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  くれない 弥生 やよい に包む昼 たけなわ なるに、春を ぬき んずる むらさき の濃き一点を、 天地 あめつち の眠れるなかに、 あざ やかに した たらしたるがごとき女である。夢の世を夢よりも あでやか なが めしむる黒髪を、乱るるなと畳める びん の上には、 玉虫貝 たまむしかい 冴々 さえさえ すみれ に刻んで、細き 金脚 きんあし にはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒き ひとみ のさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る。 半滴 はんてき のひろがりに、一瞬の短かきを ぬす んで、疾風の すは、春にいて春を制する深き まなこ である。この ひとみ さかのぼ って、魔力の きょう きわ むるとき、 桃源 とうげん に骨を白うして、再び 塵寰 じんかん に帰るを得ず。ただの夢ではない。 糢糊 もこ たる夢の大いなるうちに、 さん たる一点の 妖星 ようせい が、死ぬるまで我を見よと、紫色の、 まゆ 近く せま るのである。女は紫色の着物を着ている。

 静かなる昼を、静かに しおり いて、 はく に重き一巻を、女は膝の上に読む。

「墓の前に ひざま ずいて云う。この手にて――この手にて君を うず め参らせしを、今はこの手も自由ならず。捕われて遠き国に、行くほどもあらねば、この手にて君が墓を はら い、この手にて こう くべき折々の、 とこ しえに尽きたりと思いたまえ。生ける時は、 莫耶 ばくや も我らを き難きに、死こそ 無惨 むざん なれ。 羅馬 ロウマ の君は 埃及 エジプト に葬むられ、埃及なるわれは、君が羅馬に うず められんとす。君が羅馬は――わが思うほどの恩を、 きわれに こば める、君が羅馬は、つれなき君が羅馬なり。されど、 なさけ だにあらば、羅馬の神は、よも生きながらの はずかしめ に、 いち に引かるるわれを、雲の上よりよそに見たまわざるべし。君が あだ なる人の勝利を飾るわれを。埃及の神に見離されたるわれを。君が片身と残したまえるわが命こそ仇なれ。情ある羅馬の神に祈る。――われを隠したまえ。恥見えぬ墓の底に、君とわれを 永劫 えいごう に隠したまえ。」

 女は顔を上げた。 蒼白 あおしろ ほお しま れるに、薄き化粧をほのかに浮かせるは、 一重 ひとえ の底に、余れる何物かを かく せるがごとく、蔵せるものを 見極 みき わめんとあせる男はことごとく とりこ となる。男は まばゆ げに なか ば口元を動かした。口の 居住 いずまい くず るる時、この人の意志はすでに相手の 餌食 えじき とならねばならぬ。 下唇 したくちびる のわざとらしく色めいて、しかも 判然 はっき と口を切らぬ瞬間に、切り付けられたものは、必ず受け損う。

 女はただ はやぶさ の空を つがごとくちらと ひとみ を動かしたのみである。男はにやにやと笑った。勝負はすでについた。舌を ※頭 あごさき

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に飛ばして、泡吹く かに と、 烏鷺 うろ を争うは策のもっとも つた なきものである。 風励鼓行 ふうれいここう して、やむなく 城下 じょうか ちかい をなさしむるは策のもっとも ぼん なるものである。 みつ を含んで針を吹き、酒を いて毒を盛るは策のいまだ至らざるものである。最上の戦には一語をも交うる事を許さぬ。 拈華 ねんげ 一拶 いっさつ は、ここを去る八千里ならざるも、ついに不言にしてまた不語である。ただ 躊躇 ちゅうちょ する事 刹那 せつな なるに、虚をうつ悪魔は、思うつぼに まよい と書き、 まどい と書き、失われたる人の子、と書いて、すわと云う に引き上げる。 下界万丈 げかいばんじょう 鬼火 おにび に、 なまぐ さき 青燐 せいりん を筆の穂に吹いて、 会釈 えしゃく もなく えが いだ せる文字は、 白髪 しらが たわしにして洗っても 容易 たやす くは消えぬ。笑ったが最後、男はこの笑を引き戻す わけ には行くまい。

