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  真葛 まくず はら 女郎花 おみなえし が咲いた。すらすらと すすき を抜けて、 くい ある高き身に、秋風を ひん よく けて通す心細さを、秋は 時雨 しぐれ て冬になる。茶に、黒に、ちりちりに降る しも に、冬は果てしなく続くなかに、細い命を 朝夕 あさゆう に頼み少なく なぐ。冬は五年の長きを いと わず。淋しき花は寒い夜を抜け出でて、紅緑に まずしさ を知らぬ春の天下に まぎ れ込んだ。地に空に春風のわたるほどは物みな燃え立って 富貴 ふうき に色づくを、ひそかなる黄を、 一本 ひともと の細き末にいただいて、住むまじき世に肩身狭く はば かりの 呼吸 いき を吹くようである。

 今までは たま よりも あざ やかなる夢を いだ いていた。 真黒闇 まくらやみ えた金剛石にわが眼を授け、わが身を与え、わが心を託して、その他なる右も左りも気に ける いとま もなかった。 ふところ に抱く珠の光りを に抜いて、二百里の道を 遥々 はるばる と闇の袋より取り出した時、珠は現実の 明海 あかるみ に幾分か 往昔 そのかみ の輝きを失った。

  小夜子 さよこ は過去の女である。小夜子の抱けるは過去の夢である。過去の女に抱かれたる過去の夢は、現実と二重の関を隔てて う瀬はない。たまたまに忍んで来れば犬が える。 みず からも、わが る所ではないか知らんと思う。懐に抱く夢は、抱くまじき罪を、人目を包む風呂敷に かく してなおさらに うたがい を路上に受くるような気がする。

 過去へ帰ろうか。水のなかに紛れ込んだ 一雫 ひとしずく の油は容易に 油壺 あぶらつぼ の中へ帰る事は出来ない。いやでも応でも水と共に流れねばならぬ。夢を捨てようか。捨てられるものならば明海へ出ぬうちに捨ててしまう。捨てれば夢の方で飛びついて来る。

 自分の世界が二つに割れて、割れた世界が 各自 てんで に働き出すと苦しい矛盾が起る。多くの小説はこの矛盾を得意に えが く。小夜子の世界は新橋の 停車場 ステーション へぶつかった時、 劈痕 ひび が入った。あとは割れるばかりである。小説はこれから始まる。これから小説を始める人の生活ほど気の毒なものはない。

 小野さんも同じ事である。打ち った過去は、夢の ちり をむくむくと き分けて、古ぼけた頭を歴史の 芥溜 ごみため から出す。おやと思う に、ぬっくと立って歩いて来る。打ち遣った時に、 生息 いき の根を めて置かなかったのが無念であるが、生息は断わりもなく むこう で吹き返したのだから是非もない。立ち枯れの秋草が 気紛 きまぐれ の時節を誤って、暖たかき 陽炎 かげろう のちらつくなかに よみが えるのは なさ けない。甦ったものを打ち殺すのは詩人の風流に反する。追いつかれれば いたわ らねば済まぬ。生れてから済まぬ事はただの一度もした事はない。今後とてもする気はない。済まぬ事をせぬように、また自分にも済むように、小野さんはちょっと未来の そで に隠れて見た。 むらさき の匂は強く、近づいて来る過去の幽霊もこれならばと度胸を えかける 途端 とたん に小夜子は新橋に着いた。小野さんの世界にも劈痕が入る。作者は小夜子を気の毒に思うごとくに、小野さんをも気の毒に思う。

阿父 おとっさん は」と小野さんが聞く。

「ちょっと出ました」と小夜子は何となく臆している。引き越して新たに家をなす 翌日 あした より、親一人に、子一人に春忙がしき世帯は、 れやすき髪に くし の歯を入れる暇もない。不断着の 綿入 めんいり さえ見すぼらしく詩人の眼に うつ る。―― よそおい は鏡に向って らす、 玻璃瓶裏 はりへいり 薔薇 ばら を浮かして、軽く 雲鬟 うんかん ひた し去る時、 琥珀 こはく の櫛は 条々 じょうじょう みどり を解く。――小野さんはすぐ藤尾の事を思い出した。これだから過去は駄目だと心のうちに語るものがある。

