あの下を見たまえ」と例の桜の杖を左から右へかけて一振りに振り廻す。

 振り廻した杖の先の尽くる、 はる か向うには、 白銀 しろかね の一筋に眼を射る高野川を ひら めかして、左右は燃え くず るるまでに濃く咲いた菜の花をべっとりと なす り着けた背景には 薄紫 うすむらさき 遠山 えんざん 縹緲 ひょうびょう のあなたに えが き出してある。

「なるほど好い 景色 けしき だ」と甲野さんは例の長身を じ向けて、 きわ どく六十度の 勾配 こうばい に擦り落ちもせず立ち留っている。

「いつの に、こんなに高く登ったんだろう。早いものだな」と 宗近 むねちか 君が云う。宗近君は四角な男の名である。

「知らぬ間に堕落したり、知らぬ間に悟ったりするのと同じようなものだろう」

「昼が夜になったり、春が夏になったり、若いものが年寄りになったり、するのと同じ事かな。それなら、おれも くに心得ている」

「ハハハハそれで君は 幾歳 いくつ だったかな」

「おれの幾歳より、君は幾歳だ」

「僕は分かってるさ」

「僕だって分かってるさ」

「ハハハハやっぱり隠す 了見 りょうけん だと見える」

「隠すものか、ちゃんと分ってるよ」

「だから、幾歳なんだよ」

「君から先へ云え」と宗近君はなかなか動じない。

「僕は二十七さ」と甲野君は 雑作 ぞうさ もなく言って 退 ける。

「そうか、それじゃ、僕も二十八だ」

「だいぶ年を取ったものだね」

冗談 じょうだん を言うな。たった一つしか違わんじゃないか」

「だから御互にさ。御互に年を取ったと云うんだ」

「うん御互にか、御互なら勘弁するが、おれだけじゃ……」

「聞き捨てにならんか。そう気にするだけまだ若いところもあるようだ」

「何だ坂の途中で人を馬鹿にするな」

「そら、坂の途中で邪魔になる。ちょっと 退 いてやれ」

  百折 ももお 千折 ちお れ、五間とは すぐ に続かぬ坂道を、 呑気 のんき な顔の女が、ごめんやすと下りて来る。身の たけ に余る 粗朶 そだ の大束を、 みど る濃き髪の上に おさ え付けて、手も けずに いただ きながら、宗近君の横を り抜ける。 しげ る立ち枯れの かや をごそつかせた うし ろ姿の につくは、 目暗縞 めくらじま の黒きが中を はす に抜けた 赤襷 あかだすき である。一里を へだ てても、そこと ゆび の先に、引っ着いて見えるほどの 藁葺 わらぶき は、この女の家でもあろう。天武天皇の落ちたまえる昔のままに、 棚引 たなび かすみ とこ しえに 八瀬 やせ の山里を封じて 長閑 のどか である。

「この辺の女はみんな 奇麗 きれい だな。感心だ。何だか のようだ」と宗近君が云う。

「あれが 大原女 おはらめ なんだろう」

「なに 八瀬女 やせめ だ」

「八瀬女と云うのは聞いた事がないぜ」

「なくっても八瀬の女に違ない。嘘だと思うなら今度 ったら聞いてみよう」

「誰も嘘だと云やしない。しかしあんな女を総称して大原女と云うんだろうじゃないか」

「きっとそうか、受合うか」

「そうする方が詩的でいい。何となく でいい」

「じゃ当分雅号として用いてやるかな」

「雅号は好いよ。世の中にはいろいろな雅号があるからな。立憲政体だの、万有神教だの、忠、信、孝、 てい 、だのってさまざまな奴があるから」

「なるほど、 蕎麦屋 そばや やぶ がたくさん出来て、牛肉屋がみんないろはになるのもその格だね」

「そうさ、御互に学士を名乗ってるのも同じ事だ」

「つまらない。そんな事に帰着するなら雅号は せばよかった」

「これから君は外交官の雅号を取るんだろう」

「ハハハハあの雅号はなかなか取れない。試験官に雅味のある奴がいないせいだな」

「もう何遍落第したかね。三遍か」

「馬鹿を申せ」

「じゃ二遍か」

「なんだ、ちゃんと知ってる癖に。はばかりながら落第はこれでたった一遍だ」

「一度受けて一遍なんだから、これからさき……」

「何遍やるか分らないとなると、おれも少々心細い。ハハハハ。時に僕の雅号はそれでいいが、君は全体何をするんだい」

「僕か。僕は叡山へ登るのさ。――おい君、そう 後足 あとあし で石を ころ がしてはいかん。 あと から いて行くものが 剣呑 けんのん だ。――ああ随分くたびれた。僕はここで休むよ」と甲野さんは、がさりと音を立てて 枯薄 かれすすき の中へ 仰向 あおむ けに倒れた。