小野 おの さん」と女が呼びかけた。

「え?」とすぐ応じた男は、 くず れた口元を立て直す いとま もない。唇に えみ を帯びたのは、半ば無意識にあらわれたる、心の波を、 手持無沙汰 てもちぶさた に草書に くず したまでであって、崩したものの尽きんとする 間際 まぎわ に、崩すべき第二の波の来ぬのを わずら っていた折であるから、渡りに船の「え?」は心安く 咽喉 のど すべ り出たのである。女は もと より 曲者 くせもの である。「え?」と云わせたまま、しばらくは何にも云わぬ。

「何ですか」と男は二の句を いだ。継がねばせっかくの呼吸が合わぬ。呼吸が合わねば不安である。相手を眼中に置くものは、王侯といえども常にこの感を起す。いわんや今、紫の女のほかに、何ものも うつ らぬ男の眼には、二の句は もと より愚かである。

 女はまだ なん にも言わぬ。 とこ けた 容斎 ようさい の、小松に まじ 稚子髷 ちごまげ の、 太刀持 たちもち こそ、 むか しから 長閑 のどか である。 狩衣 かりぎぬ に、 鹿毛 かげ なる こま 主人 あるじ は、事なきに れし 殿上人 てんじょうびと の常か、動く 景色 けしき も見えぬ。ただ男だけは気が気でない。一の矢はあだに落ちた、二の矢のあたった所は判然せぬ。これが れれば、また継がねばならぬ。男は 気息 いき らして女の顔を見詰めている。肉の足らぬ 細面 ほそおもて に予期の じょう みなぎ らして、重きに過ぐる唇の、 ぐう かを疑がいつつも、 手答 てごたえ のあれかしと念ずる様子である。

「まだ、そこにいらしったんですか」と女は落ちついた調子で云う。これは意外な手答である。天に向って ける弓の、危うくも が頭の上に、 瓢箪羽 ひょうたんば を舞い戻したようなものである。男の我を忘れて、相手を見守るに引き えて、女は始めより、わが前に われる人の存在を、 ひざ ひら ける一冊のうちに見失っていたと見える。その癖、女はこの書物を、 はく 美しと見つけた時、今 たずさ えたる男の手から

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ぎ取るようにして、読み始めたのである。

 男は「ええ」と申したぎりであった。

「この女は 羅馬 ロウマ へ行くつもりなんでしょうか」

 女は に落ちぬ不快の 面持 おももち で男の顔を見た。小野さんは「クレオパトラ」の行為に対して責任を持たねばならぬ。

「行きはしませんよ。行きはしませんよ」

と縁もない女王を弁護したような事を云う。

「行かないの? 私だって行かないわ」と女はようやく 納得 なっとく する。小野さんは暗い 隧道 トンネル かろ うじて抜け出した。

沙翁 シェクスピヤ の書いたものを見るとその女の性格が非常によく現われていますよ」

 小野さんは隧道を出るや否や、すぐ自転車に乗って け出そうとする。魚は ふち おど る、 とび は空に舞う。小野さんは詩の くに に住む人である。

  稜錐塔 ピラミッド の空を く所、 獅身女 スフィンクス の砂を抱く所、 長河 ちょうが 鰐魚 がくぎょ を蔵する所、二千年の昔 妖姫 ようき クレオパトラの 安図尼 アントニイ と相擁して、 駝鳥 だちょう ※※ しょうしょう

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に軽く 玉肌 ぎょっき を払える所、は好画題であるまた好詩料である。小野さんの本領である。

「沙翁の いたクレオパトラを見ると一種妙な心持ちになります」

「どんな心持ちに?」

「古い穴の中へ引き込まれて、出る事が出来なくなって、ぼんやりしているうちに、 紫色 むらさきいろ のクレオパトラが眼の前に あざ やかに映って来ます。 げかかった 錦絵 にしきえ のなかから、たった一人がぱっと紫に燃えて浮き出して来ます」