御忙 おいそが しいでしょう」

「まだ荷物などもそのままにしております……」

「御手伝に出るつもりでしたが、 昨日 きのう 一昨日 おととい も会がありまして……」

 日ごとの会に招かるる小野さんはその方面に名を得たる証拠である。しかしどんな方面か、小夜子には想像がつかぬ。ただ おの れよりは高過ぎて、とても寄りつけぬ方面だと思う。小夜子は 俯向 うつむ いて、 ひざ せた右手の中指に光る金の指輪を見た。―― 藤尾 ふじお の指輪とは無論比較にはならぬ。

 小野さんは眼を上げて部屋の中を見廻わした。低い 天井 てんじょう の白茶けた板の、二た所まで 節穴 ふしあな 歴然 れっき と見える上、 雨漏 あまもり みを おか して、ここかしこと 蜘蛛 くも あざむ すす がかたまって黒く釣りを けている。左から四本目の桟の中ほどを、 杉箸 すぎばし が一本横に貫ぬいて、長い方の はじ が、思うほど下に曲がっているのは、立ち 退 いた以前の借主が通す縄に胸を冷やす 氷嚢 ひょうのう でもぶら下げたものだろう。次の を立て切る二枚の 唐紙 からかみ は、洋紙に はく を置いて 英吉利 イギリス めいた あおい 幾何 きか 模様を規則正しく数十個並べている。屋敷らしい ふち の黒塗がなおさら卑しい。庭は二た間を貫ぬく えん に沿うて勝手に折れ曲ると云う名のみで、幅は 茶献上 ちゃけんじょう ほどもない。 じょう に足らぬ ひのき が春に用なき、去年の葉を かた とが らして、 せこけて立つ うし ろは、 腰高塀 こしだかべい 隣家 となり の話が手に取るように聞える。

 家は小野さんが 孤堂 こどう 先生のために周旋したに相違ない。しかし きわ めて 下卑 げび ている。小野さんは心のうちに いや 住居 すまい だと思った。どうせ家を持つならばと思った。 袖垣 そでがき 辛夷 こぶし を添わせて、 松苔 まつごけ 葉蘭 はらん の影に畳む上に、切り立ての 手拭 てぬぐい が春風に らつくような所に住んで見たい。――藤尾はあの家を貰うとか聞いた。

御蔭 おかげ さまで、好い うち が手に入りまして……」と誇る事を知らぬ小夜子は云う。本当に好い家と心得ているなら なさ けない。ある人に 奴鰻 やっこうなぎ おご ったら、御蔭様で始めて うま い鰻を食べましてと礼を云った。奢った男はそれより以来この人を 軽蔑 けいべつ したそうである。

  いじらしいのと 見縊 みくび るのはある場合において一致する。小野さんはたしかに真面目に礼を云った小夜子を見縊った。しかしそのうちに露いじらしいところがあるとは気がつかなかった。紫が たた ったからである。祟があると眼玉が三角になる。

「もっと好い うち でないと御気に入るまいと思って、方々尋ねて見たんですが、あいにく 恰好 かっこう なのがなくって……」

と云い けると、小夜子は、すぐ、

「いえこれで結構ですわ。父も喜んでおります」と小野さんの言葉を打ち消した。小野さんは 吝嗇 けち な事を云うと思った。小夜子は知らぬ。

 細い おもて をちょっと奥へ引いて、上眼に相手の様子を見る。どうしても五年前とは変っている。――眼鏡は金に変っている。 久留米絣 くるめがすり は背広に変っている。 五分刈 ごぶがり 光沢 つや のある毛に変っている。―― ひげ は一躍して紳士の域に のぼ る。小野さんは、いつの間にやら黒いものを蓄えている。もとの書生ではない。 えり おろ し立てである。飾りには 留針 ピン さえ肩を動かすたびに光る。鼠の勝った ひん の好い 胴衣 チョッキ 隠袋 かくし には――恩賜の時計が 這入 はい っている。この上に金時計をとは、小さき胸の小夜子が夢にだも知るはずがない。小野さんは変っている。