「おやもう落第か。口でこそいろいろな雅号を とな えるが、山登りはから駄目だね」と宗近君は例の桜の つえ で、甲野さんの ている頭の先をこつこつ たた く。敲くたびに杖の先が薄を ぎ倒してがさがさ音を立てる。

「さあ起きた。もう少しで頂上だ。どうせ休むなら及第してから、ゆっくり休もう。さあ起きろ」

「うん」

「うんか、おやおや」

反吐 へど が出そうだ」

「反吐を吐いて落第するのか、おやおや。じゃ仕方がない。おれも 休息 やすみ つかまつ ろう」

 甲野さんは黒い頭を、黄ばんだ草の間に押し込んで、帽子も かさ も坂道に転がしたまま、 仰向 あおむ けに空を なが めている。 蒼白 あおじろ 面高 おもだか けず せる彼の顔と、 無辺際 むへんざい に浮き出す薄き雲の ※然 ゆうぜん

[_]
[1]
と消えて入る大いなる 天上界 てんじょうかい の間には、一塵の眼を さえ ぎるものもない。反吐は地面の上へ吐くものである。大空に向う彼の眼中には、地を離れ、俗を離れ、古今の世を離れて万里の天があるのみである。

 宗近君は 米沢絣 よねざわがすり の羽織を脱いで、 袖畳 そでだた みにしてちょっと肩の上へ乗せたが、また思い返して、今度は胸の中から両手をむずと出して、うんと云う 諸肌 もろはだ を脱いだ。下から 袖無 ちゃんちゃん あら われる。袖無の裏から、もじゃもじゃした きつね の皮が み出している。これは支那へ行った友人の贈り物として君が大事の袖無である。 千羊 せんよう の皮は 一狐 いっこ えき にしかずと云って、君はいつでもこの袖無を一着している。その癖裏に着けた狐の皮は まだら にほうけて、むやみに脱落するところをもって見ると、何でもよほど たち の悪い 野良狐 のらぎつね に違ない。

御山 おやま 御登 おあが りやすのどすか、案内しまほうか、ホホホ けったい とこ に寝ていやはる」とまた 目暗縞 めくらじま が下りて来る。

「おい、甲野さん。妙な所に寝ていやはるとさ。女にまで馬鹿にされるぜ。好い加減に起きてあるこうじゃないか」

「女は人を馬鹿にするもんだ」

と甲野さんは依然として そら なが めている。

「そう泰然と尻を えちゃ困るな。まだ 反吐 へど を吐きそうかい」

「動けば吐く」

厄介 やっかい だなあ」

「すべての反吐は動くから吐くのだよ。俗界 万斛 ばんこく の反吐皆 どう の一字より きた る」

「何だ本当に吐くつもりじゃないのか。つまらない。僕はまたいよいよとなったら、君を かつ いで ふもと まで下りなけりゃならんかと思って、内心少々 辟易 へきえき していたんだ」

「余計な御世話だ。誰も頼みもしないのに」

「君は 愛嬌 あいきょう のない男だね」

「君は愛嬌の定義を知ってるかい」

「何のかのと云って、 一分 いっぷん でも余計動かずにいようと云う算段だな。 しからん男だ」

「愛嬌と云うのはね、――自分より強いものを たお やわら かい武器だよ」

「それじゃ 無愛想 ぶあいそ は自分より弱いものを、 き使う鋭利なる武器だろう」

「そんな論理があるものか。動こうとすればこそ愛嬌も必要になる。動けば反吐を吐くと知った人間に愛嬌が入るものか」

「いやに 詭弁 きべん ろう するね。そんなら僕は御先へ 御免蒙 ごめんこうむ るぜ。いいか」

「勝手にするがいい」と甲野さんはやっぱり空を眺めている。

 宗近君は脱いだ両袖をぐるぐると腰へ巻き付けると共に、 毛脛 けずね まつ わる 竪縞 たてじま すそ をぐいと 端折 はしお って、同じく 白縮緬 しろちりめん 周囲 まわり に畳み込む。最前袖畳にした羽織を桜の杖の先へ引き けるが早いか「一剣天下を行く」と遠慮のない声を出しながら、十歩に尽くる 岨路 そばみち 飄然 ひょうぜん として左へ折れたぎり見えなくなった。