「紫? よく紫とおっしゃるのね。なぜ紫なんです」

「なぜって、そう云う感じがするのです」

「じゃ、こんな色ですか」と女は青き畳の上に半ば敷ける、長き そで を、さっと さば いて、小野さんの鼻の先に ひるが えす。小野さんの 眉間 みけん の奥で、急にクレオパトラの におい がぷんとした。

「え?」と小野さんは 俄然 がぜん として我に帰る。空を かす める 子規 ほととぎす の、 も及ばぬに、降る雨の底を突き通して過ぎたるごとく、ちらと動ける あや しき色は、 く収まって、美くしい手は 膝頭 ひざがしら に乗っている。 脈打 みゃくう つとさえ思えぬほどに静かに乗っている。

 ぷんとしたクレオパトラの臭は、しだいに鼻の奥から逃げて行く。二千年の昔から不意に呼び出された影の、 恋々 れんれん と遠のく あと を追うて、小野さんの心は 杳窕 ようちょう の境に いざな われて、二千年のかなたに引き寄せらるる。

「そよと吹く風の恋や、涙の恋や、 嘆息 ためいき の恋じゃありません。 暴風雨 あらし の恋、 こよみ にも っていない 大暴雨 おおあらし の恋。九寸五分の恋です」と小野さんが云う。

「九寸五分の恋が紫なんですか」

「九寸五分の恋が紫なんじゃない、紫の恋が九寸五分なんです」

「恋を ると紫色の血が出るというのですか」

「恋が おこ ると九寸五分が紫色に ひか ると云うのです」

「沙翁がそんな事を書いているんですか」

沙翁 シェクスピヤ いた所を わたし が評したのです。―― 安図尼 アントニイ 羅馬 ロウマ でオクテヴィアと結婚した時に――使のものが結婚の 報道 しらせ を持って来た時に――クレオパトラの……」

「紫が 嫉妬 しっと で濃く染まったんでしょう」

「紫が 埃及 エジプト の日で げると、冷たい短刀が光ります」

「このくらいの濃さ加減なら大丈夫ですか」と言う もなく長い そで が再び ひらめ いた。小野さんはちょっと話の腰を折られた。相手に求むるところがある時でさえ、腰を折らねば承知をせぬ女である。毒気を抜いた女は得意に男の顔を なが めている。

「そこでクレオパトラがどうしました」と おさ えた女は再び 手綱 たづな ゆる める。小野さんは け出さなければならぬ。

「オクテヴィヤの事を根堀り葉堀り、使のものに尋ねるんです。その尋ね方が、 なじ り方が、性格を活動させているから面白い。オクテヴィヤは自分のように せい が高いかの、髪の毛はどんな色だの、顔が丸いかの、声が低いかの、年はいくつだのと、どこまでも使者を 追窮 ついきゅう します。……」

「全体追窮する人の年はいくつなんです」

「クレオパトラは三十ばかりでしょう」

「それじゃ私に似てだいぶ 御婆 おばあ さんね」

 女は首を傾けてホホと笑った。男は怪しき えくぼ のなかに き込まれたままちょっと途方に暮れている。肯定すれば いつわ りになる。ただ否定するのは、あまりに平凡である。 しろ い歯に交る一筋の金の 耀 かがや いてまた消えんとする 間際 まぎわ まで、男は何の返事も出なかった。女の年は二十四である。小野さんは、自分と三つ違である事を うから知っている。

 美しき女の 二十 はたち を越えて おっと なく、 むな しく一二三を数えて、二十四の 今日 きょう まで とつ がぬは不思議である。 春院 しゅんいん いたずらに けて、 花影 かえい おばしま にたけなわなるを、 遅日 ちじつ 早く尽きんとする 風情 ふぜい と見て、 こと いだ いて うら み顔なるは、嫁ぎ おく れたる世の常の女の ならい なるに、 麈尾 ほっす に払う折々の 空音 そらね に、 琵琶 びわ らしき響を 琴柱 ことじ に聴いて、本来ならぬ 音色 ねいろ を興あり気に楽しむはいよいよ不思議である。 仔細 しさい もと より分らぬ。この男とこの女の、互に語る言葉の影から、時々に のぞ き込んで、いらざる 臆測 おくそく に、うやむやなる恋の 八卦 はっけ をひそかに うら なうばかりである。