 五年の間 一日一夜 ひとひひとよ ふところ に忘られぬ命より明らかな夢の中なる小野さんはこんな人ではなかった。五年は昔である。 西東 にしひがし 長短の たもと を分かって、 離愁 りしゅう とざ 暮雲 ぼうん 相思 そうし かん かれては、 う事の うと くなりまさるこの 年月 としつき を、変らぬとのみは思いも寄らぬ。風吹けば変る事と思い、雨降れば変る事と思い、月に花に変る事と思い暮らしていた。しかし、こうは変るまいと念じてプラット・フォームへ下りた。

 小野さんの変りかたは過去を順当に延ばして、 健気 けなげ に生い立った 阿蒙 あもう の変りかたではない。色の めた過去を さか じ伏せて、 目醒 めざま しき現在を、相手が新橋へ着く前の晩に、性急に こし らえ上げたような変りかたである。小夜子には寄りつけぬ。手を延ばしても届きそうにない。変りたくても変られぬ自分が うら めしい気になる。小野さんは自分と遠ざかるために変ったと同然である。

 新橋へは むかえ に来てくれた。車を やと って宿へ案内してくれた。のみならず、忙がしいうちを無理に算段して、 蝸牛 かたつむり 親子して寝る いおり を借りてくれた。小野さんは昔の通り親切である。父も 左様 さよう に云う。自分もそう思う。しかし寄りつけない。

 プラット・フォームを下りるや否や御荷物をと云った。 さい 手提 てさげ の荷にはならず、持って貰うほどでもないのを無理に受取って、 膝掛 ひざかけ といっしょに先へ行った、 きざ み足の うし ろ姿を見たときに――これはと思った。先へ行くのは、 遥々 はるばる と来た二人を案内するためではなく、時候 おく れの親子を追い越して け抜けるためのように見える。 割符 わりふ とは うり 二つを取ってつけて くら べるための 証拠 しるし である。天に かか る日よりも とうと しと まも るわが夢を、 五年 いつとせ の長き 香洩 かも る「時」の袋から現在に引き出して、よも間違はあるまいと見較べて見ると、現在ははやくも遠くに立ち 退 いている。握る割符は通用しない。

 始めは穴を出でて まばゆ き故と思う。少し れたらばと、 く日を つえ に、一度逢い、二度逢い、三度四度と重なるたびに、小野さんはいよいよ丁寧になる。丁寧になるにつけて、小夜子はいよいよ近寄りがたくなる。

 やさしく 咽喉 のど べり込む長い あご を奥へ引いて、上眼に小野さんの姿を なが めた小夜子は、変る眼鏡を見た。変る ひげ を見た。変る髪の ふう と変る よそおい とを見た。すべての変るものを見た時、心の底でそっと 嘆息 ためいき いた。ああ。

「京都の花はどうです。もう遅いでしょう」

 小野さんは急に話を京都へ移した。病人を慰めるには病気の話をする。好かぬ昔に飛び込んで、ありがたくほどけ掛けた記憶の より ぎゃく に戻すは、詩人の同情である。小夜子は急に小野さんと近づいた。