 あとは静である。静かなる事 さだま って、静かなるうちに、わが 一脈 いちみゃく の命を たく すると知った時、この 大乾坤 だいけんこん のいずくにか かよ う、わが血潮は、 粛々 しゅくしゅく と動くにもかかわらず、音なくして 寂定裏 じゃくじょうり 形骸 けいがい 土木視 どぼくし して、しかも 依稀 いき たる活気を帯ぶ。生きてあらんほどの自覚に、生きて受くべき 有耶無耶 うやむや わずらい を捨てたるは、雲の しゅう を出で、空の朝な夕なを変わると同じく、すべての 拘泥 こうでい を超絶したる活気である。 古今来 ここんらい むな しゅうして、 東西位 とうざいい くしたる世界のほかなる世界に片足を踏み込んでこそ――それでなければ 化石 かせき になりたい。赤も吸い、青も吸い、黄も むらさき も吸い尽くして、元の五彩に かえ す事を知らぬ真黒な化石になりたい。それでなければ死んで見たい。死は万事の終である。また万事の始めである。時を積んで日となすとも、日を積んで月となすとも、月を積んで年となすとも、 せん ずるにすべてを積んで墓となすに過ぎぬ。墓の 此方側 こちらがわ なるすべてのいさくさは、肉 一重 ひとえ の垣に へだ てられた 因果 いんが に、枯れ果てたる骸骨にいらぬ なさ けの油を して、要なき しかばね 長夜 ちょうや の踊をおどらしむる 滑稽 こっけい である。 はるか なる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕え。

 考えるともなく考えた甲野君はようやくに身を起した。また 歩行 ある かねばならぬ。見たくもない叡山を見て、いらざる豆の数々に、役にも立たぬ登山の 痕迹 こんせき を、二三日がほどは、苦しき記念と残さねばならぬ。苦しき記念が必要ならば数えて白頭に至って尽きぬほどある。裂いて ずい にいって消えぬほどある。いたずらに足の底に ふく れ上る豆の十や二十――と切り石の鋭どき上に なか ば掛けたる編み上げの かかと を見下ろす 途端 とたん 、石はきりりと めん えて、乗せかけた足をすわと云う に二尺ほど べらした。甲野さんは

「万里の道を見ず」

と小声に ぎん じながら、 かさ を力に、 岨路 そばみち を登り詰めると、急に折れた 胸突坂 むなつきざか が、下から来る人を天に いざな 風情 ふぜい で帽に せま って立っている。甲野さんは 真廂 まびさし あお って坂の下から真一文字に坂の尽きる いただ きを見上げた。坂の尽きた頂きから、淡きうちに限りなき春の色を みな ぎらしたる はて もなき空を見上げた。甲野さんはこの時

「ただ万里の天を見る」

と第二の句を、同じく小声に歌った。

 草山を登り詰めて、 雑木 ぞうき の間を四五段 のぼ ると、急に肩から暗くなって、踏む靴の底が、 湿 しめ っぽく思われる。路は山の を、西から東へ渡して、たちまちのうちに草を失するとすぐ森に移ったのである。 近江 おうみ の空を深く色どるこの森の、動かねば、その かみ の幹と、その上の枝が、 幾重 いくえ 幾里に つら なりて、 むか しながらの みど りを年ごとに黒く畳むと見える。二百の谷々を うず め、三百の 神輿 みこし を埋め、三千の悪僧を埋めて、なお余りある葉裏に、 三藐三菩提 さまくさぼだい の仏達を埋め尽くして、 森々 しんしん と半空に そび ゆるは、 伝教大師 でんぎょうだいし 以来の杉である。甲野さんはただ一人この杉の下を通る。

 右よりし左よりして、行く人を両手に さえ ぎる杉の根は、土を 穿 うが ち石を裂いて深く地磐に食い入るのみか、余る力に、 ね返して暗き道を、二寸の高さに段々と横切っている。登らんとする いわお 梯子 ていし に、自然の枕木を敷いて、踏み心地よき幾級の かい を、 山霊 さんれい たまもの と甲野さんは息を切らして のぼ って行く。

 行く路の杉に せま って、暗きより るるがごとく い出ずる 日影蔓 ひかげかずら の、足に まつ わるほどに繁きを越せば、引かれたる つる の長きを伝わって、手も届かぬに、 ちかかる 歯朶 しだ の、風なき昼をふらふらと うご く。