「年を取ると 嫉妬 しっと が増して来るものでしょうか」と女は改たまって、小野さんに聞いた。

 小野さんはまた 面喰 めんくら う。詩人は人間を知らねばならん。女の質問には当然答うべき義務がある。けれども知らぬ事は答えられる わけ がない。中年の人の嫉妬を見た事のない男は、いくら詩人でも文士でも致し方がない。小野さんは文字に 堪能 かんのう なる文学者である。

「そうですね。やっぱり人に るでしょう」

  かど を立てない代りに 挨拶 あいさつ は濁っている。それで済ます女ではない。

「私がそんな御婆さんになったら――今でも御婆さんでしたっけね。ホホホ――しかしそのくらいな年になったら、どうでしょう」

「あなたが――あなたに 嫉妬 しっと なんて、そんなものは、今だって……」

「有りますよ」

 女の声は静かなる 春風 はるかぜ をひやりと った。詩の国に遊んでいた男は、急に足を はず して下界に落ちた。落ちて見ればただの人である。相手は寄りつけぬ高い がけ の上から、こちらを 見下 みおろ している。自分をこんな所に 蹴落 けおと したのは誰だと考える暇もない。

清姫 きよひめ じゃ になったのは 何歳 いくつ でしょう」

左様 さよう 、やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。おおかた十八九でしょう」

安珍 あんちん は」

「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」

「小野さん」

「ええ」

「あなたは 御何歳 おいくつ でしたかね」

わたし ですか――私はと……」

「考えないと分らないんですか」

「いえ、なに――たしか甲野君と 御同 おな どし でした」

「そうそう兄と御同い年ですね。しかし兄の方がよっぽど けて見えますよ」

「なに、そうでも有りません」

「本当よ」

「何か おご りましょうか」

「ええ、奢ってちょうだい。しかし、あなたのは顔が若いのじゃない。気が若いんですよ」

「そんなに見えますか」

「まるで坊っちゃんのようですよ」

可愛想 かわいそう に」

「可愛らしいんですよ」

 女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、なぜ落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台の きわ まりなく発展するうちに、自己はいかなる地位を占めて、いかなる役割を演じつつあるかは もと より知らぬ。ただ口だけは巧者である。天下を相手にする事も、国家を向うへ廻す事も、一団の群衆を眼前に、事を処する事も、女には出来ぬ。女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものは かなら ず女である。男は必ず負ける。 具象 ぐしょう かご の中に われて、個体の あわ ついば んでは嬉しげに 羽搏 はばたき するものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く を競うものは必ず たお れる。小野さんは詩人である。詩人だから、この籠の中に半分首を突き込んでいる。小野さんはみごとに鳴き そこ ねた。

「可愛らしいんですよ。ちょうど 安珍 あんちん のようなの」

「安珍は ひど い」

 許せと云わぬばかりに、今度は受け めた。

「御不服なの」と女は眼元だけで笑う。

「だって……」

「だって、何が 御厭 おいや なの」

わたし は安珍のように逃げやしません」

 これを逃げ損ねの 受太刀 うけだち と云う。坊っちゃんは を見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。