「もう遅いでしょう。立つ前にちょっと 嵐山 あらしやま へ参りましたがその時がちょうど八分通りでした」

「そのくらいでしょう、 嵐山 あらしやま は早いですから。それは結構でした。どなたとごいっしょに」

 花を る人は星月夜のごとく おびただ しい。しかしいっしょに行く人は天を限り地を限って父よりほかにない。父でなければ――あとは胸のなかでも名は言わなかった。

「やっぱり 阿父 おとっさん とですか」

「ええ」

「面白かったでしょう」と口の先で云う。小夜子はなぜか なさ けない心持がする。小野さんは出直した。

「嵐山も元とはだいぶ違ったでしょうね」

「ええ。 大悲閣 だいひかく の温泉などは立派に 普請 ふしん が出来て……」

「そうですか」

小督 こごう つぼね の墓がござんしたろう」

「ええ、知っています」

彼所 あすこ いらは みんな 掛茶屋ばかりで大変賑やかになりました」

毎年 まいとし 俗になるばかりですね。昔の方がよほど好い」

 近寄れぬと思った小野さんは、夢の中の小野さんとぱたりと合った。小夜子ははっと思う。

「本当に昔の方が……」と云い掛けて、わざと庭を見る。庭には何にもない。

「私がごいっしょに遊びに行った時分は、そんなに 雑沓 ざっとう しませんでしたね」

 小野さんはやはり夢の中の小野さんであった。庭を向いた眼は、ちらりと 真向 まむき に返る。金縁の 眼鏡 めがね と薄黒い 口髭 くちひげ がすぐ ひとみ うつ る。相手は依然として過去の人ではない。小夜子はゆかしい昔話の いとくち の、するすると抜け出しそうな 咽喉 のど おさ えて、黙って口をつぐんだ。調子づいて かど を曲ろうとする、どっこいと突き当る事がある。 ひん のいい紳士淑女の対話も胸のうちでは 始終 しじゅう 突き当っている。小野さんはまた口を開く番となる。

「あなたはあの時分と少しも違っていらっしゃいませんね」

「そうでしょうか」と小夜子は相手を諾するような、自分を疑うような、気の乗らない返事をする。変っておりさえすればこんなに心配はしない。変るのは とし ばかりで、いたずらに育った 縞柄 しまがら と、用い古るした こと うら めしい。琴は おい のまま床の間に立て掛けてある。

「私はだいぶ変りましたろう」

「見違えるように立派に御成りです事」

「ハハハハそれは恐れ入りますね。まだこれからどしどし変るつもりです。ちょうど嵐山のように……」

 小夜子は何と答えていいか分らない。 ひざ に手を置いたまま、下を向いている。小さい 耳朶 みみたぶ が、行儀よく、 びん の末を くぐ り抜けて、 ほお くび 続目 つぎめ が、 ぼか したように曲線を陰に いて去る。見事な である。惜しい事に 真向 まむき すわ った小野さんには分からない。詩人は感覚美を好む。これほどの肉の上げ具合、これほどの肉の 退 き具合、これほどの 光線 に、これほどの色の付き具合は 滅多 めった に見られない。小野さんがこの瞬間にこの美しい画を捕えたなら、編み上げの かかと を、地に り込むほどに めぐ らして、五年の流を逆に過去に向って飛びついたかも知れぬ。惜しい事に小野さんは 真向 まむき に坐っている。小野さんはただ面白味のない詩趣に乏しい女だと思った。同時に波を打って鼻の先に ひるが える そで が、濃き むらさき 眉間 みけん かす めてぷんとする。小野さんは急に帰りたくなった。

「また来ましょう」と 背広 せびろ の胸を合せる。

「もう帰る時分ですから」と小さな声で引き留めようとする。

「また来ます。御帰りになったら、どうぞ よろ しく」

「あの……」と 口籠 くちごも っている。

 相手は腰を浮かしながら、あののあとを待ち兼ねる。早くと き立てられる気がする。近寄れぬものはますます離れて行く。情ない。

「あの……父が……」

 小野さんは、何とも知れず重い気分になる。女はますます切り出し にく くなる。

「また上がります」と立ち上がる。云おうと思う事を聞いてもくれない。離れるものは 没義道 もぎどう に離れて行く。未練も 会釈 えしゃく もなく離れて行く。玄関から座敷に引き返した小夜子は 惘然 もうぜん として、 えん に近く坐った。

 降らんとして降り そこ ねた空の奥から かす かな春の光りが、淡き雲に さえ ぎられながら一面に照り渡る。 長閑 のど かさを抑えつけたる頭の上は、晴るるようで何となく 欝陶 うっとう しい。どこやらで琴の がする。わが くべきは ちり も払わず、 更紗 さらさ の小包を二つ並べた間に、袋のままで さび しく壁に持たれている。いつ 欝金 うこん おい ける事やら。あの曲はだいぶ れた手に違ない。片々に抑えて片々に はじ く爪の、安らかに 幾関 いくせき を往きつ戻りつして、春を限りと乱るる色は 甲斐甲斐 かいがい しくも豊かである。聞いていると、あの雨をつい 昨日 きのう のように思う。ちらちらに昼の ほたる と竹垣に したた 連※ れんぎょう