「ここだ、ここだ」

と宗近君が急に頭の上で 天狗 てんぐ のような声を出す。 朽草 くちくさ の土となるまで積み るしたる上を、踏めば深靴を隠すほどに踏み答えもなきに、甲野さんはようやくの思で、 蝙蝠傘 かわほりがさ を力に、 天狗 てんぐ まで、登って行く。

善哉善哉 ぜんざいぜんざい 、われ なんじ を待つ事ここに久しだ。全体何をぐずぐずしていたのだ」

 甲野さんはただああと云ったばかりで、いきなり蝙蝠傘を ほう り出すと、その上へどさりと 尻持 しりもち を突いた。

「また 反吐 へど か、反吐を吐く前に、ちょっとあの景色を見なさい。あれを見るとせっかくの反吐も残念ながら収まっちまう」

と例の桜の つえ で、杉の間を指す。天を封ずる老幹の亭々と行儀よく並ぶ 隙間 すきま に、 的※ てきれき

[_]
[2]
近江 おうみ うみ が光った。

「なるほど」と甲野さんは ひとみ らす。

 鏡を延べたとばかりでは き足らぬ。 琵琶 びわ の銘ある鏡の明かなるを んで、叡山の天狗共が、 よい ぬす んだ 神酒 みき えい に乗じて、曇れる 気息 いき を一面に吹き掛けたように――光るものの底に沈んだ上には、野と山にはびこる 陽炎 かげろう を巨人の絵の具皿にあつめて、ただ 一刷 ひとはけ なす り付けた、 瀲※ れんえん

[_]
[3]
たる春色が、十里のほかに 糢糊 もこ 棚引 たなび いている。

「なるほど」と甲野さんはまた繰り返した。

「なるほどだけか。君は何を見せてやっても うれ しがらない男だね」

「見せてやるなんて、自分が作ったものじゃあるまいし」

「そう云う恩知らずは、得て哲学者にあるもんだ。親不孝な学問をして、 日々 にちにち 人間と 御無沙汰 ごぶさた になって……」

「誠に済みません。――親不孝な学問か、ハハハハハ。君白い帆が見える。そら、あの島の青い山を うしろ にして――まるで動かんぜ。いつまで見ていても動かんぜ」

「退屈な帆だな。判然しないところが君に似ていらあ。しかし奇麗だ。おや、こっちにもいるぜ」

「あの、ずっと向うの紫色の岸の方にもある」

「うん、ある、ある。退屈だらけだ。べた一面だ」

「まるで夢のようだ」

「何が」

「何がって、眼前の景色がさ」

「うんそうか。僕はまた君が何か思い出したのかと思った。ものは君、さっさと片付けるに限るね。夢のごとしだって 懐手 ふところで をしていちゃ、駄目だよ」

「何を云ってるんだい」

「おれの云う事もやっぱり夢のごとしか。アハハハハ時に 将門 まさかど 気※ きえん

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[4]
を吐いたのはどこいらだろう」

「何でも向う側だ。京都を 瞰下 みおろ したんだから。こっちじゃない。あいつも馬鹿だなあ」

「将門か。うん、気※

[_]
[5]
を吐くより、 反吐 へど でも吐く方が哲学者らしいね」

「哲学者がそんなものを吐くものか」

「本当の哲学者になると、頭ばかりになって、ただ考えるだけか、まるで 達磨 だるま だね」

「あの けぶ るような島は何だろう」

「あの島か、いやに 縹緲 ひょうびょう としているね。おおかた 竹生島 ちくぶしま だろう」

「本当かい」

「なあに、好い加減さ。雅号なんざ、どうだって、 もの さえたしかなら構わない主義だ」

「そんなたしかなものが世の中にあるものか、だから雅号が必要なんだ」

「人間万事夢のごとしか。やれやれ」

「ただ死と云う事だけが まこと だよ」

「いやだぜ」

「死に突き当らなくっちゃ、人間の 浮気 うわき はなかなかやまないものだ」

「やまなくって好いから、突き当るのは ぴら 御免 ごめん だ」

「御免だって今に来る。来た時にああそうかと思い当るんだね」

「誰が」

小刀細工 こがたなざいく すき な人間がさ」

 山を下りて 近江 おうみ の野に入れば宗近君の世界である。高い、暗い、日のあたらぬ所から、うららかな春の世を、寄り付けぬ遠くに なが めているのが甲野さんの世界である。