「ホホホ私は清姫のように けますよ」

 男は黙っている。

じゃ になるには、少し年が け過ぎていますかしら」

 時ならぬ春の 稲妻 いなずま は、女を出でて男の胸をするりと とお した。色は紫である。

藤尾 ふじお さん」

「何です」

 呼んだ男と呼ばれた女は、面と向って対座している。六畳の座敷は みど り濃き植込に へだ てられて、往来に鳴る車の響さえ かす かである。 寂寞 せきばく たる浮世のうちに、ただ二人のみ、生きている。 茶縁 ちゃべり の畳を境に、二尺を へだ てて互に顔を見合した時、社会は彼らの かたえ を遠く立ち 退 いた。救世軍はこの時太鼓を たた いて市中を練り るいている。病院では腹膜炎で患者が虫の 気息 いき を引き取ろうとしている。 露西亜 ロシア では 虚無党 きょむとう が爆裂弾を投げている。 停車場 ステーション では 掏摸 すり つら まっている。火事がある。 赤子 あかご が生れかかっている。 練兵場 れんぺいば で新兵が叱られている。身を投げている。人を殺している。藤尾の あに さんと宗近君は 叡山 えいざん に登っている。

 花の さえ重きに過ぐる深き ちまた に、呼び わしたる男と女の姿が、死の底に り込む春の影の上に、明らかに おど りあがる。宇宙は二人の宇宙である。脈々三千条の血管を越す、若き血潮の、寄せ きた る心臓の とびら は、恋と開き恋と閉じて、動かざる 男女 なんにょ を、躍然と 大空裏 たいくうり えが き出している。二人の運命はこの危うき 刹那 せつな さだ まる。東か西か、 微塵 みじん だに たい を動かせばそれぎりである。呼ぶはただごとではない、呼ばれるのもただごとではない。生死以上の難関を互の間に控えて、 羃然 べきぜん たる爆発物が げ出されるか、抛げ出すか、動かざる二人の 身体 からだ 二塊 ふたかたまり ほのお

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である。

「御帰りいっ」と云う声が玄関に響くと、 砂利 じゃり きし る車輪がはたと行き留まった。 ふすま を開ける音がする。小走りに廊下を伝う足音がする。張り詰めた二人の姿勢は くず れた。

「母が帰って来たのです」と女は すわ ったまま、何気なく云う。

「ああ、そうですか」と男も何気なく答える。心を 判然 はっき と外に あら わさぬうちは罪にはならん。取り返しのつく なぞ は、 法庭 ほうてい の証拠としては薄弱である。何気なく、もてなしている二人は、互に何気のあった事を黙許しながら、何気なく安心している。天下は太平である。 何人 なんびと 後指 うしろゆび す事は出来ぬ。出来れば向うが るい。天下はあくまでも太平である。

御母 おっか さんは、どちらへか行らしったんですか」

「ええ、ちょっと買物に出掛けました」

「だいぶ御邪魔をしました」と立ち ける前に 居住 いずまい をちょっと つく ろい直す。 洋袴 ズボン ひだ の崩れるのを気にして、常は出来るだけ楽に坐る男である。いざと云えば、 っかい ぼう に、尻を挙げるための、 膝頭 ひざがしら そろ えた両手は、雪のようなカフスに こう まで おお われて、くすんだ 鼠縞 ねずみじま の袖の下から、 七宝 しっぽう 夫婦釦 めおとボタン が、きらりと顔を出している。

「まあ 御緩 ごゆっ くりなさい。母が帰っても別に用事はないんですから」と女は帰った人を迎える 気色 けしき もない。男はもとより尻を上げるのは いや である。

「しかし」と云いながら、 隠袋 かくし の中を ぐって、太い 巻煙草 まきたばこ を一本取り出した。煙草の煙は大抵のものを まぎ らす。いわんやこれは金の吸口の着いた 埃及産 エジプトさん である。輪に吹き、山に吹き、雲に吹く濃き色のうちには、立ち掛けた腰を え直して、クレオパトラと自分の間隔を少しでも つづ める 便 たより が出来んとも限らぬ。