[_]
[35]
に、朝から降って退屈だと 阿父様 とうさま がおっしゃる。 繻子 しゅす の袖口は 手頸 てくび すべ りやすい。絹糸を細長く目に いたまま、針差の くれない をぷつりと刺して立ち上がる。盛り上がる古桐の長い胴に、 あざや かに眼を ませと、の字に渡す糸の数々を、幾度か抑えて、幾度か ねた。曲はたしか 小督 こごう であった。狂う指の、 き昼を、くちゃくちゃに みこなしたと思う頃、阿父様は御苦労と手ずから御茶を入れて下さった。京は春の、雨の、 こと の京である。なかでも琴は京によう似合う。琴の すき な自分は、やはり静かな京に住むが分である。古い京から抜けて来た身は、 やみ を破る からす の、飛び出して見て、そぞろ黒きに驚ろき、舞い戻らんとする夜はからりと明け離れたようなものである。こんな事なら琴の代りに 洋琴 ピアノ でも習って置けば善かった。英語も昔のままで、今はおおかた忘れている。 阿父 とうさま は女にそんなものは必要がないとおっしゃる。先の世に住み古るしたる人を便りに、小野さんには、追いつく事も出来ぬように後れてしまった。住み古るした人の世はいずれ長い事はあるまい。古るい人に先だたれ、新らしい人に後れれば、 今日 きょう 明日 あす と、その日に はか る命は、 あや あやう い。……

  格子 こうし ががらりと く。 いにしえ の人は帰った。

「今帰ったよ。どうも ひど ほこり でね」

「風もないのに?」

「風はないが、地面が乾いてるんで――どうも東京と云う所は いや な所だ。京都の方がよっぽどいいね」

「だって早く東京へ引き越す、引き越すって、毎日のように云っていらしったじゃありませんか」

「云ってた事は、云ってたが、来て見るとそうでもないね」と椽側で 足袋 たび をはたいて座に直った老人は、

「茶碗が出ているね。誰か来たのかい」

「ええ。小野さんがいらしって……」

「小野が? そりゃあ」と云ったが、 げて来た大きな包をからげた細縄の十文字を、丁寧に一文字ずつほどき始める。

「今日はね。 座布団 ざぶとん を買おうと思って、電車へ乗ったところが、つい乗り替を忘れて、ひどい目に った」

「おやおや」と気の毒そうに 微笑 ほほえ んだ娘は

「でも布団は御買いになって?」と聞く。

「ああ、布団だけはここへ買って来たが、 御蔭 おかげ で大変遅れてしまったよ」と包みのなかから 八丈 はちじょう まがいの黄な しま を取り出す。

「何枚買っていらしって」

「三枚さ。まあ三枚あれば当分間に合うだろう。さあちょっと敷いて御覧」と一枚を小夜子の前へ出す。

「ホホホホあなた御敷なさいよ」

阿父 おとっさん も敷くから、御前も敷いて御覧。そらなかなか好いだろう」

「少し綿が硬いようね」

「綿はどうせ―― が価だから仕方がない。でもこれを買うために電車に乗り そく なってしまって……」

「乗替をなさらなかったんじゃないの」

「そうさ、乗替を――車掌に頼んで置いたのに。 忌々 いまいま しいから帰りには歩いて来た」

御草臥 おくたびれ なすったでしょう」

「なあに。これでも足はまだ達者だからね。――しかし御蔭で ひげ も何も ほこり だらけになっちまった。こら」と 右手 めて の指を四本 なら べて くし の代りに あご の下を くと、果して薄黒いものが股について来た。

「御湯に 御這入 おはい んなさらないからですよ」

「なに埃だよ」

「だって風もないのに」

「風もないのに埃が立つから妙だよ」

「だって」

「だってじゃないよ。まあ試しに外へ出て御覧。どうも東京の埃には大抵のものは驚ろくよ。御前がいた時分もこうかい」

「ええ随分 ひど くってよ」

「年々烈しくなるんじゃないかしら。今日なんぞは全く風はないね」と ひさし の外を下から のぞ いて見る。空は曇る心持ちを かして春の日があやふやに流れている。琴の がまだ きこ える。

「おや琴を弾いているね。――なかなか うま い。ありゃ何だい」

「当てて御覧なさい」

「当てて見ろ。ハハハハ 阿父 おとっさん には分らないよ。琴を聴くと京都の事を思い出すね。京都は静でいい。阿父のような時代後れの人間は東京のような はげ しい所には向かない。東京はまあ小野だの、御前だののような若い人が住まう所だね」