 薄い煙りの、黒い 口髭 くちひげ を越して、ゆたかに流れ出した時、クレオパトラは果然、

「まあ、御坐り遊ばせ」と 叮嚀 ていねい な命令を下した。

 男は無言のまま再び ひざ くず す。御互に春の日は永い。

「近頃は女ばかりで さむ しくっていけません」

「甲野君はいつ ごろ 御帰りですか」

「いつ頃帰りますか、ちっとも分りません」

御音信 おたより が有りますか」

「いいえ」

「時候が好いから京都は面白いでしょう」

「あなたもいっしょに 御出 おいで になればよかったのに」

わたし は……」と小野さんは後を かしてしまう。

「なぜ行らっしゃらなかったの」

「別に訳はないんです」

「だって、古い 御馴染 おなじみ じゃありませんか」

「え?」

 小野さんは、煙草の灰を畳の上に無遠慮に落す。「え?」と云う時、不要意に手が動いたのである。

「京都には長い事、いらしったんじゃありませんか」

「それで御馴染なんですか」

「ええ」

「あんまり古い馴染だから、もう行く気にならんのです」

「随分不人情ね」

「なに、そんな事はないです」と小野さんは比較的 真面目 まじめ になって、 埃及煙草 エジプトたばこ を肺の中まで吸い込んだ。

「藤尾、藤尾」と向うの座敷で呼ぶ声がする。

御母 おっか さんでしょう」と小野さんが聞く。

「ええ」

わたし はもう帰ります」

「なぜです」

「でも何か御用が 御在 おあ りになるんでしょう」

「あったって構わないじゃありませんか。先生じゃありませんか。先生が教えに来ているんだから、誰が帰ったって構わないじゃありませんか」

「しかしあんまり教えないんだから」

「教わっていますとも、これだけ教わっていればたくさんですわ」

「そうでしょうか」

「クレオパトラや、何かたくさん教わってるじゃありませんか」

「クレオパトラぐらいで好ければ、いくらでもあります」

「藤尾、藤尾」と御母さんはしきりに呼ぶ。

「失礼ですがちょっと 御免蒙 ごめんこうむ ります。――なにまだ伺いたい事があるから待っていて下さい」

 藤尾は立った。男は六畳の座敷に取り残される。 平床 ひらどこ に据えた 古薩摩 こさつま 香炉 こうろ に、いつ き残したる煙の あと か、こぼれた灰の、灰のままに くず れもせず、藤尾の部屋は 昨日 きのう も今日も静かである。敷き棄てた 八反 はったん 座布団 ざぶとん に、 ぬし を待つ 温気 ぬくもり は、軽く払う春風に、ひっそり かん と吹かれている。

 小野さんは 黙然 もくねん 香炉 こうろ を見て、また黙然と布団を見た。 くず 格子 ごうし の、畳から浮く角に、何やら光るものが奥に はさ まっている。小野さんは少し首を横にして輝やくものを物色して考えた。どうも時計らしい。今までは とん と気がつかなかった。藤尾の立つ時に、 絹障 きぬざわり のしなやかに、 布団 ふとん れて、隠したものが出掛ったのかも知れぬ。しかし布団の下に時計を隠す必要はあるまい。小野さんは再び布団の下を のぞ いて見た。 松葉形 まつばがた つな ぎ合せた鎖の折れ曲って、表に向いている方が、細く光線を射返す奥に、盛り上がる 七子 ななこ ふち かす かに浮いている。たしかに時計に違ない。小野さんは首を傾けた。

 金は色の純にして濃きものである。 富貴 ふうき を愛するものは必ずこの色を好む。栄誉を こいねが うものは必ずこの色を えら む。盛名を致すものは必ずこの色を飾る。 磁石 じしゃく の鉄を吸うごとく、この色はすべての黒き頭を吸う。この色の前に平身せざるものは、弾力なき 護謨 ゴム である。一個の人として世間に通用せぬ。小野さんはいい色だと思った。

  折柄 おりから 向う座敷の方角から、絹のざわつく音が、 がり えん を伝わって近づいて来る。小野さんは のぞ き込んだ眼を急に らして、素知らぬ顔で、 容斎 ようさい じく を真正面に眺めていると、二人の影が敷居口にあらわれた。

  黒縮緬 くろちりめん の三つ紋を がた に着こなして、くすんだ 半襟 はんえり に、 まげ ばかりを古風につやつやと光らしている。

「おやいらっしゃい」と 御母 おっか さんは軽く 会釈 えしゃく して、椽に近く座を占める。 うぐいす も鳴かぬ代りに、目に立つほどの塵もなく掃除の行き届いた庭に、長過ぎるほどの松が、わが物顔に一本控えている。この松とこの御母さんは、何となく同一体のように思われる。

「藤尾が 始終 しじゅう 御厄介 ごやっかい になりまして――さぞわがままばかり申す事でございましょう。まるで小供でございますから――さあ、どうぞ 御楽 おらく に――いつも 御挨拶 ごあいさつ を申さねばならんはずでございますが、つい年を取っているものでございますから、失礼のみ致します。――どうも実に 赤児 ねんね で、困り切ります、駄々ばかり ねまして――でも英語だけは 御蔭 おかげ さまで大変好きな模様で――近頃ではだいぶむずかしいものが読めるそうで、自分だけはなかなか得意でおります。――何兄がいるのでございますから、教えて貰えば好いのでございますが、――どうも、その、やっぱり兄弟は かんものと見えまして――」

 御母さんの弁舌は 滾々 こんこん としてみごとである。小野さんは一字の間投詞を さしはさ いと まなく、 口車 くちぐるま に乗って けて行く。行く先は もと より判然せぬ。藤尾は黙って最前小野さんから借りた書物を開いて つづき を読んでいる。

「花を墓に、墓に口を 接吻 くちづけ して、 きわれを、ひたふるに嘆きたる女王は、 浴湯 をこそと召す。 ゆあ みしたる のち 夕餉 ゆうげ をこそと召す。この時 いや しき 厠卒 こもの ありて小さき かご 無花果 いちじく を盛りて参らす。女王の 該撒 シイザア に送れる ふみ に云う。願わくは 安図尼 アントニイ と同じ墓にわれを うず めたまえと。 無花果 いちじく の繁れる青き葉陰にはナイルの つち ほのお

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した を冷やしたる 毒蛇 どくだ を、そっと忍ばせたり。 該撒 シイザア の使は走る。 たつ を排して まなこ を射れば―― 黄金 こがね の寝台に、位高き よそおい を今日と らして、女王の しかばね は是非なく よこた わる。アイリスと呼ぶは女王の足のあたりにこの世を捨てぬ。チャーミオンと名づけたるは、女王の かしら のあたりに、月黒き の露をあつめて、 千顆 せんか たま を鋳たる かんむり の、今落ちんとするを力なく支う。闥を排したる該撒の使はこはいかにと云う。 埃及 エジプト 御代 みよ しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと、チャーミオンは言い終って、倒れながらに目を ねむ る」

 埃及の御代しろし召す人の最後ぞ、かくありてこそと云う最後の一句は、 むる 錬香 ねりこう の尽きなんとして かす かなる尾を 虚冥 きょめい くごとく、 まった ページ が淡く かす んで見える。

「藤尾」と知らぬ 御母 おっか さんは呼ぶ。

 男はやっと 寛容 くつろい だ姿で、呼ばれた方へ視線を向ける。呼ばれた当人は 俯向 うつむい ている。

「藤尾」と御母さんは呼び直す。

 女の眼はようやくに頁を離れた。波を打つ 廂髪 ひさしがみ の、白い額に つづ く下から、骨張らぬ細い鼻を けて、 くれない すん に織る唇が――唇をそと すべ って、 ほお の末としっくり落ち合う あご

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が――※
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[12]
ててなよやかに 退 いて行く 咽喉 のど が――しだいと現実世界に り出して来る。

「なに?」と藤尾は答えた。昼と夜の間に立つ人の、昼と夜の間の返事である。

「おや気楽な人だ事。そんなに面白い御本なのかい。――あとで御覧なさいな。失礼じゃないか。――この通り世間見ずのわがままもので、まことに困り切ります。――その御本は小野さんから拝借したのかい。大変 奇麗 きれい な―― よご さないようになさいよ。本なぞは大事にしないと――」