 時代後れの阿父は小野さんと自分のためにわざわざ埃だらけの東京へ引き越したようなものである。

「じゃ京都へ帰りましょうか」と心細い顔に えみ を浮べて見せる。老人は世に うと いわれを憐れむ孝心と受取った。

「アハハハハ本当に帰ろうかね」

「本当に帰ってもようござんすわ」

「なぜ」

「なぜでも」

「だって来たばかりじゃないか」

「来たばかりでも構いませんわ」

「構わない? ハハハハ 冗談 じょうだん を……」

 娘は下を向いた。

「小野が来たそうだね」

「ええ」娘はやっぱり下を向いている。

「小野は――小野は何かね――」

「え?」と首を上げる。老人は娘の顔を見た。

「小野は――来たんだね」

「ええ、いらしってよ」

「それで何かい。その、何も云って行かなかったのかい」

「いいえ別に……」

「何にも云わない?――待ってれば好いのに」

「急ぐからまた来るって御帰りになりました」

「そうかい。それじゃ別に用があって来た訳じゃないんだね。そうか」

阿父様 おとうさま

「何だね」

「小野さんは御変りなさいましたね」

「変った?――ああ大変立派になったね。新橋で った時はまるで見違えるようだった。まあ御互に結構な事だ」

 娘はまた下を向いた。――単純な父には自分の云う意味が徹せぬと見える。

「私は昔の通りで、ちっとも変っていないそうです。……変っていないたって……」

  あと の句は鳴る糸の尾を素足に踏むごとく、孤堂先生の頭に響いた。

「変っていないたって?」と次を催促する。

「仕方がないわ」と小さな声で附ける。老人は首を傾けた。

「小野が何か云ったかい」

「いいえ別に……」

 同じ質問と同じ返事はまた繰返される。 水車 みずぐるま を踏めば廻るばかりである。いつまで踏んでも踏み切れるものではない。

「ハハハハくだらぬ事を気にしちゃいけない。春は気が ふさ ぐものでね。今日なぞは 阿父 おとっさん などにもよくない天気だ」

 気が ふさ ぐのは秋である。 もち と知って、酒の とが だと云う。慰さめられる人は、馬鹿にされる人である。小夜子は黙っていた。

「ちっと こと でも いちゃどうだい。 気晴 きばらし に」

 娘は浮かぬ顔を、 愛嬌 あいきょう に傾けて、床の間を見る。 じく むな しく落ちて、いたずらに余る黒壁の端を、 たて って、 欝金 うこん おい が春を隠さず明らかである。

「まあ しましょう」

「廃す? 廃すなら御廃し。――あの、小野はね。近頃忙がしいんだよ。 近々 きんきん 博士論文を出すんだそうで……」

 小夜子は銀時計すらいらぬと思う。百の博士も今の おの れには無益である。

「だから落ちついていないんだよ。学問に ると誰でもあんなものさ。あんまり心配しないがいい。なに ゆっ くりしたくっても、していられないんだから仕方がない。え? 何だって」

「あんなにね」

「うん」

「急いでね」

「ああ」

「御帰りに……」

「御帰りに――なった? ならないでも? 好さそうなものだって仕方がないよ。学問で夢中になってるんだから。――だから 一日 いちんち 都合をして貰って、いっしょに博覧会でも見ようって云ってるんじゃないか。御前話したかい」

「いいえ」

「話さない? 話せばいいのに。いったい小野が来たと云うのに何をしていたんだ。いくら女だって、少しは口を かなくっちゃいけない」

 口を利けぬように育てて置いてなぜ口を利かぬと云う。小夜子はすべての非を負わねばならぬ。眼の中が熱くなる。

「なに好いよ。 阿父 おとっさん が手紙で聞き合せるから――悲しがる事はない。叱ったんじゃない。――時に晩の御飯はあるかい」

「御飯だけはあります」

「御飯だけあればいい、なに 御菜 おさい はいらないよ。――頼んで置いた婆さんは 明日 あした くるそうだ。――もう少し慣れると、東京だって京都だって同じ事だ」

 小夜子は勝手へ立った。孤堂先生は床の間の風呂敷包を解き始める。