「大事にしていますわ」

「それじゃ、好いけれども、またこないだのように……」

「だって、ありゃ兄さんが悪いんですもの」

「甲野君がどうかしたんですか」と小野さんは始めて口らしい口を ひら いた。

「いえ、あなた、どうもわがまま もの の寄り合いだもんでござんすから、 始終 しじゅう 、小供のように 喧嘩 けんか ばかり致しまして――こないだも兄の本を……」と御母さんは藤尾の方を見て、言おうか、言うまいかと云う態度を取る。同情のある 恐喝 きょうかつ 手段は 長者 ちょうしゃ の好んで年少に対して用いる遊戯である。

「甲野君の書物をどうなすったんです」と小野さんは恐る恐る聞きたがる。

「言いましょうか」と老人は半ば笑いながら、控えている。 玩具 おもちゃ の九寸五分を突き付けたような気合である。

「兄の本を庭へ げたんですよ」と藤尾は母を差し置いて、鋭どい返事を小野さんの 眉間 みけん へ向けて げつけた。御母さんは 苦笑 にがわら いをする。小野さんは口を く。

「これの兄も御存じの通り随分変人ですから」と 御母 おっか さんは遠廻しに 棄鉢 すてばち になった娘の御機嫌をとる。

「甲野さんはまだ御帰りにならんそうですね」と小野さんは、うまいところで話頭を転換した。

「まるであなた鉄砲玉のようで――あれも、 始終 しじゅう 身体 からだ が悪いとか申して、ぐずぐずしておりますから、それならば、ちと旅行でもして 判然 はきはき したらよかろうと申しましてね――でも、まだ、何だかだと駄々を ねて、動かないのを、ようやく宗近に頼んで連れ出して もら いました。ところがまるで鉄砲玉で。若いものと申すものは……」

「若いって兄さんは特別ですよ。哲学で超絶しているんだから特別ですよ」

「そうかね、御母さんには何だか分らないけれども――それにあなた、あの宗近と云うのが大の 呑気屋 のんきや で、あれこそ本当の鉄砲玉で、随分の困りものでしてね」

「アハハハ快活な面白い人ですな」

「宗近と云えば、 御前 おまい さっきのものはどこにあるのかい」と御母さんは、きりりとした眼を上げて部屋のうちを見廻わす。

「ここです」と藤尾は、軽く 諸膝 もろひざ なな めに立てて、青畳の上に、 八反 はったん 座布団 ざぶとん をさらりと べらせる。 富貴 ふうき の色は 蜷局 とぐろ を三重に巻いた鎖の中に、 うずたか 七子 ななこ ふた を盛り上げている。

 右手を べて、輝くものを 戛然 かつぜん と鳴らすよと思う に、 たなごころ より滑る鎖が、やおら畳に落ちんとして、一尺の長さに められると、余る力を横に抜いて、 はじ につけた 柘榴石 ガーネット の飾りと共に、長いものがふらりふらりと二三度揺れる。第一の波は くれない たま に女の白き かいな を打つ。第二の波は 観世 かんぜ に動いて、軽く 袖口 そでくち にあたる。第三の波のまさに静まらんとするとき、女は と立ち上がった。

 奇麗な色が、二色、三色入り乱れて、 く動く 景色 けしき を、 茫然 ぼうぜん なが めていた小野さんの前へぴたりと坐った藤尾は

御母 おかあ さん」と うしろ かえり みながら、

「こうすると引き立ちますよ」と云って もと の席に返る。小野さんの 胴衣 チョッキ の胸には松葉形に組んだ金の鎖が、 ボタン の穴を左右に抜けて、黒ずんだメルトン地を背景に 燦爛 さんらん 耀 かが やいている。

「どうです」と藤尾が云う。

「なるほど く似合いますね」と 御母 おっか さんが云う。

「全体どうしたんです」と小野さんは けむ に巻かれながら聞く。御母さんはホホホと笑う。

「上げましょうか」と藤尾は流し目に聞いた。小野さんは黙っている。

「じゃ、まあ、 しましょう」と藤尾は再び立って小野さんの胸から金時計を はず してしまった。